そんな葛藤をしながら、いつの間にか弁当を食べ終えていた。気分転換に飲み物でも買おう、と休憩スペースへ向かうと、今一番会いたくない相手の横顔を見つけてしまった。
「小熊さん……」
「あ……水澤」
 思わず名前を呼んでしまうと、小熊さんは殊更気まずそうな顔をした。お疲れ、と、目も合わせずに立ち去ろうとする背中に、思い切って声をかける。
「あの、……先月はご迷惑をおかけしました」
「……」
 小熊さんはゆっくりと振り返ってくれた。その口元が、何か言いかけて閉じた。このまま、休憩スペースに他の誰かが来る前に言ってしまいたい。今踏み出した勇気がしぼむ前に。
「困らせたかったわけじゃなかったんです。本当は言うつもりもなかったんですけど……入社して、最初に研修でついてくださった時から好きでした。……今は、……今も、尊敬しています」
 一か月ぶりに真っすぐ見つめた小熊さんの目は、水たまりみたいに揺れていた。私は今、ちゃんと笑顔になっているだろうか。
「ご結婚されるって聞きました。だから、これで最後にしますし、小熊さんが私に対して罪悪感や後ろめたさを感じる必要はないです。尊敬している先輩の幸せの邪魔は、したくありませんから。――今まで、ありがとうございました」
 昼休み特有のフロアのざわめきがあるはずなのに、何も聞こえなくなった。ゆっくりと下げた頭を戻すと、小熊さんはありがとう、と小さく呟いた。
「東京で、新しくやりたいことが見つかったんだ。俺はここを離れることになるけど、水澤も頑張ってな。ありがとう」
 言うだけ言って、彼はあっという間に去っていった。小熊さんが消えて行った先をぼんやりと見つめて、休憩スペースへやってきた誰かの声で我に返る。普段飲まないブラックコーヒーを買ってデスクに戻ると、私は携帯を取り出した。
〈日下部くん、今夜は暇?〉
 メッセージを送ってから彼のデスクのほうへ視線を向けると、ばっちり目が合ってしまった。日下部くんは少し呆れたような表情で目を伏せて、数秒後、私の携帯が震えた。
〈雨の予報ですけど〉
〈空いてるなら、電話で聞いて。飲みながらじゃないと話せない〉
〈わかりました。十時以降ならいつでも構わないので、好きな時にかけてきてください〉
 物わかりの良い後輩で助かる。もう話の内容なんかわかっているんだろうけど、相手をしてくれるのはありがたい。
 ブラックコーヒーは思いのほか苦かった。おかげで目が覚めて、午後の仕事はやたらと捗ったけれど。