「……月、綺麗ですね」
 かすれた声だった。振り返って小熊さんの顔を見ると、どう答えたらいいのか、困惑した表情を浮かべていた。
「困らせてしまってすみません。これから会いに行く方がいらっしゃる相手に言うセリフじゃないですよね」
「……」
 小熊さんは何も言ってくれない。それなら、泣いてしまう前に言いたいことを言って、さっさとホテルに戻ってしまえばいい。最後に流し込んだレモンサワーが、今になって効いてきたような気がする。
「指輪、さっきまでしてませんでしたよね」
「……結婚指輪じゃないから」
「そんなのわかってますよ。約束があるって言われてわかりました。だから今になって付けてきたんですよね」
 遠距離の彼女に会うために、ちゃんとペアリングを持って出張に来るなんて、最高の恋人じゃないか。
「ごめんなさい。私、小熊さんのことが好きだったんです。だから出張に一緒に来られたのも、コンテストの前に励ましてくれたのも嬉しかったです。小熊さんの彼女になれたらいいなってちょっと思っちゃったんです」
 私に全く焦点が当たらない彼の視線が、夜の繁華街を彷徨う。もう一度月を見上げると、満月になり切れていないいびつな形に笑いが込み上げてくる。
「困らせたくなかったんですけど、……すみません。忘れてください」
「忘れてって、そんなこと……」
「忘れなきゃダメですよ。彼女さんと幸せになってください。……ほら、早く行かなきゃ」
 下瞼のダムがもう限界だ。おやすみなさい、と言い捨てて、私は早足でホテルの自動ドアを潜り抜けた。部屋のロックを解除するのと同時に、ダムが決壊した。
 馬鹿みたいだ。
小熊さんはもちろん追いかけてこないし、連絡もよこさない。きっと彼女さんと合流して、仲良く飲みなおしているのだろう。日下部くんも知り合いと飲むって言っていたし、独りぼっちなのは私だけだ。ピエロに転職したほうがいいかもしれない。
 大人になってから、泣いた経験なんて数えるほどしかない。ほとんどは理不尽な目に遭ったり、自分の力不足でうまくいかなかったりでこぼれた悔し涙だ。元彼と別れた時だって泣かなかった。
 誰も慰めてくれないから、声をあげて泣いたって虚しいだけだ。
 ぼろぼろ落ちるのは涙だけで、喉はぎゅっと閉まって、声どころか呼吸さえ止まってしまったようだ。膝から力が抜けて、床に崩れ落ちる。息の仕方がわからなくなって、思わず口を開けると、一気に酸素が流れ込んできた。
 失恋ってこんなにつらいものだったのか。
 明日からも顔を合わせなければいけないのに、つくづく軽率な行動をしてしまったなと、ようやく頭が冷静になってきた。せめて泣いた跡がばれないようにしよう、と、私はのろのろと立ち上がってシャワールームの扉を開けた。
 シャワーを浴びながら泣いてしまえば、全部誤魔化してしまえる。泣き腫らすであろう目元も、いい年して恋愛ごときで大泣きしているみっともない姿も、全部。