*すれ違い
~疑い~
それから1か月後…
実習で仲良くなった大ちゃん、佐々木君、優香さんの4人で集まり飲み会をすることになった。
「よし、みんな揃ったな。今日もお疲れ様!乾杯~♪」
「「お疲れ様です」」
私たち4人は会うのが久しぶりなので、話は尽きることなく『お互いの近況や実習の時はこうだったな~』とか色々と話しているうちに時間はどんどん過ぎていった。
私はトイレへ行こうかなと思い、会話の途中で席を立ちお手洗いに向かった。居酒屋のトイレは男女兼用で2つある。手を洗い終わる頃、
“トントン”
とノック音が聞こえた。次の人が待っていると思い、私は急いで扉を開けた。
その瞬間、目の前には背の高い男性が立っていて中に入り、鍵をかける。いきなりのことに驚きながら男性の顔を見上げると、大ちゃんだった。体の力が抜け、少し安心していると大ちゃんが私を包み込み、私の体は温かさに包まれた。
「えっ…」
「なな、会いたかった」
そう言うと大ちゃんは力強く抱きしめ直した。私は動揺しながらも彼の腰に腕を回し、大ちゃんを感じた。次の瞬間、彼の唇が私の唇へと重なる。一気に顔が火照って、ドキドキと心臓が跳ね上がる…。急いで大ちゃんから離れようとするが、彼は唇を重ねたまま強く私を引き寄せた。
『今日の大ちゃんは酔っているから?』酔ってこんなことされても…そんなことを思いながらもドキドキは止まらない。やっぱりもう完全に好き。私の心は大ちゃんに奪われていた。
『トイレで私たち何をしているんだ』『誰かに気づかれたら…』そんなドキドキも混じっていた。
一方で、1つの不安が私のなかで大きくなっている。
『まだ私と大ちゃんって付き合ってないんだよね』
不安が次第に大きくなるなかついに澪ちゃんに相談することを決意し、大学へと戻ることにした。
「澪ちゃん…。ちょっと聞きたいことあるの。
大人になるってどうしたらいい?」
「急にどうしたの?」
「早く大人になりたいの」
「ななはもう成人してるから大人じゃないの?
また、大樹さんになんか言われたんじゃない?」
「なながもっと大人になったら付き合うって言われたの。
だから、早く大人になんなきゃいけないの。
でも、大ちゃんがいう大人の意味が分かんなくて…」
「え!?そんなこと言われたの?
てか、好きなのは認めて、
両思いだって分かったのに付き合ってくれないの?」
「うん…」
あの幸せな夜に大ちゃんに言われたことが胸の中で引っかかっている。まだ、私は大ちゃんの恋人になれた訳ではなかった…。
***
「ななみ、もう少し付き合うのは待ってて欲しい。
ななみが実習生っていうのもあるんだけど」
「あ、ううん。そりゃ実習生だもんね。…まだ無理だよね」
「…それだけじゃないんだ。ななにはもっと大人になって欲しい」
「大人になるって?」
「そこはななみ自身が考えて。
…ななみには人に合わせるとか、頼るとかじゃなくて
もっと自分自身を持ってほしい」
私の頭は真っ白になった。好きだけじゃ一緒に居れない。自分自身を持つって…私には何が足りないの?大ちゃんの求めていることが分からなかった。
***
「そんなの、大樹さん酷いよ」
「でも、私を彼女にするには何かが足りないってことでしょ?
私、甘えたり、弱音はいちゃったりしちゃうからかな。
何も自分で解決できなくて人に頼っちゃうからかな?」
「なな、そんなことない!ななを好きになってくれた人だよ?
なんで、その人に甘えちゃだめなの?頼っちゃダメなの?
そんなのおかしくないかい?…てか、酷すぎる。
付き合えないのに泊まりに誘う?一緒に寝る?
ななには悪いけど、澪は大樹さんのこと嫌いだわ」
「澪ちゃん、でも、私がキスしたいって言っちゃったから」
「それでだけでキスしたんなら、ななのこと何にも考えてないよ。
全然誠実な人じゃない!」
その日から澪ちゃんは大ちゃんの名前すら言わなくなったね。澪ちゃんが私のために怒ってくれたって分かる。自分で何度も考えた。でも、何が正解で、どうしたら大ちゃんの彼女になれるのか、考えても、考えても答えは出なかった。
次第に自分から連絡をすることも少なくなり、大ちゃんからの連絡も減っていった。私は、仕事が忙しいからラインとかも迷惑だよね。それも甘えだと思った。大ちゃんに話したいことはある。でも、そんな事いちいち言ってたら子どもなのかな。自分の気持ちを抑え、我慢しているうちに私がこう言ったら嫌われるんじゃないか。大ちゃんはなんて返して欲しいのだろうと大ちゃんの顔色を窺うようになり、大ちゃんと何を話していいのか、それさえ分からなくなってしまった。
“大人になる”
私にとって一番嫌いな言葉になった。
その後はラインも来なくなり、私は完全に遊ばれただけだったんだと気づいた。私は震える手を必死で押さえながらラインを打ち始める。
“大ちゃんもう苦しい。大人になったらの意味全然分からない。
ななは、大ちゃんのことただ好きなの。
だから、2人で会ったり、ラインするだけでそれだけで幸せだったよ。
でも、ななはまだまだきっと大人になれません。
だって、大ちゃんのこと考えると苦しくなる。
そうなっている自分に嫌気がさすんだ。ごめんなさい。
もう私のグローブ返して欲しいの。
もう会わない方がいいと思うから。返事待っています”
別れを告げよう。前に進もう。そんな気持ちで泣きながら打ったLINE。距離があるだけにすぐには会えない。姿も見えない。表情も温かさも感じることは出来ない。もっと、もっと大ちゃんを感じたいのに…私は冷静さを失っていた。恋ってこんなに苦しいの?恋ってこんなに自分を弱くするんだ。自分が脆くなっていくようですごく怖かった。
私は気分転換に買い物へ出かけた。何もかも忘れよう。忘れたい、忘れなきゃいけない。なのに何で…
♪ブーブーブーブー
買い物の帰りに電話が鳴っている。
“佐々木大樹”
見覚えのある、でもなぜか懐かしさを感じる名前であった。何か月ぶりだろう、大樹さんの名前が表示されたのは…一瞬ためらったが、もうこれで終わりにしよう、ケジメをつけようと思い、電話に出た。
「はい…」
「ななみ。ラインありがとう。今大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
「最近忙しくて、ラインすら返してなくてごめん。
不安にさせたよな。俺のことで苦しい思いさせてごめんな。」
「もういいんだよ。私の独りよがりだっただけ」
「グローブ…なんだけど、俺はやっぱりまだ持っていたい」
「どうして?どうしてそんなこと言うの?
もうなな苦しいんだよ。離れたいんだよ。
グローブは高校の思いで詰まっているからそれだけは返して欲しいの。
お願いします」
「うん、分かってる。
でもな、一番初めにななみに伝えたこと覚えているか?
俺はどんな関係になったってななみと縁は切りたくない」
「そんなこと言ったって。苦しいんだよ…。
ななだって、ななだって大ちゃんと本当に離れたいわけじゃないよ。
好きだもん…」
「うん、うん。じゃあ少し落ち着くまで俺待ってる。
待ってるからLINEいつでもしてこいよ。
そしたらまた、キャッチボールもしような」
「大ちゃんの…バカ」
大ちゃんは本当にずるい。ずるいよ。私が近づいたら離れて、私が離れたら引き寄せて…。
駆け引きなんて私なんかにできない。心の整理にだって時間がかかる。
でも、なんでだろう。泣きながら頷いている私が居た。大ちゃんは、私のなかでちゃんと整理ができるまで待っててくれるんだ。本当は待ってて欲しい。いつまでも子どものななを待ってて欲しかった…。
2017年4月…
大ちゃんと連絡を取らなくなり、私と澪ちゃんは大学4年生に進級し、大学生活最後の年を迎えた。4年生は、2回目の実習に、卒業論文、就職活動、国家試験と盛りだくさんの学年である。毎日、毎日、忙しい日々を過ごしている。このくらい忙しい方が、気持ちは楽だ。だって、大ちゃんのこと考えなくて済むんだから。
♪ピンポーン
LINEの音がして、スマホを手に取る。大ちゃんと連絡を取らなくなってから、LINEが鳴るのは久しぶりのように感じた。しかも初めて見る名前にびっくりした。
“中尾さん”
そういえば、大ちゃんと電話をした時、中尾さんが大ちゃんの部屋に入ってきたのを思い出した。話が盛り上がり、年が近いからって大ちゃんが勝手に中尾さんに私のLINEを教えていたのだ。
“千葉さん、久しぶり。大樹さんに言うなって言われたんだけど、
この前大樹さん、血を吐いたんだ。”
『えっ…どういうこと?』血を吐くってよっぽどじゃないとそんなことにならないよね?心がゾワゾワと震え始める。
“中尾さん、お久しぶりです。それ本当ですか?”
“マジなんだよ。大樹さん仕事しすぎてろくに寝てないんだ。
休みもなくて…。千葉さんからも無理しないように話して欲しいんだけど”
“それは心配ですね。でも、私に言うなって言われたんじゃないんですか?”
“そうなんだけど、千葉さん、大樹さんと実習の時から仲良かったし、
この前も電話してたからてっきりいい感じなのかなって思ってたけど…
違ったか?”
違くはない…。でも、今は大ちゃんに連絡なんてできない。心の整理が出来てきたと思っていたけれど、中尾さんから大ちゃんの話が出ただけで胸が苦しくなる。やっぱりまだ心は晴れていないようだ。大ちゃんのことはとても心配で居てもたってもいられないのが正直なところで中尾さんに詳しく大ちゃんの様子を聞いてしまう。
どうやら大ちゃんはとても無理をしているようで、本当はドクターストップが出ていて、入院をするレベルらしいが先生に無理を言って、病院で点滴を受けてから仕事に行って夜中まで働くという生活を続けているようだ。
“分かりました。私からも連絡してみます。とても心配なので”
“よろしくな”
私は数か月ぶりに大ちゃんのLINEを開いた。最後はそういえば電話だったなそんなことを思いながら、文章を打つ。
“大ちゃん、久しぶり。元気じゃないの聞いたよ。
みんな心配してる。大ちゃんはもっと仲間を頼った方がいいよ。
協力してくれる、助けてくれる人は大ちゃんの周りに沢山いるでしょう?”
“ななみ、久しぶり。そんなこと誰に聞いたんだ?
俺は元気だぞ?もしかして優香か?”
“違います。中尾さんです。本当に心配してましたよ?”
“あいつか…余計なこと言って。
とにかく俺は大丈夫だ!心配するな!”
どうして大ちゃんはいつもこうなのだろう。『大丈夫、大丈夫』っていつも一人で全部抱えて、弱音を全然吐かないし、強いふりをしている。だって、『周りに頼んないと良い支援はできない、チームなんだから』って教えてくれたのは大ちゃんだよ?なのに、自分はいつも無理ばっかして、辛いのに一人で何とかしようとする。本当にバカ!
“もう、本当にバカ。みんなは大ちゃんに頼って欲しいんだよ。
中尾さん言ってた。
いつも大樹さんに助けられてばっかりだから、
もっと大樹さんに頼られたいって。
私もそうだったよ。
大ちゃんが苦しい思いしてるのなら助けたいし、
もっと大ちゃんに頼られたい。
大ちゃんはそういうみんなの思いを裏切ってるんだよ?”
“ななみ…そう思ってたのか。
ごめん、俺、自分で何とかしなきゃって焦ってた。”
“みんな心配してる。だから、仕事を全部抱え込まなくていいんじゃない?”
“分かった。ありがとう。”
大ちゃんをそこまで苦しめているものが何かは分からない。彼は本当に責任感が強くて、まっすぐで、どんどん溜め込んじゃってただけなのかな?それとも前に聞いた親友の分も頑張らなきゃって思いこみすぎているのかな?少しずつだけど大ちゃんに近づけていたと思っていたのに、まだまだ知らないことが多くて、切なくなる。
大ちゃんが一匹オオカミみたいに見える時が沢山あった。
2017年8月…
北海道は夏を迎え、気温が上がり日差しが厳しい日が続いている。
「もしも~しお久しぶり!優香だけど、元気―?」
「優香さんだぁ♪元気でしたよ。急にどうしたんですか?」
「いや~、ただ元気にしているかなと思って!
4年生結構メンタル的にくるじゃん(笑)
良かったら、お盆にまたみんなで集まらない?」
「あ~いいですね!」
「それじゃあ、場所は前行った居酒屋で、日程調整は頼んでもいい?」
「分かりました!皆さんに聞いてみますね。」
そういえば、去年の12月にみんなで忘年会したんだっけ。懐かしい。しかし、優香さんはいつでも元気だな。一瞬、大ちゃんの顔が頭をよぎったが、優香さんには会いたい。
それに気分転換にもなりそうだし…。そういえば、実習からもう1年経つんだ。とても早いな。私は、実習での出来事を思い返しながら電車に乗り、優香さんたちとの待ち合わせ場所へ向かった。
久しぶりに顔を合わせる4人。大ちゃんは相変わらず遅れて来た。席に座る前、『久しぶり〜』と言いながら、わたしの頭をくしゃくしゃに撫でる。大ちゃんの何気ない行動に、私はやはりいちいち反応してしまう。
久しぶりに会ったのに、いつも通り会話は盛り上がり、お酒も進む。酔いが回り始めた頃、大ちゃんが口を開いた。
「なぁ~いつもこの席順だし、席替えしようぜ~」
「えー、佐々木さん面倒だからこのままで良いんじゃないですか~?」
「いい~から。じゃあ、ななみが俺の隣で、佐々木君が優香の隣な~」
そういって大ちゃんは指示を出した。どこまで無神経なのだろう。そう思いつつ、私と佐々木君は席を交換した。一気に近づいた距離にドキドキが高まる。久しぶりだ、この匂い…。微かではあるが、大ちゃんの匂いがしている。その後も話は尽きることなく、飲み放題の時間もあと少し。
終わっちゃうのは寂しい、やっぱりこの4人は楽しいな。正直、一番大ちゃんと離れたくない。やっぱりまだすごく好きなんだ私。心の整理なんていつまでもついてない。涙をぐっとこらえ残り僅かな時間を過ごしていた。
「失礼します。ラストオーダーのお時間ですが、ご注文ありますか?」
店員さんが、声を掛けてきた。4人全員で店員に注目する。
その時、大ちゃんは他の2人の目を盗み、私の手を握ってきた。『えっ。ちょっと…こんなのバレちゃうよ…』一気に私に緊張がはしった。大ちゃんは何度も私の手を握り直す。身動きが取れないまま、飲み放題の時間は終わった。大ちゃんの行動は今日も全く読むことができなかった。本当に私の心をかき乱す。大ちゃんと私は言葉を交わすことがないまま4人は解散した。
私は優香さんの家に今日は泊まることになっていたので、優香さんの家へと向かい寝る準備を済ませ、テレビを見ながらくつろいでいた。
「千葉ちゃん、今日、佐々木さんと手繋いでたでしょ?」
唐突な質問に、動揺を隠しきれない。もう~バレてんじゃんか…。
「えっ。それは、あの…その…」
「見えてたから、嘘ついても無駄だよ(笑)
…千葉ちゃん、佐々木さんはやめた方いいよ。
あの男に引っかかっちゃダメ。
あの人、優しいから職場でもモテてるんだよね。
今までにも職場内で付き合っていたことも多いし。
今だって、私が知ってる限りだけど2人と噂たってるんだよ」
「えっ。なんの噂ですか?」
「付き合っているって噂だよ!」
うそ、そんなの、うそだよね。
大ちゃん私のこと好きって言ってくれてたよね?
私が早く大人になれなかったから?
連絡しなかったから?
全然、会えなかったから?
待ってるって言っていたよね?
なんで?どうして?
「千葉ちゃんも実習の時、会ったことあるはず…。
ひまわりユニットの人だよ。
千葉ちゃんと同い年だって話してたよね。
いつも佐々木さん4、5人のグループで遊んでるんだけど、
そのなかの一人でね、
前、佐々木さんの家に1人で遊びに行ってたって噂だよ」
あの子だ…。私は一年前の記憶をたどった。ショートカットの似合う可愛らしい子で、仕事もテキパキやっていて、家族様にお茶を出したり、すごく気が回る子だったのを覚えている。確かに、私と違って、大人な雰囲気がある。
「もう一人は、
佐々木さん施設長の知り合いの娘さんとお見合いしたんだけど、
どうやらうまくい言ってるのか、月に2回くらい会ってるらしいよ。
いつも施設長にその子とどう?って聞かれたりしてるし…」
『うそ…。お見合いをしたのは大ちゃんから聞いた。
でも、まだ会っているなんて聞いてない』だって、お見合いの話を聞いて、嫉妬して、思わず告白しちゃったんだよ?それで、俺もななみが好きって言ってくれたんじゃん。
私は黙って、優香さんの話を聞くことしかできなかった。心がズキズキと痛み、息ができないくらい心が締め付けられている。気づくと、ぼたぼたと大粒の涙が流れ落ちてた。優香さんには気づかれたくない。その一心で、涙を拭かず、こらえようと必死だったが、どう頑張っても止まらない涙。
「千葉ちゃん、もう遅かった?
もう、佐々木さんに手出されたんじゃない?」
「……」
質問には答えられない。優香さんは大ちゃんと一緒に仕事をしている。大ちゃんの邪魔はしたくない。なのに、涙は止まる気配はない。思わず、布団をかぶった。無言のまま涙をこらえようとするが、逆に声まで出そうになる。スマホをみると1件のメッセージが届いている。大ちゃんからだ。メッセージを開くと
“久しぶりに会えてうれしかった。
どうしてもななみの隣に座りたくて、
そしたら手も握りたくなって我慢できなかった。
いきなりごめんな。来てくれてありがとう”
その夜は、布団をかぶったまま声を殺しながら泣き続けた…。大ちゃんの何が本当で、何が嘘か分からない。この時、自分がこんなに泣くとは思っていなかった。こんなに涙が出るくらいきっと私は大ちゃんのことが好きで、もう後戻りができないことを知った。
~疑い~
それから1か月後…
実習で仲良くなった大ちゃん、佐々木君、優香さんの4人で集まり飲み会をすることになった。
「よし、みんな揃ったな。今日もお疲れ様!乾杯~♪」
「「お疲れ様です」」
私たち4人は会うのが久しぶりなので、話は尽きることなく『お互いの近況や実習の時はこうだったな~』とか色々と話しているうちに時間はどんどん過ぎていった。
私はトイレへ行こうかなと思い、会話の途中で席を立ちお手洗いに向かった。居酒屋のトイレは男女兼用で2つある。手を洗い終わる頃、
“トントン”
とノック音が聞こえた。次の人が待っていると思い、私は急いで扉を開けた。
その瞬間、目の前には背の高い男性が立っていて中に入り、鍵をかける。いきなりのことに驚きながら男性の顔を見上げると、大ちゃんだった。体の力が抜け、少し安心していると大ちゃんが私を包み込み、私の体は温かさに包まれた。
「えっ…」
「なな、会いたかった」
そう言うと大ちゃんは力強く抱きしめ直した。私は動揺しながらも彼の腰に腕を回し、大ちゃんを感じた。次の瞬間、彼の唇が私の唇へと重なる。一気に顔が火照って、ドキドキと心臓が跳ね上がる…。急いで大ちゃんから離れようとするが、彼は唇を重ねたまま強く私を引き寄せた。
『今日の大ちゃんは酔っているから?』酔ってこんなことされても…そんなことを思いながらもドキドキは止まらない。やっぱりもう完全に好き。私の心は大ちゃんに奪われていた。
『トイレで私たち何をしているんだ』『誰かに気づかれたら…』そんなドキドキも混じっていた。
一方で、1つの不安が私のなかで大きくなっている。
『まだ私と大ちゃんって付き合ってないんだよね』
不安が次第に大きくなるなかついに澪ちゃんに相談することを決意し、大学へと戻ることにした。
「澪ちゃん…。ちょっと聞きたいことあるの。
大人になるってどうしたらいい?」
「急にどうしたの?」
「早く大人になりたいの」
「ななはもう成人してるから大人じゃないの?
また、大樹さんになんか言われたんじゃない?」
「なながもっと大人になったら付き合うって言われたの。
だから、早く大人になんなきゃいけないの。
でも、大ちゃんがいう大人の意味が分かんなくて…」
「え!?そんなこと言われたの?
てか、好きなのは認めて、
両思いだって分かったのに付き合ってくれないの?」
「うん…」
あの幸せな夜に大ちゃんに言われたことが胸の中で引っかかっている。まだ、私は大ちゃんの恋人になれた訳ではなかった…。
***
「ななみ、もう少し付き合うのは待ってて欲しい。
ななみが実習生っていうのもあるんだけど」
「あ、ううん。そりゃ実習生だもんね。…まだ無理だよね」
「…それだけじゃないんだ。ななにはもっと大人になって欲しい」
「大人になるって?」
「そこはななみ自身が考えて。
…ななみには人に合わせるとか、頼るとかじゃなくて
もっと自分自身を持ってほしい」
私の頭は真っ白になった。好きだけじゃ一緒に居れない。自分自身を持つって…私には何が足りないの?大ちゃんの求めていることが分からなかった。
***
「そんなの、大樹さん酷いよ」
「でも、私を彼女にするには何かが足りないってことでしょ?
私、甘えたり、弱音はいちゃったりしちゃうからかな。
何も自分で解決できなくて人に頼っちゃうからかな?」
「なな、そんなことない!ななを好きになってくれた人だよ?
なんで、その人に甘えちゃだめなの?頼っちゃダメなの?
そんなのおかしくないかい?…てか、酷すぎる。
付き合えないのに泊まりに誘う?一緒に寝る?
ななには悪いけど、澪は大樹さんのこと嫌いだわ」
「澪ちゃん、でも、私がキスしたいって言っちゃったから」
「それでだけでキスしたんなら、ななのこと何にも考えてないよ。
全然誠実な人じゃない!」
その日から澪ちゃんは大ちゃんの名前すら言わなくなったね。澪ちゃんが私のために怒ってくれたって分かる。自分で何度も考えた。でも、何が正解で、どうしたら大ちゃんの彼女になれるのか、考えても、考えても答えは出なかった。
次第に自分から連絡をすることも少なくなり、大ちゃんからの連絡も減っていった。私は、仕事が忙しいからラインとかも迷惑だよね。それも甘えだと思った。大ちゃんに話したいことはある。でも、そんな事いちいち言ってたら子どもなのかな。自分の気持ちを抑え、我慢しているうちに私がこう言ったら嫌われるんじゃないか。大ちゃんはなんて返して欲しいのだろうと大ちゃんの顔色を窺うようになり、大ちゃんと何を話していいのか、それさえ分からなくなってしまった。
“大人になる”
私にとって一番嫌いな言葉になった。
その後はラインも来なくなり、私は完全に遊ばれただけだったんだと気づいた。私は震える手を必死で押さえながらラインを打ち始める。
“大ちゃんもう苦しい。大人になったらの意味全然分からない。
ななは、大ちゃんのことただ好きなの。
だから、2人で会ったり、ラインするだけでそれだけで幸せだったよ。
でも、ななはまだまだきっと大人になれません。
だって、大ちゃんのこと考えると苦しくなる。
そうなっている自分に嫌気がさすんだ。ごめんなさい。
もう私のグローブ返して欲しいの。
もう会わない方がいいと思うから。返事待っています”
別れを告げよう。前に進もう。そんな気持ちで泣きながら打ったLINE。距離があるだけにすぐには会えない。姿も見えない。表情も温かさも感じることは出来ない。もっと、もっと大ちゃんを感じたいのに…私は冷静さを失っていた。恋ってこんなに苦しいの?恋ってこんなに自分を弱くするんだ。自分が脆くなっていくようですごく怖かった。
私は気分転換に買い物へ出かけた。何もかも忘れよう。忘れたい、忘れなきゃいけない。なのに何で…
♪ブーブーブーブー
買い物の帰りに電話が鳴っている。
“佐々木大樹”
見覚えのある、でもなぜか懐かしさを感じる名前であった。何か月ぶりだろう、大樹さんの名前が表示されたのは…一瞬ためらったが、もうこれで終わりにしよう、ケジメをつけようと思い、電話に出た。
「はい…」
「ななみ。ラインありがとう。今大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
「最近忙しくて、ラインすら返してなくてごめん。
不安にさせたよな。俺のことで苦しい思いさせてごめんな。」
「もういいんだよ。私の独りよがりだっただけ」
「グローブ…なんだけど、俺はやっぱりまだ持っていたい」
「どうして?どうしてそんなこと言うの?
もうなな苦しいんだよ。離れたいんだよ。
グローブは高校の思いで詰まっているからそれだけは返して欲しいの。
お願いします」
「うん、分かってる。
でもな、一番初めにななみに伝えたこと覚えているか?
俺はどんな関係になったってななみと縁は切りたくない」
「そんなこと言ったって。苦しいんだよ…。
ななだって、ななだって大ちゃんと本当に離れたいわけじゃないよ。
好きだもん…」
「うん、うん。じゃあ少し落ち着くまで俺待ってる。
待ってるからLINEいつでもしてこいよ。
そしたらまた、キャッチボールもしような」
「大ちゃんの…バカ」
大ちゃんは本当にずるい。ずるいよ。私が近づいたら離れて、私が離れたら引き寄せて…。
駆け引きなんて私なんかにできない。心の整理にだって時間がかかる。
でも、なんでだろう。泣きながら頷いている私が居た。大ちゃんは、私のなかでちゃんと整理ができるまで待っててくれるんだ。本当は待ってて欲しい。いつまでも子どものななを待ってて欲しかった…。
2017年4月…
大ちゃんと連絡を取らなくなり、私と澪ちゃんは大学4年生に進級し、大学生活最後の年を迎えた。4年生は、2回目の実習に、卒業論文、就職活動、国家試験と盛りだくさんの学年である。毎日、毎日、忙しい日々を過ごしている。このくらい忙しい方が、気持ちは楽だ。だって、大ちゃんのこと考えなくて済むんだから。
♪ピンポーン
LINEの音がして、スマホを手に取る。大ちゃんと連絡を取らなくなってから、LINEが鳴るのは久しぶりのように感じた。しかも初めて見る名前にびっくりした。
“中尾さん”
そういえば、大ちゃんと電話をした時、中尾さんが大ちゃんの部屋に入ってきたのを思い出した。話が盛り上がり、年が近いからって大ちゃんが勝手に中尾さんに私のLINEを教えていたのだ。
“千葉さん、久しぶり。大樹さんに言うなって言われたんだけど、
この前大樹さん、血を吐いたんだ。”
『えっ…どういうこと?』血を吐くってよっぽどじゃないとそんなことにならないよね?心がゾワゾワと震え始める。
“中尾さん、お久しぶりです。それ本当ですか?”
“マジなんだよ。大樹さん仕事しすぎてろくに寝てないんだ。
休みもなくて…。千葉さんからも無理しないように話して欲しいんだけど”
“それは心配ですね。でも、私に言うなって言われたんじゃないんですか?”
“そうなんだけど、千葉さん、大樹さんと実習の時から仲良かったし、
この前も電話してたからてっきりいい感じなのかなって思ってたけど…
違ったか?”
違くはない…。でも、今は大ちゃんに連絡なんてできない。心の整理が出来てきたと思っていたけれど、中尾さんから大ちゃんの話が出ただけで胸が苦しくなる。やっぱりまだ心は晴れていないようだ。大ちゃんのことはとても心配で居てもたってもいられないのが正直なところで中尾さんに詳しく大ちゃんの様子を聞いてしまう。
どうやら大ちゃんはとても無理をしているようで、本当はドクターストップが出ていて、入院をするレベルらしいが先生に無理を言って、病院で点滴を受けてから仕事に行って夜中まで働くという生活を続けているようだ。
“分かりました。私からも連絡してみます。とても心配なので”
“よろしくな”
私は数か月ぶりに大ちゃんのLINEを開いた。最後はそういえば電話だったなそんなことを思いながら、文章を打つ。
“大ちゃん、久しぶり。元気じゃないの聞いたよ。
みんな心配してる。大ちゃんはもっと仲間を頼った方がいいよ。
協力してくれる、助けてくれる人は大ちゃんの周りに沢山いるでしょう?”
“ななみ、久しぶり。そんなこと誰に聞いたんだ?
俺は元気だぞ?もしかして優香か?”
“違います。中尾さんです。本当に心配してましたよ?”
“あいつか…余計なこと言って。
とにかく俺は大丈夫だ!心配するな!”
どうして大ちゃんはいつもこうなのだろう。『大丈夫、大丈夫』っていつも一人で全部抱えて、弱音を全然吐かないし、強いふりをしている。だって、『周りに頼んないと良い支援はできない、チームなんだから』って教えてくれたのは大ちゃんだよ?なのに、自分はいつも無理ばっかして、辛いのに一人で何とかしようとする。本当にバカ!
“もう、本当にバカ。みんなは大ちゃんに頼って欲しいんだよ。
中尾さん言ってた。
いつも大樹さんに助けられてばっかりだから、
もっと大樹さんに頼られたいって。
私もそうだったよ。
大ちゃんが苦しい思いしてるのなら助けたいし、
もっと大ちゃんに頼られたい。
大ちゃんはそういうみんなの思いを裏切ってるんだよ?”
“ななみ…そう思ってたのか。
ごめん、俺、自分で何とかしなきゃって焦ってた。”
“みんな心配してる。だから、仕事を全部抱え込まなくていいんじゃない?”
“分かった。ありがとう。”
大ちゃんをそこまで苦しめているものが何かは分からない。彼は本当に責任感が強くて、まっすぐで、どんどん溜め込んじゃってただけなのかな?それとも前に聞いた親友の分も頑張らなきゃって思いこみすぎているのかな?少しずつだけど大ちゃんに近づけていたと思っていたのに、まだまだ知らないことが多くて、切なくなる。
大ちゃんが一匹オオカミみたいに見える時が沢山あった。
2017年8月…
北海道は夏を迎え、気温が上がり日差しが厳しい日が続いている。
「もしも~しお久しぶり!優香だけど、元気―?」
「優香さんだぁ♪元気でしたよ。急にどうしたんですか?」
「いや~、ただ元気にしているかなと思って!
4年生結構メンタル的にくるじゃん(笑)
良かったら、お盆にまたみんなで集まらない?」
「あ~いいですね!」
「それじゃあ、場所は前行った居酒屋で、日程調整は頼んでもいい?」
「分かりました!皆さんに聞いてみますね。」
そういえば、去年の12月にみんなで忘年会したんだっけ。懐かしい。しかし、優香さんはいつでも元気だな。一瞬、大ちゃんの顔が頭をよぎったが、優香さんには会いたい。
それに気分転換にもなりそうだし…。そういえば、実習からもう1年経つんだ。とても早いな。私は、実習での出来事を思い返しながら電車に乗り、優香さんたちとの待ち合わせ場所へ向かった。
久しぶりに顔を合わせる4人。大ちゃんは相変わらず遅れて来た。席に座る前、『久しぶり〜』と言いながら、わたしの頭をくしゃくしゃに撫でる。大ちゃんの何気ない行動に、私はやはりいちいち反応してしまう。
久しぶりに会ったのに、いつも通り会話は盛り上がり、お酒も進む。酔いが回り始めた頃、大ちゃんが口を開いた。
「なぁ~いつもこの席順だし、席替えしようぜ~」
「えー、佐々木さん面倒だからこのままで良いんじゃないですか~?」
「いい~から。じゃあ、ななみが俺の隣で、佐々木君が優香の隣な~」
そういって大ちゃんは指示を出した。どこまで無神経なのだろう。そう思いつつ、私と佐々木君は席を交換した。一気に近づいた距離にドキドキが高まる。久しぶりだ、この匂い…。微かではあるが、大ちゃんの匂いがしている。その後も話は尽きることなく、飲み放題の時間もあと少し。
終わっちゃうのは寂しい、やっぱりこの4人は楽しいな。正直、一番大ちゃんと離れたくない。やっぱりまだすごく好きなんだ私。心の整理なんていつまでもついてない。涙をぐっとこらえ残り僅かな時間を過ごしていた。
「失礼します。ラストオーダーのお時間ですが、ご注文ありますか?」
店員さんが、声を掛けてきた。4人全員で店員に注目する。
その時、大ちゃんは他の2人の目を盗み、私の手を握ってきた。『えっ。ちょっと…こんなのバレちゃうよ…』一気に私に緊張がはしった。大ちゃんは何度も私の手を握り直す。身動きが取れないまま、飲み放題の時間は終わった。大ちゃんの行動は今日も全く読むことができなかった。本当に私の心をかき乱す。大ちゃんと私は言葉を交わすことがないまま4人は解散した。
私は優香さんの家に今日は泊まることになっていたので、優香さんの家へと向かい寝る準備を済ませ、テレビを見ながらくつろいでいた。
「千葉ちゃん、今日、佐々木さんと手繋いでたでしょ?」
唐突な質問に、動揺を隠しきれない。もう~バレてんじゃんか…。
「えっ。それは、あの…その…」
「見えてたから、嘘ついても無駄だよ(笑)
…千葉ちゃん、佐々木さんはやめた方いいよ。
あの男に引っかかっちゃダメ。
あの人、優しいから職場でもモテてるんだよね。
今までにも職場内で付き合っていたことも多いし。
今だって、私が知ってる限りだけど2人と噂たってるんだよ」
「えっ。なんの噂ですか?」
「付き合っているって噂だよ!」
うそ、そんなの、うそだよね。
大ちゃん私のこと好きって言ってくれてたよね?
私が早く大人になれなかったから?
連絡しなかったから?
全然、会えなかったから?
待ってるって言っていたよね?
なんで?どうして?
「千葉ちゃんも実習の時、会ったことあるはず…。
ひまわりユニットの人だよ。
千葉ちゃんと同い年だって話してたよね。
いつも佐々木さん4、5人のグループで遊んでるんだけど、
そのなかの一人でね、
前、佐々木さんの家に1人で遊びに行ってたって噂だよ」
あの子だ…。私は一年前の記憶をたどった。ショートカットの似合う可愛らしい子で、仕事もテキパキやっていて、家族様にお茶を出したり、すごく気が回る子だったのを覚えている。確かに、私と違って、大人な雰囲気がある。
「もう一人は、
佐々木さん施設長の知り合いの娘さんとお見合いしたんだけど、
どうやらうまくい言ってるのか、月に2回くらい会ってるらしいよ。
いつも施設長にその子とどう?って聞かれたりしてるし…」
『うそ…。お見合いをしたのは大ちゃんから聞いた。
でも、まだ会っているなんて聞いてない』だって、お見合いの話を聞いて、嫉妬して、思わず告白しちゃったんだよ?それで、俺もななみが好きって言ってくれたんじゃん。
私は黙って、優香さんの話を聞くことしかできなかった。心がズキズキと痛み、息ができないくらい心が締め付けられている。気づくと、ぼたぼたと大粒の涙が流れ落ちてた。優香さんには気づかれたくない。その一心で、涙を拭かず、こらえようと必死だったが、どう頑張っても止まらない涙。
「千葉ちゃん、もう遅かった?
もう、佐々木さんに手出されたんじゃない?」
「……」
質問には答えられない。優香さんは大ちゃんと一緒に仕事をしている。大ちゃんの邪魔はしたくない。なのに、涙は止まる気配はない。思わず、布団をかぶった。無言のまま涙をこらえようとするが、逆に声まで出そうになる。スマホをみると1件のメッセージが届いている。大ちゃんからだ。メッセージを開くと
“久しぶりに会えてうれしかった。
どうしてもななみの隣に座りたくて、
そしたら手も握りたくなって我慢できなかった。
いきなりごめんな。来てくれてありがとう”
その夜は、布団をかぶったまま声を殺しながら泣き続けた…。大ちゃんの何が本当で、何が嘘か分からない。この時、自分がこんなに泣くとは思っていなかった。こんなに涙が出るくらいきっと私は大ちゃんのことが好きで、もう後戻りができないことを知った。