「変態うそつき」

 静かに、しかし確実に空気を揺らすような、芯のあるソプラノボイス。
 不名誉な呼称で呼ばれた方向を見ると、夏目七緒が腰に腕を当てて仁王立ちしていた。

「なんだよ。学校一のお嬢様は、学校一の嫌われ者には話しかけないんじゃなかったのか」

 昨日の件から、一日が経った。
 もう二度と会うこともないと思っていたが、次の日の昼休みも夏目は、何故か校舎裏のベンチに再び現れた。
 今日はもう初めからお嬢様スタイルの演技は無し、粗暴で高慢な態度全開だ。

「べつに、紅茶エデンを買いに来ただけよ。それと」

 ベンチに座っている俺に対して、スッと握りこんだ手を差し出す。

「ん?」
「昨日の七十円、持って帰っちゃったから。返しに来たわ」
「ああ、なるほど」

 粗暴な二面性を持ち合わせているくせに、意外と律儀な性格らしい。

「わざわざサンキューな」

 小銭を受け取ろうとすると、夏目は俺の手に触れないように一メートルほど上空から手の平を開いて七十円を落下させた。

「うおっ、ちゃんと渡せよ!」
「嫌よ、だって触ったら変態嘘つき菌が移るじゃない」
「移らねぇよ! どんなウィルスだ!」

 菌とか、小学生かっての。そんな残念すぎる感染病があってたまるか。

「ったく、イジメで訴えてやるぞ」
「あら、なら私は訴え返すわ」
「いや、裁判ってそういうシステムじゃねーから」

 リバース効果発動するカードゲームかよ。

 ……なんだこの死ぬほど下らない会話は。
 傍から聞いたら漫才としか思えないだろう。もしくはイジメの現場。

 俺たちは短い昼休みの間に、いつもそんなヘンテコやり取りをダラダラと繰り広げた。
 夏目七緒という女は、意外とお喋りな性格らしい。

 次の日も、そして次の次の日も。
 夏目は昼食時になると、決まって校舎裏のベンチへ足を運んできた。そして俺のメンタルを傷つける暴言を言い放って去っていく。ここは俺殴り放題のボクシングジムじゃねぇぞ。会員費よこせ。

 といいつつも、俺には昼休みに他に行くアテもない。
 結果的に示し合わせたように、毎日顔を突き合わせることになった。

「――なんだお前、俺とのお喋りがそんな好きになっちまったか?」
「は?マジでキモイんですけど一秒以内にこの世で生きた全ての証を処分してから死んでくれない?」
「ひどい……」

 めっちゃ言うやん。
 ちょっとした冗談が、百倍の暴力になって帰ってきた。俺が鋼のメンタルの持ち主じゃなきゃとうの昔に再起不能だぞ。

 夏目は仏頂面のまま、ふんっと鼻を鳴らす。なんて不遜な態度。まるで中世の貴族のようにお高くとまってやがる。「パンがないならケーキがあるじゃない、ただし私が全部食べるけど」とか言いそう。

 ……しかし、やはりこいつが美少女なことには変わりない。
 その横顔はヨーロッパの画家が描いた聖女のように美しい造形で、油断したら思わず見惚れそうになってしまうほどなのだ。

「私はお昼は必ず紅茶エデンを飲むって決めてるの。むしろ私の方がここを見つけたの先なんですけど」
「あ、そうなの」

 初めてこの場所を発見したときは、俺だけのベストプレイスと思っていたが、どうやら先客がいたらしい。
 まさかこんな辺境に目をつけていた人間が他にいたとは、軽い驚きだ。

「まったく、アナタみたいな変態うそつきが思い上がらないでちょうだい」
「すんません……」
「生理痛みたいな顔して」
「どんな顔だよ!」

 悪口の表現が抽象的過ぎる。前衛的な芸術家か何かか。ぶっ飛び過ぎだぞ。

「お前な、言っていいことと悪いことがあるぞ」
「死ね」
「お前に倫理観とかはないのか⁉」
「あるわよ、だって私は小学校の頃は『倫理ちゃん』って呼ばれていたぐらいだから」
「そんな小学生イヤだわ!」

 どんな義務教育時代の思い出だ。つーか多分そのあだ名悪口だから。むしろお前の方が周りの子を虐めてそうだし。

 ――まったく、この口の悪さと態度のデカさ。
 ここまでの性根の悪さを隠し通している鉄仮面。いったい何製なんだろう。

「……なあ、お前さ、教室ではなんで演技してんの」

 俺は単純な疑問を口にした。
 クラスが違うので直接的な関わりはないが、移動教室のときなど、廊下でたまに夏目とすれ違うことがある。

 腹が立つことに、こいつは他所じゃ借りてきた猫のように大人しく、いい子ちゃんをしっかりと上手に演じてやがるのだ。
 外面は鋼鉄でコーティングされているんじゃないかってぐらい頑丈で、それが演技だと気づいている人間は恐らく学校には一人もいないだろう。

 俺だけがその本性を知ってるってのも、なんとも奇妙な話だ。

「べつに。私の勝手でしょ」

 夏目はそっぽを向いて、紅茶エデンのプルタブを弾くように開ける。プシュッと、気の抜けた音が辺りに響いた。

「私はみんなに平等に愛情を振りまいてるだけよ」
「そーかい。俺に対してはえらく不愛想なくせによ」

 愛情とまでは言わないが、俺にだってもっと優しくしてほしいものだぜ。とりあえず暴言は無しの方向でお願いします。

 俺の何気ない言葉に、何故か夏目はムキになったように眉をひそめた。

「な……それはアナタが」
「アナタが?」

 俺がなんだってんだ。

「……アナタが変態の嘘つきだから、わざわざ演技してあげる必要もないと思ったのよ」

 少しタメを作った後、吐き捨てるみたいに表情を歪める夏目。
 どんだけ俺のこと毛嫌いしてんだよ。さては潔癖症か。夏目にとっての騙す対象にすらならないとは、やはり俺のランクはカースト最下層を爆走中らしい。

「アナタこそ……なんで演技なんかしてたのよ」

 今度は夏目が呟くように疑問を投げかける。
 せっかく買って開けた缶には口もつけず、両手で握ったままだ。飲まないなら俺にくれ。

「なんでって……そもそも、お前どこまで俺のこと知ってんの?」
「中学まではクソ陰キャだったこと、高校デビューしようとして失敗した恥ずかしい奴だってこと、そのうえ体操着コレクターだったことがバレたこと」
「最後のは訂正させてくれ!」

 俺は断じて窃盗犯でも体操着コレクターでもねぇ。ていうか、なんで俺の起こした事件をこんなに知ってるの。実は俺マニアなんじゃないか、コイツ。

 まったく。他クラスの女子にまで事件の話が拡散してしまったとは、本格的に俺の居場所はもう学校には無くなったらしい。

「どう広まってるかは知らんが、俺は女子の体操服なんざ盗んじゃいねー。本当に偶然、不運なことに妹が俺の鞄に体操着を入れ間違えて、事件の容疑者になっちまっただけだ」
「すごい偶然ね。そういえばこの前ニュースで痴漢で捕まったサラリーマンが『偶然手の先に女性のお尻があって』と証言してたけど、似たようなものかしら」
「確かに嘘っぽいのは認めるけど本当なんだよ!」

 当人である俺ですら、他人が同じ状況だったら絶対信じないと思うもん。なんという神様のイタズラ。
 こんな不幸な偶然が世界に存在することを、俺は身をもって体験したのだ。どうせならもっと良い奇跡が起きてくれたらありがたかったのに。

「鞄の中じゃなくて、制服の下に着ていたらバレなかったのにね」
「変態度がよりアップしてるじゃねぇか!」

 そこまでいったら、もはやバレるバレないのレベルではなく、人として戻ってこれない領域に到達してしまったといえるだろう。というか、そもそも俺は変態じゃねぇ。

「とにかく、俺は窃盗もしてないし、特殊な性癖も持ってねぇよ」
「あらそう。なら、高校デビューしようとしたってことは認めるのね」
「うっ……」

 痛いところをついてくる。なにこの誘導尋問。警察署の取調室か。
 俺は黙秘を諦めた容疑者のように、諦観の表情でベンチに大きくもたれかかった。

「――まあ、そうだよ。目立たない地味だった奴が、背伸びして人気者を演じようとした末路だ」

 寓話にしてもデキの悪い、どうしようもない話。
 とあるキッカケで俺が身に付けようと思い立った偽りの仮面は、たった一か月もしないうちに破綻した。

 結局は、たったそれだけの話なのだ。
 盗難事件はただのキッカケで、みんなを騙せると調子に乗っていた事実は変わらない。

「いやー、夢は見るもんじゃねぇな」

 肺の中の空気を全て吐き出すように、深い溜息を吐く。
 もう戻ってこない時間の重大さを考えるだけで、改めて気が重くなる。

「――夢、ね」

 普段の威勢はどこにやら、夏目はどこか憂いを含んだ表情で手に収まったアルミ缶を見つめていた。

 ……なんだよ、そんな顔もできるのか。

「その、なんだ。お前もせいぜい気をつけるんだな、お嬢様。性悪な暴言女ってことがばれないようにな」

 俺は不意に流れた沈黙になんだか虫の居所が悪くなって、思わず適当な言葉を並べた。
 我ながら下手くそな誤魔化し方だ。俺はこんなときに伝えるべき言葉を、知らない。

 すると夏目は自慢気な笑みを浮かべて、ふんぞり返って腕を組んだ。

「……ふんっ、アナタと一緒にしないで。アナタのようなヘマはしないし、何よりスペックが違うもの」

 そう言って紅茶のエデンに口をつけると、豪快にグビグビと飲み干す。
 よく分からないが、どうやら機嫌は回復したらしい。

「否定できないのが腹立つわ……」

 やっぱり、可愛くない奴だ、コイツは。
 とんでもない名家のご令嬢で、誰もが振り向くほどの美人で、高校に主席入学するほど頭も良い。

 こんなチート女が、あえて性格も良いお嬢様を演じている理由。
 それはいったい、何なのだろう。なんだか気になる。
 夏目の持っている、ホントの部分。

「あのさ……」

 俺が口を開いた瞬間。
 何を言おうとしたのか、自分でも覚えていない。
 とにかくそれは、突然の出来事だった。

「危ない‼」

 閑静な辺りに似合わない、鬼気迫る怒鳴り声が響いた。
 怒鳴り声の発生源は、上の方向からだった。

 声につられるように上空を見上げると、舞っていた。
 何が?
 数えきれないくらいの、鉄パイプが。

 ――屋上の扉に貼ってあった、工事中の文字。
 みるみる上空から落下してくる鉄パイプを見て、そんなことが脳裏を過ぎった。

 考えている暇はない。

 俺は弾けるようにベンチから立ち上がると、隣で呑気に空を見上げたまま固まっている夏目を、本能的に身体ごと突き飛ばした。

 瞬間。
 身体を打ち付けるとんでもない衝撃と、辺りに響き渡る耳を覆いたくなるほどの轟音。

 気がついたら俺の身体は、寝そべるようにして地に伏していた。
 いったい身体のどこに、何がぶつかったのすら分からない。

 視界がだんたんと暗くなっていく。
 身体もまるで糸の切れた人形のように動かない。
 手の平からするすると力が抜けていく感覚。

 やべえ、これ、死ぬんじゃね?

 薄れゆく視界の先に、地面に転がったいくつかの鉄パイプと、少し離れたところに俺と同じように地面に倒れこんで動かない夏目の姿が見えた。

 あまりに突然な非日常すぎる光景。
 だが頭に浮かんだことはたった一つだった。

 夏目は大丈夫なのだろうか。
 分からない。

 もう、意識が保つことが出来ない。
 校舎から響いた昼休みの終わりを告げるチャイムだけが、妙にハッキリと聞こえた。