*もう戻れない
~弱い自分~
北海道の短い夏が終わる8月下旬…
「あ~なんか食欲がない。体も重たい…。仕事行かなくちゃいけないのに」
私は重たい体を起こし、仕事へ向かう。最近は、施設で風邪が流行っていて、マスクは必須だが、集団生活をしている入居者への感染はどうしても広がってしまう。じっとしていられない人たち、マスクを取ってしまう人たち、なかなか、対応は難しい。そのうち職員にも感染して、最近はシフトがバラバラで体がついていかない。
『もしかして、私まで…。
でも、今は代わりの人はいないんだ、頑張らなきゃ!』
そうした日々が長く続いた。
それでも左腕に着けているブレスレットを見ると頑張れた。大ちゃんもきっとお仕事頑張っている、そう思ったら私も頑張ろうって本当に思えて1日、1日を乗り越えられた。大ちゃんとお揃いのブレスレット。一日中肌身離さず身につけている。仕事中は手首にはつけられないので、制服の胸ポケットに忍ばせていた。
♪ブーブーブーブー
「はい…」
「ななみ、久しぶり。今大丈夫か?」
「あ、大ちゃん。大丈夫だよ。さっき仕事終わったの」
「お疲れ様!なんか疲れた声しているな。大丈夫か?」
「そうかな?全然大丈夫だよ!」
「ならいいけど、家着いたのか?」
「あ、まだ。仕事終わってちょっと車で…。
え!?もう18時!?」
「びっくりしたー。
何時から車で休んでいたんだよ」
「15時…ははは、ちょっと寝過ぎた」
「はぁ?本当に大丈夫か?」
「んー最近、施設で風邪流行っていたし、
そのせいでシフト変更ばっかりだったからちょっと疲れていたかも。
大丈夫、大丈夫」
「大丈夫じゃねーな。早く家帰って寝ろ」
「え、やだ。だって久しぶりに大ちゃんの声聞けたんだよ?」
「また、時間空いたらかけるから、今日は我慢しろ!」
「そうだよね。駄々こねてごめん。じゃあまたね?」
私はそう言って電話を切った。
本当に体調が悪かったのもあるけど、大ちゃんにしつこくしたり、仕事にまだ慣れないんだって思われて嫌われるのが怖かった。せっかく声を聞けたのに…。すごく悔しい、もっと大ちゃんの声聞いてたかったよ。
それにしても仕事が終わって、気持ち悪くて3時間も車で寝ていたなんて…。やっぱり最近の体調はおかしいな。
ユニット内の風邪がやっとおさまってきたかなという頃、夜勤中、酷い吐き気に襲われた。
『なんだろう、これ…。
1人夜勤のなか倒れるわけにはいかない。
まだ夜中の3時過ぎ、でも、あと3時間は持たないよ』
そう思い、私は早番の職員に連絡を入れた。そうすると、“今から行くから、もう少し頑張って”と返信がすぐ来て安心した。とりあえず、それまで入居者のコールは対応しなきゃ。
「千葉ちゃん?大丈夫?もう帰って寝なさい。
上司には私が話しておくから」
「すみません。こんなに朝早くに…」
そこで私の記憶は飛んでしまった。気づくとユニット内のソファの上で横になっていて、いつも私に優しくしてくれるおばあちゃんが横に座っていた。他の入居者も朝ご飯を食べている。時計を見ると朝の8時を過ぎていた。
「千葉ちゃん、起きた?
少しはマシになった?」
「はい…」
「急に倒れたからびっくりしたよ。
今日はタクシー呼んで帰りなさい」
「はい…」
私はまだボーっとする頭を何とか起こし、自分の車は職場に置いたまま家に帰った。
『私、倒れちゃったんだ。また、職員の人たちに迷惑かけた。
しっかりしなきゃ。でも、なんだろう。この吐き気と倦怠感…』
『今日は日曜日だから、明日病院に行こう』そう思い、今日は家で休むことに決めた。
「ん~。熱もないし、喉も腫れていない。
最近、ご飯はしっかり食べていますか?」
「それが、吐き気があって食欲がわかなくて、
食べれていません」
「そうなんだね。今日は点滴してもらうかな。
これからも吐き気と倦怠感続くようなら、また来てください」
その日は点滴をして家に帰った。でも、やっぱり吐き気は続いた。もしかして妊娠とか?でも、心当たりはない。理由が分からない日々が続いた。仕事には行くのだが、体力が持たない。職場でも、私を気遣ってシフトの調整やサポート体制を練ってくれた。
その後、婦人科や内科に何回通っても原因は分からず、病院を変えてもその原因は分からなかった。日に日に、体力も落ちもう仕事をし続けるのは辛い。原因が分からないのも精神的に自分のことを追いやっていった。
“大ちゃん、ちょっと声聞きたい”
“時間作るから、ちょっと待っていてな”
大ちゃんは相変わらず忙しい。すごく忙しいのだろう、ラインが来ない日が続くこともあった。そんな忙しい大ちゃんに、『仕事に行けなくて…』なんて話せず、元気な振りをしていた。
少しでも大ちゃんの声を聞けたらもう少し頑張れるかもしれない。ここで弱音ばっかり話したら、また大ちゃんに子どもだなって言われる。嫌われるのが怖くて、自分を誤魔化すことに必死になっていた。
そんな時、ひろから電話が入った。私が大ちゃんと付き合ったことを伝えてから、ひろから連絡来ることは減っていたので、とても久しぶりに感じた。
「なな、久しぶり。最近どうかなって思って…」
久しぶりのひろの声。なんだか安心した。その途端に涙が溢れた。
「ひろ…」
「えっ?なな、泣いてるの?どうしたんだよ」
私はひろに全部話した。
『一人で辛い。仕事に行けない自分、職員に迷惑をかける自分が嫌だ。
なんかの病気なのか。原因も分からず不安だ』ということ全部、全部話した。
「分かった。明日行く。待ってろ」
ひろはそう言って、私が泣くのをずっと聞き続けた。
「大丈夫だから、一人じゃないから」
そう言ってくれるひろが心強かった。その日は私が眠りにつくまで電話を切らずに側に居てくれた。
♪ピンポーン
誰だろう…玄関のインターホンにはひろが映っていた。『えっ…。本当に来てくれたの!?』急いで玄関を開ける。
「ひろ、本当に来てくれたの?」
その瞬間、ひろは私を抱きしめた。ひろの温かさが私の体中に伝わる。
「なな、不安だったな。気づいてやれなくてごめん」
「ひろは何も悪くないよ。ひろが謝ることなんて何もない」
ひろは本当に優しい人だ。ななのために一緒に泣いてくれて、仕事を休んでまで朝一の飛行機で北海道まで来てくれるなんて。
『どうして?どうしてそんなに
なな、なんかに優しくしてくれるの?
ななの弱いところを許してくれるの?』
その日は一日中涙が止まらなかった。目が腫れても泣き続けた。
『私は弱い』
そう認めるしかなかった。認めたくなかったからここまで仕事頑張ったのに。大ちゃんに弱音を吐かず頑張ったのに。我慢してたものが一気に溢れ出したように、声を荒げて泣き続けた。
「なな、一回休憩してもいいんだぞ。
また頑張れるようになったら、
その時、また頑張ればいいんだから。
それは何も弱いことじゃない。
だから、ちょっと休もう」
「いや…大ちゃんに嫌われる。
やっと仕事にも慣れてきたの。
せっかく自分の居場所が出来たところなの。
今、休むわけにはいかないの」
「その気持ちはわかるよ。
でも今、休まないとななが壊れる。
もっともっと辛くなるんだ。
休もう…」
ひろの言葉でますます涙は止まらなくなり、ひろの胸を何度も叩き、泣き続けた。しかし、彼は叩くたびに強い力で私を抱きしめ直してくれる。気づいたら泣き疲れて寝てしまっていた。
「中程度の抑うつ状態ですね」
「診断書を書くので、
まずは1か月仕事を休んでください。
薬を飲んで様子を見て、休む期間は調節していきましょう。
必ず良くなる病気ですから、心配しなくて大丈夫ですよ」
原因不明の吐き気と倦怠感は“抑うつ状態”と診断を受けた。病院を転々としているなか、ある病院で精神科の受診を勧められたのだ。診断を受けた時は、頭が真っ白になり、言葉も出なかった。医師の説明に対してうなずくこともなくただただ涙が止まらなかった。
仕事を休まなきゃいけない。
職員や入居者にも迷惑をかける。
このまま辞めるしかないんだ。
家に帰り、まずユニットのリーダーである阿部さんに連絡を入れた。阿部さんは
“職場のことは気にしないで
ゆっくり休んでいいから。
帰り、みんなで待ってるからね”
優しい言葉をかけてくれた。私はこんなにも優しい人たちに恵まれている。それなのに私は、人に迷惑しか掛けられないと落ち込んでばかりだった。『大ちゃんにも連絡をしてみよう』そう思い、スマホを手に取り電話をかけた。
「大ちゃん、私、抑うつ状態って病院で言われて仕事休むことになった。
ごめんなさい」
「ななみ、大丈夫か?なんでもっと早く…」
「ごめんなさい。私、頑張れなくて」
「ななみ、自分のこと責めるな。
自分はうつだって思うから本当にうつになるんだぞ」
その言葉に少し、身体が反応した。私だって鬱になんかなりたくない。なりたくてなったわけじゃないのに…。大ちゃんならわかってくれると思ってたのに…。そう思いながらも私は謝ることしか出来ずにいた。
「大ちゃん、ごめんなさい」
「謝るなって!」
大ちゃんは口調を強めて、怒っているように感じた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
「あ~もう。ななみ、謝るなってば。そんなに俺に謝ることあるのかよ」
やっぱり大ちゃんは怒っている。あの時の私にはそういう風にしか考えられなかった。
抑うつ状態になってしまったことを謝っているのではない。きっとひろのことだ、ひろのことを私は謝っているんだ。大ちゃんと付き合っているのに、大ちゃんじゃなくてひろを頼ってひろに抱きしめられて、ひろが居てくれることに安心して。
私って何でこんなに弱いんだろう…。
「大ちゃん、もう別れよう…。もう大ちゃんと一緒に居れない」
「はぁ?急に何言っているんだ?落ち着けって!」
「もう大ちゃんが好きになってくれた私じゃないの。
私、大ちゃんと付き合っているのに他の男性と会った。その人に頼った。
もう最低な女なの。どうしようもない女なの」
「どういうことだよ…」
「だから、もう別れるしかないの。バイバイ…」
私は一方的に電話を切った。
あんなに好きで、頑張って、頑張って大人になろうとして、やっと付き合えたのに。この幸せがずっと続くと思っていたのに、自分から投げ出してしまった。
本当は、ずっとずっと、大ちゃんに甘えたかった。弱音を吐きたかった。辛かったなって共感してほしかった。
あの時の私は、もうパニックで何も考えられないのに別れを選んでしまった。大ちゃんは何も悪くない。私が全部悪いんだ。涙はいくら泣いても枯れない。どんどん、どんどん溢れていく。
大ちゃんと出会って2年とちょっと自分から別れを告げてしまった。
私は衝動的にスマホのアルバムを開く。そこにはいつも笑顔の私と大ちゃんが写っている。『こんなの、もう見たくない…』私のなかの大ちゃんを消したくて一瞬で今までの写真を全て消した。
お揃いのブレスレットも壁に投げつけ、床に転がっていた。電話番号もラインも全て削除した。『早く大ちゃんを忘れたい』その一心で、自分が大ちゃんを裏切っていたことに対して見て見ぬをしていた。
いつだろう、大ちゃんは『頑張っているななみが好き』って言ってくれたよね。だから、こんなボロボロになった私をもう大ちゃんには見られたくなかったんだよ。
数日後…
ひろは何も食べず、ボロボロになった私を引きずりながら、千葉県の自分の家に連れて帰った。『僕がななのこと支えるから、僕が一緒に居るから』と言ってくれた。
「なな~、ただいま~。部屋の電気つけるぞ!」
「……」
私はひろの問いかけに反応もせず、ベッドに横たわっていた。
「なな?おーい。なな、お返事ないぞ?」
「ひろ…おかえりなさい」
「ただいま、なな。ありがとう」
ひろは私の頭を撫で、台所へと向かった。仕事の日も夜が遅いのにご飯を作って食べさせてくれた。
仕事で疲れている彼はいびきを掻きながらぐっすりと眠っている。そんな彼を見て、少し笑えるようになってきた。それでも眠ることは出来ず、朝までボーっとしている私にひろが気づくと
「なな?おはよう。朝のお散歩行きますか?」
「嫌だ。外なんか出たくない」
「いいから、行くよ!朝は空気がきれいで一番気持ちいいんだぞ」
眠いはずなのに無理して、ななを少しでも外に出そうと頑張っていたよね。私が外に出るのが嫌って言ったから、朝とか夜の時間帯に声を掛けてくれたんだよね。ひろの優しさに触れて、少しずつガチガチに固まった心が溶けていくような気がしたの。
ありがとう、ひろ。
ある日の夜中…
『死にたい』
突然、私を死にたい気持ちが襲った。一歩ずつベランダへと向かう。自然と涙が溢れ、ボロボロと泣き視界がぼやける。ベランダの窓を開けた瞬間、後ろから強い力で引き寄せられた。
「なな!それだけはだめだ。しっかりしろ」
「やだ…。ひろ死なせて。死にたいの。楽になりたいの」
「死なせないから。ななは俺が守るから」
ひろは私を強く抱きしめた。私が思い切り叩いて抵抗しても何も言わず抱きしめ続けた。その時、彼の涙が私の顔を伝った。ひろが一緒になって泣いている。その涙が、私を死から現実へ呼び戻してくれたの。ななのために泣いてくれる人が居るって実感できたの。
私はそのままひろの腕のなかで眠りに落ちた。ひろの腕のなかは温かくて、スヤスヤと安心して眠っていたんだよ。ありがとう、ひろ。
それ以外にも全然笑わない私につまらないギャグを言って、一人で思いっきり笑って、『ななもこんな風に笑って』って笑わせようとしてくれたよね。
毎日、毎日なにもやる気が起きなくて、ボーっと寝ている私。何を食べても味がしなくて美味しさを感じられなかった私。
全部、全部ひろが認めてくれたから、少しずつだったけど、
今日は何か食べようかな…
今日はテレビを見ようかな…
今日は洗濯機を回してみようかな…
そう思えるようになったんだよ。
少し調子が良くなってきたときひろが食べている肉まんを欲しそうに見ていると
「少し食べてみるか?」
「うん。…あ、美味しい」
そう言うとひろは泣きそうになりながら抱きしめてくれたよね。
ひろもこんな私を見ているのは辛かったと思う。でも、そんな私を突き放さないで、側に居てくれて、私はひろが居なかったらどうなってたか分かんないよ…。
ある日の土曜日…
少し体調が良くなってきた私をドライブに連れてってくれた。日差しが眩しい。昼間に外に出るのが久しぶりだった私の体は日差しにやられてすぐにばててしまいそうだった。
そんななかひろは私たちが初めて会った時に行った海に連れてってくれた。
「なな?大丈夫か?今日は車から海見ような」
「うん…。本当は前みたいにお散歩したいけどごめんね」
「謝んなくていいから」
「私の体、こんなに疲れやすくて、自由に動かなくなっちゃった。
もう前みたいに生活したり、働いたりできないのかな…」
「今は休む時なんだ。
たまにこうやって外に出て、体力戻していけば大丈夫だからな」
「また働ける?」
「もちろん。ななは責任感が強いから、焦る気持ちは分かるけど、
ゆっくり、ゆっくりが大切なんだよ」
「うん…。また北海道で働きたい。
どうしてもまた、入居者さんたちの生活を支えられるようになりたい」
「北海道に戻りたいのか…」
「うん…」
「なな、もう北海道戻らないで、一緒に居ないか?」
「うんうん。私は絶対、前の職場に戻る!」
「帰るのか?」
「うん。働くために体慣らしていかないとね!」
「…なな、僕と付き合ってくれないか?
俺はななのこと支えたい」
「ありがとう、ひろ。
ひろは私にとって大切だよ…でも」
またこの場所でひろからの告白を受けた。ひろは私のためにここまでしてくれたことにはとてもとても感謝している。でも、ひろの告白を素直に受けられない気持ちがあった。
それは、やっぱり…やっぱり大ちゃんの存在。
自分から別れを告げた癖に、病院からの薬が効き始めて、1番最初に考えたのは大ちゃんのことだった。
『大ちゃん元気かな?』
大ちゃんと別れた日、壁に投げつけたブレスレット。それだけはどうしても捨てることができず、ブレスレットを強く握ったままひろのところに持ってきていた。
思うように動かない体を横にしたまま、いつもブレスレットを眺めていた。ひろと一緒に居るのに不謹慎と思っていたが、いつも私の頭のなかには大ちゃんが居た。
「ごめん、ひろ…」
「あいつのことか?
ななが苦しんでいるのに、何も気づかなかった奴のことがまだ好きか?
もういい加減、諦めろってば…」
初めて、ひろが声を荒げた。今までの穏やかなひろではなかった。
「あ、ごめん、なな。
怒ったんじゃないんだ。大声出して怖かったよな。ごめん」
「大丈夫だよ、ひろ。私こそ、ごめんなさい」
「なな、お願いだ。
あいつのこと好きなままでいいから
そのままでいいから僕と一緒に居よう。
今度は僕も諦めない」
ひろはいつものように私を抱きしめた。このままで良いわけがないのは分かっていたけれど、何も言えず時間が過ぎていった。
少しすると体力が戻ってきて日中は買い物に出かけたり、家事をしたりと少しずつ前の生活を取り戻し始めた。私は北海道に行く飛行機のチケットを取り、ひろに別れを告げた。
そして、月日は流れ、2月から職場に復帰することが決まった。最初は短時間から、徐々に8時間働けるように調整することになった。1か月前から北海道に戻り、職場にも少し顔を出して、入居者とお喋りをしている。
ひろは、私のことが心配で、必ず夜に電話をくれる。寝る間も惜しんで電話を繋げていてくれた。ひろを早く安心させたい。そのためにも早く前みたいに働けるようになりたかった。
~弱い自分~
北海道の短い夏が終わる8月下旬…
「あ~なんか食欲がない。体も重たい…。仕事行かなくちゃいけないのに」
私は重たい体を起こし、仕事へ向かう。最近は、施設で風邪が流行っていて、マスクは必須だが、集団生活をしている入居者への感染はどうしても広がってしまう。じっとしていられない人たち、マスクを取ってしまう人たち、なかなか、対応は難しい。そのうち職員にも感染して、最近はシフトがバラバラで体がついていかない。
『もしかして、私まで…。
でも、今は代わりの人はいないんだ、頑張らなきゃ!』
そうした日々が長く続いた。
それでも左腕に着けているブレスレットを見ると頑張れた。大ちゃんもきっとお仕事頑張っている、そう思ったら私も頑張ろうって本当に思えて1日、1日を乗り越えられた。大ちゃんとお揃いのブレスレット。一日中肌身離さず身につけている。仕事中は手首にはつけられないので、制服の胸ポケットに忍ばせていた。
♪ブーブーブーブー
「はい…」
「ななみ、久しぶり。今大丈夫か?」
「あ、大ちゃん。大丈夫だよ。さっき仕事終わったの」
「お疲れ様!なんか疲れた声しているな。大丈夫か?」
「そうかな?全然大丈夫だよ!」
「ならいいけど、家着いたのか?」
「あ、まだ。仕事終わってちょっと車で…。
え!?もう18時!?」
「びっくりしたー。
何時から車で休んでいたんだよ」
「15時…ははは、ちょっと寝過ぎた」
「はぁ?本当に大丈夫か?」
「んー最近、施設で風邪流行っていたし、
そのせいでシフト変更ばっかりだったからちょっと疲れていたかも。
大丈夫、大丈夫」
「大丈夫じゃねーな。早く家帰って寝ろ」
「え、やだ。だって久しぶりに大ちゃんの声聞けたんだよ?」
「また、時間空いたらかけるから、今日は我慢しろ!」
「そうだよね。駄々こねてごめん。じゃあまたね?」
私はそう言って電話を切った。
本当に体調が悪かったのもあるけど、大ちゃんにしつこくしたり、仕事にまだ慣れないんだって思われて嫌われるのが怖かった。せっかく声を聞けたのに…。すごく悔しい、もっと大ちゃんの声聞いてたかったよ。
それにしても仕事が終わって、気持ち悪くて3時間も車で寝ていたなんて…。やっぱり最近の体調はおかしいな。
ユニット内の風邪がやっとおさまってきたかなという頃、夜勤中、酷い吐き気に襲われた。
『なんだろう、これ…。
1人夜勤のなか倒れるわけにはいかない。
まだ夜中の3時過ぎ、でも、あと3時間は持たないよ』
そう思い、私は早番の職員に連絡を入れた。そうすると、“今から行くから、もう少し頑張って”と返信がすぐ来て安心した。とりあえず、それまで入居者のコールは対応しなきゃ。
「千葉ちゃん?大丈夫?もう帰って寝なさい。
上司には私が話しておくから」
「すみません。こんなに朝早くに…」
そこで私の記憶は飛んでしまった。気づくとユニット内のソファの上で横になっていて、いつも私に優しくしてくれるおばあちゃんが横に座っていた。他の入居者も朝ご飯を食べている。時計を見ると朝の8時を過ぎていた。
「千葉ちゃん、起きた?
少しはマシになった?」
「はい…」
「急に倒れたからびっくりしたよ。
今日はタクシー呼んで帰りなさい」
「はい…」
私はまだボーっとする頭を何とか起こし、自分の車は職場に置いたまま家に帰った。
『私、倒れちゃったんだ。また、職員の人たちに迷惑かけた。
しっかりしなきゃ。でも、なんだろう。この吐き気と倦怠感…』
『今日は日曜日だから、明日病院に行こう』そう思い、今日は家で休むことに決めた。
「ん~。熱もないし、喉も腫れていない。
最近、ご飯はしっかり食べていますか?」
「それが、吐き気があって食欲がわかなくて、
食べれていません」
「そうなんだね。今日は点滴してもらうかな。
これからも吐き気と倦怠感続くようなら、また来てください」
その日は点滴をして家に帰った。でも、やっぱり吐き気は続いた。もしかして妊娠とか?でも、心当たりはない。理由が分からない日々が続いた。仕事には行くのだが、体力が持たない。職場でも、私を気遣ってシフトの調整やサポート体制を練ってくれた。
その後、婦人科や内科に何回通っても原因は分からず、病院を変えてもその原因は分からなかった。日に日に、体力も落ちもう仕事をし続けるのは辛い。原因が分からないのも精神的に自分のことを追いやっていった。
“大ちゃん、ちょっと声聞きたい”
“時間作るから、ちょっと待っていてな”
大ちゃんは相変わらず忙しい。すごく忙しいのだろう、ラインが来ない日が続くこともあった。そんな忙しい大ちゃんに、『仕事に行けなくて…』なんて話せず、元気な振りをしていた。
少しでも大ちゃんの声を聞けたらもう少し頑張れるかもしれない。ここで弱音ばっかり話したら、また大ちゃんに子どもだなって言われる。嫌われるのが怖くて、自分を誤魔化すことに必死になっていた。
そんな時、ひろから電話が入った。私が大ちゃんと付き合ったことを伝えてから、ひろから連絡来ることは減っていたので、とても久しぶりに感じた。
「なな、久しぶり。最近どうかなって思って…」
久しぶりのひろの声。なんだか安心した。その途端に涙が溢れた。
「ひろ…」
「えっ?なな、泣いてるの?どうしたんだよ」
私はひろに全部話した。
『一人で辛い。仕事に行けない自分、職員に迷惑をかける自分が嫌だ。
なんかの病気なのか。原因も分からず不安だ』ということ全部、全部話した。
「分かった。明日行く。待ってろ」
ひろはそう言って、私が泣くのをずっと聞き続けた。
「大丈夫だから、一人じゃないから」
そう言ってくれるひろが心強かった。その日は私が眠りにつくまで電話を切らずに側に居てくれた。
♪ピンポーン
誰だろう…玄関のインターホンにはひろが映っていた。『えっ…。本当に来てくれたの!?』急いで玄関を開ける。
「ひろ、本当に来てくれたの?」
その瞬間、ひろは私を抱きしめた。ひろの温かさが私の体中に伝わる。
「なな、不安だったな。気づいてやれなくてごめん」
「ひろは何も悪くないよ。ひろが謝ることなんて何もない」
ひろは本当に優しい人だ。ななのために一緒に泣いてくれて、仕事を休んでまで朝一の飛行機で北海道まで来てくれるなんて。
『どうして?どうしてそんなに
なな、なんかに優しくしてくれるの?
ななの弱いところを許してくれるの?』
その日は一日中涙が止まらなかった。目が腫れても泣き続けた。
『私は弱い』
そう認めるしかなかった。認めたくなかったからここまで仕事頑張ったのに。大ちゃんに弱音を吐かず頑張ったのに。我慢してたものが一気に溢れ出したように、声を荒げて泣き続けた。
「なな、一回休憩してもいいんだぞ。
また頑張れるようになったら、
その時、また頑張ればいいんだから。
それは何も弱いことじゃない。
だから、ちょっと休もう」
「いや…大ちゃんに嫌われる。
やっと仕事にも慣れてきたの。
せっかく自分の居場所が出来たところなの。
今、休むわけにはいかないの」
「その気持ちはわかるよ。
でも今、休まないとななが壊れる。
もっともっと辛くなるんだ。
休もう…」
ひろの言葉でますます涙は止まらなくなり、ひろの胸を何度も叩き、泣き続けた。しかし、彼は叩くたびに強い力で私を抱きしめ直してくれる。気づいたら泣き疲れて寝てしまっていた。
「中程度の抑うつ状態ですね」
「診断書を書くので、
まずは1か月仕事を休んでください。
薬を飲んで様子を見て、休む期間は調節していきましょう。
必ず良くなる病気ですから、心配しなくて大丈夫ですよ」
原因不明の吐き気と倦怠感は“抑うつ状態”と診断を受けた。病院を転々としているなか、ある病院で精神科の受診を勧められたのだ。診断を受けた時は、頭が真っ白になり、言葉も出なかった。医師の説明に対してうなずくこともなくただただ涙が止まらなかった。
仕事を休まなきゃいけない。
職員や入居者にも迷惑をかける。
このまま辞めるしかないんだ。
家に帰り、まずユニットのリーダーである阿部さんに連絡を入れた。阿部さんは
“職場のことは気にしないで
ゆっくり休んでいいから。
帰り、みんなで待ってるからね”
優しい言葉をかけてくれた。私はこんなにも優しい人たちに恵まれている。それなのに私は、人に迷惑しか掛けられないと落ち込んでばかりだった。『大ちゃんにも連絡をしてみよう』そう思い、スマホを手に取り電話をかけた。
「大ちゃん、私、抑うつ状態って病院で言われて仕事休むことになった。
ごめんなさい」
「ななみ、大丈夫か?なんでもっと早く…」
「ごめんなさい。私、頑張れなくて」
「ななみ、自分のこと責めるな。
自分はうつだって思うから本当にうつになるんだぞ」
その言葉に少し、身体が反応した。私だって鬱になんかなりたくない。なりたくてなったわけじゃないのに…。大ちゃんならわかってくれると思ってたのに…。そう思いながらも私は謝ることしか出来ずにいた。
「大ちゃん、ごめんなさい」
「謝るなって!」
大ちゃんは口調を強めて、怒っているように感じた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
「あ~もう。ななみ、謝るなってば。そんなに俺に謝ることあるのかよ」
やっぱり大ちゃんは怒っている。あの時の私にはそういう風にしか考えられなかった。
抑うつ状態になってしまったことを謝っているのではない。きっとひろのことだ、ひろのことを私は謝っているんだ。大ちゃんと付き合っているのに、大ちゃんじゃなくてひろを頼ってひろに抱きしめられて、ひろが居てくれることに安心して。
私って何でこんなに弱いんだろう…。
「大ちゃん、もう別れよう…。もう大ちゃんと一緒に居れない」
「はぁ?急に何言っているんだ?落ち着けって!」
「もう大ちゃんが好きになってくれた私じゃないの。
私、大ちゃんと付き合っているのに他の男性と会った。その人に頼った。
もう最低な女なの。どうしようもない女なの」
「どういうことだよ…」
「だから、もう別れるしかないの。バイバイ…」
私は一方的に電話を切った。
あんなに好きで、頑張って、頑張って大人になろうとして、やっと付き合えたのに。この幸せがずっと続くと思っていたのに、自分から投げ出してしまった。
本当は、ずっとずっと、大ちゃんに甘えたかった。弱音を吐きたかった。辛かったなって共感してほしかった。
あの時の私は、もうパニックで何も考えられないのに別れを選んでしまった。大ちゃんは何も悪くない。私が全部悪いんだ。涙はいくら泣いても枯れない。どんどん、どんどん溢れていく。
大ちゃんと出会って2年とちょっと自分から別れを告げてしまった。
私は衝動的にスマホのアルバムを開く。そこにはいつも笑顔の私と大ちゃんが写っている。『こんなの、もう見たくない…』私のなかの大ちゃんを消したくて一瞬で今までの写真を全て消した。
お揃いのブレスレットも壁に投げつけ、床に転がっていた。電話番号もラインも全て削除した。『早く大ちゃんを忘れたい』その一心で、自分が大ちゃんを裏切っていたことに対して見て見ぬをしていた。
いつだろう、大ちゃんは『頑張っているななみが好き』って言ってくれたよね。だから、こんなボロボロになった私をもう大ちゃんには見られたくなかったんだよ。
数日後…
ひろは何も食べず、ボロボロになった私を引きずりながら、千葉県の自分の家に連れて帰った。『僕がななのこと支えるから、僕が一緒に居るから』と言ってくれた。
「なな~、ただいま~。部屋の電気つけるぞ!」
「……」
私はひろの問いかけに反応もせず、ベッドに横たわっていた。
「なな?おーい。なな、お返事ないぞ?」
「ひろ…おかえりなさい」
「ただいま、なな。ありがとう」
ひろは私の頭を撫で、台所へと向かった。仕事の日も夜が遅いのにご飯を作って食べさせてくれた。
仕事で疲れている彼はいびきを掻きながらぐっすりと眠っている。そんな彼を見て、少し笑えるようになってきた。それでも眠ることは出来ず、朝までボーっとしている私にひろが気づくと
「なな?おはよう。朝のお散歩行きますか?」
「嫌だ。外なんか出たくない」
「いいから、行くよ!朝は空気がきれいで一番気持ちいいんだぞ」
眠いはずなのに無理して、ななを少しでも外に出そうと頑張っていたよね。私が外に出るのが嫌って言ったから、朝とか夜の時間帯に声を掛けてくれたんだよね。ひろの優しさに触れて、少しずつガチガチに固まった心が溶けていくような気がしたの。
ありがとう、ひろ。
ある日の夜中…
『死にたい』
突然、私を死にたい気持ちが襲った。一歩ずつベランダへと向かう。自然と涙が溢れ、ボロボロと泣き視界がぼやける。ベランダの窓を開けた瞬間、後ろから強い力で引き寄せられた。
「なな!それだけはだめだ。しっかりしろ」
「やだ…。ひろ死なせて。死にたいの。楽になりたいの」
「死なせないから。ななは俺が守るから」
ひろは私を強く抱きしめた。私が思い切り叩いて抵抗しても何も言わず抱きしめ続けた。その時、彼の涙が私の顔を伝った。ひろが一緒になって泣いている。その涙が、私を死から現実へ呼び戻してくれたの。ななのために泣いてくれる人が居るって実感できたの。
私はそのままひろの腕のなかで眠りに落ちた。ひろの腕のなかは温かくて、スヤスヤと安心して眠っていたんだよ。ありがとう、ひろ。
それ以外にも全然笑わない私につまらないギャグを言って、一人で思いっきり笑って、『ななもこんな風に笑って』って笑わせようとしてくれたよね。
毎日、毎日なにもやる気が起きなくて、ボーっと寝ている私。何を食べても味がしなくて美味しさを感じられなかった私。
全部、全部ひろが認めてくれたから、少しずつだったけど、
今日は何か食べようかな…
今日はテレビを見ようかな…
今日は洗濯機を回してみようかな…
そう思えるようになったんだよ。
少し調子が良くなってきたときひろが食べている肉まんを欲しそうに見ていると
「少し食べてみるか?」
「うん。…あ、美味しい」
そう言うとひろは泣きそうになりながら抱きしめてくれたよね。
ひろもこんな私を見ているのは辛かったと思う。でも、そんな私を突き放さないで、側に居てくれて、私はひろが居なかったらどうなってたか分かんないよ…。
ある日の土曜日…
少し体調が良くなってきた私をドライブに連れてってくれた。日差しが眩しい。昼間に外に出るのが久しぶりだった私の体は日差しにやられてすぐにばててしまいそうだった。
そんななかひろは私たちが初めて会った時に行った海に連れてってくれた。
「なな?大丈夫か?今日は車から海見ような」
「うん…。本当は前みたいにお散歩したいけどごめんね」
「謝んなくていいから」
「私の体、こんなに疲れやすくて、自由に動かなくなっちゃった。
もう前みたいに生活したり、働いたりできないのかな…」
「今は休む時なんだ。
たまにこうやって外に出て、体力戻していけば大丈夫だからな」
「また働ける?」
「もちろん。ななは責任感が強いから、焦る気持ちは分かるけど、
ゆっくり、ゆっくりが大切なんだよ」
「うん…。また北海道で働きたい。
どうしてもまた、入居者さんたちの生活を支えられるようになりたい」
「北海道に戻りたいのか…」
「うん…」
「なな、もう北海道戻らないで、一緒に居ないか?」
「うんうん。私は絶対、前の職場に戻る!」
「帰るのか?」
「うん。働くために体慣らしていかないとね!」
「…なな、僕と付き合ってくれないか?
俺はななのこと支えたい」
「ありがとう、ひろ。
ひろは私にとって大切だよ…でも」
またこの場所でひろからの告白を受けた。ひろは私のためにここまでしてくれたことにはとてもとても感謝している。でも、ひろの告白を素直に受けられない気持ちがあった。
それは、やっぱり…やっぱり大ちゃんの存在。
自分から別れを告げた癖に、病院からの薬が効き始めて、1番最初に考えたのは大ちゃんのことだった。
『大ちゃん元気かな?』
大ちゃんと別れた日、壁に投げつけたブレスレット。それだけはどうしても捨てることができず、ブレスレットを強く握ったままひろのところに持ってきていた。
思うように動かない体を横にしたまま、いつもブレスレットを眺めていた。ひろと一緒に居るのに不謹慎と思っていたが、いつも私の頭のなかには大ちゃんが居た。
「ごめん、ひろ…」
「あいつのことか?
ななが苦しんでいるのに、何も気づかなかった奴のことがまだ好きか?
もういい加減、諦めろってば…」
初めて、ひろが声を荒げた。今までの穏やかなひろではなかった。
「あ、ごめん、なな。
怒ったんじゃないんだ。大声出して怖かったよな。ごめん」
「大丈夫だよ、ひろ。私こそ、ごめんなさい」
「なな、お願いだ。
あいつのこと好きなままでいいから
そのままでいいから僕と一緒に居よう。
今度は僕も諦めない」
ひろはいつものように私を抱きしめた。このままで良いわけがないのは分かっていたけれど、何も言えず時間が過ぎていった。
少しすると体力が戻ってきて日中は買い物に出かけたり、家事をしたりと少しずつ前の生活を取り戻し始めた。私は北海道に行く飛行機のチケットを取り、ひろに別れを告げた。
そして、月日は流れ、2月から職場に復帰することが決まった。最初は短時間から、徐々に8時間働けるように調整することになった。1か月前から北海道に戻り、職場にも少し顔を出して、入居者とお喋りをしている。
ひろは、私のことが心配で、必ず夜に電話をくれる。寝る間も惜しんで電話を繋げていてくれた。ひろを早く安心させたい。そのためにも早く前みたいに働けるようになりたかった。