「杏也くん、私もそう思う。辛い、ストレスでしんどいって、それだけだったら支えてあげようと思えたし、辛いのはわかってたから我慢したほうがいいのかなって思ったよ。でもね、ここまでされると申し訳ないけど、恐怖のほうが大きいの。首を絞められたときは死ぬ覚悟もしたよ。だけどもう限界。――別れてください」
 彼女からのとどめの一言だ。彼はもう、何も言えなくなっていた。きっともともとは聡明な人なのだろう、皐月と梨花ちゃんの言葉が胸の奥に深く刺さった痛みにもがいているようだった。
「あの部屋は使っていいから。この土日で取り急ぎ必要なものは運び出すけど。――いつか、また再会できたときは笑って会えたらいいな」
 そう言って微笑む梨花ちゃんの横顔は、憑き物が落ちたように晴れやかで綺麗だった。私たちは立ち上がって、テーブルに手つかずのまま残るコーヒー代を置いてから店を出た。しばらくして日下部くんも合流した。
「背骨が抜けたみたいになってました。愛されているから何をしたって許されるだろうって、甘えてたんですね、あの男」
 日下部くんはカフェのほうをちらりと一瞥して、吐き捨てるようにそう言う。きっと私たちが先に出た後、もう一芝居打ってきたのだろう。
「来てくれてありがとう、日下部くん」
「仕事もひと段落したところだったからよかったよ。誰も怪我とかしてなくてよかった」
「まあまあ危ないところだったけどね。三人いるから何とかなると思ったけど、それよりも冷静な第三者役って大事なんだなとつくづく思ったわ」
 皐月の言葉に、私も頷いた。こうしてなんとか話し合いに持ち込むことができたのも、日下部くんの存在があったからだ。彼が来てくれるだろうという確信があったからこそ、多少強気に出ることができた。
「じゃあ、私は今度こそ帰るわ。あと五分でちょうど電車が来るから」
「皐月、ありがとう。気を付けてね」
「宮島先輩、ありがとうございました」
 ひらひら手を振りながら、皐月は駆け足で駅のほうへ向かって行った。その背中を見送りながら、ゆっくりと三人で駅まで歩きだす。
「どっちみち、寝床ないだろ、西村。うち、まだお前の分の布団敷きっぱなしだし、使っていいから」
「え……いいの」
 まだ怖がってるくせに、と、日下部くんは遠慮気味の梨花ちゃんを横目で見る。実際、梨花ちゃんはさっきから何度も深呼吸をしたり胸を抑えたりしていて、気持ちはすっきりしたものの不安は拭えていない様子だった。
「私は明日朝早いし、お客さん用の備えもないから、日下部くんの部屋に泊まるほうがゆっくりできると思うよ。日下部くんなら梨花ちゃんに変なことしないでしょ」
「ええ全く、そんなつもりはありません。ご安心を」
 梨花ちゃんはようやく少しほぐれた顔で笑ってくれた。駅に着き、エスカレーターでホームに上がるころには、梨花ちゃんの明るさも通常運転に近づいてきていた。