第一話「ピンク色の日々」

桜の舞い散る中、私の恋は死んだ。

お花見ってもっと楽しいものじゃなかったっけ。暖かい陽だまりの中でお弁当とか持ち寄って。唐揚げの上に桜の花びらが乗って笑ったりするやつ。
そして夏が来て海に行って花火見るんじゃなかったっけ。
なんで一人で桜の花びら散るのを見て泣いてるんだろ。
ねえ、海は?白浜いきたいとか言ってたじゃん。
秋は紅葉とか見に行くんじゃないの?冬はバンプの曲みたいにポッケに手ぇ入れさせてくれるんじゃなかったの?

寂しくて悲しい。心が痛い。物理的に胃も痛い。ご飯が全然味しない。悲しい。世界で一番悲しい。
そりゃ確かに、世界にはもっと可哀想な子が絶対いると思うよ。私の失恋なんか全然大したことない。でも私が世界で一番悲しいと言いたくなる。誰かそれを認めてほしい。
だって、胸が痛くて何も口にしたくない。景色が白黒に見えるほど味気ない。
満開の桜も私の目には雪が舞うように見えるほど色味が感じられない。
あのうるさいほどのピンク色の花びらはどこに消えてしまったんだろう。
あのうるさいピンク色の日々を返して。


◇一話 ピンク色の日々


優太とは、高校一年の春、軽音楽部の部室で出会った。
軽音楽部の部室は、ボロボロの旧校舎の二階だ。元々は運動部の倉庫だった場所に、無理やりアンプとドラムを置いて、部室と呼んでいる。

部室は一バンド三十分ずつの交代制だ。その時間以外は、皆廊下に置かれたパイプ椅子に座り、各々の楽器を練習している。なかなか粗悪な練習環境だが、旧校舎の廊下で一人、制服でギターを掻き鳴らす私はロックなんじゃないかって、そんな勘違いが出来て好きだ。


その日も、私は軽音楽部の部室で一人、ギターを練習していた。
私は大好きなBUMP OF CHICKENの曲を弾けるようになりたくて、軽音楽部に入部し、ギターを始めた。
ジャズマスターというブラウンサンバーストのエレキギターを、よく分からないまま、見た目が格好いいという理由だけで、お年玉貯金を全てはたいて購入したのだ。

長年貯めたお年玉を無駄にしないためにも、私は毎日、悪戦苦闘しながらギターを練習した。その甲斐もあって、ようやくコードを覚えてきた。
指の皮が剥けるほど練習していると、痛みと比例してギターが上手くなれるような気がして嬉しい。

指先の痛みに耐えながらエレキギターを必死に練習していると、何やら視線を感じた。
コードを抑える指を緩めて、顔を上げると、赤いエレキギターを持った男の子が私を見ていた。
切れ長一重の黒い目。筋の通った鼻。唇の隙間から、ガタガタの歯が少し覗いている。
そして棒のような手足。ガリガリだ。お世辞にも格好いい人とは言えなかった。


どう声をかけていいか分からず、しばらく見つめ返していると、彼の方から口を開いた。

「今弾いてたの、バンプ?」

「…そうだよ。格好いいよね。」

「うん、お姉さんよく練習してるんだね。指の皮剥けてるでしょ。」

指の皮のことをすぐ見抜いてくれたのが、好印象だった。努力を認められたような気分で私は嬉しくて照れ笑いをした。彼も笑い返してくれた。
ガタガタの歯が少し可愛らしく思える。

彼は私の目の前にしゃがみ込み、彼の赤いギターを爪弾いた。
アンプを通していないため、カチャカチャとギターが鳴る。細い指先で赤いギターを弾いたとき、彼が伏し目がちにギターを見たとき、初めて、彼の睫毛の長さに気付いた。
指の第一関節から第三関節の長さの比率が綺麗だ。

「一年?私も一年なんだけど、ギター上手いね。」

「お姉さんも、さっき格好いい音鳴ってたよ。」

「ねえ、なんで同い年なのに、お姉さんって呼ぶの?変なの。」

「お姉さんって感じするもん。」


やっぱり変な人だ。私はまだお姉さんなんかじゃない。16歳で、ギターもまだまだ下手で、中学生?と聞かれることもしばしばだ。そんな私をお姉さんって呼ぶのは、変だ。
変だけど、なんだか嬉しい。少し声が震えそうになるのを堪えながら、私は言った。


「私の名前、五十嵐春だよ。お姉さんじゃなくて、春って呼んでいいよ。」

「え。春っていうの?俺、季節の中で一番春が好きなの。嬉しい。」

自分を好きだと言われたような錯覚に陥って、心臓が少しひっくり返ったような、ドキドキというよりはドクン、という緊張が走った。
手に汗がじんわりと広がり、比例するように、喉はカラカラに乾いた。

「俺は、伊藤優太っていうの。」

「じゃあ私も優太って呼ぶ。」

「女の子に下の名前呼び捨てにされること、あんまり無いなあ。」

そうか。もしかして、下の名前で呼ぶのって恋人っぽいのかな。
そう思いつくと、私は自分の顔が熱くなるのが分かった。私の顔の赤さがバレないように、またギターを弾いて顔を伏せた。

優太も顔を伏せてギターを弾き始めた。優太がギターを弾くときだけ、長く見える睫毛。

その日から、私は優太の睫毛を盗み見るようになっていた。





優太にギターを教えてもらうという名目の元、私は優太といつも廊下のパイプ椅子でギターを弾いていた。
今日もまた伏し目になったとき、見える睫毛。私はいつも優太にバレないことを願いながら、優太の睫毛を見つめていた。優太のギタープレイを見学しているフリをしながら、私は優太の隣をいつも獲得していた。

ある日、優太は思いついたように私に言った。

「俺より上手い先輩たちもいるから、その人たちのギターも見学した方がいいよ。」

私は戸惑った。優太は私を遠ざけたいのだろうか。私がいつも、睫毛を見ていることに気付いてしまったんだろうか。

「うん…。でも、優太だと分かんないとこ聞きやすいから…。他の先輩だと緊張するし。」

「春、だいぶギター弾けるようになったじゃん。俺が教えなくても、もう分かるでしょ。」

やっぱりそうだ。私の不純な動機に気付いて、私に苛立っているんだ。
もう教えたくないのかもしれない。私が鬱陶しいのだろう。でも優太は優しいから、遠回しにこんなことを言っている。優しさが辛い。いつも睫毛を見て、優太のギターを聴いていなかった罰だ。

「そうだね…もう教えてもらうのやめる…ごめ…ん」

私はカラッと謝るつもりが、涙が目に沢山溜まってしまっていた。涙の表面張力が今にも弾けてしまいそうだ。

優太が目を大きく開いて私を見ている。

「なんで泣くの?」

私は泣きながら声を振り絞った。

「えっと…迷惑だったかなって。ごめん…」

「俺はね、春が上達したから、もっと上手くなれると思って言っただけだよ。迷惑なわけない。俺もこれからも教えたい。ごめん。俺、春とギター弾くの好き。」

「うん。うん。ありがとう。」

ギターを弾いてないのに優太の目が伏し目がちになり、長い睫毛が見えた。
優太も少し泣きそうな顔をしている。長い睫毛が少し湿って、いつもより睫毛を濃く見せていて、とても綺麗だ。

ボロボロのパイプ椅子に座り直して、二人でギターを弾いた。夕方のオレンジ色の日差しが、優太の赤いギターを照らす。金色に反射した太陽光が、優太を見つめる私の目に差し込んで、少し眩しかった。

それから、部室以外でも優太とよく一緒にいるようになった。休み時間にも、私のクラスに来て、数学の先生がボケてるとか、なんてことない話をして去っていく。
好きな人が、なんてことない話をするために、会いに来てくれる。

優太はある日の部活帰り、ギターを右手に持ち、そして当たり前のように、私の右手を左手に持った。
私は照れ臭くて笑った。優太も笑った。照れ臭いとき、優太は伏し目がちになることを知る。私はこれから、優太がギターを弾いてないときも、この睫毛を見つめていいんだ。心がザワつくような、暖かいような、悲しいような、痛いような。不思議な気持ちだ。


部室では、軽音楽部の部員達によく冷やかされた。
部長の影山先輩が私たちに声をかける。

「春と優太が一緒に練習してると、いちゃついてるように見えるんだよな」

「まじめに練習してるのにショックなんですけど…」

「冗談だよー!ごめん、すげー期待してる!未来のジョンとヨーコだな。優太、撃たれんなよ!」

縁起でもない冗談を言いながら、影山先輩はケタケタ笑った。綺麗な二重。
茶髪が似合う、明るいトーンの話し方。背が高くて面倒見も良くて、人気者だ。部長らしい部長だなと思う。
影山先輩がベースを弾く姿を、運動部の女の子たちが覗きに来ることもしばしばだ。

そんな皆の憧れの人に、いつも気にかけてもらえるのは、気持ちのいいことだった。
皆の憧れの人が、私と優太を期待している。未来のジョンとヨーコ。
暗殺されたくはないけど、少し気に入った。ジョンとヨーコみたいに、格好いい恋人同士になれるかな。なりたいな。


同じクラスで親友の真波(まなみ)も、影山先輩の隠れファンで部室をたまに覗きに来ていた。

「真波、また影山先輩見に来たの?」

「うん、でも影山先輩いつもベース弾いてるから声かけにくいよー。はーーー、影山先輩に可愛がられて、優太くんにも愛されて、春ちゃんは幸せ者だよまじで。」

「うん。幸せ。結婚したい。」

「結婚は早くないか…でもそんな風に思えるなんて素敵だよ。私も彼氏欲しいなー。影山先輩って彼女いんのかな。」

人に羨ましがられるというのは、心地好い優越感だった。春ちゃんは幸せそう、と言われれば言われるほど、自分は素晴らしい人間なのだと錯覚した。


ピンク色の美しい日々。
どうして気付かなかったんだろう。桜は散る。

恋人がいる、それだけで無敵な気がした。本当は少しずつ「幸せそう」という言葉の縄に、自分の首を絞められているなんて分からなかった。





優太と出会ったあの日から一年が経ち、私たちは高校2年になった。

始業式の直後、校内で新入生歓迎の中庭ライブを行うため、私たちは部室から中庭にアンプやPA機材を運んだり、ライブの宣伝用の看板を組み立てたりで、大忙しだった。

一通り準備が済んで、一息ついていると優太が声をかけてきた。
「春、準備、お疲れ様。ライブも頑張ろうな。」

「うん、練習の成果、見せようね。」

優太と組んだバンドで初のライブが今日だ。ベースは影山先輩、ドラムは副部長のミカ先輩だ。
ミカ先輩は、黒髪の前下がりボブ、キリッとした目の美人だ。部長がしない仕事も文句を言いながらテキパキこなす、姉御肌な人だ。ミカ先輩は、緊張でガチガチに固まっている私の肩をトンと叩いた。

「春ちゃん、あがってるでしょ〜」

「バレましたか…」

「練習通りにすればいいんだよ。練習でミスってることは本番でもミスる!だから大丈夫!」

「大丈夫なんですかそれ…」

ミカ先輩は、綺麗な歯並びを見せて二カーッと笑う。

「春ちゃん練習でミスんないじゃん。だから本番でもミスんないよ。」

心がスッと軽くなり、私は中庭の簡易ステージへと向かった。

簡易ステージでは、優太が、心底嬉しそうにギターのセッティングをしていた。
影山先輩もミカ先輩も、良い意味で力の抜けた顔で各々の準備を始めた。
緊張が伝染するように、心の余裕も伝染するもので、私は徐々に落ち着きを取り戻した。

ドラムのフォーカウントで曲が始まった。
唄い始めると、見にきていた生徒の視線が私に釘付けになった。怖い。でも嬉しい。
いつも見てもらえない私が今は、見られている。いつも声の小さい私が、今は大声を張り上げている。気張ってしまって、声は少し裏返った。恥ずかしかった。でも、そんな姿ですら、見てもらえている。嬉しい。嬉しくて堪らない。私はここにいる。


最後に私が、見にきていた生徒たちの方にギターのピックを投げた。ワッと歓声が上がる。ピックは弧を描き、遠くまで飛んでいく。まるでバンドを始める前の引っ込み思案だった自分を投げ捨てるような気持ちだった。


中庭ライブは、大盛況に終わった。


私への皆の羨望は更に高まった。「歌が上手いんだね」「彼氏もギター格好いいね」とクラスメイトに言われる度、私は背中を羽が突き破って宇宙まで飛んでいけそうな気分になった。とにかく浮足立っていたし、調子に乗っていた。

優太も私のことを沢山褒めてくれた。
「春の歌が好きだ。」「春とライブ出来て良かった」「春が一番好き。」
甘いピンク色の言葉が、ピタピタと桜が心に貼りつくようだった。
私の心がピンク色に染まっていく。





歓迎ライブが終わってから、軽音楽部には新入部員が沢山入ってきた。
部室は新入生で大賑わいだ。

影山先輩と優太は新入生たちに囲まれながら、ギターの簡単なコード進行なんかを教えていた。
新入生たちの「優太先輩ってギター上手い!凄い!」なんて声が聞こえてくると、私はまるで自分が褒められたような錯覚に陥った。優太の恋人である私まで褒められたような気持ちだ。

新入生に囲まれている優太を遠目に見ながら、私は部室の隅でひっそりとギターを練習していた。一人でギターをチャカチャカ鳴らしていると、なにやら視線を感じた。

肌の白い、背の低い女の子が私を見ていた。肩ぐらいの長さの栗色の髪がフワッと揺れた。目がクリクリとしていて丸い。かわいらしい子だ。少し驚いて私も見つめ返すと、女の子はニコッと笑った。

「あのっ…そんなにギター弾けて凄いなって思って、見つめてしまいました。女の人でギター弾く人って、今まで会ったことなくて。だから素敵です。」

「えーありがとう、でも私ヘタだよ。あっちにいる男の子、上手だよ。」

私は優太を指差した。

「そうなんですね!あとであの方とも話してみます、でも人だかりが凄くて。
あの、私、愛子って言います。よろしくお願いします。」

「愛子ちゃん。よろしくね。」

初めて出来た女の子の後輩。なんだか嬉しい。こんなに可愛らしい子が私を慕ってくれる。これからこんな日々が始まるんだ。
大好きな彼氏。優しい友達。素敵な先輩。可愛い後輩。ピンク色が五月蝿い。五月蝿くて心地好い。幸せだ。

愛子は、私にペコッと頭を下げた後、影山先輩と優太がいる人だかりに向かった。
優太に愛子が声をかける。優太は愛子にニコッと笑って、ギターをまた弾き始めた。優太の伏し目。長い睫毛。
少しだけ、不安が心に襲いかかってきた。神様、どうか愛子が、優太の睫毛の長さに気付きませんように。優太の睫毛が、私の前以外で、湿りませんように。





四月も下旬に入り、桜はほとんど散って、葉桜が春の終焉を告げていた。

四月下旬の連休、私は優太の家にお邪魔した。その日、彼の両親は出かけていたため、私の心臓はいつもより早く、そして大きく脈を打っていた。
優太の部屋に案内され、私たちはどちらからともなく手を繋ぎ、そして、手を繋ぐだけじゃ足りなくなった。彼のベッドで沢山キスをした。ピンク色が真っ赤に染まっていくような感覚で、身体が火照っていく。世界で一番幸せだと思った。


ひとしきりじゃれあった後、彼のスマートフォンで二人、YouTubeで二人の好きなバンドのMVを見ていたとき、まるで緑色の葉桜が春の終わりを告げるかのように、緑色の通知が、ピンク色の日々の終焉を知らせた。

動画を遮って、新着メッセージは私の目に飛び込んだ。勿論彼の目にも。

彼の元に愛子からのLINEのメッセージが入ったのだ。

愛子からのメッセージは
「次はいつ二人で会えますか?早く会いたいです。」というものだった。

それは二人が、すでに二人の時間を過ごしていたことを決定づけるようで、私の逆鱗に触れた。

「優太、これ何なの?」

青ざめた彼の顔。情けない顔。愛しいはずの彼のガタガタの歯が少し震えてカチカチと音が鳴った。カチカチらカチカチ。まるで二人の残りの時間を秒針が刻むかのように、優太の歯は小気味悪い音を立てた。
初めて彼のガタガタの歯を醜いと感じた。

「教えて。何なの?」

優太はほんとに何もない、と何度も言っていた。
歯がカチカチ鳴る音のせいで、何もないわけがないことが分かった。
歯が鳴る度に、優太の細い目がキョロキョロと泳いだ。

男の人は嘘が下手だ。その歯さえ音を立てていなければ、その目さえ私を真っ直ぐ見てくれていれば、私は気付かないフリをしていられるのに。何も知らないフリをして彼のそばにいるのに。私は覚悟を決めて、優太に尋ねた。

「優太は、あの子が好きなの?ほんとのこと言ってほしい。怒らないから。」

勿論、嘘だ。優太がほんとのことを言ったら、私は怒り狂うだろう。

でも優太は、今にも泣き出してしまいそうな顔で、ほんとのことを言った。

「ごめん。愛子ちゃんのことが好きになった。」

私の大好きな優太が、私以外を見ている。
私は、私のことを大好きな優太のことが大好きだったのに。もういないじゃん。優太、どこにもいないじゃん。

ピタピタと心に貼り付いていたピンク色の花びらが、風で吹き飛ばされるような感覚に陥った。身体が冷えていく。血の気が引いていく。ピンク色に上気していた私の顔が青ざめていく。景色がモノクロになっていく。

さよなら、ピンク色の日々。