噂と言うのは直ぐに広まるんだなあ、というのを痛感する。
今朝からクラスのあちこちで嫌なざわめきが聞こえてくる。
チラチラと動く視線の先には春原くんの席があった。
「・・・嫌ね。」
何が、とは言わずさっちゃんが顔をしかめる。塚田くんも頷いて、困ったように春原くんの机を見つめた。又聞きの又聞き。根拠のない噂程よく広まるというのは本当だ。
春原くんの机に視線が集まるという事は必然的に私も視線を感じてしまい、何とも言えない気持ちになって握り締める手に力がこもる。
「そういえばアイツさ、遠くの中学校から来てるよな。」
嫌なざわめきは静まらなくて、
そしてそのうち、一線を誰かが破った。
「なんか俺、今は両親じゃなくておばあちゃん家で住んでるって聞いた事あるぜ。」
「なにそれ、絶対訳アリじゃん。」
徐々にザワザワが大きくなっていく。
ええじゃあ、とか、でもそれは、とか、勝手な憶測が飛び交って、俺はこう思う、私はこう思う、好き放題言い出すその声はとても冷たく聞こえる。・・・ああ、嫌だ。
いつもにこやかな塚田くんの表情が険しくなっていくのが分かる。
さっちゃんも、拳を握り締めていて。
「春原って何考えてるのか分からない所あるもんな。」
「確かに。裏でそういう事してるっていわれても、納得しちゃうかも・・・」
おいっ、と耐え切れなくなって塚田くんが声を上げたと同時に、バンッ、と大きな音がして、その音に皆顔を挙げた。噂話がやんで、教室全体が静かになる。机に手を強く叩きつけた音、その一点に視線が集まる。
机をたたいて立ち上がったのは、私だ。
「・・・確かに、春原くんは、いつも寝てるし、授業全然聞かないくせに頭いいし、人の事小馬鹿にするし、すぐ揚げ足とるし、興味ない事にはとことん冷たいし、身長低い事コンプレックス過ぎて怖いし、」
「結依。ディスってるディスってる。」
「ていうか隣になってからなんか先生に当てられる回数増えたし、頭揺らし過ぎてデフォルトで私も目立つし、後輩からの視線は痛いし、まずなんであの中年独身はそんなに私に辺りが強いのか・・・」
「秋山。関係なくなってるから。」
両隣からツッコミが入る。危ない、なんか脱線してしまっていた。
とにかく、とコホンと咳払いをして。
私が言いたいのは。
「私は春原くんを信じてる。でもだからみんなも信じろって言うんじゃなくて、色々な事を言うのは本人が喋ってからでよくないかな。私は他の学年の人に、他のクラスの人に憶測で何言われたって構わないけど、でもこのクラスの皆に言われるのは悲しいよ。一緒に過ごしてきた皆の中で、嫌なザワザワが広がってくのは悲しいよ。」
春原くんはそんな人じゃない。私は心の底からそう思っている。でもそうは思えない人もいるかもしれない。それはそれで仕方のない事だけど、でも、どちらにしたって今言う事じゃないんじゃないかな。何も分からないうちに言ったって、本当に何も分からないんだから。
「・・・結依。」
私の名前を読んで、さっちゃんが拳に手を添える。その時に初めて自分が手を強く握りしめていた事に気づいて。・・・いや、待って。
「さっちゃん!手が真っ赤になってる!!なんで!?!?」
「そりゃあんだけ強く叩けば赤くなるでしょ。」
「あ!忘れてた!どうりでヒリヒリするわけだ!!」
「数分でなんで忘れるかね・・・。ほら、冷やしに行こう。」
さっちゃんに手を引っ張られてそのまま教室を出る。と、一緒にクラスメイトが何人か付き添ってくれて。
保健室で氷を借りて、次の授業が始まるため皆は教室に戻っていった。私は手の痛さを理由にして、保健室に居座る事にする。
・・・私だって、気まずいという感情くらいある。
「あーあ、やっちゃったあ。」
ため息とともに独り言が漏れた。皆にどう思われたかな。ていうか春原くんは本当に何してるのかな。私はどうしてればいいのか。ああ、もう。
色々と考えると涙が出てしまいそうだから、考える事を放棄して椅子に座ったまま窓の外を眺めた。保健室の真下は正面玄関で、せわしなく出入りする業者の人の姿見えた。
大変だなあ、なんて他人事で眺めていれば、丁度正門から出て行くリュックを背負った男の子。少し癖毛の茶髪。ダルそうな歩き方。
間違いない。そう思った瞬間に保健室を飛び出していた。
「おい!どこに行くんだ!」
途中、よりによって生徒指導の先生に掴まる。授業中でほとんど人がいない廊下を全速力で駆けているんだ、目に付くのは当然だろう。無視することも出来ないけど、でもじゃあなんて言って説明すればいい?ああもう。どうすればいいの。
上手く言葉に出来なくて、その分込み上げてくる涙と闘いながらそれでも懸命に言葉を探す。いっぱいいっぱいの私の前に立ちふさがったのは、シワ一つない制服。
「先生。彼女には事務室に行ってもらう所なんです。」
「なんで授業中に・・・」
「具合が悪くなってしまった生徒がいて。親御さんと連絡を取るために、彼女に事務室に伝えてもらおうと思って。」
飄々とした顔で嘘をつく会長は、チラリ、と後ろを振り向いて。信じ切っていない顔で何かを言おうとした先生に、今度はまた別の声がかかる。
「井上先生、小テストの時間終わりましたよ。」
「まだそんなに経ってないだろう。」
「経ちましたよ。早く早く、答え合わせお願いします。」
「・・・分かった分かった。今戻る。」
教室の窓から顔をのぞかせた舞先輩はそう言って先生を教室に呼び戻す。
もうそんな経ったかな・・・と呟く先生に、時間が経つのって自分が思ってるよりも早いんですよね、と舞先輩がチラリと井上先生の薄くなり始めた後頭部を見たのを私は見逃さなかった。難易度の高いあおり。さすが舞先輩、アッパレ。
納得いかない顔のまま、けれどそれ以上何も言わず教室に戻っていく先生を見ながら、会長は私の背中を押してくれて。
「廊下は走るな。と言いたい所だが、急いでるんだろう。早く行くといい。」
「っ!ありがとうございます…!」
「ただ周りはきちんと確認するんだぞ、いいな。気を付けて。」
その言葉に力強く頷く。背後からあれ~、すみません。まだあと10分もありました。なんて微塵も悪いと思って無さそうな舞先輩の声が聞こえてきて、心強すぎる味方に走る足取りが軽くなったような気がした。
校門を出て、彼の姿を探す。
右か、左か、どっちだ。家の方面だったら右だよね、よし。
運動音痴秋山、精一杯の走りで道路を疾走しております。頑張れ私。
歩行者信号があるコンビニの前で、見慣れた後ろ姿を見つけて。
「のっ・・・はらくん。」
駄目だ、息切れが凄い。今日まで運動してこなかった自分を心底呪っている。
青信号に変わってしまう前に、息を整えなければ。もうこれ以上追える自信がなくて、ゆっくり息を吐きだした。
「すのっ・・・はらく・・・!」
「春原くん!!」
ピカッ、と歩行者信号が青に変わる。
けれど、彼は歩き出さなかった。ゆっくり振り返って、驚いた顔で私を見つめる。
彼が何かを言ったけど、車通りが多くて聞き取れない。ううん、車通りが多いせいだけじゃなくて。
「秋山、どうしたの?」
私がいるところまで戻ってきてくれた彼は、大きなマスクをしていた。いやそれは顔が小さいのか。その声が掠れているのとマスクで口元が見えないので、彼の声が聞き取れなかったのだ。
「・・・春原くん、風邪、ひいたの?」
「ううん、インフル。」
「インフル!?!?」
そんなに驚く?と笑った彼はその拍子にむせて、コホッと少し苦しそうに咳をする。
インフル・・・?インフルか、え、インフル?
じゃあ休んでたのは・・・
「ずっと、体調悪かったの?」
「そう。まさかインフルエンザだなんて思ってなくて。最初は病院に行かないで家にいたんだけど、全然治らないから。」
診断を受けてから昨日でちょうど一週間。本当は今日から登校できるはずだったのだが、まだ咳が出るからもう1日だけ休むことにしたらしい。
「でも昼前にはだいぶ良くなったから。とりあえず公欠届だけ受け取りに来たんだ。」
「・・・」
「花ちゃんが出張だって聞いてたからインフルの報告するのも休み明けでいいかなって。・・・秋山?」
俯いたまま何も話さない私に、春原くんが不思議そうに首をかしげる。
インフルエンザ。そっか、インフルか。なるほど。なるほどね。うん。
「・・・良くないけど、良かったあ・・・。」
「!?・・・ちょっ・・・」
安心したら一気に気が抜けて、ポロポロと涙かこぼれだす。急に泣き出した私に春原くんは見たこともないくらい焦っていて、でもその姿を楽しむ余裕は今の私にはなかった。
暴力という言葉の怖さ、不安だった気持ち、クラスの皆に嫌われてしまったかもしれないという恐怖、色々なものが決壊して、全て涙として溢れてくる。涙を拭う事すらできなくて、そんな私に春原くんは慌てながらも巻いていたマフラーをとって、頭からかけてくれる。
人通りが少なくない昼過ぎ、春原くんのマフラーに包まれながら、子供みたいに泣いてしまった。
「そっか。そんな事になってたんだね。」
ズビーッと鼻をかみながら、春原くんの言葉に頷いた。
泣いている私の手を引っ張って近くの河川敷まで移動してくれて、今は川辺のベンチに2人で腰かけていた。
学校で噂になって居たことも全く知らなかったようで、でも春原くんは大して驚いたような顔はしなかった。中学校の時の事はいつか話題になると思ってたから、そう言って彼は少し自虐的に笑う。
「・・・俺、本当に、人の事怪我させた。」
少しの沈黙のあと、春原くんがそう言って語りだす。
その言葉に、驚かなかったと言えば嘘になる。でも、でもきっと。
「わざとじゃ、ないんでしょ?」
「・・・どうだろ」
「わざとじゃないよ、絶対。」
春原くんが言い終わる前に、もう一度強く重ねた。
驚いたように私を見る春原くんを真っすぐに見つめ返す。
「・・・秋山は、どうして無条件にそう信じてくれるの。」
「どうしてって。」
春原くんはそんな人じゃないから、意地悪なふりして実は優しいから、色んな言葉が思いついたけどどれもしっくりこなくて。
・・でも、ああ、これだ。
「春原くんは、大切な隣人だから。」
私の言葉に、春原くんは一瞬呆気にとられたような顔をする。
そして俯いたと思ったら、その肩が徐々には震えだして。気付けば、声を上げて笑い出していた。
今度は私が呆気にとられる番だ。声を上げて笑っている春原くん、史上初である。
しかもその笑いは中々収まらず、ついにはお腹を抱えて笑い出していた。なんでこんなに笑われるの、少し腹が立ってきたぞ。
「そこは、大切な友達だからとかじゃないの。」
「なんかこれが一番しっくりきたから。ていうかそんな笑う?」
「ごめんごめん。」
ひときしり笑い終えた春原くんは涙をぬぐいながらそう謝って、はあ、と息を吐いて穏やかな川に視線を向ける。
「わざとじゃないよ。・・・でも、俺が怪我させてしまった事には変わりない。」
中島先生。
それが、春原くんが怪我をさせてしまったという相手だった。
春原くんはゆっくりと語りだす。
小学生からミニバスをやっていた春原くんは、中学校でもバリバリに部活をやっていて。・・・ここがもう想像できないというのは胸の中に留めておく。
強豪校で人数も多く、レギュラー争いも過酷だったそう。そんな中で春原くんはレギュラーを勝ち取った。・・・でも。
「練習中に、転んで足怪我した。」
クラスマッチの時、痛そうに足を引きずっていた春原くんを思い出す。靭帯を切った、そう語った彼の顔も。
激しいレギュラー争い。少しでも休めばそこに居場所がなくなる事は明白で。
用意した退部届を顧問の先生は受け取ってくれなかった。その顧問の先生が、中島先生。まだ若い男の先生で、自身もインハイ出場経験のある選手だったらしい。やめようとする春原くんを何度も引き留めてくれた。
「まだ諦めるには早いって。でも俺はその時怪我した事がショックで、何も聞き入れられなくて。」
「・・・うん。」
「その日も、俺を引き留めに来てくれた。階段の途中で声をかけてくれて、でも俺はやっぱりその行為すら苦しくて。」
『もう辞めるって言ってるじゃないですか!』
そう言って、先生の腕を振り払った。その動作が思ったよりも強くなってしまって、先生の体がふらつく。
そして、足を滑らせた。
全部がスローモーションに見えた。そう言って春原くんは小さく息を吐きだす。
階段から落ちた先生は、右足に全治2か月の骨折をした。治療のために中々部活に顔を出せなくて、3年生はその状態のまま最後の総体を迎えたという。
「先生は春原のせいじゃないって。むしろしつこくしてごめんなって。先生がそう言ってくれたのもあったし、見ていた人もいたから故意じゃないって事はすぐに分かった。先輩たちも、全然俺の事責めなくて。」
でも。
「それがもっと、辛かった。」
むしろ彼は責めてほしかったのだ。お前のせいだと憎まれた方が楽だったのだ。優しくされるのが、一番苦しくて。きっと必要以上に自分で自分を責めた。
その後、春原くん自身も集中して足の治療をするために少し学校を休んで、その期間を停学だと騒ぎ立てた人たちがいたらしい。クラスマッチの打ち上げの時に出会った彼も、その一人。レギュラー争いで負けた人たちが流した捻じ曲がった噂を、彼は否定しなかった。怪我させたのは事実なんだから、と。
「先生とは今も連絡とってるし、今は違う中学校でバスケ教えてるって。でもこれ以上変なうわさが広がらないようにって移動してくれたのを知ってるから、俺も、けじめをつけたくて。」
それに両親も気にしてたから、と春原くんは苦い顔で呟く。
「ずっと応援してくれてたのを怪我しただけじゃなくてこんな形でも裏切っちゃって、どうすればいいか分かんなかった。」
「・・・。」
「・・・けじめとか言って、結局逃げちゃっただけなんだよなあ。」
そう言って自虐的に笑う。そんな笑顔が痛々しくて、でもきっとこの痛みを私にはどうすることも出来なくて。
しばし無言のまま川を見つめる。沈黙の後、春原くん、と彼の名前を呼んだ。
「苦しい事を、話してくれてありがとう。」
彼がゆっくりと目線を上げる。
「一人でずっと耐えてきたんだね。偉いね。」
「・・・子供じゃないんだから。」
「関係ないよ。偉いから褒めてあげたいの。よく頑張ったね。」
彼の癖毛に触れる。よしよし、と口に出して頭をポンポンと撫でれば、ツッコミながらもその手を払う事はしなくて。
どうにもできないけど、でも分かりたいと思った。彼の痛みに、寄り添いたいと思った。
少しだけ春原くんの瞳が光った気がしたけど、気づかないふりをして川を眺める。気づけば夕日が顔を出して、川に反射して少し眩しい。
「・・・春原くん。」
先に立ち上がって、彼に手を差し出す。
「戻ろっか。」
「・・・うん。」
彼も立ち上がって、ゆっくりと歩き出す。
あ、学校に戻るのは私だけか、なんて途中で気づいたけど、でもいいや。
春原くんが戻るところも結局はあの学校だ、あの教室だ、あのクラスだ。
私の名前を呼んでから、彼がありがとう、と呟く。
その言葉に笑ったまま頷いて、繋いだままの彼の手を引っ張った。
皆の所に、早く帰ろう。
「よ、社長出勤。」
次の日、大きなマスクをしたまま昼過ぎに登校してきた春原くんに、早速塚田くんがちょっかいをかける。
「インフルなんてどこでもらってきたんだよ。」
「分からない。初詣とかかな。」
「へえ~、春原も神様に挨拶とかするんだ。意外。」
「どういう意味?」
春原くんの鋭いツッコミにさっちゃんがペロッと舌を出す。うーん可愛い、100点満点。
ていうか、と自分の机を見て、春原くんは呆れたような声を出す。
「・・・なにこれ。」
彼の机の上にのっているのは大量のお菓子だった。おせんべい、スナック菓子、知育菓子にインスタントのラーメンまで。野球部の森田くんを筆頭に近づいてきた坊主群軍団はニッとはにかんで。
「ちゃんと甘くないのにしたぜ。」
「いやそういう事じゃなくて。」
「ちゃんと賞味期限も確認したから!ゆっくり食べれるから安心しろ。」
「だからそういう事でもない。」
「え?じゃあなに?好みじゃなかったの?泣くよ?」
「急に不貞腐れるのやめてよ。」
容赦ないツッコミである。
しかし彼らは心底嬉しそうに笑う。ドエムか。
「・・・春原、お帰り。」
「・・・ただいま。」
ていうか俺インフルで休んでただけなんだけどね、なんて憎まれ口を叩きつつ、
なんだか照れ臭そうに彼らが言い合うから、見ていた私も気恥ずかしくなってしまった。
昨日私が学校に戻った時、勇気を振り絞って教室に入ったのにも関わらず、そこにあったのはたくさんの優しさだった。どうやらさっちゃんと塚田くんもあの後何か話してくれたようだった。
かける言葉は『ごめんね』じゃなくて『おかえり』だ。そう皆で決めていた。
チャイムが鳴って、席について先生が来るのを待つ。隣には彼の姿があって。たった一週間ちょっとぶりなのに、なんだかすごく懐かしい感じがした。
「・・・春原くん。」
授業が始まる直前、小声で彼の名前を呼ぶ。
ん?と私の方を向いた彼に、小さく耳打ちをする。
私の言葉に春原くんは少し照れたように笑って、
そして教科書で顔を隠しながら、口をパクパクさせるのだ。
た だ い ま
その言葉に胸がじんわりと温かくなって、
大切な言葉が、思い出が、また一つ、増えた。
2月の体育館はまるで冷蔵庫だ。ひんやりなんて言葉じゃ全然足りない冷たさに、ジェットヒーターの暖めは全く追いついていない。壇上ではなにやら慌ただしくマイクの移動が行われていて、早く終わらないかなあと欠伸をかみ殺した。
気づけばもうもうすぐ卒業式を迎えようとしていて、今日は今年度最後の生徒総会が行われていた。制服姿での参加が必須であるがひざ掛けや上着の持ち込みは禁止されていなくて、わたしもマフラーに包まれながら話に耳を傾けたり傾けなかったり。
・・・もう3年生は卒業か。今までは歳をとるの嫌だなあなんて感情くらいだったけど、なんせ今年はしっかり寂しいのだ。
生徒集会の終盤、壇上で堂々と話す会長を見る。進行の声は惚れ惚れするほど美しくて、舞先輩も会長ももうすぐ卒業しちゃうのかと思うと寂しくてたまらない。
きっかけは小さな事件だったけど、でもそのおかげで知り合うことが出来て、こうやって仲良くなれて・・・既になんだかしみじみとした気分だ。2人とももう大学は決まっていると聞いて、さすがという感じ。
卒業までの間、後悔しないようにたくさん話せるといいなあ。
なんて思っていたある冬の日の午後、生徒会室に呼び出されたのは私とさっちゃんと春原くんだった。
「君たちに、極秘で相談したいことがあるんだ。」
そういった会長はいつになく真剣な顔をしていて、その眉間にはシワがよっている。
せわしなく生徒会室をあるきまった会長は、コホンと一度咳払いをして
意を決したように口を開く。
「実は・・・。」
会長の口から出てきた言葉は、コイワズライ。
「コイ、ワズ、ライ?」
「そう。舞が恋煩いをしているのかもしれなくて。」
ああ、恋煩い。中々使わないその単語に一瞬変換が出来なかった。危ない危ない。
舞先輩と、恋煩い。その2つの単語が結びつかなくて3人して首をかしげてしまう。いったいどこからそんな話になったのか。
会長の話によると、まずはどうやら最近まい先輩に元気がないらしい。何やら物憂げな表情をしていることが多く、ため息もよくつくんだとか。先生や友人が卒業という言葉を聞く度、卒業かあ、と呟いてまたため息が増える。特に生徒会室にいる時、仕事をしている時に寂しそうな気がして。
なんでそれが恋煩いに繋がるのか?当然出てくるその疑問に、会長は重々しくため息をついて、頭を抱える。
「俺は、見てしまったんだ…。」
生徒会室で仕事をしている最中、舞先輩はどうやらよく窓から下を眺めているらしい。それは前からなのだが、その日も窓から外を見ていた。その時、気になって会長も少し覗いてしまったのだという。
そこには中庭の細い路地があって、舞先輩がいつになく深いため息をつくと同時にそこに見えたのは、女の子に告白されている塚田くんだった。
「ああ。だから今日3人だけなんですね。」
春原くんと同じタイミングで私も納得をする。
そうだ。今日会長がコソコソと声をかけて来たのは私たち3人で、どうして塚田君だけハブなのかと(言い方)少し気にかかっていたのだ。そういうことか。
「でも舞先輩と塚田くんって仲いいんですか?」
「さあ・・・特に2人でいるところは見かけたことないが。」
「じゃあ恋愛的なものではないんじゃないでしょうか・・・」
「愛の深さ=関わりの深さとは限らないじゃないか!!!」
「ごめんなさい。」
私が言い終わる前に会長が鼻息を荒くするから反射で謝ってしまった。そうですよねごめんなさい。その最たる例ですもんね。会長は拳を握り締めて少し熱弁していて、いや本人の前でよくそんなに語れるな。
「と、とにかく・・・元気がないのが、心配なんだ。」
我に返った会長は咳払いをした後、そう言ってふう、とため息をつく。
「舞にはずっと世話になりっぱなしだからな。もし未練があるならそれをちゃんと叶えてやりたい。助けになってやりたい。」
「会長・・・。」
「変なお願いである事は承知している。けれど、力を貸してくれないか。」
そう言って会長が深々と頭を下げるから、慌てて顔を上げてもらった。さっちゃんと春原くんと3人で顔を見合わせて、小さく頷く。
そんなこんなで、私達4人の極秘調査が始まったのだった。
お昼休み。お弁当に手を付けながら、スマホ片手にサンドイッチを頬張る塚田くんをチラ見する。・・・なんて切り出そう。
「塚田ってさあ、彼女いるの?」
「まさかのド直球。」
いけない、驚いて思わず突っ込んでしまった。さっちゃんの言葉に塚田くんは顔を上げて、困ったように笑う。
「いないいない。」
「じゃあ好きな人は?」
「なに急に。どうしたの。」
「いいから。」
俺らこんな話した事無かったじゃん、という塚田くんの言葉に確かにと頷く。4人でいる事も多い私たちだが、恋愛の話なんてしたことがほとんどない。・・・いや、待て。私さっちゃんとも恋バナってしたことないぞ。これはJK失格?
「え、さっちゃんって好きな人いるの?」
「何よ急に。」
なんで私に聞いてんだ、と言う目でさっちゃんが私を見る。ごめん、でも気になっちゃって、えへ。
「確かに。俺も聞きたい。」
ノッてきたのは塚田くん。春原くんも無言のままだが、その目はまっすぐにさっちゃんに向かっている。3人が答えを待ち望んでいる中で、さっちゃんは少し恥ずかしそうに目を伏せて。
「私は別に・・・」
「別に?別にって何?その感じいるよね?ね?私聞いた事ないんだけど、秋山ショック!」
「ちょっとうるさい。」
「ああああ待って、さっちゃんもいつかは誰かの物に・・・?そんな、耐えられない!!」
「私はあんたの何なんだ。」
あわわわと騒いでいればうるさいと春原くんに一蹴される。冷た。今度はそんな私に視線が集まって。
「秋山は?」
「うーん・・・そういうのとは無縁過ぎて何も思い浮かばないや。」
「でも今まで好きなになった人の1人や2人くらいいるでしょ?」
「・・・ハルヒくん?」
「それあんたがハマってたアニメのキャラクターだよね。」
「失礼な!ハマってたじゃなくて今もハマってるの!」
彼は永遠の推しなんだから!そう言えば白い目で見られた。いいじゃんねえ別に。
推しは推せるときに推せ、これが人生の基本である。
・・・好きな人かあ。
正直今まで出来たことがない。というかどこからが、どんな気持ちが好きなのかが分からない。好きの定義が明確に数値化されていればいいのにな、脈拍とかで。
なんて1人で考えていれば、そのまま話題は別に映る。え、ちょっとまってよ。
「春原くんのターンは?」
私の言葉に、さっちゃんと塚田くんが顔を見合わせる。
「だって、ねえ。」
「ねえ。」
「何その意味深な感じ!?」
なんで私だけ仲間外れなの?ずるくない?春原くんの方を見れば彼は既に夢の中へと戻っていて。えっなんでなんで。そう騒いでいればまたうるさいと叱られてデコピンをされた。解せぬ。
「あ、舞せんぱーい!」
「あー、結依ちゃん。久しぶりね。」
放課後、廊下を歩いている舞先輩を捕まえる。予想通りと言うべきか塚田くんからはなにも有力な情報が得られなくて、次は舞先輩と直接話してみることにしたのだ。
生徒会室に運ぶという荷物を半分持ちながら、2人で廊下を歩く。隣を歩いてるだけでやっぱり舞先輩はすごくいい匂いがする。大人の匂い。口に出したら引かれるのは明白なので心の中に留めておくことにする。
「・・・もうすぐ卒業ですね。」
「ねえ。寂しくなっちゃうわよねえ。」
私の言葉に、はあ、と舞先輩がため息をつく。その表情は寂しそうで、確かにそこには寂しい以上の何かがある気がした。
しかし、物憂げな表情のまま歩く舞先輩は、途中で表情を一転させる。
「そうだ!結依ちゃん!」
「っ・・・ええ?」
突然私の方に向き直った舞先輩の目はキラキラと輝いていて、口元には笑みが浮かんでいた。そしてそのまま少し上を向いて、今度はうーんと考えこむ。え、なにこれ。
「えっと・・・舞先輩?」
「・・・ごめん。ちょっと今は何でもないや。」
今はってなんだ。聞こうとすればもう生徒会室はすぐ目の前で、舞先輩が扉に手をかける。ああもうタイミング!助かったわありがとう、そう笑顔で先輩が手を振るから、私も手を振り返す。
・・・なんだったんだ今の。
「それは不思議だね。」
後日、舞先輩の様子をさっちゃんと春原くんに報告してみる。2人ともうーん、と考えこむが、答えなんて出るはずもなく。
とりあえずまずは現場に行ってみよう、現場調査が一番だ。なんて結論に陥った私たちはとりあえず教室を出ることにした。さっちゃんはこれから部活のため、春原くんと2人で生徒会室の窓から見える通路に向かう。
そこは保健室と中庭を結ぶ細い路地で、当然特に変わった様子もなかった。
証拠なしか、とため息をつけば、春原くんが小声で私の名前を呼ぶ。手招きされた場所によれば、そこにいたのは茶色のふさふさで。
「わっ・・・!かわいい~~」
植木の隙間に、小さな猫が一匹。
体格と同じく小さな声でニャーと鳴いて、人慣れしているのか私たちの所にすり寄ってくる。どうしよう、めちゃくちゃ可愛い。
「あ、エサが置いてあるね。」
「ね。誰かがあげてるのかな。」
「毛並みもふさふさだあ。」
だからこんなに人慣れしてるのね。私が手を出しても嫌がるどころかゴロゴロと気持ちよさそうに声を出して。野良猫とは思えないほど毛もフサフサで。
あああ持ち帰りたい。お母さんが猫アレルギーじゃなかったらな、なんて少し恨めしい気持ちになってしまった。
その後しばらく2人で猫を愛でて、生徒会室にも寄ってみようかと立ち上がった。バイバイ、と猫ちゃんに手を振って教室の中へと戻る。
・・・なんか。
「春原くんって猫っぽいよね。」
「・・・秋山は完全に犬だよね。」
お互いによく言われる、と納得してしまった。
生徒会室に入ろうとドアに手をかける。けれどそのドアが開く前に、中から何か言い争っているような声が聞こえてきて、思わず手を引っ込めてしまう。
春原くんと目を見合わせる。その声は徐々に鮮明に聞こえてきて。
「だから、もう少し考えた方が・・・」
「考えたわ。考えた上で決めたの。」
「そんなこと言ったって。なんで今更。」
「別に須藤くんにどうこう言われる筋合いはないじゃない。」
ピリついた舞先輩の声。
そのまま足音がドアの方に近づいてきて、勢いよくドアが開く。あ、と一瞬気まずそうな顔をした舞先輩は弱弱しく微笑んで。
「ごめんなさい。見苦しい所見せちゃったわね。」
「いや・・・こっちこそ・・・」
「ごめんね、ちょっと今日は私帰るね。また明日。」
そう言って舞先輩は教室を出て行く。会長はその後姿を困り果てた顔で見つめていて、私達もどうしたらいいか分からなかった。
「進学先を変えるって。」
眉を下げたまま会長が静かに話し始める。どうやら、舞先輩が以前から推薦で決まっていた女子校から、別の千葉の大学へ進路を変えたそうなのだ。
「理由は教えてくれないんだ。最近さらに元気がない気もするし・・・」
はあ、と会長がため息をつく。いつも恐ろしいほど良い姿勢は今日は猫背気味で、よく見れば制服にも少しシワがついている気がする。メガネも心なしか丸くなったような・・・あ、ごめん、これは盛った。
すまない、こんな事に巻き込んで。と会長が弱音を吐くからあわててかぶりを振った。私達も頑張ります!そう言ったはいいものの、何を頑張ればいいんだろう。
「ねえ、どうすればいいと思う?」
「・・・」
「私に何ができるんだろう。たくさんお世話になったかは、私も助けになりたいのに。」
「・・・」
「もう、ほんとに役立たずだなあ自分。」
返答は返ってこない。当然だ、相手は猫である。
気持ちよさそうに撫でられている番長(おしりの部分にワンポイントで白い模様があって独特でオシャレだったから)はニャーと甘えた声を出す。ああ可愛い、吸いたい。
結局あの日から何も前進せず、卒業式が刻々と近づいていた。会長と舞先輩も気まずい雰囲気のままのようで。
はあ、とため息をつきながら持ってきた猫用のおやつを番長に少し食べさせてみる。すぐに食いついて夢中でペロペロと食べる姿が可愛くて、ああ、癒される。こんなところ先生に見つかったら・・・なんて考えてしまったのと同時に、後ろでガサッと足音がした。
慌てて番長を背中に隠して振り向く。敷地内で猫を飼ってるなんてバレたらきっとこの子は追い出されてしまう。
冷や汗と共に振り向けば、そこに立っていた人も驚いたように私を見つめていて。
「結衣ちゃん?」
「舞先輩?」
そこにいたのは舞先輩だった。どうして、と彼女が呟いて、その手に握られているのがキャットフードだということに気づく。
もしかして先輩が、そう口に出したのと舞先輩が頭を下げのは同時だった。
「お願い!この子の面倒を見てくれませんか!」
「・・・へ?」
「あ!面倒って言ってもずっとじゃなくて。私が引き取り手を見つけてくる間!出来るだけ早く見つけてくるから、それまで、どうか・・・!」
「ちょっちょ、分かりましたから・・・!」
突然のお願いに何が何だか。めずらしく慌てているまい先輩の勢いに押されつつ、この日で舞先輩の恋煩い疑惑は幕を閉じるのだった。
「わたし、ずっと獣医になりたかったの。」
舞先輩が持ってきた餌を夢中で食べる番長を撫でながら、先輩はそう話し出した。
「でも親が医者で、小さい頃からその道が自然と敷かれていて。獣医なんて、ってずっと言われ続けてきたの。」
だから舞先輩はその夢を押し殺して、親が望む通りの職業につくために大学を決めた。・・・でも。
「どうしても、諦めきれなくて。」
親にこっそり、獣医を目指せる大学も受験していた。そこに、進学することに決めたんだ。偏差値は下がるけど、と舞先輩は笑う。親ともバトル中で、中々手強いらしい。最近ため息が多かったのもそれが原因の1つで。
「なんで会長には理由を教えてあげないんですか?」
「・・・私たち幼なじみだから、お互い家族ぐるみで交流があるの。多分理由を言ったら、あの人はきっと一緒に説得するって言って聞かないから。」
そう言って舞先輩が笑う。私もお節介な会長が想像できて、思わず笑みがこぼれた。
「本音を言えは頼りたいけど、でもここは頼っちゃダメだ。私がたたかわなきゃって分かってるから。」
「舞先輩・・・」
「まあ、なけなしのプライドってやつね。」
そう言って笑った舞先輩の横顔は、惚れ惚れするほど美しかった。そんな彼女のひざに番長が乗っかって、丸まって眠り出す。
「この子、出会った時に怪我してて。」
この植木でうずくまっているところを見かけて、簡単な手当をしたらしい。そのままここ植木に住み着いていたから、餌だったり、舞先輩がこっそり面倒を見ていたようで。なるほど。だからちょくちょく生徒会室から下を覗いていたんだ。
「やっぱり私動物が好きだなって思ったの。今回決心できたのも、この子のお陰かな。」
けれど、舞先輩はもうすぐ卒業してしまう。まだ引き取り手が見つかっていない以上、ここに置いていくしかなくて。それで途方に暮れていたのが、大きな2つ目のため息の理由だった。
「先生に見つかったらきっと追い出されちゃうし、だから、世話を頼める人を探していたの。」
私に向き合って、改めて頭を下げる。
「なるべく早く引き取り手を見つけるようにするから、だからそれまで、面倒見てくれないかな。」
「もちろんですよ。」
間髪入れずに返事をした私に驚いたように顔を上げて、そして、聖母スマイルを見せてくれた。
ああ、でもなんだ。
「全部会長の勘違いだったんだ・・・。」
「ん?何が?」
不思議そうな顔をする舞先輩に、事の顛末を話した。
何それ、と舞先輩は笑って。
「塚田くんねえ、顔はいいけどでも誰にでも優しそうだから苦労しそうね。」
「大同意です。」
ぺろっと舌を出しておどけたように笑う。そっか、呟いて、舞先輩はなんだか照れ臭そうに笑った。
「助けになってやりたい、か。・・・本当に優しさだけは世界一ね。」
「だけはってやめてあげてください。」
「ふふ。あとは、何か言ってた?」
ええっと、とあの日の会長の言葉を思い出す。最近元気がない、ため息が多い、ああ特に生徒会室にいる時に特に寂しそう、とか。
その言葉を聞いて、今度は呆れたように笑って。
「あの人は・・・。」
「?」
「自分と離れるのが寂しい、って考えはないのかしらね。」
そりゃ十数年ずっと一緒にいたんだもの、と舞先輩が言葉を続ける。その言葉に何とも言えない気持ちになって気づけば彼女の肩をさすっていた。
少し一緒に番長を愛でた後、先輩は勢いよく立ち上がってスカートについたほこりを払う。
「よし。私そろそろ戻るね。まだやらなきゃいけないことあって。」
「分かりました。私はもうすぐこの子を吸ってから帰ります。」
「麻薬か。・・・心配かけてごめんね、須藤くんには、ちゃんと自分から話すから。」
「分かりました。」
先輩の背中を見送っている最中、舞先輩がくるりと振り返る。
「私!結依ちゃんと出会えて!よかったーー!」
少し遠くから、舞先輩がそう叫ぶ。そして私の返事を聞かないまま踵を返して歩き出した。その姿がいつもとは違ってまるで幼い少女のようで、しばらくの間見つめ続けてしまった。
「そうか・・・。」
翌日。事の顛末を、会長にかいつまんで話す。舞先輩が自分で話すと言っていた大学の事、あと番長の事も会長には内緒だ。2人だけの秘密だと、約束したのだ。
そこを秘密にしたら会長に話せることは大分少なかったのだが、でも彼は舞先輩が悩みはあるものの元気だという事に安心したようにため息をついて。
「色々すまなかったな、ありがとう。」
「いえいえ。そんなことないです。」
あの、と続けて声を上げれば、会長が眉を上げて答える。
「余計なお世話だと思うんですけど、でも。舞先輩と、しっかり話してみて下さいね。」
「・・・分かった。」
こんな事他人に言われたくないと思うけど、そういえば会長は笑って大きく首を振る。
「秋山くんは、人だけど、他人ではない。大事な友人だ。」
「・・・!」
「そんな友人のアドバイスが、迷惑な訳ないだろう。」
当たり前の事のようにそう言うから、なんだか少し泣きそうになってしまった。
・・・卒業って寂しいな。寂しいよなあ。
私服校の卒業式は袴で出る人も多いみたいだけど、この高校は制服校だから、式に派手さはあまりなかった。けれど卒業生用のコサージュをつけて色紙や花束を貰えば、徐々に視界は鮮やかになって。
「・・・お疲れ。」
「お疲れ様。答辞、立派だったわよ。」
ならよかった、と須藤君は安心したように息を吐きだした。
卒業式であっても、卒業式だからこそ?役員の役割は少なくない。この後も教室に戻ってやらなければいけない事があるけれど、しばしの休憩だ。
校門の前には保護者、部活動の後輩、多くの人が集まっていて。色紙を渡したり写真を撮ったり、笑顔と涙が溢れている。
その端っにある自転車置き場の段差に2人で腰かける。
「・・・大学の事、黙っていてごめんなさい。」
しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
親との戦いにも決着がついて、なんとか千葉の大学への進学を認めてもらうことが出来た。その日のうちに、須藤くんに大学の事は全て伝えていて。
「心配してくれてるの分かってた。でもこれは、私一人で決着をつけなきゃって思ってたの。酷い事も言ったりして、ごめんなさい。」
「謝る事じゃないだろう。戦いきった舞は立派だ。」
まるで武士のような彼の言い方に思わず笑ってしまう。
彼もつられて笑って、ああ、と声を出した。
「あの猫の事だが。」
「・・・結依ちゃんから聞いたの?」
「え?なんで秋山くんが出てくるんだ?」
猫の事は、結依ちゃんと2人の秘密にすると決めていた。だから須藤くんがその話題を出したことに驚いて、彼女の口が滑ったのかななんて思ったけどどうやらそうではないらしい。
「ずっと面倒見ていただろう。あの植木の所で。」
「・・・気づいてたの?」
「気づかれていないと思ってたのか?」
須藤くんは呆れたように息を吐く。あのなあ、と言葉を続けて。
「何年一緒にいると思ってるんだ。全く。」
何でもない事の用にそう言ってのけた彼。
ああ本当に、この人は。
「実はな、親戚に猫を飼いたいって言っている人がいて。」
「本当に!?」
「ああ。舞が良ければその人にお願いしようと思っているんだが・・・やっぱり不安だよな、一度信頼に足る人か会ってみるか?」
「何言ってるのよ。」
今度は私が呆れる番だった。
はあ、とため息をついて彼の顔を真っすぐに見つめる。
「須藤くんが紹介してくれる人だもん。悪い人な訳ないじゃない。」
私の言葉に須藤くんが少し照れたように笑う。から、私も少し恥ずかしくなってしまう。そっか。バレてたのか。でも猫の存在には気づきつつ、恋煩いを疑ってしまうのがまた須藤くんらしいな、なんて思った。
「さあ。片付けに戻ろうか。」
「そうね。」
石段から立ち上がって、1つ大きく伸びをした。先に歩き出した彼は私の方を振り返って、舞、と名前を呼ぶ。
「卒業、おめでとう。」
「・・・須藤くんも、おめでとう。」
お互いに言い合った小さなありがとうの声は、雲一つない青空に吸い込まれていった。
真っ青だった青空に夕焼けが差して、人の量も減ってきた校舎の入り口。そこから少し外れれば使われていない下駄箱があって、そこによりかかったまま空を見上げる。
「・・・卒業、おめでとうございます。」
後ろから聞こえてきた声に振り向けば、そこには早紀さんが立っていた。呼び出したのは自分だ、だから驚く事はなくて。
彼女はお花を手渡してくれて、感謝の言葉と共に受け取る。それと入れ違いに俺も彼女に小包みを差し出した。
「これ、受け取ってくれないか。」
「え、でも・・・」
「感謝の気持ちだ。大したものではないんだが。」
躊躇いながらも小包みを受け取った彼女がゆっくりと包みを開く。その中身は彼女が好きなキャラクターのキーホルダーで。初めて拾ったシャーペンにも、このキャラクターが印字されていた。
「わあ!私この子!大好きなんです!」
うん、よく知っている。というのは少し気持ち悪いなと自覚して口に出さなかった。
早紀さんが嬉しそうにキーホルダーを胸に抱える。その姿に何とも言えない気持ちになって。気づけば彼女の名前を呼んでいた。
「最後に少し、お願いを聞いてくれないか。」
無言のまま彼女が頷く。
拳に力がこもる。ごくりとつばを飲み込んで。勇気を出して。頑張れ自分。
「れっ、れれ!」
「・・・れ?」
「れ・・・連絡先を教えてくれないだろうか・・・!」
「へ・・・?」
「あっ、嫌だったら全然っ、連絡は緊急時にしかしないようにするしっ、そのっ・・・もしも、もしも良ければの話であって・・・!」
虚を突かれたような彼女の声に慌てて言葉が滑り出す。
何も聞こえてこない空間に不安が募ってゆっくりと顔を上げれば、
彼女はなんだか脱力したように笑っていた。
「なんだあ・・・いいですよ、もちろん。」
「本当か!?」
「当たり前じゃないですか。」
ていうかお互い知らなかったんですね、と言いながら早紀さんが近づいてきて、何てことないように連絡先を追加してくれる。
「この後もまだなんかお仕事あるんですか?」
「いや。もう終わりだ。ただ最後に花巻先生のところにだけ行かなきゃいけなくて。」
「そうなんですね。あの人さすがに今日はスーツ着てましたね。」
「たまにしか見ないから違和感しかないがな。」
早紀さんがふふっと笑う。花巻先生はスーツ嫌いで有名で、普段はなかなかスーツ姿をお目にかかれない。・・・まあ今日も式が終わった瞬間すぐにネクタイを緩めていたんだが。
そのまま少し談笑していれば、落ちていく夕日が一番眩しい角度に差し掛かる。
眩しい光に目がくらんで、もう少しすれば暗くなってしまうんだなあと当たり前の事になんだか寂しくなった。
「・・・じゃあこれで、私は先生の所に行ってくる。」
「分かりました。」
少し名残惜しさを感じつつも、暗くなる前に彼女を帰してあげなければと自分のカバンを抱え直す。
早紀さんはペコリと頭を下げて、キーホルダーを再び大事そうに抱えた。
「これ、大切にします。本当にありがとうございました。
・・・お元気で。」
そう言う早紀さんに俺も手を挙げて答える。歩き出す前に、彼女は少しだけ固まって何かを言いかけた。その何とも言えない表情に眉を上げれば、彼女は結局何も言わずに、手を振って踵を返す。
そのまま遠くなっていく彼女の背中を見つめる。ふつふつと気持ちが沸き上がってきて。
本当に、これでいいのだろうか。
俺は伝えたい事を全て伝えられたのだろうか。
これで。これで本当に。
後悔しないだろうか。
「早紀さん!!!!」
気付けば、彼女の名前を大声で呼んでいた。
小さくなっていた背中が振り返って、驚いように俺を見つめる。
「っ!さっきは嘘をついてしまった!緊急時だけと言ってしまったが、一日一通、それが嫌だったら一週間!一か月!いや半年!・・・に一度でもいいから、メッセージを送ってもいいだろうか。」
言葉がボロボロとこぼれだしてくる。いつもは何度も頭の中で反芻しなければ上手く話せないのに、今は自然と言葉が出た。
「東京には桜の名所が沢山あるから、写真を送ってもいいだろうか。綺麗なものを見たらきっと早紀さんにも見て欲しくなってしまうと思うんだ。」
距離があって、彼女がどんな表情をしているかはあまりよく見えない。でもいいんだ。後悔したくない、伝えきりたい。あの時こうしてればなんて言葉は絶対に使いたくない。
「あとは、たまにほんのたまに、電話をかけてもいいだろうか。嬉しい時楽しい時だけじゃなくて、きっと苦しい時、どうしようもない時にも、君の声が聞きたくなると思うんだ。」
あとは、あとは、もう全部言ってしまえ。
「少し落ち着いたら東京に遊びに来てくれ。ちゃんと案内が出来るように勉強しておく。だから、だから・・・」
「会長。」
いつの間にか戻ってきてくれた早紀さんが、僕の目の前に立つ。少し下から僕を見つめる彼女は、微笑んでいて。
「全部、いいですよ。」
「へ?」
「だから、メッセージも、写真も、電話も、いいに決まってるじゃないですか。」
いつも自信満々な彼女が少しだけ、今は照れたように笑う。
「東京にも遊びに行かせてください。私も大会が終わってからとかになっちゃうかもしれないけど、でも、必ず行かせてください。」
はい、と早紀さんが小指を出す。反応できずに戸惑っていれば、彼女はもう、と俺の小指に小指を絡ませて。
「約束ですからね。」
なんて言って笑った彼女は、いつものように自信満々な姿に戻っていて。
大きく頷いて、もう少しだけ2人で夕日を見つめていた。そこに会話は無かったけど、でも、それもなんだか心地よくて。
夕日に照らされる彼女の横顔は、やっぱり美しかった。この世界のどんなものよりも、美しいと思った。
「はい~みんな席について~」
花ちゃんのダルそうな号令でみんなが席に戻っていく。
まだ少し肌寒い風が吹く春の朝。満開だったはずの桜は既にもう散り始めていて。
始業式後のホームルームが始まる。気づけば私達ももう3年生になっていて、1階の教室を手に入れていた。ちなみに1年生が3階、2年生が2階、3年生が1階と、学年が上がる度階段を上らなくてよくなるのだ。
「いいよな~お前ら。俺なんか科学準備室が3階だから結局行き来しなきゃだしむしろ大変になったよ。どうしてくれんだよ。」
知るか、と心の中でツッコむ。実際誰かも声に出してツッコんでいた。
「誰か金持ちになってこの高校にエスカレーター付けてくれよな。」
「え、それまで居座るつもりですか。」
「居座るとかいうな。」
クラス委員の子が大真面目な顔でそんな事を言うから、クラス中に笑いが起きる。新学期という事で皆のテンションも心なしか高いが、理由はそれだけではなさそうだ。
「はい。前にもいったとおり、転校生がきています。」
その言葉に教室のあちこちでザワザワと声が上がる。そう、どうやらこのクラスに今日から転校生が来るらしい。厳密には授業は明日からなのだが、既に始業式から参加しているようで。
「まあ詳しい事は本人の口から聞こうな。てことで入ってきて~。」
相変わらずの適当さ。花ちゃんの声に促されて教室のドアが開く。入ってきたのは男の子で、ざわめきが一層大きくなった。・・・特に、女子の声。
「・・・うわあ、美形。」
思わず私も呟いてしまって、それが聞こえたのか春原くんも頷いた。
そこにいたのはまさに王子様のような男の子。真っ白な肌に綺麗な金髪、少し青味がかった瞳。細身の彼は、黒板に自分の名前を書く。こりゃまた字も端麗。
「由井雪緒です。アメリカから来ました。母がアメリカ人で父が日本人のハーフです。よろしくお願いいたします。」
流ちょうな日本語で自己紹介をした後、彼は控えめに微笑んだ。瞬間にあちこちで女の子の黄色い悲鳴が聞こえて、男子が低く呻くのが分かった。そうなるよね、ドンマイ。
「日本の学校に通うのは小学校ぶりで色々分かんない事もあると思うから、皆サポートしてやってな。えっと、席は・・・」
花ちゃんが視線を彷徨わせて、あああそこで、と指をさす。
その席は春原くんの正面、つまり私の斜め前。視線を集めながらスタスタと歩いてきた彼は、隣の女の子に微笑みかける。
「よろしくね。」
「っ・・・こちらこそ・・・!」
隣の席の田淵さん。小さく後ろを振り返って私にガッツポーズをする。素直でよろしい。雪緒くんは後ろも振り返って、私と春原くんを順番に見つめる。
「これからよろしくね。」
「こちらこそ。よろしくね。」
「・・・よろしく。」
パンパン、と花ちゃんが手を叩いて皆の視線を集める。
「はい女子~、イケメンだからって明日から気合入れ過ぎないようにな。生徒指導の先生に怒られるの担任だからな。はい男子~、そんなに僻まない僻まない。お前らにはお前らのいい所があるから自信もって」
じゃあ今日はこれでもう下校です、さようなら~。なんて気の抜けた声と共に午前中だけの新学期1日目は終了した。明日から授業か、寝坊に気を付けようっと。
凄まじい。その一言に尽きる。
さっちゃんが少し呆れ顔をしながらストローをくわえる。その視線の先には雪緒くんがいて、周りには女の子ばかり。よく見れば違うクラスの子も混じっている。
「こうも人が集まると落ち着かないわ。」
「そうだねえ。」
新学期と共に始まった転校生雪緒くんフィーバーは収まる気配はなく、なんだかデジャヴ。
ため息をつくさっちゃんのスマホには、あれ、珍しい。
「どうしたの?それ。」
スマホからぶら下がるのは少し大きめのキーホルダーで、さっちゃんがこういうのを身につけるのは珍しい。さっちゃんお気に入りの頭から手と足が生えている緑色のキャラクター。私をよく馬鹿にするくせに彼女のセンスも大概独特だと思う。
私の言葉になにやら少し恥ずかしそうに笑ったさっちゃんは、まあね、と言葉を濁して。誰かからもらったのかな、なんて何となく事情を察知してあのカクカクのメガネを思い出した。
「雪緒くん、もう校内は大体覚えた?」
「うーん。まだちょっと微妙かな。」
「そうなんだ。じゃあ私達が案内してあげるよ~。」
「本当に?嬉しい。」
自然と耳に入ってくる雪緒くん達の会話。
・・・少しだけ目を伏せたまま、まじまじと彼を観察してしまう。
顔がいいだけじゃなく、彼は恐ろしいくらいにハイスペックだった。いつもにこやかで人当たりも良く、運動も出来る。古典は少し苦手みたいだがそれ以外の教科は人並み以上だし、英語に関してはペラペラ、昔から日本の文化が好きでなんと書道を習っていたらしい。だから字も達筆。なんという事でしょう。
もはや別世界の人過ぎて、中々ちゃんと話す機会なんてないんだろうな。そう最初は思っていて、しかしその予想だけはまるっきり当たらなかったのだ。
女の子たちと話していた雪緒くんがキョロキョロと辺りを見回して、そして、パチリと目が合う。彼は一層笑顔を深めてこちらに近づいてくる。
「秋山さん、今日校内の案内お願いしてもいいかな。」
「え、でもそれさっき・・・」
「そうだよ雪緒くん。私達が案内するって~」
私の言葉に女の子たちも援護射撃。そうだそうだ、もっとやれ。
雪緒くんは少し困ったように笑って。
「でも皆部活があるでしょ?迷惑かけられないよ。」
「そんなの大丈夫だって。」
「大丈夫じゃないよ。加奈ちゃんがいなかったら絶対皆困るよ。」
「・・・ええ、そうかな~。」
まんざらでもない様子で加奈と呼ばれた女の子が指をつつく。ちなみに明らかに別のクラスの子だ。初めまして。
クルリと私の方に向き直った雪緒くんは、首をかしげて私を覗き込む。華麗な上目遣い、満点。
「お願いしてもいいかな?」
「えーっと・・・。」
「もしかして、迷惑?」
「迷惑とかじゃないけど・・・。」
チラリと女の子たちの方を盗み見れば、彼女たちは少し不満そうな顔をしながらも、それ以上何かを言うつもりはないようだ。少し考えて、頷く。
「やった、ありがとう。」
そう言って雪緒くんは微笑む。その姿にまた黄色い悲鳴が聞こえて。
「あんた、何か雪緒に気に入られてるよねえ。」
「・・・。」
私の斜め前の席になった雪緒くんは、転校初日から何かと後ろを向いて話しかけてくるようになった。秋山さん、秋山さん、と名前を呼ばれて、何か困ったことがあるとすぐ私に声をかけてくる。そのたびに女の子たちの視線が痛い・・・わけでも無くて。
「それはそれでなんか傷つくんだよね。」
「・・・まあでも、結依だからねえ。」
「あーー出たそれ。」
まあ結依だから、秋山さんだから、そんな感じの目で彼女たちは私を見て、むしろ穏やかに笑っていたりもする。敵にすらならないと認定されているのだろう、その通りなんだけどさ、でもさ、それはそれでさ、かろうじてある女心が痛むのよ。
「でもまあ、気を付けなよ。」
「何かあったらさっちゃんが守ってくれるでしょ?」
「なにその全面的信頼。重いわ。」
ふざけて笑うさっちゃんが、少しだけ真面目な顔をする。
「・・・雪緒みたいなタイプって、裏があってナンボって感じよね。」
「それ、絶対偏見。」
「どうだかね。私の勘は当たるのよ。あー、可愛い可愛い結依ちゃんがまた事件に巻き込まれちゃう~」
「絶対面白がってるでしょ。」
「まあね。」
「少しは誤魔化そうとしろっ」
ごめんって、と一ミリも悪いと思って無さそうなトーンで謝ったさっちゃんは、授業開始のチャイムと共に席に戻っていった。
結局放課後も雪緒くんと校内を回って、でも案内なんて必要ないくらい彼は大体の位置を把握していた。記憶力もいいんだろう。
・・・ああ、とんでもなく音痴とか足の匂いがキツイとか、何か欠点あったりしないかなあ。なんて失礼なことを考えてしまっていたのは皆さんと私だけの秘密です。
「秋山さん、これどういう事?」
「これはね、変格活用だから・・・。」
古典の授業中、次週の時間に振り向いてそう問う雪緒くんに解説をしてあげれば、なるほど!と目を輝かせる。
「秋山さん教えるの本当にうまいね。」
「そんなことないよ。雪緒くんの理解力が凄いんだと思う。」
「ううん。尊敬しちゃうなあ。」
そう言ってニコリと笑う。・・・眩しい、眩しくて目が潰れそう。
雪緒くんの隣の田淵さんが私に向かって親指を立てる。田淵さんは彼の横顔が好きなだけ眺められるからという理由で、もっと話せと指令を出してきたりする。なんだそれ。
クルッと前に向き直る前に、雪緒くんの視線が一瞬春原くんに移る。その瞬間、あ、まただ、と思った。
ベージュの髪は今日もゆらゆらと揺れていて、相変わらずだなあと小さく笑ってしまう。少し時間たって、また雪緒くんが私に問題を問う。私の解説を聞きて頷きながら、その視線がまた春原くんに移ってすぐに戻る。前に向き直る瞬間も、ああまただ。
「秋山さん、よかったら今日の放課後勉強教えてくれないけど?」
「え・・・」
「ほら、来週古典の小テストがあるでしょ。どうしてもわからない所がいくつかあって。」
「別にいいけど・・・。」
やった、と彼は小さく声を上げて、その視線がまた動いた。
・・・やっぱり。私に頼みごとをしながら、その視線はチラチラと隣の席に移る。ありがとう、という声も心なしかボリュームが上がって気がして、まるで春原くんの気を惹こうとしてるかのよう。
「・・・雪緒くん、って。」
「ん?」
「・・・ごめん、何でもない。」
不思議そうな顔のままの雪緒くんに、何でもないともう一度繰り返す。彼の言動や行動になんとも言えない違和感を感じるようになったのは少し前からで、でもその違和感がまだ何なのか分からなかった。
「秋山、これ。」
春原くんが何やらごそごそと鞄を漁って、取り出した本を私に手渡してくれる。受け取ってタイトルを見れば、私が好きな作家さんの最新作で。
「え!もう読んだの!?」
「うん。面白かったから、貸してあげる。」
教科書をカバンにしまいながら、秋山もその人好きでしょ。なんてサラッと言ってくれる。買おうかどうか迷ってた本。非常に嬉しい。
放課後の教室はもう人がまばらで、私もカバンに荷物を詰めて帰宅準備をする。
先に帰宅準備を終えた春原くんが何となく私を待ってくれてるのが分かって、さっさと詰め込んで彼の後を追った。
「あ、秋山さん!」
と、教室を出る直前。入れ替わりで入ってきたのは雪緒くん。
一緒にいる私と春原くんを交互に見て、彼は私の名前だけを呼ぶ。
「今さ、ちょっとだけ時間いいかな?」
「あ、でも今から帰るところで・・・。」
「ごめん少しだけでいいから。すごく困ってるんだ。」
そう言って雪緒くんは両手を合わせる。返答に困りながらも春原くんの方を見れば、彼は秋山がいいならいいんじゃない、といつもと変わらない様子で言う。
「・・・分かった。どうしたの?」
「ありがとう!助かる!ちょっと一緒に生徒会室に行ってほしくて・・・」
「生徒会室?」
「そう。生徒手帳を取りに行かなきゃいけないんだけど、僕まだ場所があやふやで・・・。」
雪緒くんの話を聞いているうちに、春原くんは静かに教室を出て行ってしまっていた。気づいた時には彼の背中は既に小さくなりすぎていて、バイバイも言えなかった。
「秋山さん?聞いてる?」
「・・・ごめん、ちょっとぼーっとしてた。でも雪緒くん、もう教室の場所大体把握してるんじゃない?」
「そんなことないよ。まだ上の階があやふやで。」
そう言ったわりに、やっぱり雪緒くんはスムーズに廊下を進んでいく。彼の行動の意図が分からなくて、また何とも言えないもやもやが胸の中に広がる。なんなんだろう、これ。
生徒会室で無事に生徒手帳を受け取った後、
廊下の途中で急に雪緒くんが立ち止まる。
「・・・雪緒くん?」
どうしたんだろうと彼の名前を呼べば、彼はゆっくりと振り返った。その顔にはいつもの微笑みがあった。体温を感じない、王子様スマイル。
「秋山さんてさ、春原くんと仲いいよね。」
「・・・うん、友達だし。」
「・・・友達、ね。」
私の言葉を繰り返して、雪緒くんは目の前にあった廊下の壁に少しだけ寄りかかる。惚れ惚れしてしまうほど綺麗な横顔で窓の外を眺める彼を見ていると、なんだか胸の奥がむずむずする。
少しの沈黙の後、雪緒くんがゆっくりと口を開く。
「本当に、ただの友達?」
うんともいいえとも答える前に、雪緒くんはいつものようにニッコリと笑った。
「彼とはあんまりお似合いじゃないんじゃないかな?」
「えーっ・・・と」
「僕と居た方が絶対楽しいと思うし。秋山さんもそう思わない?」
「はあ、」
ペラペラと雪緒くんの口から言葉滑り落ちる。私の方を見ないまま一気にまくしたてる彼に、私の返事は追いつかなくて。
煮え切らない私の返事に雪緒くんが、ていうか、と少し声を荒げた。
「僕の方が、絶対に彼を幸せに出来ると思うよ。」
その言葉には熱がこもっていて、いつもは見えなかった彼の内側が見えた気がした。それと同時に今の言葉が反芻する。僕の方が、彼を、幸せにできる。
感じていた何とも言えない違和感が、じわじわと消化されていくのが分かった。
はっと我に返った雪緒くんは、いつもの王子様スマイルを浮かべ直す。その顔をまじまじと見てしまえば、彼は少し戸惑ったように目を泳がせて。
「あ、ごめん、変なこと言ったちゃったね。」
「・・・。」
「ごめんね本当に、気にしないで。教室戻ろっか。」
そう言って私から目を背けて歩き出す。
女の子に向ける、温度の感じない王子様スマイル。授業中に後ろを振り向くと必ず泳ぐ視線。私と話しているようで、彼の意識はいつだって私の隣へと向かっていた。
スタスタと歩く雪緒くんの手を後ろから引って振り向かせる。突然の事に彼は驚いた顔で私を見て、そのまま彼の両腕を掴んだ。彼がさらに両目をぱちくりさせる。
「・・・雪緒くん。」
「・・・えっ、と?」
「もしかして。」
「雪緒くんって、春原くんの事が、好き?」
私の言葉に彼がひゃあっと悲鳴を上げる。女の子のような悲鳴。そのまま彼は頬に両手を添える。えっ、と驚いてしまった私に、さらに衝撃が重なる。
「なっ・・・何言ってるのっ!そ、そんなわけ・・・」
「ゆ、雪緒くん?」
「アタシが春原くんの事をす、す、す、好きだなんて・・・」
アタシ、という一人称は間違いなく彼の口から出たもので、今度は私の目が点になる。アワアワする彼の声はいつもよりもワントーン以上高い。
「そ、そんなことあるわけないじゃないのよっ」
「ゆゆゆ雪緒くんっ・・・ちょっと落ち着いて」
「だってアナタが変なこと言うから・・・!」
「雪緒くん!一人称!語尾!!」
アナタ。目が点を通り越して穴が開きそうだ。
私のツッコミに雪緒くんはしまった、というように自分の口をふさぐ。ただでさえ白い顔が真っ青で。
しばしの沈黙の後、彼はゆっくりと、私の方を向く。
「・・・秋山さん。今日の課題って何があったっけ。」
「いやこの流れで日常会話に戻れないから。」
「デスヨネ。」
再び表情を崩した雪緒くんは、うわあああん、とその場に崩れ落ちた。ちょっと待って、私の理解が追い付かない。だれか、助けて。