「純亜、聞いてんのカヨ!」
ハッとして見ると、そこにあったのは、ミス・コケティッシュのソースより濃いバター顔だった。
「あんたの子が泣いてんダロ! ボーッとしてないで、解決策を考えろヨ」
早紀ちゃんは、ミス・コケティッシュの小山のような胸に顔を埋めていた。というか、完全に埋まっていた。
「死ぬ!」
早紀ちゃんが胸から首を抜いて、プハーッっと息を吐いた。確かにその顔には、涙の痕があった。香織ちゃんとよく似た小さい顔――そこに面影を見出して、ぼくも涙があふれてきた。
「チビが泣いてる……キモ」
早紀ちゃんは、あの美しい母親が決して言わないような悪態をつくと、
「修一をなんとかして。あいつ、マジキチだから」
父親のことを呼び捨てにした。
ん、待てよ?
実の父親はぼくか。この子も香織ちゃんも知らないけど、本当はそうなんだ。
つまり、修一は育ての親だ。やつもまた、真実を知らずに、十四年間娘を育ててきた。
が、今は頭がおかしくなって、ネズミみたいになったという。残念ながら、もはや父親の資格はない。それだけではない。香織ちゃんを幸せにしていないあいつには、夫である資格もないのだ!
じゃあ、本当に、その資格があるのは――
「早紀ちゃん」
ぼくは、一生分の勇気を振り絞って言った。
「修一の代わりに、ぼくがパパになっても、いいかな?」
「はあ? なにそれ。あんたもマジキチ?」
自分の娘が指を頭に向けてくるくるまわすのを見て、この子をしっかり育てていかねばならんのだぞと、ずっしり重い責任を感じた。
「今までほっといてゴメンな。こんなこと、子どもに聞かせることじゃないけど、実はぼくと香織さんは、昔一度だけ手をつないだことがある」
「あ、そ」
「きみは、そのときにできた子なんだ。修一の子じゃない」
「へ?」
「いや、やっぱりよそう。このことは、あとでゆっくりお母さんと話す。それより今は、修一をどうするかだ」
「逮捕してよ」
「ぼくは警察じゃないから、それはできない」
「純亜」
ミス・コケティッシュが、横から口をはさんだ。
「できないじゃナクて、逮捕されるようにしろヨ。殺人未遂なんてドウダ?」
「味の素を投げただけで?」
「香織か早紀ちゃんを、そろそろ喰い殺そうとするサ。純亜がそれを取り押さえて、ふんじばって警察に突き出せばいい」
「それはやめよう。この子たちを、危険にさらしたくない」
「ならどうすんダヨ」
「そうだなあ……」
さてどうしたもんかと、頭がよじれるほど考えているうち、ふと、早紀ちゃんが着ていたTシャツのプリントに目が留まった。
まるで、古いSF映画に出てくる宇宙人みたいな、緑色をした男の顔写真。おそらく特殊メイクか顔面ペイントだろうが、いったいなんのキャラクターだろう。
「その写真、誰?」
指差して訊くと、早紀ちゃんは自分のシャツを見おろした。
「知らない? デャーモンだよ」
「デャーモン?」
「宇宙メタルのね。それも知らない?」
「全然」
「修一と一緒でなんにも知らないんだな。バンドのリーダーだよ。激しい曲をやるの」
「ふーん。ファンなんだ」
「一回聴いてみな。超絶イケてるから」
やっぱり血は争えないな、と思った。ぼくも学生時代は、激しい音楽であるスピードメタルをよく聴いた。
ああいうものを聴くと、つい暴れたくなる。たまにライブにも行ったが、客たちは頭やこぶしを振って身体をぶつけ合ったり、奇声を発したりして痴態を演じていた。
修一こそ、ライブに行ったらいい。鬱屈した感情を、思いっきり暴れることで、発散させたらいいのだ。
「早紀ちゃん、そいつのこと好きナノカ?」
ミス・コケティッシュがTシャツを指差して訊くと、早紀ちゃんは嬉しそうに、
「おばさん、デャーモン知ってるんだ」
「わたし、あいつ大っ嫌い! まったく、おとなしく研究してりゃいいのに、地球人にちょっかい出したりしてサ」
「デャーモンってめっちゃ謎だよねー。アメリカ人かな?」
「アメ……うん、そう」
「世界中のライブハウスをまわってるんだよね。アジアからヨーロッパからアフリカから南太平洋の島々まで、コアなファンがいるから」
「キチガイの音楽をやって、地球人、じゃなくって、全人類の頭をパーにしてやろうと思ってんのサ。そういうアホな実験をしてるやつだから、相手にしないほうがいいヨ」
「あとライブでさ、大きくなったり小さくなったりするじゃん。あれむっちゃ興奮する。どんなトリックかわかる?」
「子ども騙しだヨ。伸びたり縮んだりしてるだけサ」
「だってさ、大きいときは天井に頭がついてんのに、小さくなったらこのチビくらいになるんだよ。エグくない?」
「今度会ったら、悪ノリすんなってひっぱたいてやる」
「え、おばさん、会えるの?」
「あ……ソウネ。わたしもアメリカだから」
「すごい! 超尊敬! わたしも会わせて!」
早紀ちゃんがソファから跳びあがり、なわとびの三重跳びくらいのスピードで腕をぐるぐるまわした。
「絶対デャーモンに会うぞーっ!」
興奮した早紀ちゃんは、ぼくを正拳突きで殴り、まわし蹴りでテーブルのコップを割り、ミス・コケティッシュにダイビングして、弾きとばされて後ろに一回転した。
「かわいそうに……あいつの音楽を思い出しただけで、頭オカシクなっちゃって。これじゃあホントに、全地球人がパーになっちゃうかもネ」
「宇宙メタルって、そんなにヤバいのか」
と、そうつぶやいたとき、あるアイディアが浮かんだ。
修一が、宇宙メタルにノッてるところを想像する。凶暴な気分になって、暴れまくるネズミ。そこをさらに刺激してやったら――
「純亜、なに考えてんダヨ」
ミス・コケティッシュを見た。彼女には、ぼくの心が視える。だからこんなふうに言うってことは、
「このアイディア、気に入らない?」
「デャーモンのライブに連れていけっていうんダロ。イヤだよ」
「でも早紀ちゃんを見てよ。こうなったら、会わせてあげるしかないんじゃない?」
早紀ちゃんは胸を叩いてドラミングしたり、横にカニ走りして書類戸棚に体当たりしたり、ツイストしながら時々舌を出してウォーッと吠えたりした。
「仕方ナイ。会わせてあげるけど、ただのお調子モノだからネ。ところで純亜、なんだか変なことを思いついたナ」
「ま、少々危険な計画だけど、すべてはこの子と香織ちゃんを守るためさ」
スキットルを呷った。オレンジの酸味が、やけに胸に沁みた。
「さあ、もう時間も遅いから、早紀ちゃんを家に送ってあげて。ぼくは今から久々にスピードメタルを聴いて、顔面ペイントの研究をするから」
チュ、チュ、チュ……
嶋田修一は、リビングの絨緞に寝そべって、ぬるいビールをちびちび啜っていた。
目はテレビ画面に向いている。が、内容はちっとも頭に入ってこない。その頭にあることは、ここ数か月間ただ一つ、
(もし早紀が、おれの子じゃなかったとしたら……)
やるせない疑惑のことだけだった。
怒りに毛が、ツンツンと逆立つ。昔はこうじゃなかった。産毛がこんなに硬いことはなかった。しかし、疑惑に身を焦がすようになってからは、なんだか身体が内側から変化して、ちがう自分になってしまったようだった。
疑惑。怒り。不安。怖れ。
そうしたマイナスの感情に呑み込まれると、ヒトは、こうまで変わってしまうものなのだろうか?
よくわからない。とにかく自分の意志では、もうどうにもならなかった。
毎朝、鏡を見てヒゲを剃るときに思う。いつからおれのヒゲは、左右に三本ずつ、横にピンと伸びるようになったのか。
歯を磨くときもそうだ。前歯をやるときは、歯ブラシを縦にしてゴシゴシこするようになった。昔の前歯はこんなじゃなかった。
朝食はチーズになった。それを両手で持って齧る。妻や子が見ていることに気づくと、サッとテーブルの下に隠れてコソコソ食べる。それでももし、妻が覗いてくるようなことがあったら、爪を立てて歯をむき出して威嚇した。
チュウー……
理性では、そんなことをしたくはなかった。でも身体は勝手にそうしてしまう。とても苦しい。理性ではなく、感情の奴隷になったおれは、もはや動物だ。背中を丸めて、後ろ肢でピョンピョン跳ねるとき、ああ元の自分に戻りたいと血を吐く思いで願うのだ。
(早紀はやっぱり自分の子だっていう、確実な証拠さえあれば……)
それにはDNA検査をするしかない。だがそんなことを言いだせば、妻とにあいだに決定的な亀裂が入るだろう。それにもし、もしだ。
「あなたが父親の確率は……ジャーン! 0パーセント」
ということになれば、おれは香織をどうするだろう。くわっと大口をあけて、喉笛を喰いちぎってしまいそうだ。
修一は、空になった缶を前肢で転がし、今夜四缶目のビールを取りに冷蔵庫に立った。
キッチンに香織がいた。
美しい。
結婚して十五年経っても、そう思う。
修一は今でも、熱烈に香織のことが好きだった。
小学校時代、クラスの男子全員が香織を好きになった。
けれどもみんな、手が出なかった。素晴らしすぎて、自分なんかにはもったいないと、誰もが遠慮してしまったのだ。
だが修一に遠慮はない。中学校に上がるとデートに誘い、公園で抱きついた。
香織は運命論者だった。
最初に抱きついた男性と結婚すると、幼いころから決めていたのだ。
だから、修一を運命の人として受け入れた。好きかどうかは、香織自身にもよくわかっていなかった。
その感情は修一にも伝わった。付き合ってはいても、香織は心から修一を好きなわけではない。たぶんほかに好きな男がいる。
「御子柴は、蝶舌のことが好きらしい」
そんなことを言ったやつがいた。修一は耳を塞いだ。
バカバカしい。あんなチビを好きなわけがない。が、もしかしてと思うと、気が狂いそうになり、結婚できる年齢になったらすぐに籍を入れ、悪い虫がつかないように家庭に閉じ込めた。
修一は再び絨緞に寝転がり、ビールを啜った。
チュ、チュ、チュ、チュ、チュ。
香織と結婚はした。誰もが羨んだ。
が、心はついに、修一のものにはならなかった。
あいつの心の中には別の男がいる。
そう感じつづけた十五年間だった。
そして――
一人娘の早紀の顔が、このごろちっとも、自分に似てないように思えるのだ。
あれはあいつが十四歳になったばかりのときだ。帰宅時間が遅いのを注意したら、歯をむき出して怒った。そのときあらわになった歯茎に、目を疑った。
全然おれとちがう!
それまで、娘の歯茎をじっくり見たことはなかった。初めてその機会が訪れたとき、気づいてしまった。
おれと香織のあいだから、あんな歯茎の子が産まれるはずはない。あれは他人の歯茎だ。そう思って観察すると、どこも自分に似ていない。嶋田修一のDNAの痕跡が、どこにも見当たらないのだ。
結婚したときすでに、香織は早紀を身籠っていた。だとしたら、あいつはおれと婚約していながら、別の男と関係を持ったのか?
香織はキッチンで、立ったままコーヒーを飲んでいる。それを見る自分の目が、猜疑心のために凶暴になり、怪しく赤く光るのが修一にもわかった。
玄関で音がした。
さっと壁の時計を見る。午後十時半。今夜もまた、早紀は門限を破った。
チュッ!
あの小娘め。父親の言うことを全然聞かない。実の娘じゃないからか? あいつはそれを知っていて、他人の言うことなんか聞けるかバーカと思ってるのか?
今夜こそ、思い知らせてやる。
修一が絨緞から立とうとすると、早紀が部活のダッシュ練習並みのスピードでリビングを抜けて、階段に向かった。
「待て!」
そう叫んだつもりだった。しかしそれは、チューという、およそ父親らしからぬおかしな音声になった。
酔っている。ここ最近、めっきり酒に弱くなった。
「おい待て! チュチュ親の言うことを聞け!」
「よしなさい!」
香織が早紀を修一から逃がすように、階段の前に立った。
「酔っ払いがみっともない。大きな声出さないで」
「娘に規則を教えてる。何度門限を破った」
早紀が二階に消えると、香織がリビングに来て、椅子に坐った。
「早紀が行ってるのはただのライブだって、何度も言ってるでしょ。唯一の趣味なんだから、そのくらい認めてあげなさい」
修一がフンと鼻を鳴らすと、ヒゲがいっせいに震えた。
「宇宙メタルとかいう、イカれた音楽に夢中らしいな」
「デャーモンさんっていう人が好きなんだって。ヴォーカルの」
「好き? おれとどっちが好きなんだ」
「バカ言わないで」
「バカじゃない。そっちのほうが好きだから、門限を破るんだろ。チュー学生はチュチュ親の言うことを聞くべきだ!」
香織が怯えた顔をした。気がつくと、興奮のあまり、前歯でビールのアルミ缶を喰い破っていた。
冷蔵庫から、新しいビールを取ってきて飲んだ。
「香織」
「なによ」
「こいつは非行の始まりだ。今すぐ手を打たないと」
「どうしろって言うの?」
「ライブに行くのを禁止する。それを守らないようなら、もう親でも子でもない」
言いながら、赤い目でねっとりと香織を見た。
「また極端なことを」
「デャーモンを選ぶかおれを選ぶかだ。いいな、本気だぞ。おまえはどっちの味方をする。おれか、デャーモンか?」
「それは話が全然――」
「おれと別の男を選ぶのか? えっ?」
香織が椅子から立って後ずさる。修一が背中を丸め、テーブルに前肢をかけて、今にも飛びかかりそうな体勢になったせいだった。
修一はビールを呷って、気を静めた。
「もし、どうしてもやめられないなら、脱洗脳士みたいなのに頼む。ほら、おかしな宗教から家族を取り返したりする、専門家がいるだろ」
「洗脳とはちがうでしょ」
「ある意味一緒だよ。あんなくだらない、宇宙メタルに夢中になるなんて」
「音楽ファンをやめさせるなんて、聞いたことないけど……」
香織がふと黙ってから、あ、そうだと、急になにかを思いついたように手を打ち、
「探偵さんに頼んでみる?」
「探偵?」
「別れさせ屋みたいなことも、探偵はやるんだって。物は試しで頼んでみたら?」
「デャーモンと付き合ってるわけでもないのに、どうやって?」
「それは探偵さんに訊いて。とにかく、この問題を解決するには、娘にファンをやめさせるか、それともあなたも一緒にファンになってしまうか、二つに一つしかないのよ」
「冗談じゃない。誰があんなもの聴くか」
「じゃあ探偵に依頼するしかないわね。わたしたちの力じゃ、とてもファンをやめさせるなんてできないから」
「うむ。しかし、法外な料金を請求されないかな」
「知り合いでいるよ。安くしてくれると思う」
「探偵の知り合い?」
「うん。蝶舌純亜くん」
「え?」
修一の毛が、ぞわっと逆立った。
「蝶舌って、あのチビか?」
「そうよ」
「なんで、あいつの職業を知ってる?」
「偶然コンビニで会ったの。で、今ぼく探偵やってるから、困ったことがあれば相談してねって名刺をくれて。事務所の電話番号は登録してあるから、かけてみる?」
「…………」
妻の顔をじっと見た。香織は微笑んでいる。なぜかそれが、蝶舌に向かって微笑んでいるように見えてきて、身体中の血が熱くなった。
(まさか、あの噂、本当だったのか……)
いやいやと首を振る。香織が言うように、偶然会っただけに決まってる。香織の浮気相手が、あんなガキ同然の蝶舌だったなんてこと、あるはずがない。
でも、万が一……
そうだ。蝶舌に会ってみよう。そしてどうにかして、あいつの歯茎を見てやるのだ。
それがもし、早紀とそっくりだったら――
「そうだな。頼んでみるよ。久しぶりに、あいつに会いたくなった」
「友だちだったもんね」
「ああ」
香織から番号を聞いて、修一は電話した。
駅前の三十階建てタワーマンション。
大型のショッピングモールが、すぐ目の前にある。修一の給料では、到底住むことの叶わぬ場所だ。
てっきり、どこかの雑居ビルの一室に、事務所を構えているのだと思った。それがまさか、こんな高級マンションに呼び出されるとはと、修一は気後れしながら最上階のドアのインターホンを押した。
「ドウゾ」
ドアを開けた人物を見あげて、思わずたじろいだ。
デカい。外人だ。しかも見たことのないような、超絶美人。それが、全身黒ずくめの、革の服に身を包んでいる。
女スパイか、はたまたコウモリか。しかしそんなものがどうして蝶舌の探偵事務所にいるのかと、不審に思いながらその美女についていくと、
「やあ」
広さ十畳ほどのこざっぱりとした部屋に、蝶舌純亜がいた。
会うのは中学三年生のとき以来だったから、およそ二十年ぶりだ。が、呆れるほどまったく変わっていない。
「久しぶり、修一。しかしまあ……ずいぶん変わったねえ」
修一は、ヒゲをピクッと震わせた。自分の容貌の変化を指摘されるのは、たまらなく不快だった。
蝶舌は、Tシャツにジーンズというラフな恰好で、ブラウンの革張りのソファに埋まるように坐っている。
テーブルはあるがデスクはない。探偵の事務所なら、盗聴器や小型カメラなどがあるのかと思ったが、そういうものは見当たらない。代わりに、変わった形のエレキギターが一台、部屋の隅に置いてあるのが目についた。
「まあ、坐ってよ」
うながされて、向かいのソファに坐る。革がひんやりと冷たい。
蝶舌が、ジーンズの尻ポケットから銀色の容器を出し、中身を一口飲んだ。
「なんだよ、昼間っから酒か?」
すると蝶舌は嬉しそうに笑い、
「つぶつぶオレンジだけどね。スキットルで飲むと、ハードボイルドっぽいでしょ」
「ハードボイルドって?」
「かっこいい小説のことさ」
蝶舌が照れてペロッと舌を出したとき、さっきの美女が来て、「ほら、飲めヨ」と、ドンとコーヒーを置いた。
「紹介するよ。彼女はミス・コケティッシュ。ぼくの助手をしてくれている」
「おまえの……助手?」
こんな超絶美人を雇うなんて、探偵ってのはどんだけ儲かるのだろう。どうせはした金で、ネズミみたいにコソコソ浮気調査でもしてるんだろうとタカを括っていただけに、同級生に出世した姿を見せつけられたようで、修一は激しく嫉妬した。
美人助手がドアの向こうに消えると、蝶舌が訊いた。
「ところで、香織ちゃんは元気?」
おまえには関係ないだろうと、つい怒鳴りそうになるのをこらえて、
「ああ」
とだけ言い、熱いコーヒーを啜った。
「性格は昔のまんま?」
「さあ。昔のことなんか忘れたよ」
蝶舌と香織の話をする気はなかったので、すぐ本題に入った。
「娘のことだけど、できるのか」
「憧れのミュージシャンを、嫌いにさせるんだね?」
「そうだ」
「いいよ」
蝶舌が、さも簡単そうに請け合う。
「娘さんは早紀ちゃんといったね」
「ああ」
「早紀ちゃんはさ、囚われの捕虜になったんだよ」
「捕虜?」
「宇宙メタルの虜になったってこと。このままだと、親の言うことを聞かなくなるだけじゃない。二十四時間デャーモンのことを考えて、勉強は手につかず、頭がパーの人間のクズになっちゃうだろうね」
「そこまで?」
「そうさ。ぼくも一時期激しい音楽にハマってたからわかる。音楽の力っていうのは恐ろしいんだ。ライブに行ったことはある?」
「ない」
「ミュージシャンの、さあバカになれっていうメッセージを受けて、みんなバカになる。酔ってるわけでもないのに、頭を振って騒いだり、絶叫したり泣いたりする。中には失神するバカもいる。どう考えてもマトモじゃない。ぼくはつい、こんな想像をしちゃうんだ。音楽っていうのは、地球を乗っ取ろうと考えた宇宙人が発明した、地球人をバカにする最強のツールじゃないかってね」
「まさか」
「いや、ありえる。ちゃんとした親だったら、子どもに音楽なんか聴かせるべきじゃない。修一は、早紀ちゃんがクズになってもいいのか?」
「それは困る」
「だったら、今すぐ手を打たないと。いやー、ぼくに連絡してくれて良かったよ。すんでのところで、罪のない一人の少女の人生を救えた」
「どうやって、ファンをやめさせるんだ?」
「デャーモンに会わせる」
「え?」
蝶舌は、意外すぎることを言った。
「早紀ちゃんは、デャーモンを天才だと思ってる。地球でいちばん才能のある男だと信じてるんだ。ところが実際に会ってみたら、普通のオジサンで、臭いオナラを連発したらどうだ? 百年の恋もたちまち冷めるでしょ?」
「ていうか、会っちゃくれないだろ」
「助手のミス・コケティッシュが、知り合いなんだ。同じアメリカ人のよしみでね」
「ホントか?」
「むちゃくちゃ熱い友情で結ばれている。すでに今回のことも頼んで、無料でやってくれることになったんだ。早紀ちゃんの前でボンボン屁をこいて、たちどころに幻滅させてやるって、今からやる気満々さ」
「もう? だって、おれがおまえに電話したの、つい昨日じゃないか」
「アメリカ人は即決なんだよ。まあ、舞台裏をバラしちゃうと、うちのミス・コケティッシュは、なんでも視えてね。今度の作戦に修一が乗ってくることも、デャーモンが引き受けてくれることも、すべてお見通しだったのさ」
「全然意味がわからん」
「わからなくても大丈夫。修一はただ、ぼくの言うとおりにしてくれたらいい」
「おれがなにかするのか?」
「実はデャーモンが、早紀ちゃんに会う前に、父親にもライブを体験してほしいと言ってきたそうなんだ。ただでやってくれるんだから、そのくらいの条件は呑まないとね」
「おれが……宇宙メタルのライブに?」
「ライブ終了後に、控室で二人っきりで会ってくれるらしい。そこで打ち合わせをしてから、いよいよ早紀ちゃんに会ってもらう段取りさ」
「おれとデャーモンが二人で……」
修一のヒゲが、またピクピク震えた。動物的な勘で、なにやらひどく禍々しいことが起こりそうな予感がし、腹をすかせた猫を前にしたように震えが止まらなくなった。
夜の七時。蝶舌が、封筒でライブのチケットと一緒に送ってきた地図を見ながら、狭い通りに入っていく。居酒屋やカラオケ店などがあり、若者の姿が目立った。
おれはなんで、こんなところを歩いてるんだろう。
修一はふと、香織と蝶舌がグルになって、自分を罠に嵌めたんじゃないかと思った。おれはただ、早紀が本当に自分の娘なのかどうか、知りたかっただけだ。それがどこをどうまちがったか、デャーモンとかいう得体の知れない野郎と、二人っきりで会うハメになった。
正直、怖い。
さっきから、背中の毛が逆立ってしょうがない。なぜ恐怖を感じるのかは、自分でもよくわからない。ただただ本能が、危険を警告していた。
「ここか」
地下ライブハウス〈DEEP HO〉の看板を見つけた。
下へ延びる暗い階段を見つめる。これを降りていって、わけのわからぬ輩の集まっている会場に入り、大嫌いなやかましい音楽を聴かされるのは、拷問にも等しい苦行だった。
修一は、重い後ろ肢で階段を降りて行き、開け放たれたドアの向こうを覗いた。
入口にカウンターのようなものがあり、金髪で、顔も金色の女が坐っていた。
なんだありゃ。金粉でも塗ってんのか?
これが若者文化なのだろうか。全然意味がわからない。宇宙メタルのライブっていうのは、受付の女にまで、宇宙人っぽいメイクをさせるようだ。実にくだらん。
「これは……ここで出すんですか?」
ポケットからチケットを出して見せると、
「ヨコセ」
甲高い声でぶっきらぼうに言ってひったくり、半分ちぎって半分返してきた。信じられない態度である。こいつ、これでも人間かと思った。
「ソっから入レ」
金色女が、黒いカーテンを指差した。呆れることに、指まで金色だ。
修一は、こわごわカーテンをかきわけた。真正面にステージが見えた。
ステージの高さは、およそ一メートルくらい。中央にドラムセット。左右にスピーカー。あとは用途のよくわからない機材がいくつか。ライブハウスのステージというものは初めて見たが、えらくたくさんスポットライトがあるな、というのが第一印象だった。
客はすでに八十人ばかりいた。どいつもこいつも若造だ。男女比は、だいたい七対三で、男のほうが多い。
椅子はないので、みんなてんでバラバラに立っている。会場の照明が暗くしてあるのではっきりとは見えないが、黒っぽい服を着ている人間が多い。どこか陰気だ。普通のコンサート会場とは、なにやら異質な感じが漂う。
修一は、自分と同じ三十代の人間はいないだろうかと、目で探しながら歩いた。いない。というか、年齢不詳の人物ならちらほらいる。年齢も職業も、そもそも何者なんだかさっぱりわからぬ人間どもが。
あるやつは、顔、首、両手両足と、服から出ている部分すべてに、蛇のうろこのような入れ墨をしていた。ガリガリに痩せていて、メシなど食ったことがないように見える。
かと思うと、太りすぎて顎をなくした男がいた。顔が、特殊メイクかと二度見してしまったほど、豚そっくりだった。蛇と豚は知り合いらしく、小さな声でなにやら語り合っていた。
またある女は、耳をピンととがらせていた。パーティグッズかなにかだろう。その耳を、どういう仕掛けでか、ウサギみたいにあちこちに向けている。まったくどいつもこいつも、人間以下の動物にしか見えん。
マニアどもめ。早紀はどうして、こんなものに惹かれたんだ。おれの理解を超越している。いよいよあいつとは、血がつながっていないという確信が強まった。
ライブ開始の直前になって、どっと客が会場へ入ってきた。百人がキャパと思える部屋に、百二十人ぐらいがすし詰めにされた。まるで満員電車だ。
と、突然会場が真っ暗になり、それと同時に耳を聾する騒音がして、修一は床から跳びあがった。
なんだなんだと思ったら、マニアどもがステージに向かって、いっせいにこぶしを突きあげた。
「デャーモーン!」
客が口々に叫ぶ。それで今の騒音が、これから出てくるやつが鳴らしたギターの音であるらしいと、見当がついた。
スポットライトがつく。レインボーカラーの光線。キャーッという女の悲鳴。列車が走りだしたみたいに、満員の客たちが揺れる。嫌悪とともに恐怖も感じて、修一の毛はもはや、ハリネズミのようになって服を刺した。
気がついたら、ドラムセットに男が坐っていた。
いや、たぶん男だろうと想像しただけだ。見た目はタコである。全身真っ赤で、手足が八本。火星人のつもりだろうが、仮装に凝りすぎだ。
そいつが六本のスティックでめちゃくちゃにドラムを叩くと、客がこぶしと首をぶんぶん振りだした。それが前後左右から当たるので、修一の頭はくらくらした。
続いてステージ脇から、ギターとベースが現れた。
ギターは半魚人。ベースはミノタウロス。
ギターがジャーンと巨大な騒音を出すと、目の前の女が失神した。すると女は、まわりのやつらに頭上に差しあげられて、バケツリレーの要領で出口のほうへと運ばれた。
バカめ。バカどもめ。やっぱりおまえらは、蝶舌の言ったように人間のクズだ。
ウォーという歓声が轟いた。
驚いてさっと振り返る。するとステージの真ん中に、緑の小男が立っていた。
デャーモン、チャチャチャ、デャーモン、チャチャチャ。
するとこいつがデャーモンか。えらくちっちゃい。ちょうど蝶舌と同じくらいだ。世の中には、案外背の低いやつがいるもんだ。
緑色の全身タイツを着たデャーモンが、頭から立てたアンテナを小刻みに震わせながら、表情の窺えない緑色の顔をマイクに近づけた。
「それでは聴いてください。おれは宇宙のはみ出し者」
耳に障るキンキン声だったが、意外ときれいな日本語で言った。
と、客たちが、いっせいに跳びはねだした。
地震が来たように会場が揺れる。ドラムがまためちゃくちゃに叩かれる。ベースの指が異常な速さで動く。ギターが真っ赤な口を開けて弦をかき鳴らす。
修一は、朦朧としはじめた頭の片隅で、なんとなく、ギターの形に見憶えがあるぞと思った。そういえば、蝶舌の事務所に置いてあったのも、あんなふうにボディがVの字をしていなかったっけ?
「おれは宇宙のはみ出し者〜。みんながおれを嫌ってる。おれはみんなを好きなのに。ああ、なんて、宇宙はちっちゃい。おれにはちっちゃすぎるんだ〜」
みんながデャーモンの下手くそな歌にノッている。修一は荒波に呑まれたように翻弄され、たちまち船酔いした。
「ああ、なんて、ちっちゃい。そうさ、はみ出してやるんだ〜」
唄いながら、デャーモンは身長を伸ばした。
どういうトリックだろう。まったく見当がつかない。最近のマジックは、ずいぶん進化したようだ。
「はみ出してやる〜、はーみ出してやる、はみ出してやる〜」
デャーモンは調子に乗って、どんどん長くなった。すでに頭は天井についている。
すると客たちのボルテージも、ぐんぐん上がった。
横の男に挟まれる。前の女がぶつかる。後ろの誰かが押す。ああ吐きそう。だが、なぜか修一は、一種の解放感のようなものを味わっていた。
こんなバカな世界があるんだ。
その真っ只中に、おれもいる。
「はーみ出してやる〜。乱してやる〜。実出してやる〜」
人間とは、実はバカなんじゃないか。この人間以下の、動物みたいな姿こそ、本来の人間の姿なんじゃないのか。
だとしたら。
「ハ! ハ! ハ! 見だしてやる〜、身出してやる〜、診だしてやる〜」
小賢しい悩みなんて、どうでもいいじゃないか。早紀が誰の子だって。おれは妻と娘を愛してるんだ。だから、いいじゃないか。
修一の目から、涙がこぼれた。
くそお。愛が欲しい。愛してるって言ってくれさえしたら、早紀が誰の子だって、おれは香織を赦してやるのに。
「葉! 歯! 波! 乱してやる〜、実出してやる〜、み出汁てやる〜」
愛をくれ!
修一は、前の女を押した。すると女が、思いっきり押し返してきた。
横の男にアタックする。すると両側から、ギュウギュウに潰された。
修一は人知れず、天に向かってチュウと哭いた。
くそお。誰もが羨む結婚をしたのに。
それなのに、幸せは来なかった。哀しい。おれという生き物は、一匹の、哀しい獣だ。小さく、哀しく、悲惨だ。
そして、この会場にいるやつらも、きっとそうなんだ。
おれたちは、哀しい獣さ。
デャーモンは、それをわかって、唄ってくれてるんだろう。きっと。
なあ、そうだろう?
破!
刃!
覇!
耳がよく聴こえない。身体がふわふわとする。
まるで水の中にいるような、変な感覚だった。
丸三時間も大音響にさらされたせいで、聴覚が戻らず、骨や内臓まで、まだビリビリと震えている感じがした。
音楽が残っている。
狂乱のステージが終わり、ライブハウスに明かりがついて日常の世界が戻っても、身体の芯ではずっと宇宙メタルの余韻が続いていた。
うずうずしている。
もう一度、あの不思議なリズムにノッて、若者たちとおしくらまんじゅうをし、獣のように本能で暴れたかった。
デャーモンはすごい。
そんな尊敬の念すら、持ってしまった。
そのデャーモンと今、二人っきりで、ステージ裏の控室にいる。
デャーモンの命令で、人払いがされていた。
ミュージシャンたちが、出番前に着替えやメイクをする部屋なのだろう。ロッカーや鏡が並んでいる。
折り畳み式の長机の上には、菓子や飲みかけのペットボトルが乱雑に散らばっている。それを挟んで、互いにパイプ椅子に座り、修一とデャーモンは向かい合っていた。
デャーモンは、再び元のサイズに戻っていた。信じがたいことだが、汗一つ掻いていない。顔面の緑色は、おそらく特殊なペイントだと思われるが、まるで塗りたてのペンキみたいに艶々としていた。
同じく緑の光沢を放った全身タイツ姿のまま、脚を大きく開き、腕組みをし、瞑想するように目を閉じている。対する修一は、入れと言われて入り、坐れと言われて坐ったきり、声を奪われた人魚姫のようになにも話せないでいた。
どう声をかけていいのかわからない。
ライブ終わりのアーティストは、どういう精神状態にあるのだろう。下手なことを言ったら怒鳴られるのではないか、と思うと、緊張して口が利けないのだった。
やがてデャーモンが薄目を開けて、
「ドウだった?」
ステージそのままの、甲高い声で訊いた。
むろん地声ではあるまい。本名はなんというか知らないが、デャーモンでいるあいだはこの声で話す、というマイルールを、どうやら貫いているらしい。
「良かったです」
頭を下げて言ったとたん、驚いた。喉がすっかり潰れていて、かすれた声しか出なかったのだ。それほど修一は、デャーモンの歌に合わせて、全力でシャウトしていたのである。
「どこがヨかった?」
「はい。わたしたちの哀しみを、わかってくれている気がしました」
思ったままの感想を述べると、
「ソウか」
無表情だが、どこか満足げな様子でうなずいた。
「バカになるのもいいもんダロ?」
「そうですね。こういう音楽は、聴かずに敬遠していましたが、娘が夢中になるのもわかる気がしました。中には、音楽なんて、地球人をクズにするための宇宙人の陰謀だ、なんて珍説を唱える輩もおりますが」
「ム……宇宙人なんて、いるわけなかろう」
「ハハハ。もちろん冗談です」
「ところで、おまえの娘の早紀とヤラだが、おれのライブを体験した今でも、ファンをやめさせたいと思ってるカ?」
「…………」
宇宙メタルを褒めはしたが、それとこれとは話がちがう。やはりまだ中二の娘に、夜の十時十一時まで出歩いてもらいたくはない。
あんな、父親の言うことを無視するよそよそしい娘ではなく、かつてのような、パパパパと言って甘えてくる娘に戻ってもらいたかった。
あれが本当の娘なら、そうなれるはず。赤の他人のデャーモンよりも、このおれを選んでくれるはずだ。
「はい。ライブに出かけるのは、禁止するつもりです」
「娘を愛してるんダナ」
デャーモンはそう言うと、机から銀色の小さな容器を取って、ゴクゴクと飲んだ。あの容器の名称はなんといったろう。そうだ、スキットルだ。
「その愛するチュー学生の娘を、おまえはちゃんと、大事に扱ってるノカ?」
デャーモンがゲップをした。柑橘系の香りが漂う。よく見ると、緑色の唇の端に、オレンジ色のつぶがくっついていた。
おかしい。
正面に坐る男を、じーっとにらんだ。
ペイントで隠された素顔。宇宙人のマネのような変な裏声。
小学生の身長。スキットル。つぶつぶオレンジ。
「探偵ってのは」
かすれた声で、修一は言った。
「こんなバカな変装までするのか、蝶舌」
しばらく見つめ合った。
修一のヒゲが震える。すると、向かいの男の頭のアンテナも、小刻みに揺れた。
やがてそいつは裏声のまま、
「おれ様はデャーモンだよ」
オレンジの匂いをさせながら、そう言った。
あくまで芝居を続ける気でいる。
「なぜだ」
訊いたが答えない。
修一はぞっとした。
蝶舌は、なぜこんなことをしているのか。
香織から、最近のおれが妻や娘に当たるようになったのを聞き、おれに説教しようとして、こんな手の込んだことを? にしても、やり方が異常すぎる。
わざわざデャーモンに扮して、あの狂乱のライブをやってみせるとは。
いや。
確かに蝶舌は、学生時代にバンドを組んでギターをやっていた。しかしその程度で、ファンの目をごまかせるほど、完璧にコピーできるはずがない。
とすると――
入れ替えトリック。
さっきステージに立っていたのが本物のデャーモンで、控室で待っていたのが蝶舌。そうだ。これはそういうトリックなのだ。
「なぜだ、蝶舌」
もう一度訊いた。
「なぜこんな芝居をする。香織に頼まれたのか?」
「ちがう」
首を振り、ゆっくりと、おかしなことを言った。
「ぼくを殺させるためさ」
まだ裏声を崩さない。そこに狂気を感じる。
蝶舌のやつ、どうやら狂っちまったらしい。
「修一。おまえはこのままでいくと、香織ちゃんや早紀ちゃんを喰い殺してしまう。そこでぼくは考えた。ぼくを殺させて、殺人罪で刑務所に行かせちゃえってね」
「頭がどうかしたのか、蝶舌」
修一の喉は、カラカラだった。
「殺すとかなんとか、意味がわからん」
「わかってるはずだよ。鏡を見ろ。おまえはもうネズミさ。ぼくが香織ちゃんのことを好きだったの、修一も憶えてるよね」
「…………」
「おまえといたら香織ちゃんの身が危ない。ぼくはそれから香織ちゃんを救うために、おまえに殺されてやるのさ。わかったか、修一」
わかるはずがない。マジキチめ。
「それが究極の、ピュアな愛ってやつなのさ」
「ほざけ、蝶舌」
怒りの感情が、だんだん抑えがたくなってくる。
「おまえなんか、ただのチビじゃねえか。香織どころか、誰にも相手にされるもんか」
「相手にされなくたっていい。ただ、香織ちゃんのためなら、ぼくは死ねる」
言いながら、のっそりと立ち上がった。
「さあ、ぼくを殺してよ」
「殺さないよ」
修一も椅子から立ち、後ろに下がった。
「そんな気持ち悪いことしないし、刑務所に行くつもりもない」
「喉笛に喰らいつきな。そうしたいはずだよ」
「したくない」
蝶舌が長机をまわってこようとする。その同じ距離だけ、逃げた。
「デャーモンのライブに来させたのはそのためさ。宇宙メタルには力がある。人を熱狂させて、暴れさせる力がね」
「おれは帰る。付き合ってられん」
「殺せええ!」
突然蝶舌が、信じられないスピードで迫ってきた。
肩をつかまれた。全身の毛が逆立つ。
「よく聴け、修一! 早紀ちゃんは、ぼくの子だあ!」
なにを叫んでいるのか、頭に入ってこない。
「おまえと結婚する直前に、香織ちゃんとコンビニで再会したんだ。ぼくたちは、そこで手をつないだ。ああ、そうさ。つないだとも! そのときできたのが早紀ちゃんだ。その証拠に、ぼくの歯茎を見ろおおお!」
ライブでシャウトするときのように、くわっと大口を開けた。
あらわになった歯茎――見まちがえようもない。早紀そっくりだ。
身体中の血が頭にのぼる。
今、この瞬間、わかった。
自分を苦しめてきたものの正体が。
蝶舌だ。
香織の心にいたのは、蝶舌だった。
香織はおれを裏切っていた。
小学校のときから、おれじゃなく、こいつのことが好きだったのだ。
香織と蝶舌。
こいつらは、二人して、おれをコケにした。
早紀はおれの子じゃない。このクソ野郎の子だ。
ずっと自分の娘と信じて、育ててきたのに。
殺してやる。
身体の芯に残っていた音楽が、再び大音量で鳴りだした。
宇宙メタル。
ドラム、ベース、ギターが、荒々しく襲いかかってくる。
暴れてやる。
なにもかも、ぶっ壊す。
「チュウウウウウウ!」
目の前の、緑の男を殴った。
渾身のストレート。まともに顔の中央に入る。
鮮やかなKOパンチ。
蝶舌は宙を飛び、背中から床に落ちた。
修一は跳びかかった。
緑色の喉が見える。
咬みついた。
前歯が深く食い込む。
もうすぐだ。
あともう少し力を込めたら、蝶舌は死ぬ。
復讐は遂げられる。
そう思ったとき、このバカバカしい変装を、ジャマに感じた。
喉から口を離して、服の袖で蝶舌の顔をこすった。
が、色は一つも落ちない。えらく強力なペイントだ。
無性に腹が立った。アンテナを両手で持ち、ぐいぐい引っ張った。
全然取れない。いったいどうやってつけてるんだ。
緑のタイツに爪を立てた。一気に引き裂いてやろうと、タイツを握り――
ん?
なんだこれは。皮膚?
ガン! と音がした。
反射的に振り向く。
「警察だ。傷害の現行犯でタイホする!」
ロッカーの扉があいていて、大きな男と、やけに小さい男が立っていた。
その小さなほうは、今まさに組み敷いているはずの、蝶舌純亜だった。
喫茶店〈ルイーズ〉のドアをくぐった。
二人用のテーブル席に案内される。メニューを広げて、なるべく苦くなさそうなコーヒーを探す。
「ぼくは、ウインナコーヒーにするよ」
「わたしはエスプレッソで」
香織ちゃんの顔が、すぐ正面にある。ぼくはさっと視線を逸らした。十五年経ってもちっとも色褪せない、ぼくらの聖母。その尊顔はまぶしすぎて、とてもこの至近距離からは見られなかった。
「高松刑事がさ」
ぼくは場をもたせるために、早口でしゃべった。
「修一の取調べをしたんだ。修一は一切言い訳せず、傷害の罪を認めたらしい。なんでも、自分が人を殺す寸前までいったことに怖くなって、刑務所で頭を冷やしたくなったんだって。妻と娘には会わせる顔もない、妻が望めば離婚してもいいと言ったそうだよ」
香織ちゃんは返事をしなかった。白いブラウスの襟元を握り、遠くを見つめている。
「修一がそこまで殊勝になるとは、意外だったよ。ぼくとしては、ほっとけば香織ちゃんや早紀ちゃんの身を害する危険が大きいと、警察に証明できればいいと思ったんだ。そのために、暴れたくなるライブ会場に行かせて、デャーモンの口から挑発的な告白を聞かせたんだけどね。いやあ、彼の歯茎が偶然ぼくとそっくりだったこともあって、予想以上に修一を興奮させちゃって、もう少しで、本当にデャーモンを喰い殺すところだったよ」
「デャーモンさんはどうしてるの?」
香織ちゃんが、心配そうに尊顔を曇らせて訊いた。
ぼくは笑った。
「アメリカ人は丈夫だね。ピンピンしてるよ。実はぼく、デャーモンと同じメイクをしてみたんだ。超そっくりになったよ。あとは、スキットルでつぶつぶオレンジを飲んだりして、ぼくの変装に気づかせる予定だった。友だちがばかげたメイクをして騙したとわかったら、余計にカッとなると思ってね。それがぼくの考えた作戦。ところが、デャーモンにそれを話すと、その役はぜひ自分にやらせてほしいと頼んできたんだ。彼、人を騙すのが三度のメシより好きなんだって。ミス・コケティッシュも、そういう危ないことはコイツにやらせりゃいいって言うもんで、作戦を変更したんだ。本当はぼく、修一に一発殴られてやるつもりだったんだけどね」
それは、ぼくの罪滅ぼしにもなる予定だった。十五年前に、修一を裏切って、香織ちゃんと手をつないだことに対する。
しかし、いくらなんでも、喉笛を喰いちぎられるつもりはなかった。
「ぼくは、修一が控室に入ってくる前から、高松刑事とロッカーの中に隠れていた。高松刑事には、窃盗や詐欺グループに関する情報を何度も教えてあげたことがあって、ぼくのことを全面的に信用してくれている。情報源は、もちろんミス・コケティッシュだけどね。今回も、傷害の現行犯逮捕をしてもらいたいと言うと、二つ返事で引き受けてくれた。正義のためなら手段を気にしない、ナイスガイさ」
デャーモンが、ぎりぎりまで止めに来るなと言ったせいで、結果的にほとんど殺人未遂の現行犯になってしまったけど。
テーブルに、そっとウインナコーヒーが置かれた。顔をあげずにウエイトレスに会釈する。生クリームの表面に、ザラメの粒が浮いている。スプーンで軽く掻きまわして一口啜る。甘い。
「あの、唐突だけどさ」
心臓がバクバクして、口から出そうになる。でもここは、蝶舌純亜の一世一代の場面だぞと、スカイツリーから飛び降りる気持ちになり、
「ぼくと、結婚してくれる?」
まだ正式に離婚も決まってないうちに、言うべきことではなかったかもしれない。でもぼくは、決めていた。
香織ちゃんの夫になる。早紀ちゃんのお父さんになる。
彼女たちが望めば、危険な探偵稼業もやめる。手堅い仕事に就く。残りの人生を、二人のために捧げる。
そうするのが当たり前だった。だってぼくたちは、手をつないだんだから。
香織ちゃんは、エスプレッソを見つめている。その肩が揺れている。泣いてる? と思ったら、やがて声をあげて笑い出し、
「ありがとうね。でも離婚はしないから。早紀がね、デャーモンファンのお友だちから、パパがライブ会場でノリノリだったっていう話を聞いて、デャーモンの良さがわかるんだって、すっかりパパを見直しちゃって。わたしたち、たぶんこれで、やり直せると思う。純亜くんのおかげよ」
「え?」
ぼくは頭が白くなりながら、なんとか言葉を絞り出した。
「でも早紀ちゃんの父親は、本当はぼくで――」
「なに言ってんの」
香織ちゃんの目が、急にきつくなった。
「夢でも見たの? わたしたち、なにもなかったでしょ」
本人を前にして、堂々と事実を否定した。
ガラガラと音を立てて、なにかが崩れた。
香織ちゃんはもはや、聖母ではなかった。保身のために平気で嘘をつく、どこにでもいるただの女性に成り下がってしまった。
「あのことを否定するんだね。じゃあぼくたち、二度と会わないほうがいいね」
「変な人。ええ、あなたがそう言うんなら、もう会いません」
香織ちゃんは、謝礼の入った封筒をテーブルに叩きつけると、後ろを振り向くことなく大股で去って行った。
しばらく茫然とした。
ギターが弾きたい。そしてライブに行って、思いっきり暴れたかった。
ちきしょう、ミス・コケティッシュのやつ。
この結末も視えてたくせに、どうして教えないんだ。
冷めたコーヒーを一気に飲み干して、ぼんやり天井を見上げたとき、ウエイトレスが空のカップを下げにきた。
ハッと息を呑んだ。
スタイル抜群の、超絶かわいい女の子が、そこにいた。
(第一部終わり。第二部 亜子篇に続く)
百六十七センチ、三十八キロ。
それが、あとから教えてもらった、出会ったときの木村亜子の身長と体重だった。
見た瞬間、心臓を射抜かれてしまった。
光を帯びた黒髪、瀬戸物のような白い肌。
憂いを湛えた大きな目、ヨーロッパ風の高い鼻。品のある涼しげな口元。
そして、モデル顔負けのスタイル。
こんな子が、どうして普通の喫茶店でウエイトレスなんかしているんだろうと、不思議でならなかった。
「きみ、バイト?」
つい訊いてしまった。なにも時給何百円で働かなくても、その美貌でいくらでも稼ぐ道がありそうなのに。
「はい、さようでございます」
やや甲高い声で、まるで深窓の令嬢のように、そう言った。
「若そうだね。大学生?」
「いえ、まだ高校なんでございます」
「ホントに? すごく大人びてるね」
「お褒めにあずかり恐縮でございます」
「将来はモデルだね」
「めっそうもございません」
「モデルになったら、きっと日本一、いや、宇宙一になれるよ」
「オホホ。お坊っちゃまは、とてもお口がお上手ですね」
「おぼ……エヘン。ぼくは三十超えてるけど」
「た、大変失礼をばいたしました。どうかこのご無礼、平にご容赦を」
腰を折って深々と頭を下げて謝るので、ぼくはまわりの目を気にして言った。
「別に謝らなくたっていいよ。いつものことだから。ところできみ、将来を視てもらいたくはない?」
「将来、でございますか?」
令嬢が、心を惹かれたのがわかった。ぼくはすっかり嬉しくなり、
「うん。ぼくの知り合いに、なんでも視えるアメリカ人がいるんだ。彼女に頼めば、たとえばきみがモデルになったらどのくらい売れるかとか、なんでも教えてあげられるよ」
「まあ」
彼女は白く美しい手を口に当てて、大きな目をさらに大きく見開いていたが、
「それはぜひ、お伺いいたしたく存じます」
にっこり笑って言った。その瞬間、ぼくの目に、バラがいっせいに咲くのが見えた。まさしく女神の微笑だ。
バイトは午後六時までで、そのあと一時間くらいなら時間があるという。ぼくの探偵事務所まで来るかいと訊くと、彼女はうなずいた。
ぼくはふわふわと宙に浮きながら、喫茶店〈ルイーズ〉を出た。
ミス・コケティッシュがむっつりしている。
このごろどうも、怒りっぽくなった。デャーモンへの紹介を頼んだときもそうだった。理由を言わず、ただ怒るのだ。
それは別にいい。ぼくは全面的に、彼女のおかげでメシが食えている。文句など言えた義理じゃない。
でも、今回ばかりはやめてほしかった。
女神の目の前で怒るのは。
「木村亜子。十七歳。高校二年生。アイドル志望。ダカラ?」
不機嫌さ全開の視線を、突き刺してくる。
「依頼人なら、わたし、連れてくる。純亜は、連れてこなくてイイ」
「まあまあ」
堅苦しいこと言わずに、そこをなんとか、と頼む。
するとミス・コケティッシュは、
「この女はあきらめナ。とても純亜の手には負えないヨ」
実に失礼なことを言った。
「なにを言うんだ。ぼくはこの子に、指一本触れる気はない!」
本気で腹が立った。ぼくのピュアな想いが、どうしてミス・コケティッシュには視えないのか。
「彼女はアイドルの卵だ。それと付き合おうだなんて、そんなよこしまな、卵を割っちゃうような邪悪なことをするわけがない。ただ、彼女が将来どうなるかを、ちょこっと教えてあげてほしいって頼んでるだけだ」
亜子ちゃんがアイドル志望だということは、ついさっき、彼女がミス・コケティッシュにした自己紹介の中で知った。でも、ぼくの目にはすでに、国民的スターになった亜子ちゃんの姿が見えていた。
「アイドル? あんなモン、地球人をパーにしようと企んだ、宇宙人の発明品サ」
「またそんな、おかしなことを」
「嘘と思うカ?」
「さっきから失礼だよ。アイドルを目指すピュアな想いを、侮辱してる」
「ナンダト!」
ミス・コケティッシュが腕を突き出した。ぼくはSFXのように宙を飛び、背中から床に落ちた。
「純亜」
呼吸ができず、きれいな星とUFOが頭のまわりをクルクルとまわる中で、ミス・コケティッシュの声を聞いた。
「わたし、純亜気に入ったカラ、能力使う。このイケ好かない小娘のために、貴重な能力を使う気はサラサラないネ」
「おいとまさせていただきますわ!」
木村亜子ちゃんが帰っていく。ぼくの女神が。亜子ちゃん。亜子サマ。アコ。
A、K、O、アコ! A、K、O、アコ!
超絶かわいい、アコちゃん!
羞ずかしながら告白すると、ぼくはこのとき、オウオウと声をあげて泣いた。
「コレでも飲め」
ミス・コケティッシュがアメリカン・コーヒーをテーブルに置いた。ぼくはそれを手で払った。
「拭くのは自分でやれヨ」
「ひどいじゃないか、さっきの態度は」
「純亜を守るためサ」
「嫉妬だろ。自分より若くて美人だから」
「悪いこと言わないカラ、あれだけはやめな。ハーフだから」
「ハーフ? アメリカ人との?」
「アメ……うん、ソウヨ」
「どうしてハーフを差別するんだ。かわいそうじゃないか」
「しょせんは無理なのサ」
「無理じゃない!」
「あれと関わったらとんでもない目に遭うヨ。今まで経験したことのないような、とんでもなくヒドイ目にね」
「嘘だ! 嫉妬だ!」
「忠告したからね。モウ知らないよ」
「ぼくを研究したいんだろ。だったらひどい目に遭うところを、じっくり研究したらいいじゃないか!」
ぼくは床にこぼれたコーヒーを拭いて、自分の部屋に行った。そしてベッドに仰向けになると、木村亜子ちゃんに、今日のことをどう謝ろうかと考えつづけた。
翌日は日曜日だった。
平日の放課後は歌とダンスのレッスン。そして土日は正午から六時までバイトをしていると言っていたので、正午ぴったりに〈ルイーズ〉に行った。
亜子ちゃんはいた。
彼女がこっちを見た。そして、昨日のことなど気にしていないように、にっこり笑いかけてくれた。
おお。蝶舌純亜よ。おまえはなんて幸運な男子だ。この果報者め。
ぼくは人目もはばからず、嗚咽しながらウインナコーヒーを頼んだ。
彼女がコーヒーを運んできた。と、伝票と一緒に、四つ折にしたメモをテーブルに置いていった。
なんだろう、と思って開くと、ケータイの番号が書いてあった。
ダン! とテーブルに額を打ちつけて、ハッと目が醒めた。あまりのことに、気を失っていたのだ。
もう一度メモを見る。手が震えて全然数字が読めないので、震えに合わせて首を振った。それでもちっとも読めない。
この暗号を、探偵としてどう解読すべきか。
電話してね、純亜くん、という意味でよいのか?
いや、木村亜子サマは、そんな下等な言葉は遣わない。
お電話お待ち申し上げております。デテクティブ殿。
なんちゃって。
ぼくはハハハと声をあげて笑った。ほかの客がぎょっとしたように振り返って、すぐに視線を逸らした。ぼくは反省し、声が出ないように口を手で押さえて笑った。すると身体が揺れてカップがカタコト鳴った。でも今度は、誰も見なかった。
いやー、愉快だ。
まさか、女神のほうから、ぼくのほうに降りてきてくれるとは。
いや、待て待てと、ぼくは髪が乱れるほどブンブン首を振った。
彼女は、国民的スターになる逸材だ。
気安く電話をかけるなんて、そんな畏れ多いことしちゃいけない。
あくまでぼくは、応援者の立場でいるのだ。
そう決めて、グイとウインナコーヒーを飲み干すと、亜子ちゃんには紳士的態度で目礼だけし、毅然とした足どりで自動ドアをくぐった。いや、くぐろうとした。
「あおう!」
現実には、ドアに激しくぶつかって、変な声を出してひっくり返ってしまった。どうも身長とセンサーの関係か、それとも体重が足りないせいか、ときどき自動ドアが反応してくれないことがある。ぼくは改めてセンサーに手をかざし、ドアをくぐり直した。
彼女に電話はかけるまい。女神に気安くはしまい。
午後七時。我慢できなくなって、電話した。
亜子ちゃんはすぐに出てくれた。
「昨日は大変ご無礼をいたしました。中途で退席するなどという、はしたないことを」
「無礼はこっちさ。助手がきみの美貌に嫉妬してね」
「初めて私立探偵さまにお目にかかって、わたくし、緊張してしまったのでございます」
「緊張はこっちさ。だって超絶かわゆいんだもん。わ、言っちゃった」
「蝶舌さまは、お世辞ばかりおっしゃいます」
「お世辞なもんか。ところで、困ったことがあったらいつでも言ってね。きみの依頼だったら、なんでも無料でやるよ」
「わたくし、頼りにできる大人の男性が、一人もいないのでございます。蝶舌さま、ときどき相談に乗っていただけますか?」
「おおおおお」
ぼくは感動のあまり、勝手に声が出るのを抑えられなかった。
「おおおおオッケー! 相談二十四時間オッケー!」
「嬉しゅうございます。ぜひ蝶舌さまには、アイドルになるための助言などしていただけたらと、かようにお願い申し上げる所存でございます」
「助言なんて要るもんか。すぐなれるよ」
「もったいなきお言葉」
「きみなら絶対成功する。国宝になれる。もちろんぼくは、きみには指一本触れないよ。国宝だから」
「……わたくし、女性としての魅力が、不足しておりますでしょうか?」
「バカ言うな。魅力ならダダ漏れさ! とにかくぼくは、きみの応援者でいたいんだ。オーディションとか芸能事務所について調査が必要だったら、ぜひ言ってよ。報告は、直接会わないで電話でするから」
「会ってくださらないのでございますか?」
「それが、ピュアな愛ってやつなのさ」
ぼくはつぶつぶオレンジをぐいと呷って、ハードボイルドのヒーローらしく、やせ我慢を貫き通した。
「たまに、喫茶店に顔を見に行くよ。でもデビューが決まったら、きっと猛烈に忙しくなって、バイトどころじゃなくなるね」
じゃあねと言って、電話を切った。
一生に一度、会えるか会えないかの女性。
本音を言えば、結婚したい。そうしたら、いつ死んでもいい。
でもその彼女には、指一本触れられない。一ファンでいることしか、できないのだ。
苦しい。
ぼくはだんだん食欲がなくなり、それから一年が過ぎた。