部屋の中に差し込む朝日で目が覚める。カーテンを開けると、外は穏やかな青空が広がっていた。春の日差しのにおいを胸の奥に吸い込んで、支度を始める。いつもより早めに部屋を出てエントランスに降りたけれど、日下部くんはやっぱり先に来ていた。
「おはようございます」
「おはよう。いつもより早めに出たつもりだったけど、やっぱり日下部くんのほうが早いね」
「いつだって余裕のある行動をするんですよ、俺は。行きましょうか」
 自慢げにそう言いながら、彼は外へのドアを開けて駐車場に向かう。走り出した車の窓から入り込む風が心地よい。少し混雑気味のバイパスを抜けて、市街地から海のほうへ向かう。公園の駐車場に車を停めて外へ降りると、潮のにおいがふわりと漂ってきた。
「やっぱりこの時期の海は静かでいいですね。他に誰もいないし」
「夏以外の海って初めて来たよ。全然雰囲気も違うね」
 適当に座って、途中のベーカリーで買ってきたパンの袋を開ける。焼きたてのパンをほおばると、潮風で少し感じていた寒さが和らいだような気がした。
「それ、何ですか?」
「あんぱん。おいしいよ、食べてみる?」
 言いながらあんぱんを差し出す。受け取って食べるかちぎって食べるかだと思っていたのに、私が手に持ったままのパンに彼はそのままかぶりついた。硬直する私をよそに、ほんとだおいしい、と無邪気に感想を述べている。
「……普通、そこは受け取るんじゃない?」
「え? いいじゃないですか、別に」
「いいけどさ……」
 小悪魔のような挙動に、私はいつも振り回される。食べますか? と差し出された彼の食べかけのパンに、仕返しのつもりで私もそのままかぶりついた。
「水澤さんも同じことしてるじゃないですか」
「お返しよ。あ、これおいしい。クリームチーズがいいね」
 波の音がざあっと少し大きくなった。カフェオレを飲みながら、お互いに何も話さずに波の動きを見つめた。ちらりと隣を盗み見ると、日下部くんの横顔が日差しで儚げに揺れていた。
「なんで海に来たの? まだ春もこれからだし、季節外れなのに」
 一昨日誘われた時から疑問に思っていたことを尋ねると、日下部くんはゆっくりとこっちを振り向いた。
「俺は、春の海が一番好きなんです。人がいなくて、空気が穏やかだから」
「……」
 確かに夏と違って騒がしくない砂浜は、真夏の海水浴シーズンが想像できないくらい静かだ。暑くもなく、日差しも強くない。泳ぐわけじゃないなら、このくらいの季節も悪くはない。
「嫌なことや悩んでいることがあるときは、この時期はたまに海に来るんです。波音を聞いてぼーっとしていると、心が落ち着いてくるので……何も考えずにいられる時間ができますから」
「わかる気がする。心地いい」
「水澤さんならわかってくれると思いました」
 そう言いながら、日下部くんははにかむように少し笑った。彼のまつげに陽の光が当たって、綿毛のようにきらきらしていた。
「今は何か嫌なことがあるの?」
「――嫌なことじゃなくて、ちょっと悩んでいることが、ひとつ」
「何、どうしたの」
「いえ、水澤さんには秘密です」
「なんでよ。そこまでにおわせるなら話してよ」
 歯切れ悪く日下部くんが放つ言葉を問い詰めるけれど、彼は頑としてその内容を教えてはくれなかった。私は諦めて海のほうに向きなおる。打ち寄せる波の頂点が白くきらめくのが綺麗で、じっと見つめていると周りの音がミュートになった。
 本当はまだ悩んでいる。今日、彼に伝えてしまっていいのかどうか。自分が思う幸せのかたちに自信もないし、振られてしまえば今後の気まずさはきっと半端じゃないものになる。ぐるぐると何周目なのかわからないほどの思考のループに、私は目をつむった。
「――水澤さんも何か考え事、してるみたいですね」
「うん、ちょっとね」
「ゆっくり考えたらいいですよ。海は逃げませんから」
 日下部くんの優しい声に頷いて、私は瞼を開けた。寄せては返す波のランダムな曲線を見つめながら、私たちはしばらくそのまま、黙って潮風に吹かれていた。