三人で店を出たあとタクシーに乗って九田が連れてきてくれたのは、肉料理の専門店だった。
 赤い暖簾に屋号と牛の絵が白く染め抜かれている、こぢんまりとした店だ。

「こんな店があったんですね。へえ、しゃぶしゃぶも焼き肉もあるのか」
「二人とも丸屋の周辺しか歩かんから知らんだろうが、ここいらじゃ人気の店だ。町のオヤジ共の会合や何かの祝い事はよくここで開かれてる」

 店に入って肉々しいメニューに感激している飯田に、九田はどこか誇らしげに答える。これまでの人生で入ったことのないタイプの店で、琴音も飯田ほどではないけれどわくわくしていた。

「そういえば琴音さんって、埼玉に嫁いでたんですよね? 向こうの人と結婚してたってことは、すき焼きは関東風のやつを作ってたんですか?」

 注文してから待つ間、メニューを眺めていた飯田がふと気がついたように尋ねてきた。

「そうですよ。お肉を焼いて、ネギを焼いて、割り下を入れてひたひたにして、あとはお野菜を煮ていく感じです」
「聞いてはいたけど、全然違いますね。こっちは肉を焼いて砂糖をたっぷりまぶして、醤油を入れて、あとは水気の出やすい野菜って感じですもんね」
「そうそう。調理方法の違いにも慣れるまで戸惑ったんですけど、何より困ったのは味つけの違いですね。初めてすき焼きを作ったときも『こんな甘いの食べられない!』って言われちゃって……煮物とかに甘みがあるのも信じられないって言われました」

 故郷を離れて生活するときに新しい土地の食べ物が口に合わず苦労するという話はよく聞く話だけれど、結婚相手と味の好みが合わないというのもよくあることだし、つらいことだ。
 丸屋があるこの町も琴音が育った場所も、醤油が甘い地域だ。その上、砂糖をたっぷり使った甘い料理が多いため、そういった味つけに不慣れな人には戸惑われることもしばしばある。
 ようは味の好みの問題なのだけれど、“甘いしょうゆ=ゲテモノ”くらいの拒絶反応を示す人もいるのだ。

「人の好みをとやかく言うつもりはないが、妻の作ってくれた料理を食えないだなんだとぬかす赤ちゃん男とは別れて正解だったと思うぞ。――お、来た来た」

 九田は琴音を励まそうとしてくれてたのか、いいことを言おうとしたのかわからないけれど、注文していた鍋が運ばれてくると意識をそちらに移してしまった。
 
「うまそー。いただきまーす!」
「飯田くん、肉から食うなよ」
「えー? すき焼きと言えば肉でしょ。琴音さんは豆腐から食べるんですね」
「俺はまずネギだ」

 飯田も九田もやいやい言いながら鍋に箸を伸ばしていく。琴音は最初に何を食べるかというこだわりはなかったものの、入っているのが焼き豆腐ではなく厚揚げだったのが気になって食べてみた。
 揚げの部分が甘辛い汁をよく吸っていて、噛むとそれがジュワッと口の中に溢れた。中の豆腐の部分にもよく味が染みていて、噛めば噛むほどその甘辛さが広がって幸せな気分になる。
 飯田はすき焼きと言えば肉だと言っていたけれど、琴音はすき焼きの醍醐味はこの汁の味にあると思っている。だからこの甘辛い汁の中で煮られた具材を食べるのはもちろん、残った汁に白米やうどんを入れて食べるのが好きなのだ。

「すき焼きって、幸せを噛み締められるメニューですよね」
「肉だし、甘くてうまいですもんね。幸せホルモンであるセトロニンがダバダバ出る食べ物ですよ。脳内物質セトロニンを出すにはまず原料となるトリプトファン、それからセトロニンを作るための炭水化物、その合成を促すビタミンB6が必要なわけなんです。だから、とりあえず動物性たんぱく質と米と豆類を食っとけ!ってことで、すき焼きが幸せになるための最適解っしょ」
「本当かぁ? でもまあ、飯田くんは調理師だからなあ……」

 琴音の呟きに、飯田が薀蓄を披露した。琴音は「さすが料理人だ」と感心して聞いていたけれど、九田は胡散臭そうに見ていた。
 
「セトロニン云々はわかりませんけど、こうして楽しく鍋を囲むと幸せな気分になりますよね。だから、お鍋は幸せになる食べ物なのかも」

 今夜ひとりでなくてよかったなと、しみじみ思いながら琴音は言った。こうして九田たちと一緒にいなければ、きっと食事も取れていなかったし、陰鬱とした気分を引きずったままだったのは間違いない。
 それに、この食事は誰かと一緒に食べることはいいなと思い出させてくれた。

「そうだろうそうだろう。今度から鍋をするときには俺にちゃんと声をかけろよ。たまには飯田も誘えばいいし」

 琴音の心境の変化がわかったのか、九田がどこか勝ち誇った様子で言う。いわゆるドヤ顔というやつだ。勝手に押しかけてきて食べ物にありつこうとする人のセリフではないと思うものの、今夜は美味しいものをご馳走してくれるからよしとする。

「琴音さん、一人鍋とかするんですか? リッチっすね。鍋のひとりぶんって高くつきますからねー。でも、自由で素敵な楽しみ方だと思います」
「飯田さん、わかってる! そうなんですよ。ひとりぶんって何でも高くつきますけど、鍋は特にねー。“贅沢”って感じで気に入ってるんですよ。好きなものを好きなように食べられますし」
「ちょっと飯田くん! 一人鍋を肯定するなよ。俺が鍋の日に誘ってもらえなくなるだろ」

 飯田が琴音の一人鍋に共感したことで、九田が眉間に皺を寄せた。琴音が前向きになったことで食事にありつきやすくなるとでも考えていたのだろう。

「一人鍋は全然アリですけど、彼氏は作ったほうがいいんじゃないかと思いますけど。じゃないとそのうち九田さんに居座られますよ」

 九田が食事を求めて琴音の部屋を突然訪問するのを知っている飯田は、わりと真剣な顔で言う。ニヤニヤしていないのを見る限り、ひやかしたりからかったりする意図はないのだろう。

「新しい恋はしないんですか? 不倫するようなクソ男との関係が最後だなんて嫌でしょ。恋愛遍歴、更新したいでしょ」
「それは、確かにそうですけど……」

 飯田に言われ、琴音は考え込んだ。
 博行との関係に絶望して、それからのことなど考えたこともなかった。傷ついた心と自分の人生を立て直すことだけに執心していて、今後誰かを好きになることがあるなんて頭に浮かばなかった。

「そうですね……。元夫が最後の男ってのも嫌ですし『もう恋なんてしない!』なんて誓ってるわけじゃないんですけど、今はまだそんな気分になれないんですよね。脚を骨折してリハビリ中なのにバイクに乗って遠出しようとするようなもんですから。しかも私の場合、かなり複雑な骨折なのに。普通なら、まず身体を治すことに専念しろって感じでしょ」
「まあ、不倫されて離婚って、複雑骨折みたいなもんか。それに今日、その相手の不倫女と再会しちゃうなんて、折れた骨に蹴りを入れられる感じですかね」
「そうですね。それに、まだ骨がつながってないし時々痛むっていうのもあるんですけど、今のこの自由な心がいいなって思うんです。離婚してまず思ったのが、『もう嫉妬しなくてもいいんだ』だったんですよ。それまでずっとドス黒い感情に支配されていたのが、ふっと楽になったんです。誰かを好きになるって、そういう汚い感情と無関係ではいられないでしょ? だから、しばらく自由でいたいなって思うんです」

 まだ少しひりつくように痛む気がする胸を押さえて、琴音は噛みしめるみたいに言った。恋愛も恋する気持ちも否定しないけれど、まだそれが自分の人生に必要なことだとは思えないというのが本音だった。
 それが今うまく言語化できて、琴音は少しすっきりしていた。

「自由かー。自由は満喫しないとですね。だったら九田さんはどうなんですか? 何か恋バナを聞かせてくださいよ」

 琴音から色っぽい話が聞けないとわかると、飯田は今度は九田に水を向けた。それまで黙々と食べていた九田は驚いたあと、苦いものを食べたような顔になる。

「……飯田くんはおっさんの恋バナが聞きたいのか?」
「そうやって言われるとすげぇ嫌な気になるんすけど、何かないんですか?」
「何もないな。何かあると思ったか? 日がな一日寝てるんだぞ」
「……堂々と言うことじゃないでしょ。じゃあ、お見合いとかしないんすか?」
「一度そういう話があったんだが、会う前に断られてしまった」
「うわー、盛り上がらねえ。九田さんの話、盛り上がらねえー」

 九田は嫌そうにしながらも話してやったのに、飯田は容赦なく言い放つ。確かに面白みに欠けるけれど、さすがにこの言われようは気の毒だと琴音は思った。

「飯田さん、人にそういう話をしてほしがるなら、自分の話もしなきゃだめですよ」
「……何もないからせめて人の話でもって思うんですよ」

 九田だけでなく、飯田もげっそりしてしまった。今この場にいるメンバーが揃いも揃って色気がないとわかって、琴音も何だかげっそりな気分になる。

「その九田さんのお見合い予定だった人、せめて会うだけでもしてくれたらよかったんですけどね。もったいないな」

 琴音は九田を慰めようとそう言ったのに、なぜか睨まれてしまった。
 整った顔や無駄に良い声、着物が似合う細躯、そして不労所得があるそこそこの資産家でありながらそれに無頓着でギラギラしていない様子はかなり好条件だと思うし、何よりわかりにくいけれど優しい人なのがわかるから、琴音としてはお世辞やお追従ではなかったのに。

「……人と人との縁なんて、タイミングがずれりゃうまく結べないもんだ。相性や条件だけの問題じゃないんだよ」
「そ、そうですか。すみません……」

 九田の言葉は抽象的で何のことを言っているのかわからなかったけれど、とりあえず怒らせてしまったようだから琴音は謝っておいた。でも九田は何も言い返してこず、何だか悲しそうに溜息をついただけだった。

 ***

 春めいてくるにつれ水郷を訪れる観光客が増えるからか、少し離れたところにある丸屋も流れてきた客でぼちぼちにぎわった。
 琴音が働き始めてからずっと店内を賑わせてくれていた学生たちも、春休みの間は丸屋まで足を運ぶことはなくすっかり見かけなくなっていた。それが少し、琴音は寂しかった。
 売り上げのことだけで言えば、喫茶メインの学生たちも流れてきた観光客のほうがよくお金を落とすからありがたい。でも、ここが縁結びにちなんだメニューを推す店であることを知らないし重要視しない観光客よりも、口コミでそれを広げ、楽しんでくれている学生たちのほうが琴音はお気に入りなのだ。
 だから、新学期が始まってまた学生たちが放課後に立ち寄ってくれるようになったのが嬉しかった。

 その男子高校生たちが来るようになったのは、新学期の騒々しさが落ち着き始めた様子の、四月半ばのことだった。