目を覚ますと、俺はクラスの人気者になっていた。

 常に皆の話題の中心であり、誰からも注目される存在。
 挨拶を投げ掛けるだけで女子たちから黄色い歓声が沸き起こり、その一挙手一投足が学校中で注目されている――

「――そんなワケないでしょ」

 閑静な病室に、ポツリと響いた呟き。

「アナタ、寝言で願望がダダ漏れなのよ。気をつけた方がいいわよ」
「――夏目」

 なんだか見覚えのある、眼前に広がるシミ一つない真っ白な天井。
 大きな窓から絵の具を流したように差し込む赤い夕焼け。

 なんだこれ、デジャブか?
 それともこれが死後の世界ってやつなのか?俺は死んだのか?死んだ俺を夏目が迎えに来たって言うのか?

「まだ……夏目とケーキバイキングデートもしてないのに」
「何起き抜けに気持ち悪いセリフを吐いてるのこの変態」

 首を捻って辺りを見回す。
 よく見ると、俺は病室のベッドに横たわっていた。

 ベッドの脇には、制服姿の夏目が退屈そうな表情でパイプ椅子に腰掛けている。まるで親に無理矢理連れてこられて拗ねている子供のようだ。

 滲んだ視界でじっと夏目を見つめる。この不愛想な表情、そして辛辣な毒舌。たしかに本物だ。間違えようがない。

 アクション映画ばりの、屋上からの決死ダイブ。どうやら俺は助かっていたらしい。

「俺は……いたっ」
「まだ動かない方が良いわ。頭を打ったみたいだから」

 上半身を起こそうとすると、痺れるような痛みが頭部へ走る。
 シャツの袖から覗く俺の腕をよく見ると、細かい切り傷がいくもあった。

 やんちゃな少年の生傷のような跡を眺めていると、ふつふつと記憶が蘇ってきた。隣に座る夏目の表情、空中へと反転していく視界。

「……そうだ、夏目お前大丈夫だったのか⁈」
「無理しないでと言っているでしょ。これ以上頭にダメージを負って取り返しがつかないことにはなったらどうするつもり?私はこの通り、かすり傷一つないわ」

 夏目は呆れたように肩をすくめた。
 たしかに夏目の綺麗な顔には傷跡一つなく、つい少し前に屋上から落ちたとは思えないほど様子は落ち着いていた。

「アナタと私が屋上から落ちた場所ね。木の上で枝に引っかかってくれた上に、草むらの中に突っ込んだの。それで大分衝撃が和らいだのよ。だから無事だったみたい」

 本当に悪運が強いんだから、と夏目は半ば自嘲気味に笑った。それは、俺とお前どちらのことを指しているんだ。あるいは、お互い様か。

「そうだったのか……」

 無我夢中で夏目を助けようと、空中に身を投げ出した場面までしか記憶がない。その後はいちおう安全な場所に墜落してくれたらしい。俺の純粋無垢で力強い気持ちが幸運を引き寄せたのかもしれない。うん。神様、マジサンキュー。

 ――まさか屋上からダイブして、この短期間に二度目の病院に運ばれるとは。まだケガがマシなだけでも、不幸中の幸いというべきか。

「……本当にアナタは、無茶苦茶よ。なんで私を庇ったりしたのよ」

 俺だって、自分がとっさにそんな行動を取れるほど、度胸のある人間だなんて知らなかったよ。この年にして、我ながら新たな発見だぜ。若さって凄いねって自分で言っちゃいそうになるレベル。

「――もしかしたら、死んでいたかもしれない」

 夏目は俯いて、消え入るような声を漏らした。そこに普段の勝気な雰囲気はない。

 おいおい、殊勝なことに、夏目なりに俺のことを心配してくれているらしい。目の前の信じ難い光景に、思わず感涙してしまいそうだ。この姿を写真に撮って額縁に収めたいくらいだ。

「そんなこと言われてもな……気がついたらって感じだったから」
「何格好良い感じのセリフを言おうとしてるのウザいし寒いわやめてくれるかしら」
「それが少なくとも助けようとした人間に対する態度か⁈」

 流しかけた涙も一瞬のうちに枯れ果てたわ。別に恩着せがましくするつもりは毛頭ないが、せめて労いの言葉くらいくださいよ。

「……そういえば、最初の事故の時も、アナタは私を突き飛ばして助けようとしたわね」
「あー……そうだっけ」

 まだ少しだけボンヤリしている頭から、少し前の記憶を引っ張り出す。
 言われてみればそうだった気もしないでもない。あまりにイレギュラーな出来事過ぎて逆に記憶がない。

 というか、ずっと記憶喪失していた癖に、妙に物覚えの良い奴め。
 そんな咄嗟の行動、脊髄反射だったからほとんど覚えていないぞ。

「なんでそんなことばっかりするのよ。アナタって、相当のお馬鹿さんね」

 やれやれと首を振って、夏目は呆れたように溜息をついた。感謝されているのか、責められているのか、よく分からないぞ。

「なんでって……」

 俺は俯きがちに視線を下げる夏目の姿を見つめる。

 そのとき、少しだけ開いた窓の隙間から風が吹きこみ、まるで子供のイタズラみたいにカーテンがふわっと舞った。

 ふと、なんとなく思った。
 今こそ、言うべきなのかもしれない。あの日のことを。

 ポツリと言葉が俺の口の端から零れる。

「――多分お前は覚えてないけどさ、実は俺たち入学前に出会ってんだよ」

 突然のセリフに、夏目は眉を顰めて訝し気に俺の顔を見た。このエピソードを夏目にするのは初めてだ。いや人に話すこと自体初めてだな。千秋にすらずっと黙っていたこと。

「……前世的な?」
「ちげぇよ」

 あいにくそんなスピリチュアルな趣味は俺にない。そして運命の相手と入れ替わって隕石から世界を救ってもいない。

「入学式の二週間くらい前だったかな」

 誰にも話していない、俺だけが知っている物語。
 それは本編にもメインテーマにもまるでならないような、スピンオフといって差し支えないくらい小さな出会いだった。

「その頃は……ちょうどこっちに帰ってきたくらいだったかしら」

 夏目が思い出すように首を捻る。
 どうやら本当にその頃のことを覚えてはいないらしい。

「俺は中学の卒業式の帰りだった。俺は、道に荷物をぶちまけて困っている女の子に出会った」

 あの日の光景を思い出す。
 まだ二か月も経っていない、少しだけ前の話。

 緩やかな暖かさと晴天が心地よくて、風に舞って散った桜吹雪が嘘みたいに綺麗だった。
 坂の上から見下ろす街はやけに絵になって、卒業式の感動も相まって俺は柄にもなくエモーショナルな気分で道を歩いていたのだ。容姿は地味なくせに、気分は若手俳優くらいな勢いだったと思う。

 俺が彼女を見つけたのは、そんな月九ドラマのワンシーンみたいな瞬間だった。

「俺は声を掛けて、荷物を拾うのを手伝ったんだよ」

 ひっくり返った大荷物を前にして、見るからに困った様子で『困ったな―困ったなー』って頭抱えながらしゃがみこんでるんだもん。あからさまだもん。

「……それがお前だったんだ」

 うん、今思うとあの頃から夏目節は全開だったんだな。
 そういえば、巨大なスーツケースが転がっていたのを覚えている。まさに夏目が東京からコチラへ帰ってきたそのタイミングだったのだろう、多分。

 夏目は予想通り、いまいちピンと来ない表情でウンウン唸っていた。

「なんだかそんなこともあったような、なかったような……どうしてもその人の顔に靄がかかって思い出せないわ」
「今目の前に大ヒントがあるよ!」

 なぜ本人を目の前にして思い出せない。
 たしかにあの時の俺は、髪型もダサくて、厚底眼鏡をかけた超地味バージョンではあったけども。

「私、一人旅っていうのに憧れてて、あえて車じゃなくて電車を乗り継いで東京から帰ってきたの。その道中で色んな人に媚びを売って助けてもらっていたから……」
「すげぇなお前」

 ある意味最強のバックパッカーだな。歴戦のサーファー並みに世渡りが上手い。

 そういえば、声を掛けて荷物拾ってる時もほとんど俺が拾ってた気がする!俺はあの時すでに夏目の術中にはまっていたのか。今更判明した新事実!

「と、とにかくそのときにさ、お前が落としてた雑誌を拾い上げたんだよ」

 偶然の出会いの末に、俺がアスファルトから拾い上げたその雑誌。
 最近発売されたばかりの、春物特集が組まれたよくあるティーン向けの内容だった。

 その表紙に、踊るようにデカデカと書かれていた文字。

『高校デビュー』

 間違いない。
 あのとき、俺の人生に風が吹いた瞬間だった。

 夏目は二言三言交わした後、俺にその雑誌を押し付けるように渡して華麗に去っていった。俺はただ呆然と、その後姿を眺めていた。

「まあ、そんなやりとりがキッカケで、俺は高校デビューしようと決めたってわけだ」

 あの眩しいくらいにキラキラした女の子に出会った後、俺は地味な生活を脱却し、猛烈に自分を変えてみたくなったんだ。
 良くも悪くも、あのたった数秒のやり取りで、大きく人生のコース変更を余儀なくされたってわけ。

 話を聞き終わると、夏目は納得したように大きく首肯した。

「……ふむ、アナタが実は陰湿なストーカーだったということは分かったわ」
「やめてよ」

 誤解を招く表現は控えてくれ。高校デビューを志したキッカケではあったけど、べつにそのまま夏目を追いかけてこの高校に入ったわけじゃないんだから。

 入学式の答辞でコイツの姿を見つけたときは目玉が飛び出そうになった。マジで奇跡ってあるんだなって思ったもん。

 夏目は再び呆れたように大袈裟な溜息をついて、唇を小鳥のように尖らせた。

「……はあ。だったらなおさら、結局なんでアナタは私を助けるようなことをするのよ。もしその偶然の出会いを恩義に感じているなら、とんだお門違いよ。私にはなんら他意はなかったんだから」
「なんでって……それは」

 俺は夏目の言葉を遮るように、小さく笑った。
 なぜ俺はいつまでも夏目を追いかけて、なんとか手を伸ばそうとしてしまうのか。

 その質問に対する答えは分かっているんだよ。テストにしたって出来の悪い、簡単すぎる問題だ。恩義でもない、偶然でもない。

「それは?」
「夏目のことが好きだから」

 夏目は驚いたようにハッと顔を上げた。
 そしてみるみるうちに、その表情は蒸気したように朱色が刺していく。
 拗ねたように口を尖がらせるその仕草がやけに幼く見えて、まるで子供のようだ。ふふふ、やってやったぜ。普段嫌というほど振り回されている逆襲だ。

「バカ……あほ」
「お前はガキか」
「生ごみ、クソボケ」
「女子高生が使って良い言葉の汚さのレベル超えてるぞ」

 語彙力が小学生だ。それも口が悪いタイプのヤツ。

 まったく。
 普段は演説家のように滔々と喋り倒すくせに、直球で責めるととすぐタジタジになる。もう夏目のこともだいぶ分かってきたみたいだ、俺も。

 もっともっと、知りたいと思う。
 目の前で顔を赤らめているこの少女のことを。
 俺は病室にゆっくりと流れる暖かい空気を感じながら、夏目と過ごした時間を思い返す。

 青すぎるくらいの春に、俺は夏目と出会った。
 変態扱いされたり、事故に遭ったり、不慣れなデートを決行したり、教室のど真ん中で叫び倒したり、屋上から落ちたり。

 残念すぎるぜ、俺たちの高校生活。まさに七転八倒って感じ。次から次へ、よくもまあこんなトラブル続きになるもんだと逆に感心する。

 涙が出そうなくらいにダサいことばかりだ。青春小説にしたって出来が悪い。

 下手くそで、不器用で、一生懸命な。そんなたくさんの出来事も、今では愛おしくさえ思える。

 だってさ、夏目に出会えたんだから。

 もし出会っていなかったら。
 もし本性を知らずにすれ違っていたら。
 もし本音を吐き出さなかったら。
 そんな世界はもう想像できないくらい、夏目の存在は俺の中で大きくなってしまった。

 こうして二人で見つめ合っている。そんなことが、何より価値のあることに思えるんだから。

 これだけは嘘じゃない。すべてが真実の。

 うそつきで、情けない、二人だけの物語だから。

「良かったら、聞かせてくれ。お前の答えをさ」

 俺はあえて堂々とした素振りで、夏目の顔を正面から見つめる。

 うわー何格好つけっちゃてるんだよ、俺。内心はめちゃくちゃ恥ずかしいぞ。心臓が飛び出しそうなほど震えている。多分緊張で変な顔になっているな。

 俺の緊張を知ってか知らずか、夏目は口先を尖らせて、ツンとそっぽを向いた。
 普段の垢抜けた雰囲気とは真逆の、まるで素直になれない子供のようで笑える。

「あら、私はアナタなんて、心の底から、大大大、大嫌いなんだからっ」

 そう口にした夏目の頰は真っ赤に染まって、まるでリンゴのようだった。それは多分、窓から差し込む夕焼けのせいだけじゃない。

 俺は思わず喉を鳴らす。込み上げてくる笑いを抑えることが出来なかった。

 本当に、ホントに、彼女は。

 ――夏目七緒は、嘘つきだ。