目を覚ますと、俺はクラスの人気者になっていた。
 常に皆の話題の中心であり、誰からも注目される存在。
 挨拶を投げ掛けるだけで女子たちから黄色い歓声が沸き起こり、その一挙手一投足が学校中で注目されている――

「――夢か」

 鉛のように重たい瞼を、やっとの思いで持ち上げる。

 真っ先に飛び込んできた眩しい光が、窓から差し込む夕焼けであることに気がつくのに、数秒かかった。

 どうやら俺は眠っていたらしい。
 目の前に広がっていたのは、見慣れない白い天井。

「ここは……いつっ」

 辺りを見回そうと上半身を起こすと、肩や腕に鈍い痛みが走った。
 味わったことのない倦怠感が身体を包んでいる。不思議なほどに頭がぼーっとする。

 一目で分かった。ここは明らかに病室だ。俺は、どうして。

 部屋を眺めているうちに、眠っていた意識が徐々に冴えていく。
 そうだ、思い出した。

「夏目……!」

 俺と夏目は事故に巻き込まれたのだ。
 カメラのシャッターを切るように、事故の瞬間がフラッシュバックする。

 血の気がサッと引いていくのを感じた。
 そうだ、あのとき俺と夏目は一緒に鉄パイプの雨に襲われた。アイツは大丈夫だったのか。こうしてはいられない。とにかく確認しなければ。

 重たい身体を無理矢理起こそうとした瞬間、前触れもなく病室の引き戸が音を立てて開いた。

「お兄ちゃん!」
「――桜子」

 病院には相応しくない大きな張りのある声と共に現れたのは、紛れもなく俺の妹、神崎桜子だった。
 中学のセーラー服を身に纏った姿で、顔を上気させている。

 桜子は手に持っていた通学鞄を投げ捨てて、俺が横たわるベッドに飛びついてきた。

「もーー、すっごく心配したんだよ!」

 桜子は年相応のか細い手を震わせながら、白いシーツをギュッと握る。
 まるで感動ドラマのワンシーンのようだ。なにこの泣けるシチュエーション。

「桜子……お前そこまで俺のことを」

 家では生意気を言ったり、体操服を俺の鞄に入れ間違えたりと非常に困った妹だが、こんなときばかりはしっかりと俺のことを心配してくれているらしい。

 やはり腐っても俺たちは大切な家族なんだ。
 血を分けた肉親が俺の身体を想う気持ちに、思わず目頭が熱くなる。

「ぐす……病院に担ぎ込まれたって聞いて、遂に頭がおかしくなったのかと」
「なんで精神的な病気を心配してんだよ!」

 全身に響く鈍い痛みに耐えながらも、我慢できずにツッコむ。それが入院した兄貴に対して開口一番に言うことかよ。

 桜子は「てへぺろ☆」イタズラっぽい笑みを浮かべた後、少しだけ真面目な顔つきになった。

「ウソウソ、本当に心配したんだよ。家に帰ったら事故に遭ったって連絡が来て。パパもママもお仕事でどうしても来れないから、私が飛んで来たんだよ」
「――そうか、ありがとな」

 どうやら俺が意識を失っていたのは短い時間のようだ。
 窓から見える太陽の傾き具合は、夕方過ぎといったところか。事故が起きた昼休みからは半日と経っていないだろう。

 身体も部分的に鈍い痛みは残っているが、出血や骨が折れたような様子はない。手や足を揺り動かしてみたが、特に動作に支障は無さそうだ。

 空から降ってくる鉄パイプを一身に浴びたわりには、身体は比較的無事だったらしい。
 別にボディの頑丈さに自信があるわけではなかったが、これが本当の不幸中の幸いというやつだろうな。

「お兄ちゃん、昔からホントに運が悪いんだよねー」
「まあ……心当たりはあるな」

 入学してわずか一か月ちょい。
 学校中の生徒に嫌われた上に事故に遭うとか、怒涛の不幸ラッシュだ。とんでもねぇな、俺の今年の運勢。六星占術もビックリの運気の落ち込み具合だろう。とはいえ己の運勢を呪っている場合ではない。

「――そうだ! 俺ともう一人、事故に巻き込まれたんだ。桜子はそいつがどうなったか知らないか?」
「うーん、私は今来たばかりだから分からないけど……看護師さんに聞いてみる?」
「ああ、頼めるか」
「分かったよ、お兄ちゃん」

 桜子はコクリと頷くと、病室から出て、ナースステーションから看護師さんを呼んで戻ってきてくれた。

 看護師さんの話によると、夏目は俺と同じく病院に運ばれたらしい。
 外的な損傷は俺よりも少なかったが、頭を打ったためか意識はまだ戻っておらず、病室のベッドで今も眠り続けているそうだ。

「意識はまだ、か……」
「大丈夫ですよ。外傷は少ないですし、精密検査もすでに行いましたが特に異常はないので、明日には意識は戻るはずです」

 深刻そうな俺の表情を察したのか、看護師さんはそうフォローを入れて励ましてくれた。
 優しい。将来は看護師の女性と結婚したいな……。

 その後、桜子が持ってきてくれた最低限の着替えを受け取って、今夜は病院に泊まることになった。
 検査で異常がなければ、数日以内には退院できるそうだ。
 入院というほど大袈裟なものでもない。ケガが軽いもので本当に良かった。

 まったく、工事中の屋上から鉄パイプが降ってくるなんて、誰が予想できただろう。学校という公的な施設にしては、安全性に問題ありだ。退院したら、工事会社に管理体制の是正を訴えてやる。

「あれ、なんだこれ」

 俺はベットの小脇に置かれた小さいテーブルに、一本の造花が置かれているのに気がついた。種類は分からないが、薄いピンクの花びらが鮮やかだ。

「……造花かな? たしかこの病院の売店に売ってるやつだよ」

 桜子は造花の茎を手に取って、手遊びするようにクルクルと回す。

「この病室の、前の患者の忘れ物か?」
「いや、それはないでしょ……私より先に誰か来たのかな?」

 確かに俺が運び込まれてから桜子が来るまで数時間の空白があったわけだが、妹よりも先に俺の見舞いに来る人間なんているだろうか?

「お兄ちゃんが事故に遭ったのを知ってるのは……学校の人かな?」

 うーんと腕を組んで頭を捻る桜子。
 高校の人間ならなおさらだ。たとえ事故が起きたことを知っても、俺の身体を心配して、あまつさえ見舞いに来る人間など皆無だろう。

「……まあいいや」

 とりあえず、妹には高校で起きた惨劇については一切話していない。
 結局造花を置いていったのが誰かは迷宮入りだが、下手に俺の失態がバレる前にもうこの話題は打ち切りにしよう。

 話が終わると、桜子は「しっかり安静にしてるんだよー。ムリしたら『メッ』だからね!」と言って病室を後にした。メッて。

 しかし兄貴の非常事態に駆けつけてくれるとは、中学生になってもまだまだ可愛い妹には変わりないな。
 そうだ、今度お返しに甘いものでも何か買っていってやろう。たしか駅前で売っているモンブランが好物だったっけ。行列に並ぶくらいの対価は払ってあげてもいい。

「……はあ」

 俺以外は誰もいない静かな病室で、深い溜息をつく。

「しっかし……まさか事故に遭うとは」

 事故に巻き込まれるなんて経験、小学生の時にトラックに轢かれかけてコケた以来だぜ。その時は膝を擦りむいた程度だったけど。まあ今回も軽傷だったことが救いだ。

 それより、夏目の様態が心配だ。
 どうしたものかと、しばらく横になって窓から夕暮れを眺めていると、

「トイレ……行きてぇな」

 看護師さんには安静にしていてください、と言われたが、トイレくらいは許されるだろう。

 俺は先ほど看護師さんから拝借した松葉杖を手元に引き寄せて、ベットから降りて立ち上がった。
 改めて身体の状態を確認するが、打撲傷以外は足腰にも特に問題はない。

 松葉杖に軽く頼りながら廊下を歩く。
 もう時間が遅いためか、お見舞いの来客はほとんどおらず、他の入院患者が行き来しているのがちらほらと散見された。

 トイレからの帰り、廊下を歩いている途中だった。

「……ん?」

 俺はある病室の前で他の入院客とは明らかに性質を異なる、漆黒のスーツを身に纏った人影が立っているのが目に入った。

 近づいてよく見てみると、白髪交じりの老年の男性なのが分かった。
 一昔前の紳士のような上品な雰囲気で、その存在感は病院には似つかわしくない。病院の関係者には見えないな。

「失礼、そこのお兄さん」
「は、はい?」

 すれ違い様にスーツの老紳士に呼び止められた。
 ヤバい、物珍しい目であまりにジロジロ見ていたので、気分を害してしまったのだろうか。

「間違っていたら申し訳ありません。もしや神崎春さんではありませんか?」
「あ、そうですけど……」

 名前を言い当てられ、驚きのあまり思わず息を呑む。こんな老紳士の知り合いは寡聞にして存じ上げない。
 俺はどこかで会ったことがあっただろうかと思い、脳内を必死に検索した。

「良かった。私は夏目家で執事を務めております、瀬野と申します。この度はお見舞い申し上げます」
「ど、どうも」

 夏目家の執事、か。
 瀬野さんは胸に手を当てて、深々とお辞儀をした。礼儀作法などはよく分からないが、とりあえず慌ててお辞儀を返す。

 でもなぜ俺の名前を知っているのだろう。

「夏目って……」

 俺は瀬野さんが立っているその背後にある病室の扉を見つめる。
 辺りは依然として静かで、中からは物音は聞こえない。

「はい、七緒お嬢様はこちらで眠っておられます」

 執事にお嬢様って。まるでアニメの世界の話だな。本物の執事なんて現実では初めて見たよ。

 改めて、本当に夏目が名家の令嬢であることを再確認する。
 その振る舞いからは想像もできないが、たしかに現実らしい。

「じゃあ、まだ夏目……さんは意識が?」
「はい、お医者様が仰ることにはすぐに目が覚めるとのことでしたが、今はまだ眠っておられます」
「なるほど……」

 夏目のか細く華奢な身体と、穢れを知らないような透き通った肌を思い出す。軽傷といわれても、意識が戻っていないとなると心配になる。

 瀬野さんは左手をかざすように突き出して、落ち着いた配色の高級そうな腕時計に目をやった。やべえ、ただ時間を確認しただけなのにすげースタイリッシュ。

「もうすぐ面会時間が終わりますので、私は失礼しようと思います。神崎さん、よかったらお嬢様の顔を見ていってやってください」
「えっ、いいんですか」

 瀬野さんの意外な提案に、俺は思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまった。

「意外ですか?」
「そ、そうですね。なんか、お金持ちの家って、俺みたいな庶民、お嬢さんに関わらせたくないんじゃないかなってイメージがあったんで……」

 瀬野さんは俺の自虐的な発言を馬鹿にするでもなく、目尻を下げて優しく微笑んだ。

「本家の方々はあまり良い顔はしないかもしれません。しかし、私はお嬢様のお付きの執事ですので、ご学友に無礼な態度を取るわけにはいきませんよ。それに」
「それに?」
「お昼休みにお嬢様とご一緒されていたということは、それなりに親しい間柄でおられるのと思いまして」

 瀬野さんは再び優し気に微笑んだ。
 なんだかその笑顔は年齢にそぐわない、不思議な少年のような子供っぽさがあった。落ち着いた雰囲気の紳士だが、意外と愛敬がある人なのかもしれない。

「い、いや、べつに、たまたまですよ。そんなんじゃありません」

 べつに後ろめたいことがあるわけでもないのに、慌てて言葉を濁す。
 そういえば俺と夏目の関係って、いったい何なんだろう。

 話すようになってまだ数日しか経ってないし、友達ってわけでもない。
 彼女でも、もちろんない。クラスも違うし……ただの同級生?

「お嬢さんが同級生の方と仲良くされていることは、あまりありませんでしたから」

 瀬野さんは扉の向こうを見つめるようにして、少し寂しそうに呟いた。まるで何かを思い出しているような物憂げ表情。

「……意外ですね」

 俺は瀬野さんの言葉に驚きを隠せなかった。あの人心掌握に長けた性悪女のことだ。小さい頃から周りを騙して、女王様としてクラス内カーストのトップに君臨している姿を勝手にイメージしていた。昔は違ったのだろうか?

「お嬢様は昔から不器用な方ですから」
「不器用……ですか」

 学校中を騙す驚異の演技力。俺から見たらあんなに二面性を上手に使い分ける、器用な奴は他に知らないんだが。もちろん、夏目のすべてを知っているわけではないけれど。

 そういえば、瀬野さんは夏目の演技のことを知っているのだろうか?

「おっと、長居してしまいましたね。それでは今度こそ、失礼いたします」

 瀬野さんは慇懃な一礼と共に「お嬢様をよろしくお願いします」とセリフを残して去っていった。
 そんな芝居がかった動作も様になるような、紳士的で格好良いご老人だった。あんな風に年を取りたいな……。

 瀬野さんが去った後、人気がなく閑静な廊下に一人で立ち尽くす。
 この扉の向こうに、あの夏目が今も眠っている。

 不幸な事故だ。
 べつに巻き込んでしまった罪悪感とか、何があるわけじゃない。あんな辺鄙な場所にピンポイントで鉄パイプが降ってくるなんて、どんな有能な天気予報士でも予測は不可能だっただろう。なんなら俺だって完全なる被害者なんだ。

「――まあ、顔だけでも見てくか」

 俺はしばらく逡巡したあと、扉のノブに手を掛けた。
 考えても、問題が解決するわけじゃない。夏目が目を覚ますわけでもない。
 いちおう軽くノックをしてから、ゆっくりと扉を横にスライドさせる。

 お姫様が、眠っていた。

 病室のベットに目を閉じて横たわっている夏目が目に飛び込んできた瞬間、そんなセリフが頭に浮かんだ。

 夏目は静かなこの空間で、寝息が聞こえてきそうなほど、安らかな顔で眠っている。
 ガラス細工のように整った造形の顔は、まるで絵本の世界から抜け出してきたような美しさで、神聖さすら感じさせた。
 毒リンゴを食べて眠りに落ちた白雪姫も、こんな感じだったのかもしれない。

「――よう、入るぞ」

 声を掛けてみたが、反応はない。
 いちおう許可は取ったのだ、上がらせてもらうことにする。

 扉の近くに置かれていたパイプ椅子を手元に引き寄せる。パイプ椅子は床と擦れて、乾いた音を病室に響かせた。それをベッドの脇まで動かして、ゆっくりと腰を下ろす。

 もう夕暮れも過ぎて、夜の帳が降り始めていた。
 廊下から漏れる明かりと、外から照らされる街灯が僅かに辺りを照らす程度で、すっかり暗くなった病室。

 窓からは外の景色が一望でき、遠くまで立ち並ぶ家の明かりが煌々と光って見えた。

 夏目の綺麗な寝顔を眺めながら、あの校舎裏のベンチを思い起こす。
 『変態うそつき』の汚名を着せられ、教室に居場所がなくなり、逃げ込んだあのベンチ。
 まさかあの場所で、学校のマドンナである夏目と巡り合うことになるとは。

 そしてその本性を知り、そのうえ事故に巻き込まれて、こうして俺は病室で夏目の寝顔を眺めている。

 まったく、不思議なもんだな。
 中学までのひたすら地味な生活からしたら、目を張るような変化だ。それもほとんどが良くない方向性で、だけど。

「――なあ」

 ふと、思う。
 このケガが治って退院したところで、学校に俺の居場所はないことは自明の理だ。俺を必要としている人間は一人もいない。
 また、誰からも白い目で見られるだけの、つまらない毎日が続くだけだ。

 しかし、夏目は違う。
 とんでもない腹黒の毒舌女であることを知る人間は、俺以外誰もいない。持ち前の端麗な容姿と卓越した演技で、学園のマドンナの座を欲しいままにしているのだ。

 きっと、事故から戻れば皆が心配していたと夏目に声をかけるはずだ。
 周りから必要とされ、憧れの視線を向けられる。それはさぞかし楽しい生活だろう。

 耳をつくような静けさが、やけにうるさく感じた。

 考えれば考えるほど、モヤモヤとした形容し難い感情が、次々と現れては胸の中で渦巻く。

 なんだ、この感情は。
 どうしてだろう、暗がりで静かに横たわっているこの美少女を、直視することが出来ない。

 俺は自分が今考えていることに、自分自身で驚愕した。
 これは嫉妬、なのか。俺はこの目の前でスヤスヤと眠っているお嬢様に、嫉妬を覚えているのだ。
 俺みたいな陰キャラあがりの冴えない庶民が、成績と人気ともに学年トップの名家のお嬢様に嫉妬するなんて、とんでもなくおこがましい話。

 頭では分かっている。
 だが、心が分かってくれない。

「――夏目、どうしたら」

 お前みたいに。
 そう口を開きかけたとき、ある変化に気がついた。

 夏目の瞼がピクリと動いたのだ。
 驚きも束の間、電源の入ったロボットのように夏目の目がゆっくりと開いた。

「――ここは」

 少し掠れた声で、夏目はポツリと言葉を漏らした。

「おい、夏目! 目が覚めたのか!」

 俺の問いかけに呼応するように夏目はゆっくりと頭をもたげて、上半身を起こす。まだ顔色は良くないように見えたが、意識は戻ったようだ。

「お、お前、なかなか目を覚まさないのは流石に心配したぞ。さっきまで執事の瀬野さんも一緒だったんだけど、もう帰っちまったよ」

 まったく、心配させやがって。いやべつに心配とかしてねーけど、いちおう同じ事故の被害者としてはね。

 夏目は陶器のように表情が固定されて、なぜか反応がない。
 そして黙ったまま俺の顔を見つめている。まるで脳内でシステム処理を行っている最中のコンピューターのようだ。

 どうして何も答えないのだろう。何か様子がおかしい。
 もしかして事故で負った怪我の後遺症があるのだろうか。

「……夏目?大丈夫か?」

 俺の問いかけに、夏目は長い睫毛を動かしてパチパチと瞬きをして、まるで不思議な景色を眺めるようにこちらを凝視している。
 いったいどうしてしまったんだ。看護師さんを呼んでくるべきか。

 夏目はゆっくりと、でもしっかりとした口調で、衝撃的な言葉を発した。

「アナタは――誰ですか?」
「……は?」

 ゲリラ豪雨並みに瞬間的に訪れた、あまりに唐突な発言。
 夏目の言葉の意味が理解できず、俺は思わずマヌケな声を漏らした。

「夏目、なんて」
「あの……ごめんなさい。私、アナタとどこかでお会いしましたか?」
「お前……」

 今までの俺に対する傍若無人な態度とは打って変わって、妙に丁寧で落ち着いた口調。なぜか懐かしくすら感じられる。

 まるで、俺と出会う前の、あのお嬢様を演じていたときの振る舞いじゃないか。これは新手の冗談か?それともまたお決まりの悪ノリか?

「ここがどこかご存知ですか?私眠っていたみたいですけど……頭がボーっとして」
「そ、そうか、まだ意識が戻ったばっかで混乱してるんだな」

 意識を失っていたということは、頭を強く打ったのだろう。まだハッキリと思考が覚醒していないのかもしれない。

「ここは病室だ。俺たちは事故に巻き込まれたんだよ。もしかして覚えてないのか?」

 よく事故に遭った人や試合に負けたボクサーが、頭に強い衝撃を受けた前後の記憶が吹き飛ぶことがあると、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがある。もしかして、夏目もそのケースなのだろうか。

「事故……ですか」

 夏目は必死に過去の記憶を捻りだそうとするように、目をつぶって眉をギュッと寄せた。
 しばらく流れるシンキングタイム。

 しかし。

「……思い出せません」

 夏目は纏わりつく靄を振り払おうとするように、ブンブンと大袈裟に頭を振った。まさか本当に記憶が飛んじまったっていうのか。

「今は何日でしょうか?私はどれくらい眠っていたのでしょう?」
「お前は半日も眠ってないぞ。だから今日は――」

 夏目に今日の日付を伝える。
 すると夏目はそのパッチリとした目を見開き、そしてその表情はみるみる驚きの色に変わった。

「ウソ……私、ほんの昨日に入学式に出席したはずなのに……」
「は⁉」

 夏目の言葉に驚愕する。
 唖然とした表情で、静かに見つめ合う高校生の男女が二人。もしこのタイミングで看護師さんが入ってきたら、いったい何事かと思われたことだろう。

夏 目の演技力を踏まえても、この驚きの反応がどうも嘘をついているようには思えない。冷静に考えて、この二人きりの場面で嘘をつくメリットもないだろう。

 夏目は俺の顔すらも覚えていない。俺の存在自体が記憶から完全にデリートされている。いや、この場合はリセットか。

 なにより、昨日が一か月前に終えたはずの入学式だと思っている。
 明らかに記憶の整合性が取れていない。

 ここから導き出される結論は、一つしかない。

「まさか……記憶喪失ってやつなのか」

 今まさに、目の前に記憶喪失をした美少女がいる。

 なんだこりゃ。俺が普段愛読しているラブコメ漫画もビックリの超展開だ。
 まったくの人生初経験に、もう俺の脳内はお玉でかき混ぜたくらい混乱していた。

「そんな……! 私、どうすれば」

 俺以上に混乱した表情で、慌てふためいている絶世の美少女。
 しかし、あの虫を気持ち悪がって暴れ倒したあのときの反応に比べると、まだ大人しい。

 驚いてもなお上品な雰囲気を保っているこのリアクション。
 これは紛れもなく、俺に腹黒な二面性が露呈する以前の夏目で間違いない。

 俺が学校中から嫌われて、逃げ込んだ先で夏目と下らない話をする関係になった、約一か月間の出来事がコイツの記憶からは抜け落ちている。

 だから今の夏目は『変態嘘つき』の俺のことを知らない。夏目の毒舌にツッコミまくる俺も、知らない。

「瀬野のことを知っているということは、もしかしてアナタは私と仲良くしてくださっていたのでしょうか……?」

 夏目はその潤んだ瞳で俺の顔を覗き込むようにして見つめた。
 そのぱっちりとした目に漆黒の瞳は、まるで綺麗なガラスの球に閉じ込められた宇宙の銀河のようだった。俺が宇宙飛行士なら、スペースシャトルに乗って瞳の中へと旅に出そうな勢いだ。

「い、いや仲良くっていうか……」

 俺はなんと説明すればいいのか分からず、目を逸らして言い淀む。
 その庇護欲をそそるような、幼く純粋な表情。

 あの日の光景がフラッシュバックする。
 そういえば、こんな風に純粋そうな瞳で、俺のことを。

 ああ、何言ってんだ俺は。これは演技なのだ。
 べつに高校進学以前の昔の夏目を知っているわけではないが、入学式当時はすでに腹黒な性格を隠して優等生の仮面を被っていたことは間違いない。

 夏目は俺が自身の本性を知っていることに、まるで気がついていない。
 俺がクラスでどれだけ嫌われているのかも、知らないのだ。いったい何から話せばいいものか。

 俺の抱えている事情を一から夏目に説明するのか?
 夏目とのファーストコンタクト。あの俺の存在に気づいた途端、急に不愛想になった夏目の表情を思い出す。どうせまた生理的嫌悪感を剥き出しにされて拒絶されるだけだ。

 それに加えて、あの昼休みに過ごした時間も忘却の彼方なのだ。
 こうなった以上、もう一度あの校舎裏で駄弁っていたときの関係を構築し直す、なんてこと不可能に近いだろう。

「――っ」

 最低な考えが、頭に浮かんだ。
 黙っている俺を、不思議そうな表情で見つめている夏目。

 これを言ってしまったら、もう後には戻れない。
 心臓が飛び出しそうなほど大きく鼓動している。
 シーツの衣擦りの音さえ聞こえる静かな二人だけの空間で、ドクンドクンと脈打つ音がこだましている。

 俺はクラスメイト全員から白い目で見られたあの瞬間に失ったはずのプライドの、さらに残った全てを根こそぎ手放して、覚悟を決めた。

 ゆっくりと口を開く。

 いいさ、もうどうにでもなれ。
 なぜなら俺は。
 学校一の嫌われ者で。
 変態の、大嘘つき、なんだから。

 最低な嘘を。
 取り戻せない嘘を。

「仲が良いなんて、当たり前だろ。だって」
「だって?」

「俺たちは、付き合ってるんだから」