「おはよ、季帆」
「――へ?」
 朝、電車で見つけた季帆に声をかけると、びっくりした顔がこちらを振り向いた。

 無言で何度かまばたきをして、それから思い出したように周囲に視線を走らせる。登校時間の車両には、当然ながら同じ高校の生徒もたくさん乗っていて
「つ、土屋くん」
 それを見た季帆が、あわてたようにけわしい顔を作った。
「だから、人のいるところで私に話しかけないでくださいって」
「やだ」
「え」
「話しかけるから。これからは」
 きっぱりとした声で宣言すれば、季帆は心底戸惑った表情で眉を寄せていた。「ええ……」とか声を漏らしながら。

 かまわず隣に立つ。何気なく視線を飛ばした先、同じ高校の制服を着たひとりの女子が、こちらを見ているのに気づいた。目が合うと、ぱっと逸らされたけれど。なんとなく見覚えのある顔だったから、たぶん同じ学年の生徒なのだろう。季帆のクラスメイトかもしれない。
 ちょうどいいやと思いながら、「なあ」と俺は隣の季帆のほうを見ると
「昼休み、教室まで迎えに行くから」
「え?」
「いっしょにお昼食べよう」
「ど、どうしたんですか急に」
「あと帰りも」
 狼狽したように聞き返してくる季帆は無視して、さらに重ねる。
「迎えに行くから。いっしょに帰ろう」
「……ほ、本当にどうしたんですか土屋くん」
 当惑した声を上げながら、季帆はあいかわらず周りを気にしていた。こちらを見ているあの女子に気づいたのかもしれない。季帆がさり気なく後ろへ下がり、俺から距離をとろうとするのがわかった。
「言っとくけど」なんだか意地になって、俺はそうして空いた距離をまた詰めながら
「お前が嫌がろうが、俺は迎えに行くから。これから毎日」
「ええ……」
 ――今までずっと。
 季帆が俺に、そうしてくれたように。


 昼休み、宣言していたとおり季帆を教室まで迎えに行った。
 自分の席に座る彼女に声をかけていると、教室のそこここから視線を感じた。おもに女子からの。季帆も気づいたようで、なんだか困ったような顔で俺を見上げる。そうしてなにか言いかけたのがわかったけれど、聞かなかった。「行こう」とさえぎるように告げて、さっさと教室から連れ出す。

「さっき、クラスの子から、土屋くんと付き合ってるのかって聞かれました」
 あの日と同じように中庭のベンチに並んで座ったところで、季帆が言った。困ったような声で。
「朝、いっしょに登校してるところ、見られてたみたいで」
「ふうん」
 電車にいたあの子だろうか、と俺はぼんやり思い出しながら
「なんて答えた?」
「え、そりゃもちろん、付き合ってないって」
「ただの友達って?」
「いえ、友達でもない、ただの顔見知り程度だって」
「……そこまで言う?」
 それじゃ俺が一方的に季帆につきまとってる痛いやつにならないか。
 思ったけれどすぐに、それでもいいか、と思い直す。むしろそっちのほうがいいかもしれない。ここで季帆があっさり樋渡から俺に乗り換えたと思われたら、それはそれで反感を買いそうだから。女子って面倒くさいし。

「こんなことしてたら、私と土屋くんがつながってるのバレちゃいますよ」
 パンの袋を開けながら、季帆が神妙な顔をして言う。今日もクリームパンだった。よく飽きないなあ、なんてちょっと感心しながら、俺も弁当箱のフタを開けると
「いいじゃん、べつに。どうせもうやめるだろ、あの計画」
「……それは」
「え、なにやめないの?」
 当然肯定が返ってくると思った質問に、思いがけなく煮えきれない反応をされた。
 困惑して聞き返すと、季帆はなんだか複雑そうな表情をして
「もう少し、続けようかな、と」
「なんで。続ける意味とかないじゃん」
「いえ、私の個人的な事情というか……」
「はあ?」
 わけがわからず聞き返しても、季帆は困ったように口ごもっているだけで
「……え、なに」ふいに、嫌な想像がよぎった。

「まさか、樋渡のことマジで好きになったとか」
「違います!」
 途端、勢いよく俺のほうを振り向いた季帆が声を上げる。
 だいぶ大きな声だったから、近くのベンチにいたカップルらしき男女が驚いたようにこちらを見た。
 かまわず、季帆は軽くこちらへ身を乗り出しながら
「そんなわけないです。私が好きなのは、土屋くんです。土屋くんが好きです」
「……あ、はい」
 急にドストレートな告白をされて、とっさに反応が追いつかなかった。
 思えば、散々つきまとわれていたわりに、その言葉を言われたのははじめてのような気がした。付き合おう、とかホテル行こう、はあったけど。
「だから」必死な顔で、季帆がじっと俺の目を見つめてくる。
 間近で見る黒目の大きさに、今更ちょっと圧倒されていると
「変な心配はしないでください。私はずっと土屋くんを見てますから。これからも。ぜったい、ぜったい私は土屋くんを裏切りません」
「……うん」
 俺も、とごく自然に言葉が続いて、そのことに自分で驚いた。


 予鈴の鳴る五分前に、俺たちは校舎に戻った。
 四組の教室の前で、季帆と帰りの約束をしてから別れる。そうして、自分の教室へ向かおうと踵を返したとき

「……かんちゃん」
 ふいに聞こえた声に、足を止めた。
 なんだか、ずいぶん久しぶりに聞いた気のする、声だった。