「遅くなりました」
 コーヒーより先に、日下部くんが到着した。よほど急いで来たのか。ワイシャツが汗に濡れている。隣いいですか、と、日下部くんは男の横に陣取って、コーヒーを持ってきたウェイターに追加注文をしていた。
「誰だよ」
「彼女たちの同僚です。なんか揉めてるって聞いたので、男がいたほうがいいのかなと思いまして。ほら、女性のほうが多くなっちゃってるし、公正に聞かないといけませんから」
 穏やかな口調でそう言う日下部くんの目は全く笑っていない。でも男は全く気付いていないようだった。
「俺ちょっと、状況がまだ掴めてないんですけど。どういう経緯でこうなってるのか、あなたから説明していただいてよろしいですかね」
 日下部くんが話を振った先は男のほうだった。そのことで彼が話の分かる相手だと認識したのか、そうだよ、と怒りを思い出したように話し始める。テーブルの下で、私は梨花ちゃんの手をぎゅっと握った。
「彼女が……梨花が勝手に家を出て行ったんだよ。なんの理由も言わずにいなくなって、さっき見つけたから追いかけて話をしようとしたら知らない女に邪魔されてさ。散々だよ」
「そうですか。彼女が出て行った理由は全く見当もつかなかったんですね?」
「ずっと仲良しでいたと思ってたんだけどな。最近ちょっと、俺もストレスが溜まってて当たってしまってたのはあるかもしれないけど、出ていくほどじゃないだろ。そんなのよくあることじゃんか」
 大したことない、自分は悪くない、と被害者のごとく語るその口調がよほど不快だったのか、梨花ちゃんは繋いだ手を痛いほど握りしめてきた。日下部くんが段取りを仕切ってくれていることを理解して、耐えているのだろう。
「なるほど。じゃあ次に、西村の話も聞こうか。どうして家を出たのか、なんで逃げたのか話せるか」
 あくまで淡々と、日下部くんは司会役を進める。梨花ちゃんはその言葉を合図に、顔を上げて話し始めた。ストレスで当たったその実態はちょっとしたいさかい程度のものではなく、明らかな暴力で怪我をしていること、それが怖くて逃げたこと。話を中断させようとした男の声は、日下部くんの冷静なストップであっさりと折られていた。
「というわけで、彼女はあなたからの言動に相当なストレスと恐怖を受けていて、このままじゃ危ないと思ったから逃げたわけです。あなたのストレスもあるのでしょうが、それを同棲中の彼女にこんな形でぶつけるとは、愛もへったくれもない所業ですね」
「他人に何がわかるっていうんだよ。俺は梨花のことが大好きで、愛してるんだよ」
「そんなぺらっぺらな愛なら捨てて上等よ。大切な相手に痣ができるほど殴ったりする? 私には信じられないし、そんなのは愛でもなんでもない」
 ずっと黙っていた皐月が吐き捨てるように厳しい声で反論すると、男はびくりと肩を震わせた。
「愛しているから殴るんだ、とか言い出さないだけまだましだけどね、本気で大事にしているなら傷つけたくないって普通は思うものなの。あんたのそれはただの我儘。自分を制御できなくて殴ってしまうなら、離れてくれっていうほうが愛よ」