イタリアの空が青い。

 この一月半で、色々なことが片付いた。貴美子と正式に離婚し、家を売り、復讐計画を立てた。

 裁判の傍聴はしないことにした。やつの言い訳など聞きたくない。小宮がいつ刑務所から出てくるかを知るだけでいい。熊野刑事によると、それは法務省から被害者の親に伝えられるということだった。

 旅行は七泊あった。バチカンでは、多美にせがまれてカメオを買い、ヴェネツィアではゴンドラに乗った。巨大な教会を見物し、宗教画の解説を聞いた。

 明日は帰国するという最後の晩、ホテルで和樹は言った。

「小宮への復讐を、一緒にしてくれるか?」

「……わたし、なにをするの?」

 計画のあらましを話すと、多美は顔を蒼くし、

「そんなこと、無理じゃない?」

「できないか?」

「できるかできないかじゃなくて、そんなふうに計算どおりにいく?」

「きっといくさ」

 多美が、じっと目を見てきた。

「あなたの顔……」

「顔?」

「狼に似てきたわ」

「狼に?」

 頬に触れてみた。手に当たるヒゲの感触が、硬い。

「ヒゲが伸びたからだろう。復讐計画を考えるのに忙しくって、剃るのを忘れた」

「鏡は見てない?」

「どうだろう。見てないかもしれない」

「見て」

 ユニットバスに連れて行かれた。鏡を見る。あれが……おれ?

「気がつかなかったの? 旅行中、みんなあなたを振り返ってたわ」

「そうか。きっと憎しみが、顔を変えたんだな」

 和樹は、前に飛び出した鼻を触り、横に大きく裂けた口を開いたり閉じたりし、鏡に牙を映してその鋭さを確認したりした。

「みんな小宮のせいだよ。あいつを破滅させたい。たとえ何年かかっても。なあ多美、協力してくれるな?」

 多美は黙った。沈黙は一分以上続いた。そのあいだ、テーブルに置いてあったカメオをいじっていた。貴婦人の横顔が彫ってある、バチカンで買ってやったカメオを。

 やがて多美は、吹っ切れたように笑顔を向け、

「和さんのためなら、やるわ」

 抱き締めた。本当に多美は、世界一の愛人だ。

「うまくいくかなあ。わたし、女の子を産むんだよね?」

「何年かかっても、だ」

「和さんの子じゃダメなのね」

「情が移るだろう。相手は見ず知らずの男じゃないと」

「……あなたは、それでいいの?」

「いい。おれはもう、人間の心は捨てた。おまえにも捨ててほしい。でなければ、この正義はできない」

「正義、なのね」

「そうさ。少年法なんか正義じゃない。あいつにふさわしい刑を執行する。おれたちが協力すれば、国に、それをさせるよう仕向けることができるんだ」

「わかったわ」

 ついに、多美は言った。

「わたしも人間の心は捨てる。狼みたいになる。あなたと一緒に、どこまでも堕ちていくわ」

 抱いた。

 計画が始動した。

 十年後、法務省より連絡があり、小宮清伸が少年刑務所を出所したことを知った。
 牛丼屋のテーブル席とカウンターを拭いてまわっているとき、女の客が手招きをしていることに気づいた。

 またあの女だ。

 この一週間で、もう三回は来ている。だいたい七時過ぎくらいに、いつも一人で来る。

 水商売っぽい。年齢は三十代の後半から四十くらい。妖しげな真っ赤なルージュ。

 なんのクレームかと思って近づいていくと、

「あなたがタイプなの。これ電話番号。必ず電話してね」

「…………」

 小宮清伸は、無言で紙切れを受け取った。

 バイトが終わると自転車で安アパートに帰り、電話した。

「もしもし。先ほど電話番号を渡されたものです」

「あら、嬉しい!」

「お名前を訊いてもいいですか」

「海野多美。あなたは?」

「小宮清伸です。海野さんは、いい声ですね」

「ありがとう、キヨノブさん。そう呼んでいい?」

「さんなんてつけなくても、呼び捨てでいいですよ」

「じゃあクンにするよ。キヨノブくん。キヨくん。キーくん。どれがいい?」

「……最後の、かな?」

「キーくん? じゃあそうするね。わたしは多美でいいよ」

「多美さん」

「ねえ、会いましょうよ。あなたのおうちに行っていい?」

「あ……はい」

 住所を教え、車を駐車できる場所を伝えた。

 心の準備をしようと努めた。大人の女性にどう接したらよいか――自分には縁のないことだとあきらめていたので、想像もできなかった。

 シルバーのフィアット500で、多美さんは来た。

 部屋に上げた。この部屋にはスリッパも座布団もなかったことに、初めて気づく。

 近くに坐られた。

 昂奮と恐怖。

 抱きつかれて、唇が寄ってきた。

 その瞬間。

 どういうわけか、友華ちゃんの死顔が浮かんできた。

 自殺したお母さんの、悲しそうな顔も。

 刑務所で、男たちに無理やりされた汚いことと、させられたことの映像も。

「待って! ぼくは前科者なんです!」

 たまらず多美さんを押しのけて、叫んだ。

「あの、ぼくはそれを黙ったまま、そういう関係になりたくないです。せっかくぼくを好きになってくれたあなたを、騙したくない」

 多美さんは、目を丸くした。

「前科って――」

「殺人です。嘘だと思ったら、ネットで検索してください。小宮清伸って」

 初めて他人にしゃべった。なぜ突然告白する気になったのか、自分でもよくわからない。

「わたし、ネットの情報って信じないの。直接キーくんの口から聞かせて」

「幼女の誘拐殺人です」

 言った。すると、言葉が勝手にあふれてきた。

「ぼくは、小さい女の子を育てるのが夢だったんです。でもどうせぼくなんか結婚できないと思ってて、十七歳のときに、どうしても我慢できなくなって、女の子をさらってきてしまったんです。ほんの何日かで帰すつもりで。そうしたら、誰かにその子を殺されて、警察にぼくがやったっていうストーリーを作られて、母親に自殺されてどうでもよくなって、嘘の自白をして刑務所に行きました」

「……嘘の、自白?」

「あ、でも、もうどうでもいいんです。その子の死に責任があることは、まちがいないですから」

「罪は償ったのね」

「一応。でも賠償金も払えてないし、遺族に謝罪させてももらってないし。こんな状態で、女の人とお付き合いなんて、とてもできません」

「誠実なのね」

「全然ちがいます」

「夢はどうするの」

「夢?」

「女の子を育てたいんでしょ。さっき、そう言ったじゃない」

「それは、でも……」

「わたしね、シングルマザーなの。今はちょっと親に預けてるけど、純っていう、生後半年になる女の子がいるの。キーくん、育ててみない?」

「えっ?」

 驚いて多美さんを見た。

 ポカンとあけた口を、真っ赤なルージュの唇でふさがれた。

 その夜、初めて女性を知った。
 多美さん。

 頭の中は、それ一色になった。

 翌日の夜も、多美さんは来てくれると言った。

 バイトが終わると自転車をとばして帰った。部屋をきれいに掃除して、正座して待つ。

 電話。

 保護観察官の、粕谷(かすや)さんからだった。

「元気?」

「はい。なんとか仕事は続いてます」

「伝言があるんだ。熊野刑事さんからだけど、憶えてる?」

「……ええ」

 思い出したくない名前。清伸のことを頭から殺人犯と決めつけ、誘導的な取調べをした刑事だった。

「熊野さんによると、村松和樹氏に、清伸くんの出所後の様子を探っている様子があるらしい。おそらく住所は知られていて、襲ってくる可能性があると。あるいは人を雇って襲わせるとか、車で撥ねるとか。とにかく充分注意して、静かな場所に一人でいるのは避けてほしいとのことだった。これまでになにか、不審な電話とか手紙はなかった?」

「いえ」

「もし謝りに来いとか、会って話をしようとか言われても、絶対に一人では行かないように。わたしか弁護士の高橋さんに連絡して。わかったね」

「わかりました」

 一応そう答えたが、友華ちゃんの父親に謝りに来いと言われて、拒否できる自信はなかった。

 清伸自身、そうすべきだと思っている。

 殺されても仕方がないと考えたこともある。でも多美さんを知った今は、安易に死にたくはなくなっていた。

 多美さんは来てくれた。その翌日も。

「来月の頭くらいから、わたしのアパートで一緒に住もう。純を育ててね」

 そんな話をした数日後、夕方六時半にチャイムが鳴った。

 いつもより早いなと思いながらドアをあけると、多美さんではなかった。

 スーツ姿の男が立っていた。

「こんばんは。フリーライターの勝間田章吾と申します。小宮清伸さんですね?」

 差し出された名刺を受け取りながら、小さくはいと答えた。

「生活は落ち着きましたか? わたくしは、現代社会の問題点を、少年犯罪を通して研究している者です。小宮さんほど、現代社会の歪みを身をもって体験された方はいないと思います。それをぜひお聞かせ願いたいと思ってまいりました」

 もう十年も経ってるのにと、清伸は唇を噛んだ。

「捜査に問題はありませんでしたか? 裁判で矛盾は感じませんでしたか? 日本の将来を良くするために、そのあたりを証言してほしいのです」

「……あの、いきなり来られても、心の準備がありませんし」

「ではいつがよろしいでしょう。明日では?」

 勝間田の片足が、強引にドアの内側に入ってきた。

「取材を受ける気はありません」

「プライバシーには配慮します。とくに教えていただきたいのは、警察の密室での取調べの様子です。警察のやることは、すべて公正と正義に適っていましたか?」

「そのことだけ、お話しすればいいですか?」

「そうです、そうです。三十分で終わります。明日六時でどうでしょう」

「……はい」

 押し切られてうなずいたとき、階段を昇ってくる多美さんが見えた。

 勝間田が振り向く。多美さんがその顔を見る。

「あ」

 勝間田が声をあげた。知ってる人間に偶然会って、驚いたというリアクション。多美さんも、ビクッとした。

 が、多美さんはそのままさっと部屋に入った。ドアが閉まる間際の勝間田の顔は、まるで幽霊でも見たかのようだった。

「知ってる人?」

 多美さんはそれには答えず、キッチンに行って換気扇をまわし、煙草を吸った。

「フリーライターだって言ってたけど」

 重ねて訊くと、多美さんは恐い顔で煙草をシンクに押しつけて消し、

「昔、うちの会社に取材に来た人よ。キーくん彼に、なにか話した?」

「明日取材を受けることになった」

「は? なに言ってんの。そんなの断わりなさいよ!」

 勝間田の名刺を見た。断われと言われても、いったいどう言ったらいいのか。

「かけないんなら貸して。わたしがかける」

 名刺をひったくられた。多美さんが携帯を出す。

「さきほど小宮さんのアパートでお会いした者ですけど、小宮さんはいかなる取材も受けませんので、もう来ないでください。いいですね」

 多美さんは電話を切ると、抱きついてきた。

 もしかして、勝間田は昔の彼氏かなと、ふと想像した。
 同棲一日目。

 多美さんのアパートはきれいだった。少しだけ、煙草が匂った。

「買い物に行ってくるから、純を見てて」

 生後半年の女の子と、二人で残された。

 寝顔に吸い寄せられる。透きとおるような唇の薄い皮膚を、目を近づけて見た。

 甘い息を嗅いだ。

 やっぱり幼女はいい。

 この世で最高の生き物だ。

 と、純が急に泣きだした。

 おしっこだろうか?

 おむつの上から局部に手を触れてみた。濡れているかどうかは、わからない。

 おむつをゆっくりと外した。黄色いうんちをしていた。

 おむつ拭きを取ってきて、優しく拭いた。何度も何度も、丁寧に。

 ドアのあく音がして、ビクッと振り返った。多美さんが帰ってきたのだ。

 ああ……二人っきりの時間が、終わってしまった。

「ねえ」

 多美さんに言った。

「ぼく、専業主夫になってもいい?」

「主夫? 結婚して、籍入れたいの?」

「そういうことじゃなくって、子育てに専念したいんだ」

「バイトを辞めたら、賠償金の送金ができないんじゃなかった?」

「せめて、純ちゃんが幼稚園に入るまでは、ちゃんと育てたい。だから」

「わかったわ。わたしが働くから、キーくんが育児に専念してね」

   *  *  *

 多美さんは、母乳をあげなかった。

 清伸がミルクを作った。

 離乳食も作った。

 お歌を聴かせ、抱っこであやした。

 夜泣きをすると、純をおんぶひもで担いで散歩に出た。

 多美さんは仕事から帰ってくると、テレビばかり観ていた。

 お風呂に入れるのも、一緒に寝るのも、すべて清伸がする。

   *  *  *

 三年が経過し、純は三歳半になった。

 ふと、友華ちゃんと同い年になったな、と思った。

   *  *  *

 純の首を絞める夢を見た。

 そうすれば、永遠に、純は三歳のまま。
 八月の中頃の、土曜日の朝だった。

 起きると、布団に純がいなかった。

 トイレかと思ったらちがった。多美さんの布団にもぐったかと思って見に行ったら、多美さんもいなかった。

 多美さんが純を連れてどこかに行ったらしい。伝言もなく、朝七時に。こんなことは、かつて一度もなかった。

 携帯に電話した。何度も何度もかけた。多美さんは出ない。

 まさか――家出?

 タンスの抽斗を開けた。ない。普段はそこにしまってある、カメオが。

 あれは多美さんが、昔イタリア旅行に行ったときに買ったもので、それがいちばんの宝物だと言っていた。その貴婦人の横顔のカメオがない。

 やられた。

 男ができて、そっちに走ったのだろうか?

 ふと、三年前に一度だけ会った、勝間田章吾の顔が浮かんだ。

 あの男は明らかに、多美さんを知っていた。もしかすると、今度の家出につながるようなことも、知っているかもしれない。

 名刺を探して電話をかけた。

「はい、勝間田です」

 出てくれた。

「小宮清伸です。以前取材の依頼を受けました、村松友華ちゃん事件の犯人です」

「ああ」

 勝間田が、意外そうな声をあげた。

「取材にはなんでも答えます。その代わり、教えていただきたいことがあるのです」

「もしかして、海野多美さんのこと?」

 やはりなにかを知っていたのか、すぐに言った。

「そうです。彼女が家出したんです。三歳の子を連れて」

「きみと、海野さんのあいだに……子ども?」

「いえ、その子は連れ子というか、シングルマザーの彼女と出会って、三年前から同棲していたんです」

「…………」

 勝間田が考え込むように、しばらく沈黙した。

 やがて、

「あの、小宮くん。身体の調子はおかしくない?」

「え、ぼくですか? 全然」

「そうか。ひょっとして、砒素でも盛られてるんじゃないかと心配してたけど」

「……どういうことですか?」

「きみは、海野多美さんを愛しているの?」

「え……それはまあ、はい」

「すぐに別れて逃げなさい。殺される前に」

「殺される?」

「海野さんは村松和樹氏の愛人だよ。友華ちゃんの父親の」

「ええっ?」

 勝間田の声が、急に遠くなったように感じた。

「彼は残酷な男だ。きみの母親も、手紙で追いつめて自殺させたそうじゃないか。そういう彼だからこそ、自分の愛人も平気できみに差し出せたんだ。村松氏と海野さんは、あの事件前から付き合っていて、村松氏が離婚するとすぐにくっついた。まるであの事件を、いいきっかけにしたみたいにね」

 そういうことがあったのかと、清伸は初めて知った。

「海野さんの連れ子というのは、女の子?」

「……はい」

「二人の子なのかな。それはきっと、生け贄だよ」

「生け贄?」

「村松氏は、きみに対する復讐を考えていた。もしきみが、成人になって二度目の殺人を犯せば、今度こそ必ず死刑になる。そう考えて、幼女と二人きりになる環境を作りあげたんだよ」

「そんな」

 思わず、声が裏返った。

「ぼくはそもそもやってないし、それに純のことは、本当に愛してるんだ。そんなこと、絶対にするわけがない!」

「まあまあ。だから彼の復讐計画っていうのは、その程度のものだったんだ。杜撰で誤算だらけ。しかしそれがうまくいかなかったとすると、今度は強引な手段に出てくる危険がある。彼の報復感情は、強烈だからね」

「……例えば、どんなことを?」

「そうだな。村松氏はあくまで完全犯罪を目指してたから、自分が殺人罪で捕まるようなことはするまい。事故を装うだろう。あ、そうだ!」

「なんですか?」

「大人を事故に見せかけて殺すのは難しい。しかし子どもなら、簡単に殺せる」

「どういうことでしょう?」

「その子は元々、きみに殺させるつもりだった。ところが逆に、まるでわが子のように愛するようになったのを、海野さんは知った。そこで計画を変更し、その子を事故を装って殺すことにした」

「どうして純を?」

「三歳の娘を突然殺された父親と同じ苦しみを、きみにも味わってもらう。村松氏なら、きっとそう考えるだろうね」

「なんてことを……」

 純が死ぬ。そんなこと、あってたまるもんか。

「おそらく彼は、決して証拠の残らない方法でやるだろう。とにかく相手は正気じゃない。警察に相談するか?」

「いえ」

 即座に言った。

「警察は、なにかあってからでなくては動きません。純を殺させないためには、ぼくが直接交渉するしかないんです」

「危険だぞ」

「いつかは会わなくちゃいけない人だったんです。ぼく自身は殺されても文句は言えないけど、純の命だけは、救けたい」

「そうか」

 電話を切った。いよいよそのときが来た。

 友華ちゃんの父親と会う。

 ずっと弁護士に止められていた。警察にも警告された。

 が、今や清伸には、村松和樹と交渉できるカードがあった。

 それは、ほんのかすかな、疑惑程度にすぎなかったけれど。

 携帯で、多美さんにメールを送った。

 多美さん。
 彼氏が、村松和樹さんであることを知りました。
 ぼくが純を殺すのを待っていたこと、そしてぼくにその徴候がないので、三歳の娘を殺された父親と同じ苦しみを味わわせようとしていることも、知っています。
 それを実行する前に、どうか村松さんと交渉させてください。ぼくはどうなっても構いません。どうかこの携帯に、電話をくださるようお願いします。
 待った。一時間。二時間。三時間。

 夕方になった。五時。電話の着信音。出る。

「小宮か」

 心臓も凍るような、冷たい声。

「おまえ、この電話を録音してるか?」

 まず第一に、謝ろうと思っていた。しかしいきなり質問されて頭が真っ白になり、すみませんの一言が出なかった。

「……録音は、してません」

「どうだかな。おれたちのことは、勝間田から聞いたのか?」

「……はい」

「で、どうした? 警察か弁護士に言ったか」

「いえ、誰にも言ってません」

「嘘つけ!」

 恫喝に、背すじまで痺れる。

「おれと交渉したいとは、どういう意味だ」

「あの、純の命と引き換えに、ぼくを差し出そうと」

「はあ?」

 憎々しげに唇を歪めた顔が、見えるようだった。

「なあ、小宮。おまえとは一度話したかったんだ。あとでそっちへ行くから待ってろ。ドライブでもしようぜ」

 電話が切れた。

 深夜一時まで待ったとき、チャイムが鳴った。

 ドアの外に立っていたのは、多美さんだった。

 もう二度と会えないのかな、と思っていたので、胸が詰まった。

「ごめん」

 出てきたのはそれだった。

「純のことばっかり考えて、多美さんをほったらかしちゃって。ちっとも幸せにしなかった。ぼくはこんなに幸せにしてもらったのに。ほんとにごめん」

「ばかな人」

 多美さんはそう言うと、くるっと背を向けた。

 多美さんのあとから階段を降りる。駐車場にシルバーのフィアット500。後部座席のチャイルドシートで、純が寝ているのが見えた。

「あ、純。生きてるの?」

「寝てるだけよ」

 運転席に、男の横顔がちらっと見えた。

 この人が、村松和樹――

 気がつくと、アスファルトに膝をついていた。

「ごめんなさい!」

 土下座した。

 すると運転席のドアが開き、痛いほど腕を引っ張られた。

「目立つことすんじゃねえ。早く車に乗れ!」
『ぼくと手をつないだら、子どもができちゃうよ』

 不思議な超能力者に連れられて、多美が探偵事務所に行くと、頭のおかしなチビがそう言ったらしい。

 が、しばらくすると、多美は本当に身籠った。相手が誰かなんてことは知らない。

 運よく女が生まれた。計画どおりだ!

 女児を差し出して、自由にできる環境をつくれば、小宮は必ずイタズラをする。

 そしてバレることを恐れて、いつかは殺す。

 和樹はそう信じていた。

 ああいうやつの性癖は治らない。刑務所に行ったくらいで決して反省なぞしない。だから必ずやる。そうしたら今度こそ死刑だ。

 ところが多美のほうが、待てなくなった。

「もう無理」

 電話で訴えてきた多美に、和樹は待てと言った。

「絶対に小宮はやる。あともう少しだけ待つんだ」

「嫌よ」

 多美はきつい口調で言った。

「あれはただのいいパパよ。一緒に住んでるわたしのほうが、和さんよりよっぽどわかってるから。それより最近純が、色々わかるようになってきたの。死なせるんなら早くして。これ以上大きくなったら、わたし、つらすぎるかも」

「……わかった」

 ある程度予想はしたことだが、多美に母娘(おやこ)の情が生まれてきている。仕方がない。子どもは処分しよう。

 すっかりパパ気分でいる小宮に、死体をプレゼントしてやる。

 そうだ。愛する娘を突然殺される苦しみを、あいつにも味わわせてやるのだ。復讐としては物足りないが、今回はこれで我慢してやる。

 子どもの次は、おまえだ、小宮。

 これはそういうメッセージになる。純の死体を見た小宮は、この先一生、復讐の手が自分に伸びることを恐れて、毎日ビクビク脅えて暮らすことになるのだ。

 和樹はそう決めて、電話で多美に言った。

「折を見てこっちのアパートへ来い。人に見られないように注意してな。おまえは同棲相手に嫌気が差して、子どもを連れて家出した。そういうことにするんだ」

「……それで?」

「ノイローゼになったおまえは、海が見たくなって堤防に坐り込む。気がつくと子どもの姿がない。誤って海に落ちたってわけさ」

「わたしが落とすの?」

「いや、おれがやる」

「……捕まらない?」

「目撃者さえいなければ大丈夫だ。そこのところは、おまえがしっかり見といてくれ」

 八月の第二土曜日の深夜に決行となった。その日の昼前、多美の携帯に、小宮からのメールが入った。

〈多美さん。彼氏が、村松和樹さんであることを知りました〉

 舌打ちが出た。くそっ。勝間田の野郎だ。きっとあいつが、余計なことをしゃべったにちがいない。

 小宮に会って、とことん恐怖を植えつけなければ。

 幼女の溺死に関して、もし警察におかしなことを言ったら、どれほどの苦痛が待っているか――そいつを骨身に沁みてわからせてやる。

 もうすぐ小宮に会う。ついに、あの野郎と……

 二十三時。アパートを出る予定時刻の一時間前になったとき、和樹は玄関に立った。

「どこに行くの?」

「どうも落ち着かなくてな。ちょっと外の空気を吸ってくる」

 当てもなく歩く。目の前を、小宮の母親の顔がちらつく。電車に飛び込んで自殺した、無責任な女の顔が。

「くそっ。おれのせいじゃねえぞ。あいつは勝手に死んだんだ」

 気がつくと、どういうわけか、教会の前に立っていた。

 牧師を殴ったのが、つい昨日のことのように思える。

 あれで和樹は、ローマ法王にクソを投げつけようと思い、イタリア旅行を計画したのだ。

 イタリアではカメオを買い、多美を小宮への復讐に引きずり込んだ。多美もまた、地獄行き決定か――

「くそっ。神様がなんだ。おれの悲しみを知らないくせに、罰だけ下そうってのか。おれは神なんて恐くねえぞ!」

 アパートに戻ったときは、深夜零時をとっくに過ぎていた。

 小宮に会うことや、子どもを殺すことを考えると、歩く足がどうしても遅くなったのだ。

 アパートの駐車場に目をやる。すると、シルバーのフィアット500に、もう多美が乗っていた。

 運転席に乗り込んで、後部座席を振り返って言う。

「ガキも乗せたのか。おれが帰ってくるのを待てなかったのか?」

「和さんと同じよ。和さんの部屋にいても落ち着かないから、外の空気を吸いに出たのよ」

「誰にも見られてないだろうな?」

「ええ」

「そのスポーツバッグはなんだ?」

「家出を装うんだから、適当に荷物を入れたの」

 するとスポーツバッグが、小刻みに揺れた。

「ん?」

 猫でも入ってるのか、と一瞬思ったが、そんなはずはない。ただ多美の足がバックに当たって、動いたように見えただけだろう。

 車を発進させて、小宮のアパートに向かった。深夜一時。多美が車を降りて階段を昇っていき、やがて小宮を連れて階段を降りてきた。

 と、駐車場に小宮が這いつくばり、大きな声を出した。

「ごめんなさい!」

 人目につきたくなかった。急いで手を伸ばし、小宮の腕をとった。

「目立つことすんじゃねえ。早く車に乗れ!」

 おぞましさに震えが起こる。

 友華を殺した野郎の肌に、触れてしまった。
 村松さんに握られた肘に、しばらく感触が残った。

 友華ちゃんの父。

 多美さんの愛人。

 母を殺した復讐者。

 間近で見たその男の顔に、衝撃が走る。前に飛び出した鼻、横に大きく裂けた口、尖った牙、頬を覆い尽くすヒゲ――まるで狼じゃないか!

 狼が、清伸のすぐ横で、ハンドルを握っている。

 まるで現実感がない。

 どこへ行くのだろう。

 とにかく、純を殺させないことだ。

 なにか言わなければ。

「あの……さっきはすみません」

 狼は、フロントガラスをにらみつけている。

「突然あんな場所で、土下座なんかしまして。もっと前に、きちんと謝罪すべきでした」

 狼がこっちを向く。

「うるせえ! 殺すぞ!」

   *   *   *

 車を土手道に上げた。

 川沿いの一本道。夜中には、人も車もほとんど通らない道。

 助手席でビクビクしている小宮。

 まるで小動物のよう。脅えたネズミみたいだ。

 もしこいつが、罪を悔い改めていたら?

 心を入れ替えていたら?

 死んだあと、天国に行くのか?

 冗談じゃねえ!

「おい、小宮」

「は、はい」

「おまえ裁判のとき、嘘をついたろう」

「――え?」

「全部正直に言ってないだろう。ここならおれと多美しかいない。正直に言ってみろ」

「…………」

「友華を殺した動機はなんだったんだ? いたずらしようとして騒がれたんで、気が動転して首を絞めたと言ったらしいな」

「……はい」

「ちがうだろう? 元々殺す予定だったんだろう? 顔を見られた友華を帰す気なんか、最初からなかったんだろう?」

「ちがいます」

「隠さなくてもいい。裁判のやり直しはないんだ。刑務所に入り直すこともない。全部しゃべってスッキリしたらどうだ」

「はい。そうします」

 小宮を見た。まともに目が合う。

 和樹は顔を背けた。

「正直に言います。裁判では自分が殺したと嘘をついてしまいましたが、ぼくにはとてもそんなことはできません。あれをやったのは、ぼくの家から逃げた友華ちゃんをたまたま見つけた、平気で人を殺すことができる人間だったんです」

 決まった。こいつは地獄行きだ。

 車を停めた。小宮を車から引きずり出し、気を失うまでぶん殴ってやる。

「やめなよ、和さん」

 後ろで多美の声がした。

「土手の下には家が並んでるんだから、ここで大きな声でも出したら、あっという間に警察が来るわよ」

 そのとおりだった。多美にはいつも助けられる。

 よし、もう海に行こう。

 ケリをつけてやる。

   *   *   *

 車が土手道を降りた。どこへ行くのだろう。

 もしかすると、森の奥にでも連れ込まれて、木に縛りつけられ、目の前で純をなぶり殺されるんじゃなかろうか――

「あの、村松さん」

「なんだ」

「ぼくをめちゃくちゃに殴ってください」

「言われなくてもやるよ」

「本当は、村松さんには、十五年前にそうされるべきだったんです。刑期を務めたからって、そこから逃げてはいけないんだと今わかりました。どうか誰もいないところへ行って、思う存分やってください」

 沈黙。それが五分も続いたころ、村松さんが言った。

「潮の匂いがしてきた」

「……え?」

「窓から匂ってくるだろ。海が近いんだよ。おれはこの匂いを嗅ぐと、子どものころを思い出すんだ。海水浴が好きで、よく連れて行ってもらったからな」

 急に打ち解けた話をされて、どぎまぎした。

 村松さんの気分に、なにか変化があったのだろうか?

 ともかく清伸は、

「あ、ぼくも大好きでした。波打ち際でじーっとしてると、時間が経つのも忘れちゃって」

「なんでじっとしてるんだ。泳げよ」

「海で泳ぐのって、怖くないですか?」

「なにが?」

「なんか、水が多すぎて」

「そりゃ海だからな」

「でも泳がなくても、お腹がすごくすくんですよね。ぼくは海の家でラーメンを食べるのが楽しみでした」

「おれもよく食ったよ」

「何ラーメンですか?」

「味噌」

「いいですね。ぼくは塩です」

「塩? あんなもの、ラーメン食った気がしないだろう」

「母が好きだったんですよ。父は必ず醤油で。いや懐かしいなあ。潮の匂いが強くなってきましたね。ぼくは海は好きだけど、このへんに住もうとは思わないですね。服とか家の中とかが、全部この匂いになっちゃいそうで」

「おい、小宮」

「はい?」

「この先に、臨海公園ってのがあるのを知ってるか?」

「いえ、知りません」

「海賊船があるんだよ」

「公園に、船が?」

「船の形をした遊具だ。昼間来れば、たくさん女の子が遊んでるのを見られるぞ。もしおまえらの子が死んだら、ここに見に来ればいいよ」

「…………」

「でも夜には誰も来ない。泣いても叫んでも人に聞かれることはない。今からそこで、おまえをぶん殴る」
 和樹は舌打ちした。

 つい小宮と、おしゃべりなんぞをしてしまった。

 狭い車内で並んで坐っているせいだ。だからおかしな気分になる。さっさとドライブを終わろう。

 海賊船が見えてきた。

 だだっ広い駐車スペースに車を駐める。ほかに車は一台もない。エンジン音が止まると、完璧な静寂が来た。

「人っ子一人いないな。公園をおれたちで独占だ。さあ降りるぞ」

 小宮に言ってから、後ろを振り返る。

「どうする? おれたちは公園で遊んでるけど、多美はあっちに散歩にでも行くか」

 海に突き出た堤防のほうを顎で示す。

 多美がじっと和樹を見返す。

 いよいよ子どもを殺す。その覚悟ができた、いい顔をしている。

 多美はうなずいて、

「和さんが偵察して、よさそうだったら電話して。そしたら行くから」

「わかった」

 キーを多美に渡して、車を降りた。

 と、風を全身に感じた。

 爽やかな八月の夜の風。

 その潮っぽい匂いを吸い込んで、またしても子ども時代を想った。

 あのころは、良かった。

 不安も怖れも憎しみも、なんにもなかった。

 小宮が助手席から降りてきた。

 おやと思った。顔に怯えがない。

 こいつもまた、覚悟の決まった顔をしている。

 さあ殺してくださいと、言っているように見えた。

「本当だ。船だ」

 妙に明るい声。和樹はつられてそっちのほうを見、

「おまえ、駆けっこは得意か?」

「ビリしかとったことありません」

「でもまだ三十そこそこだろ。五十近いおれよりは、いくらなんでも速いだろう」

「遅い自信はあります」

「逃げてもいいんだぞ」

「そしたら純はどうなります?」

「さあな。夜は暗くて危険だ。母親がちょっと目を離した隙に、どんな事故が起こるかわからない。もし海に落ちたら、救かるのはまず無理だろうな」

「村松さん、それは殺人です」

「だから?」

「警察に話します」

「ならおまえも事故に遭うよ、必ず」

「ぼくは死ぬまで殴ってもらっていいんです。だけど、純には触れないでください」

「おまえが頼む立場か。天にでも祈ってろ」

 公園の入口に向かった。小宮がついてくる。

 晴れた星空が広がっている。その下を、娘を殺した男と歩いている。

 陸風が、服の隙間を抜けていく。

 公園に足を踏み入れる。軟らかい砂の感触。

 不意に、友華を初めてここに連れてきたときのことを思い出した。

 強い風に吹かれた砂粒が顔を襲い、

『お砂パチパチ痛い!』

 と叫んで、それ以来友華はここを、お砂パチパチの公園と呼ぶようになった。

『砂が目に入らないようにして、あのお船にのぼってごらん。高いところに行ったら、お砂は来ないよ』

『パパ、抱いてのぼって。恐い』

 三歳の娘を左腕に抱き、右手で手すりを握って海賊船にのぼった。

 あれは面白かった。

 公園で遊ぶ楽しさを、三十過ぎて再発見した。

 そうだ。あのとき思ったのだ。幸せとはすなわち、自分の子どもと公園で遊ぶことなのだと。

 それなのに、愛人に走った。たまたま街で知り合った、海野多美に溺れた。

 いったいどこで、なにをまちがったのだろう?

   *   *   *

「純さん」

 多美さんの声がして、スポーツバッグのチャックが開けられた。

「ふう」

 ぼくはようやく大きく息をついた。ずっと折り曲げていた首の後ろが、ミシミシと鳴る。

「二人は出て行ったわ。ひとまず純は大丈夫よ」

「良かった」

 バッグからそっと腕を抜き、脱皮をするように上半身を出した。

「二人を尾行して。たぶん、年上のほうが年下のほうを殴るけど、もしやりすぎて殺しそうになったら、うまく止めて」

「任務変更だね」

「できる?」

「そりゃまあ、探偵だから」

 車を降りて歩く。

 陸風が心地良い。

 さて、どこに身を隠して二人の男に近づこうかと考えていると、子どものころによくやった、公園でのかくれんぼを思い出した。