「ゲスト?」

 眉間に皺が寄るのを感じる。思い当たる節がまるでない。

「そう! 私の大切な人。舞夕もこれからお世話になるんだから、ちゃんとしなきゃ駄目よ?」

「え、いまの旦那さん呼んでるの? 本当に? 私会いたいなんで一言も、」

「あなた! ほら、こっち!」

 と、お母さんは私の言葉に耳など貸さず、振り返って手招きをした。

 どうしてこんな勝手ができるんだろう。こちらはまだ何の返事もしていないのに。会いたいなんて一欠片も思っていないのに!

 お店の奥、暗がりのボックス席で、人影が立ち上がった。影は縦横どちらにも大きい。

 近づくに連れ、その姿が明るみに浮かび上がってくる。

 大きな肩幅、シャツとジャケットを押し上げるお腹、薄く枝垂れた髪、脂ぎった笑顔。

 精力的。そんな言葉が頭に浮かんだ。

「初めまして。きみが舞夕ちゃんか。話は麗子からよく聞いてるよ」

 中年男性は、お母さんの隣に座りながらそう挨拶した。

 最初その目線は私の顔に来て、それから目線はすっと下がっていった。

 おっさんが、にんまりと笑みを浮かべる。

 夏服は身体のラインが出やすい。身を隠すべく、反射的に手が動きそうになるが、意志の力で押し止める。

 視線を意識していることをこいつに気づかせるのは、果たして得策だろうか? 私の隠す仕草から、自身の視線が不躾であったと自生するだけの理性を、果たしてこいつは持っているのか? もしかしたら私の反応に、却って悦ぶだけかもしれない。

 刹那の間に、そんな思考が走ったからだ。

 出会ってから現在まで、まだ十秒程しか経っていない。

 しかしその十秒は、絶対的な嫌悪感を抱くのに十二分な時間だった。

「今は継母と暮らしてるんだって? それじゃ気も休まらないだろう、え? やっぱり親子は一緒にいないとなあ。血は水より濃いってな、言うだろう。それに、うちは広いぞお。今の部屋なんか三つも四つも入っちゃうからな」

 おっさんは私の返事も待たずに勝手なことを言い募り、そして品定めするように私を見る。

 その脂が腐ったような視線に気づかないふりをしているとき、ふと気づいた。もう一つの視線が私に向けられていることを。

 お母さんが、私を見ている。狐面のように両の頬と口角を上げている。そんな強張った笑顔を浮かべたまま、尖った視線を私に刺してくる。そしてお母さんは数秒おきに私から目を離し、隣のおっさんを見遣っている。

 ああ、そういうこと。

 お母さんの視線の意味が、ようやく分かった。

 ちょっと暑いな、と言わんばかりに、指で制服の胸元を開けてみる。

 案の定、おっさんの目には力が入り、お母さんの頬がぴくりと震えた。

 ああもう、吐きそうだ。

 このおばさんは、自分の娘に妬いている。

「あなた、そろそろ時間でしょう?」と、お母さんがおっさんの袖を引く。

「ほら、いきなりだったし、舞夕も驚いてるわ。後は私が話しておくから」

「ん、ああ」と、おっさんは明らかに苛立った声でお母さんに応えた。

 しかしすぐに顔色を元に戻し、甘い声で「そうだなあ。やっぱり最後は親子で話して决めんとなあ」とお母さんの頭を撫でた。

 そしておっさんは席を立ち、去り際に「そうだ」とわざとらしく手を打った。

「どうしたの?」

 お母さんの質問には応えず、おじさんは取り出した名刺の裏に何かを書きつけた。

「親が居ないんじゃ色々不安だよなあ。困ったことがあったら連絡していいよ」

 そう言っておっさんは私の手を取り、両手で包み込むようにしながら名刺を渡してきた。

 手のひらは油分で湿っていた。生え際の後退したおでこでも撫でたかのようだった。

 笑顔で手を振って去っていくおっさんを、お母さんは強い視線で見つめながら呟いた。

「心の温かい人なのよ。そして強い人」

 お母さんは喫茶店のドアの方に視線を向けたまま、私に言った。

「……あなたのお父さんは可哀想な人だった。他人には優しくて、一生懸命で、でも弱かった。だから報われなかった」

 その言葉にショックを受けた。

 お母さんがお父さんのことを『可哀想』と言ったからではない。別に今更お母さんが何を言おうと、そんなことはどうでもいい。

 お母さんの発言が、私のそれと似通っていたからだ。

 『報われない努力に意味なんてあるのかな』。

 私は鹿島くんにそう言った。

 今も、その発言は間違っていたと思っていない。

「いい、舞夕」

 お母さんの目許が、不意に柔らかい光を帯びた。

「強い人を選びなさい。守ってくれる、強い人を」

 私にそう見えただけだろうか。お母さんの目に、母親として娘に向ける精一杯で本気の愛情が浮かんだ気がした。

 ただ、それは一瞬のことだった。

「でもね、舞夕」

 ゆるりと甘ったるい声音で私を呼ぶお母さん。

「あの人を好きになったら、駄目よ」

 その目には、雌の獣性が浮かんでいた。