*
バレンタイン当日は休日だった。リクエスト通りのブラウニーを作って部屋を訪ねると、日下部くんはわかりやすく目を輝かせた。
「ほんとに作ってくれたんですか。やったあ」
「ブラウニーは初めて作ったから、味の保証はないよ? おなか壊すってことはないはずだけど」
そんなやり取りをしつつ紙袋を渡す。帰ろうとすると、引き留められた。
「感想言いますから、上がっていってください」
「ええ……」
まさか、目の前で食べてくれるなんて。嬉しい反面、羞恥心が込み上げてくる。
促されるままに彼の部屋に入り、居心地悪くソファで待つ。彼は私の分もコーヒーを淹れてくれた。
「じゃあ、いただきます」
緊張の瞬間だ。どきどきしながら日下部くんの表情を見つめる。
「……これ、キャラメル入ってますか?」
「え? うん、入れたけど……苦手だった?」
彼がその意味を知っているかどうかわからない。けれど、せっかく渡すなら自己満足であっても、どうしてもメッセージを入れたかったのだ。
バレンタインデーにキャラメルを渡すのは、本命のメッセージになる、と、聞いたことがある。
ブラウニーを指定された以上、どうするかはぎりぎりまで悩んだ。でも、せっかく好きな人からバレンタインイベントに便乗してお菓子を所望されたのだから、これくらいは許されるだろう。どうせきっと、知らないはずだ。
「こんなに手の込んだものが来るとは思ってませんでした。すごくおいしいです」
「気に入ってもらえたならよかった。安心したよ」
「あんな自信なさそうな顔して来ておいて、十分においしいですよ。ありがとうございます」
本当に嬉しそうに食べる日下部くんを見て、胸の奥がぎゅうっと詰まった。
気づいてもらえなくていい。このままでも今は良い。今は――今は、こうして隣にいられるだけで十分だ。
だってまだ、なにかきっかけがあっても、たったこれだけしか伝える勇気がないのだから。
もっと自分に自信を持てるようになったら、いつかちゃんと踏み出せるだろうか。
苦しいぐらいに胸の奥が締め付けられて、なんだか泣きそうになる。年始のおみくじでは行動しろと書かれていたけれど、今の私にはこれが最大級の一歩だ。告白する勇気はさすがにまだない。
食べ終えた日下部くんが両手を合わせた。ごちそうさまでした、と頭を下げてきた彼に、私も礼をする。コーヒーをすすりながら、彼は話しかけてきた。
「これで、バレンタインのゼロチョコは回避しました」
「嘘ばっかり。金曜日に会社でみんなに配ったじゃない」
毎年、職場ではバレンタインに女子社員がお菓子を持ち寄って配る風習が出来上がっている。強制ではないけれど、イベントが好きな人が必ず持ってくるから、私の部署ではバレンタインに何ももらえないということはない。
「まあそうなんですけど。ちゃんと作ってもらうのって、学生の時以来です」
「え、そうなんだ」
「はい。当時の彼女と別れてからはもう四年くらい、手作りなんてもらってないですよ。今年はもらえて嬉しいです」
ちゃんとホワイトデーはお返ししますからね、というセリフを聞きながら、私は彼の部屋を出た。緊張から解放されて、壁にずるずると倒れこみそうになる。今更ながら、自分の所業に赤面していた。
本命です、って言葉にせずにお菓子にこっそり仕込んで、あわよくば気づいてくれないかな、って、それは二十六歳のやることではない。まるで中学生だ。しかもそれを目の前で食べられるなんて、新手の羞恥プレイ以外の何物でもない。恥ずかしすぎる。行動力が斜めの方向に振り切れてしまったことに気づくのは、いつも後々になってからなのだ。
部屋に戻って、ベッドに倒れこむ。羞恥心にめちゃくちゃになりそうだ。
バレンタイン当日は休日だった。リクエスト通りのブラウニーを作って部屋を訪ねると、日下部くんはわかりやすく目を輝かせた。
「ほんとに作ってくれたんですか。やったあ」
「ブラウニーは初めて作ったから、味の保証はないよ? おなか壊すってことはないはずだけど」
そんなやり取りをしつつ紙袋を渡す。帰ろうとすると、引き留められた。
「感想言いますから、上がっていってください」
「ええ……」
まさか、目の前で食べてくれるなんて。嬉しい反面、羞恥心が込み上げてくる。
促されるままに彼の部屋に入り、居心地悪くソファで待つ。彼は私の分もコーヒーを淹れてくれた。
「じゃあ、いただきます」
緊張の瞬間だ。どきどきしながら日下部くんの表情を見つめる。
「……これ、キャラメル入ってますか?」
「え? うん、入れたけど……苦手だった?」
彼がその意味を知っているかどうかわからない。けれど、せっかく渡すなら自己満足であっても、どうしてもメッセージを入れたかったのだ。
バレンタインデーにキャラメルを渡すのは、本命のメッセージになる、と、聞いたことがある。
ブラウニーを指定された以上、どうするかはぎりぎりまで悩んだ。でも、せっかく好きな人からバレンタインイベントに便乗してお菓子を所望されたのだから、これくらいは許されるだろう。どうせきっと、知らないはずだ。
「こんなに手の込んだものが来るとは思ってませんでした。すごくおいしいです」
「気に入ってもらえたならよかった。安心したよ」
「あんな自信なさそうな顔して来ておいて、十分においしいですよ。ありがとうございます」
本当に嬉しそうに食べる日下部くんを見て、胸の奥がぎゅうっと詰まった。
気づいてもらえなくていい。このままでも今は良い。今は――今は、こうして隣にいられるだけで十分だ。
だってまだ、なにかきっかけがあっても、たったこれだけしか伝える勇気がないのだから。
もっと自分に自信を持てるようになったら、いつかちゃんと踏み出せるだろうか。
苦しいぐらいに胸の奥が締め付けられて、なんだか泣きそうになる。年始のおみくじでは行動しろと書かれていたけれど、今の私にはこれが最大級の一歩だ。告白する勇気はさすがにまだない。
食べ終えた日下部くんが両手を合わせた。ごちそうさまでした、と頭を下げてきた彼に、私も礼をする。コーヒーをすすりながら、彼は話しかけてきた。
「これで、バレンタインのゼロチョコは回避しました」
「嘘ばっかり。金曜日に会社でみんなに配ったじゃない」
毎年、職場ではバレンタインに女子社員がお菓子を持ち寄って配る風習が出来上がっている。強制ではないけれど、イベントが好きな人が必ず持ってくるから、私の部署ではバレンタインに何ももらえないということはない。
「まあそうなんですけど。ちゃんと作ってもらうのって、学生の時以来です」
「え、そうなんだ」
「はい。当時の彼女と別れてからはもう四年くらい、手作りなんてもらってないですよ。今年はもらえて嬉しいです」
ちゃんとホワイトデーはお返ししますからね、というセリフを聞きながら、私は彼の部屋を出た。緊張から解放されて、壁にずるずると倒れこみそうになる。今更ながら、自分の所業に赤面していた。
本命です、って言葉にせずにお菓子にこっそり仕込んで、あわよくば気づいてくれないかな、って、それは二十六歳のやることではない。まるで中学生だ。しかもそれを目の前で食べられるなんて、新手の羞恥プレイ以外の何物でもない。恥ずかしすぎる。行動力が斜めの方向に振り切れてしまったことに気づくのは、いつも後々になってからなのだ。
部屋に戻って、ベッドに倒れこむ。羞恥心にめちゃくちゃになりそうだ。