迷う間に電車がホームに滑り込んできた。乗り込んでしばらくすると発車する。二十分ほどで家の最寄に着いてしまうから、寝てしまわないようにしないと、と、携帯にイヤホンをつないだ。――メッセージ画面は閉じた。
 日下部くんにメッセージを送ることすら迷うほど、何かあったのだろうか。でもここ最近は寒くなったこともあって、何かどころか月を見に外に出ることすらしていない。だから連絡も取っていない。彼から何か送られてきたり、電話がかかってくることだって無くなってしまった。
 それを少し寂しく思ってしまうのはなぜなのだろう。
 最寄り駅に着いて電車を降りる。マンションまでの道を歩くブーツの爪先が、地面にうっすら残る雪のかけらを踏みつぶしていく。そんな自分の足音の中に、誰かの声が聞こえた。――聞き覚えのある、男女の話し声。
「ちょっと、お酒買いすぎじゃない?」
「いいだろ別に。俺が飲むんだから」
「ほんとお酒好きよねー。まったく」
 声の主がわかって、咄嗟に電信柱の陰に隠れてしまった。マンションのほうに曲がっていったことを確認して、気づかれてしまわないようにゆっくり歩きだす。
 日下部くんと、梨花ちゃんだった。
 こんな時間に、どうして二人は外にいるのだろう。話しかたから、どこかに買い物に行った帰りであることは明白だ。
 梨花ちゃんの家はこっちじゃないはずだし、終電はさっき終わったところだというのに。
 胸の中で、黒い何かが生まれ始めたのがわかった。
 マンションに着いて、エレベーターのボタンを押す。そのエレベーターが三階から降りてくることに気づいて、またその黒い何かが膨らんだ。
 梨花ちゃんは、今きっと、日下部くんの部屋にいる。そしてきっと、今夜はそのまま、泊まるのだろう。
 星の見えない、雲に覆われた冬の夜空のような胸の奥に、きりきりした痛みが走った。
 「……、なんで」
 なんでこんなに苦しいのだろう。喉がぎゅっと締まったように息が苦しくなって、眉間に電流が走ったような感覚を覚えて、頭の奥が真っ白になる。
 嘘だ。こんなの、嘘だ。
 誰かが日下部くんとふたりっきりで一緒にいて、このまま一晩過ごすことが嫌だ、なんて。
 でも今私は確かに、気づいてしまった事実に対して「嫌だ」と思っている。それはつまり嫉妬だ。
 どうして。
 さっきの日下部くんの声は随分と砕けた様子だった。私と月を見ているときのような。そんな声を、私以外の女の子にもするなんて。
 私だけにあんなふうに、いろんな表情を見せてくれるのだと思っていた。私だけが、彼と二人っきりでいられる、彼が心を許してくれる相手なのだと思っていた。そう思いあがっていたことに気づいて、鼻の奥がつんと痛くなった。
 自分の部屋に入ってブーツを脱ぎ、ソファまでふらふらと歩く。指先から鞄が滑り落ちた。胸の奥の黒い塊が、あざ笑うようにはじけて、喉が攣ったように息が止まる。
 馬鹿だ。ずっと目をそらしていた。気づかないふりをしていた。
 私は、彼の特別でありたいと思っていた。
 日下部くんのことが、好きなんだ。