「良かったじゃん、疑いが晴れてさ」
「……まあな」
「私は最初から信じてたけどね」
「うそつけ」

 もうすっかり見慣れた高校へと続く長い坂道を、千秋と喋りながら歩く。

 約一ヶ月に渡って俺を悩まし続けた元凶は、意外なまでにあっさりとした解決を迎えた。

 クラス中の度肝を抜いた夏目の本音爆発、まさの交際宣言、そして千秋の登場による真犯人の発覚。

 たった数分間に起こった出来事とは思えない、ミステリー作家もビックリの超展開だ。我々の学年ではおそらく卒業まで語り継がれるであろう伝説の日になったな。

「まさか……こんな近くに犯人がいたとはね」
「俺も驚いたよ」

 まったく人は見た目によらないものだ。
 改めて考えてみると、高田のような一見人当たりも良く目立つタイプの男が陰であんな凶行に及んでいたというのはぞっとする話だ。

 サッカー部に所属し、容姿も優れている。もちろん夏目とは比べるべくもないが、高田は十分クラスの人気者といって差し支えないほどだった。

 当たり前みたいな顔をして俺を犯人扱いしていたことを思い出すと、その狂気に軽く寒気を覚える。
 まさに王道を行くうそつき、キングの称号を授けたいくらいだな。俺のうそつき度など彼の前では足元にも及ばないだろう。まあ、立派な犯罪なので笑えない話だが。

「……運が良かったのか、悪かったのか」

 そんな危険思想を持ち合わせながらも、今まで平気な顔して学校生活を送っていたのかと考えると、彼も役者だ。夏目とは違う、悪い意味で。

 クラスメイトはあの事件以来学校を休んでおり、その姿を見た者はいない。クラスメイトからの連絡も一切反応しないらしい。
 あんな大胆に騒ぎたてていた癖に、あいつ意外と豆腐メンタルだな。学校中から嫌われても登校し続けた俺を見習ってほしいぜ。

 風の噂で聞いたが、一度目の盗難事件も自分の犯行だと高田が自白したらしい。
 だが先生方も騒ぎが落ち着くまでは事を荒立てない方針らしく、生徒たちに詳しい事情は聞かされていないのだ。真相はまだ明らかにはなっていない。

 まあ、いずれにしても、初回の事件でまったく無関係の俺が勝手に自滅して疑われてくれたのは、犯人からしたらとても都合が良かっただろう。俺が疑われている間は、自分の身に捜査の手が及ぶ可能性はまずないのだから。

 しかし、まさかこんな形で露呈するとは、犯人の高田ですら想像していなかっただろう。もちろん俺も。
 教室にいた誰もが予想だにしなかった展開、そして幕切れだった。

 詳しい内容は知らないが、高田には学校側からそれなりの処分があるらしい。停学とかなのかな。

 特にテレビやネットでニュースになっていないところを見ると、警察には被害届を出さなかったようだ。まあそりゃそうか。学校的にも表沙汰になるとまずいのか、それとも青年の更生を期待して配慮がなされたのか。

 とはいえ窃盗犯の濡れ衣を着せられ、それが原因で学内カーストから追放された俺からすれば、クラスメイトには一切同情の余地がない。一発思いっきりぶん殴らせてほしいくらいだぜ。つーか絶対殴る。いや、やっぱ怖いからやめとく。

「でも……千秋は何であそこまでしてくれたんだ?こっそり写真撮ったり、もし高田に見つかってたらお前が危なかったかもしれないんだぞ」
「ん……まあ、なんとなくね」
「なんとなくって」

 千秋は斜め上に視線を泳がしながら、頬を赤く染めている。なんだコイツ。なるほど、もしかして実はいい奴なのか。

「なんとなくでいーの。もとはといえば、春がクラスに居場所無くなったのは私のせいだから。良心の呵責っていうか」
「……千秋」

 ここ数年は俺のことを「キモイ」としか言わなかった千秋にも、まだ呵責に苛まれるような良心が残っていたんだな……父さん嬉しいです。

「なんつーか、サンキューな」

 俺は照れ隠しに前髪を弄りながら軽く頭を下げた。なんか、改めて言うと恥ずかしいな、これ。

 夏目と同様に、今回は千秋には本当に助けられた。
 もし千秋が証拠を見つけてくれなかったら、俺が再び犯人認定さてもおかしくなかった。そうなれば今後の学生生活は超ハードモードと化していただろうことは想像に難くない。

 千秋は俺のストレートなお礼の言葉に、驚いたように目を丸くしてから、少し満足そうに頷いた。

「ま、夏目さんと付き合うなんて大変だと思うけど、これからはのんびり身の丈に合った生活をすることだね」
「……そのつもりだよ」

 諦めたように嘯く俺の横顔を眺めながら、なぜか千秋は満足そうに笑った。

☆☆☆

「……さて、行くか」

 昼休み。
 以前のような教室での居心地の悪さは無くなったものの、この時間になると俺の足は校舎裏のベンチへと向かっていた。もはやこれは習慣だ。

 あの場所じゃないと、どうも落ち着かない体質になってしまったらしい。まるでパブロフの犬にでもなったようで、我ながら情けない。

 廊下をのんびりと歩く。たったそれだけのことが、ひどく懐かしく思える。

 多少好奇の目を向けられることはあっても、かつてのようにクスクスと嘲笑に晒されたり、後ろ指を指されることはない。まったくもって学園は平和そのものだ。

 俺の悪い噂が光の速さで伝播したように、俺の無実が学校中へ広まるのもあっという間だった。

 もうクラスは俺とはまったく別の話題で盛り上がっている。
 悲劇のヒロインである俺に気を使って――とかそういうわけではなく、単純に新たな犯人の登場や夏目のキャラクターの豹変ぶりへと話題がシフトしただけだろう。

 まあ中には学校一美人なお嬢様の付き合っている相手はどんなもんだ、と俺を品定めしている生徒もいたりしたけど。

 相手が俺のような冴えない男子だという事実を知ったら驚愕すること請け合いだ。ビジュアル面でいえば夏目と釣り合う相手なんてのは、モデルか俳優くらいだもん。

 大衆なんてのはそんなもんだろう。

 騒いでいた連中も、テレビのワイドショーでゴシップ特集を見ているくらいの感覚でしかない。
 みんなセンセーショナルな話題を面白がっていただけで、俺という特定の人間を本気で憎んだり貶めようということではなかったのだ。

 高田の暴走には流石に腹が立ったが、後から騒ぎたてて話をぶり返すのは俺の本意ではない。もうクラスメイト同士でいがみ合いなんてウンザリだ。

 興味を持つのも早ければ、忘却するのもあっという間。
 無実が発覚した後、同情してくれるクラスメイトも中にはいたが、俺はむしろ彼らには申し訳なく感じるくらいだった。

 やはり最初に疑われる原因を作ったのは俺だ。俺が逆の立場だったとしても、庇ったりなんかしなかったと思う。疑ったことを謝ってくれるその気持ちだけで充分だよ、まったく。

 ――しかし。

「うーん」

 真犯人が捕まり、俺の誤解も解けた。
 夏目が公然で交際宣言をしてくれたこと以外、問題はすべて解決したといって良い。文句なんて一つもない。

 すべては平穏な生活に戻った。喉から手が出るほど欲した、いたって静かで平凡な日常。

 そのはずなのに。

 なんだろう、このモヤモヤとした感じ。
 名状し難い不安が、俺の心中で静かな警報を発していた。チクチクとした何かが、胸の辺りに引っかかっている。

 例えるなら、外出先で家の鍵を掛け忘れたんじゃないかと無性に不安になるような、そんな小さな感覚。何かを……忘れてる。

「――ちょっと待てよ」

 夏目との会話を思い返す。
 大勢が居合わせた教室で、己の本音をこれでもかと叫び倒した夏目。

 いや、それも衝撃的だったが、そこじゃない。

 春の生暖かい気温のせいで淀んだ脳内に散らかった、煩雑な記憶を一つずつ整理していく。

 夏目と過ごしたあのデート。お互いの人生初デート。
 映画、カフェ、ゲーセン。二人の足取りを追っていく。うわ、今思うとすげぇ楽しかったな。楽しかったけど。

 二人で並んで歩いた、駅までの帰り道。夕日に染め上げられた歩道。

 夏目の零した言葉。
 俺は校舎裏へと向かう足を止め、一人廊下で立ち尽くした。

「……そうだ」

 思い出した。
 己の愚かさにため息が漏れる。俺はなんてバカヤロウなんだ。なんで、気がつかなかったんだろう。

 夏目はあの時「なぜ演技をしているのかと聞いたことがあった」と言っていた。

 だが、思い出してみろ。俺がその話をしたのはいつだ?

 俺の記憶が確かなら、その話をしたのは夏目と出会ってからすぐのことだった。それ以降は夏目とそんな話は一度もしなかったはずだ。間違いない。

 つまり演技の話は、夏目と俺が事故に遭う前に交わされた会話。
 夏目が記憶をなくす前に。

「……」

 冷や汗がこめかみを伝って音もなく流れる。
 もしかして、夏目はもうすでに。

 まるで忍び寄る影のように、得体の知れない恐怖が身体を支配していく。息が詰まって、溜息すらも出ない。

 まるで何かから逃げるように、その場で静かに回れ右をする。行き先変更だ。行く当てはない。だが、とにかくもうあそこには行けない。

 俺はその日から、校舎裏へ行かなくなった。

☆☆☆

 昼休みの屋上はひどく静かだった。

 この空間に俺以外には誰もいない。
 まるで世界の営みが停止したように景色は動くのを止めて、ただ風が吹く音だけが聞こえる。

 行き先を無くした俺が向かったのは、なんてことのない校舎の屋上だった。

 屋上へは階段を上ってそのまま上がれた。
 屋上へ続く扉には工事中の張り紙が貼ったままだったが、ドアノブを捻ると鍵は空いており、驚くほどすんなりと侵入に成功。やはりこの学校の安全管理意識は甘い。
 生徒としては一抹の不安を感じざるを得ないが、一人になれるベストプレイスを探している身としては有難いことこの上ない。

 聞いた話によると以前事故を起こした業者はクビになり、学校側は他の業務委託先の会社を探している最中らしい。流石に二度目の事故は勘弁して欲しいね。

 どうやら今は工事が一旦中止されているようだ。辺りを見回す。
 人の気配は一切ないが、立ち入り禁止のフェンスなどがまだ残されており、工事途中の跡が散見された。

「よっと」

 俺は屋上の縁を取り囲む、座りやすそうな段差に腰を下ろした。
 少しばかりお尻が冷たいが、座り心地がベンチのような感じでちょうどいい。

「うぉ、すげぇ」

 眼前に広がる景色に、思わず感嘆の息を漏らす。
 ここからだと校庭どころか、街の景色が一望できるな。坂の下に鎮座する我が家の屋根が、まるでミニチュアのように遠く小さく見える。壮大な街の模型を眺めているような気分だぜ。

 不用心なことに、この屋上には周囲を取り囲むようなフェンスはない。いわば俺の座っているこの場所は、外に向かって剥き出しだった。こうして腰掛けている今も、足が空中をプラプラしている。

 落ちようと思えば簡単、一瞬で真っ逆さま。まあそもそも落ちようと思わないけど。
 一歩先は空中という非常にスリリングな光景だが、気をつけていれば問題ない。

「はぁ……」

 ゴロリと後ろに寝転がって、大の字になって綺麗な空を見上げる。
 見渡す限りの晴天だ。これが五月晴れってやつか。
 風もいい具合に吹いていて非常に気持ちが良い。こんな解放感は久しぶりに感じた気がする。

 何も考えず、ずっとこうしていたい気分だ。
 漫然とした気持ちで、穏やかに流れていく雲を観察する。あ、あの雲は羊さんに似てるなー。しかも大きいのと小さいの、親子みたいだ。可愛なー、うふふ。

「何か嫌なことでもあったんですの?」
「うおお⁈」

 ソプラノボイスと共に、繊細な長い髪が視界に揺れる。
 俺は驚きのあまり、思わず飛び跳ねるようにして身体を起こした。

「――夏目」
「うふふ」

 現実逃避中の俺の視界に突如として現れたのは、紛れも無い夏目本人だった。

 あまりの衝撃に心臓が停止するかと思ったぞ。お前は俺を殺す気か。

「ビックリしたぞ……音もなく現れるなよ」

 夏目は手を後ろに組んで、相変わらずの端正な顔でイタズラっぽく微笑んだ。
 たったそれだけのナチュラルな振る舞いが、景色も相まってまるで額縁に収まった絵のように様になる。

「ごめんなさい、足音を消して歩くの、癖なんですの」

 お前はどこの殺し屋一族だよ。そんな同級生嫌すぎる。

「うふふ、アホ面の男が空を見上げながら現実逃避をしていたのが目に入ったから、嘲笑ってあげようと思っていたんですの」

 なぜわざわざ嘲笑う必要がある。
 ビックリするくらい魅力的な笑顔のまま、当然のように毒舌を吐き出してくる。ヒマラヤ山脈とマリアナ海溝くらいの高低差に、俺は思わず耳がキーンとした。

「心の底からほっとけ……っていうかなんだ、その語尾は」
「イメチェンですの。これからは変な語尾の不思議ちゃんキャラでいこうと思うですの」
「絶対友だちなくすからやめとけ!」

 方向性がぶっ飛びすぎている。迷走中の地下アイドルかよ。というか今更イメチェンて。一ヶ月遅いわ。

 ――やれやれ、あれだけ色んなことがあったっていうのに。

 コイツはある意味まったくブレない奴だな。世界の果てまで行ったって変わることはなさそうだ。その精神力の強さは尊敬に値する。

「……なんで夏目がここにいるんだよ」

 俺は段差に座り直して居住まいを正しながら、訝しげに夏目を睨んだ。俺がこの場所にいることは誰も知らないはずだ。

「私がここにいちゃまずいのかしら」

 さり気なく語尾を戻した夏目は、当たり前のように俺の隣に腰を下ろした。相変わらずの不遜な表情。
 風に乗って夏目の石鹸のようなフレグランスがフワッと舞い、心地よく鼻に届いた。

「……べつに悪くないけどよ。もしかして俺を探しに来たのか」

 夏目の方から俺を探しにくるなんて、殊勝な心掛けだ。珍しいこともあるものだ。今日は午後から雨の代わりに槍が降るかもしれない。

「なんでアナタを探さないといけないのそもそも私はここ一週間ほどずっとこの屋上で昼食をとっていたのよ後から来てその態度は少しばかり傲慢じゃなくてほんとにふざけないでちょうだい」
「分かった分かった!」

 そうだったのかよ。知らなかったよ。ごめん。だからそんな早口を繰り出しながら俺を睨まないでくれ。

 ああ。なんだかこんなやりとりに、懐かしさすら覚えてしまう。

「じゃあ質問変えるよ。なんで先週は校舎裏のベンチに来なくなったんだ」
「あら、その質問、そっくりそのままお返しするわ。アナタこそなんで昨日は校舎裏に来なかったの」
「それは……べつに」

 なんとなく、と呟く。なんとなくなワケがない。理由なんて分かっている。

 俺が夏目に顔向け出来なかった理由は、たった一つ。
 言わなければいけないことは、たったの一つ。

「――夏目、俺はお前に言わなきゃいけないことがある」

 俺は静かに決意を固める。どうせ誤魔化しきれるものじゃない。もう遅すぎたくらいだ。ここでもう言ってしまわないと、傷口は広がるばかり。

「言わなくても分かるわ」

 俺は驚いて、隣に腰掛けている夏目の横顔を見た。
 まさか、すでに俺が言わんとしている事を察していたのか。コイツもコイツなりに、この一週間俺のことを考えていてくれたのかもしれない。

 夏目はゆっくりと、まるで聖女のような柔和な微笑みを浮かべた。

「……アナタが脳内で私を触手で陵辱していることに、私が気づいていないとでも?」
「してねぇよ⁈」

 シンプルに自意識過剰だよ。流石の俺もクラスメイトでそこまで妄想を膨らます趣味はない。よりによって触手て。そんなアウトサイダーな性癖は俺は所持していない。

「私を触手プレイで辱めるエロ同人誌をコミケで販売するんでしょ?」
「どんなサークル活動だよ!」

 おそるべき二次創作だ。夏目一族からの訴訟は免れないだろう。てかコミケとかエロ同人誌とか、お前絶対隠れオタクだろ。それも結構コアな感じの。

 いかんいかん、話が逸れまくっている。

「……そんな話じゃねぇよ」

 俺は軽く嘆息して、気を取り直す。
 ひたすら脱線し続ける夏目との楽しいおしゃべりをしていたい気持ちも山々だが、今回ばかりはそうもいかないんだよ。

 俺は深く息を吸って心を落ち着かせて、改めて夏目に身体を向き直す。

「俺はお前に嘘をついてた。本当はお前と俺は付き合ってなかったんだ。記憶を無くしたお前を騙したんだ」

 鉛のように重たい言葉で、真実を告げる。
 自分の吐き出した言葉が、まるで呪詛のように俺の心を縛り上げていく。

 もしかしたら夏目はもう気がついていたのかもしれない。今更懺悔したところで、これは後出しじゃんけんのズルなのかもしれない。

 だが今の俺には謝ることしかできない。

「だから、すまん。せっかくお前は俺のことを庇ってくれたのに、俺は最低な奴だ。すまん」

 俺は深く頭を下げる。

 夏目は沈黙していた。返答はない。
 今コイツがどんな表情をしているのか、俺には分からない。

「……それだけだ。じゃあな。もうお前の前には姿を現さない。迷惑かけてすまなかった」

 冷たいコンクリートの床に手を掛けて、ゆっくりと立ち上がる。
 どんな罵詈雑言を浴びせられても仕方がない。ちっぽけなプライドなんか全てゴミ箱に捨てた。絶縁される覚悟はしている。

 夏目は俺の言葉に何も言わず、ただ無表情なまま俯いていた。
 その大きくつぶらな瞳は、プラプラと宙に浮かぶ爪先をじっと見つめている。

 もう何も言ってくれないだろう。
 俺はクルリと背を向けて、扉に向けて歩き始めた。

 もう夏目と話すこともない。きっと、これが最後だ。
 さよなら。そんな言葉が喉まで出掛かった。

 するといきなり襟元を引っ掴まれた。

「待ちなさい」
「ああああぶねぇ!」

 首元を掴まれた反動で、危うく後ろにひっくり返りそうになる。

 もちろん背後はフェンスのない屋上の縁だ。
 このままひっくり返ったら、あの世への片道切符を手にするハメになってしまうだろう。今回ばかりはマジで死ぬぞ。

「そんな一方的なセリフを吐いて立ち去ろうなんて、都合が良すぎるわ」
「……っ」

 何も言い返すセリフが思いつかない。罵詈雑言ならまだいい。いくらでも怒りをぶつけてくれとさえ思う。

 だが、なにより夏目からの本当の失望のセリフこそ、俺は怖かった。どんな毒舌よりも、グッサリと心を抉られる。

 夏目との時間は、居場所を無くした俺にとっての唯一といっていい、何よりも価値のある時間だった。

 それが、夏目にとってすべて否定すべき過去に変わってしまう。
 それがなにより俺は恐怖だった。

「知ってたわよ。アナタが嘘をついてることくらい。私の目を侮らないでちょうだい」
「……いつくらいから?」
「そうね、アナタとデートした帰り、いえもう少し前から、なんとなくだけど記憶は戻りかけていたのよ」
「……そうだったのか」
「アナタは、なんでそんな嘘をついたのかしら?」

 夏目は溜息まじりに訊いた。至ってシンプルな問いかけ。

 だが俺は答えに窮していた。
 まるでフェルマーの最終定理のように、その短い問題文に答えるための証明材料は、膨大で複雑怪奇に絡み合っている。とにかく感情がごちゃ混ぜで、いくら頭の中を探しても適切な表現が見つからなかった。

「それは……」

 俺の持っていないモノをすべて兼ね備えている、夏目が羨ましかった。嫉妬、羨望。夏目に認められたかった。承認欲求。存在証明。夏目に必要として欲しかった。

 ――なんだそれ。
 いや、そんな建前じゃないだろ、神崎春。

 なあ、もっと答えはシンプルだろ。他でもない、俺が望んだこと。本当に言うべきたった一つは、これだったんだ。

「楽しかったから。お前といるのが。お前との時間がなくなってしまうのが怖かった。繋ぎ止めたかったんだ」
「……それが理由なのね?」

 夏目の鋭い双眸が俺の身体を貫く。俺は無抵抗のままそれを受け入れた。

「あぁ、こんな自分勝手な感情が、お前を騙した理由だ」

 まるで神に懺悔するように、俺はうなだれる。

 神様なら、いかなる罪も許して受け入れてくれるのかもしれない。だが相手は夏目だ。紛れも無い、一人の少女だ。
 暴力的なのに優しくて、無神経なのに繊細で、嘘つきなのに正直者の、ただの特別で平凡な一人の女の子なのだ。

 すべて許してもらえるなんて、あまりにも傲慢な希望。

 僅かばかりの沈黙。風の通り過ぎる音だけが聞こえる。
 夏目の綺麗で長い黒髪は風に弄ばれるように揺れているが、彼女が意に介す様子は微塵もなかった。

「私は怒っているわ、神崎くん」
「……ああ、そうだろうな。俺はお前を騙していたんだから」
「違うわ、そこじゃないの」

 今にも風に掻き消されそうなか細い声。

 俺はハッと顔を上げた。
 そこにはいつもの不遜な表情ではない、まるで泣いているかのような、でも笑っているかのような、不思議な感情を湛えた表情の夏目がいた。

「アナタは迷惑をかけたと言ったわね」
「……言った」
「私が迷惑だったなんて、アナタに一言でも言ったかしら?」

 夏目から飛び出した意外なセリフに、俺は思わず息を呑む。

「で、でも」
「私は、私のことを分かったような口を利かれるのが、一番嫌いなの」

 夏目は俺の言い訳を遮るように、力強くバシリと言い放った。

「楽しかったのは……私の方よ。私こそ、記憶が戻ってからも気がつかないフリをしてたのは、アナタとの時間を終わらせたくなかったから」

 夏目の口から紡がれた言葉。
 どれだけ探しても、そこに嘘や偽りはまるで感じられない。

 それはたしかに、夏目の本音だった。ああ、俺はなんて傲慢だったんだろう。一方的に俺の考えを押し付けて。

 俺は気がつかなかった。夏目がそんなことを思っていてくれたこと。俺との時間を大切にしていてくれたこと。

 文字通り、俺の嘘に付き合ってくれていたということ。

「一つ質問があるわ」

 夏目は縁に手をついて顔を近づけながら、真摯な瞳で俺の目を見つめた。

「私のことが好きなのも、嘘なの?」
「それは……」

 そんなの、決まっている。改めて聞くまでもない。一切の建前や掛け値無しで。ありとあらゆる神に誓う。

「――大好きだ」

 まるで初めから用意されていたかのように言葉が滑り出た。
 初めて心の底から伝える、本当の言葉。本当のことを言うのには、勇気が必要だ。やっと、言えたんだ。

「……嘘じゃない?」
「嘘じゃない。本当だ」

 そうか、そうだったんだ。
 俺はこの毒舌で、腹黒で、嘘つきな夏目のことが。
 誰よりも繊細で、優しくて、正直なこの少女のことが。
 大好きだったんだ。

 ええい、ままよ。言ってしまったものは仕方ない。もうどうにでもなれ。

「大好きだ、夏目」

 目を逸らしたら負けだと言わんばかりに、俺は夏目の潤んだ瞳を見つめ返した。もう逃げるのは飽きたんだ。意地でも逸らさないぞ。どうだこの野郎。

 造形美さえ感じるクッキリとした目鼻立ち。曲線美を描く長い睫毛。艶やかで厚みのある唇。ああ、クソ、やっぱり可愛いなコイツ。まるで悪いところが見当たらないぞ。

「……」

 何故か黙りこくる夏目。

「いや、なんか言えよ」
「……っ」

 ほんのりと蒸気していく表情。
 みるみる夏目の頰が朱色に染まっていく。

 あれ、もしかして、照れてる?夏目さんが照れてらっしゃる?
 おい世界中のみんな!あの夏目がガチで照れてるぞ!

「あ、あらそう。そ、それはまあ当たり前よね。うん、私ほど魅力的な女性はそうはいないもの。アナタみたいなクソ童貞が好きにならないはずはないわ」

 いや、めっちゃ動揺してんじゃん。
 「好きなのも嘘なの?」とか、したり顔で自分から聞いてきたクセに。

 そんなガチなリアクションされたら、こっちまで照れてしまう。俺の顔まで赤くなってきた気がする。

 まったく、こっちだってめちゃくちゃ恥ずかしいんだぞ。寝る前に布団の中で羞恥に悶え苦しむ系のヤツだ、これ。

 だけど、やめない。嘘をついて後から後悔するくらいなら。
 たとえ恥ずかしかろうと、今だけは本音を言ってやるんだ。

「……ああ、そうだな。間違いなく、お前は魅力的だよ」

 俺は半ば呆れながら、笑顔で肯定する。

「間違いないよ。本当に。お前みたいな奴、好きになるなって方が無理だぜ」

 夏目は顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いた。

 普段のつっけんどんな態度は何処へやら、目が太平洋で回遊するマグロのように泳ぎまくっている。相変わらず直球勝負になるとクソ弱いな、この子。

 照れている夏目。正直むちゃくちゃ可愛い。

「と、とにかく! 私はアナタのことを――」

 夏目はそう叫びながら、勢いよく立ち上がる。
 分かりやすい照れ隠しだ。これが世に言うツンデレってやつか。ツンデレとかリアルにいたら痛いだけの奴だと思っていたが、これが存外悪くない。うん、ありだな。

 そんなことを思った瞬間だった。

 夏目は身体のバランスを崩した。
 ふと頭を過ぎる。たった一週間前に、病院に運び込まれるような事故に巻き込まれたのだ。

 カクン、と聞こえた気がした。見ている俺にも、夏目の嫌な感覚が膝から伝わる。これは。屋上の縁で、絶対に感じてはいけない浮遊感。

 手を伸ばす暇もなく、身体は後ろ向きに倒れていく。

「しまっ、た」

 夏目の身体が傾き、大きく揺られる。
 まるで糸の切れたマリオネットのようだった。

 安定を失った夏目が倒れこむその先は、空中。屋上の外側。
 投げ出された夏目の身体を支えるものは、もう何もない。まるで風が彼女を連れ去ろうとしているかのようだった。

 ――くそ。

 俺は気がついたら夏目の後を追っていた。特に何か考えがあったわけじゃない。俺は足を掛け、思いっきり飛んだ。

 自らの意思で空中へ躍り出る。命がけの人生初体験。

 ガムシャラに手を伸ばす。
 夏目のスカートが風に吹かれて大きく膨らむ。もしかしたら下着が見えたかもしれない。だが、この瞬間にそんな呑気なことを考える暇はなかった。

 とにかく飛びついて、空中で抱え込むように夏目を強く抱きしめた。

 夏目の頭は俺の腕にスッポリと収まった。艶やかな髪からとても良い香りがする。まるで特上の抱き枕を抱いているかのように、不思議なくらい心地が良い。空中であることを除けば、最高のシチュエーションだな、これ。

 ああ、身体が落ちていく。
 当たり前のことだ。屋上から落ちたんだから。地球には重力が存在するんだ。俺たちを頭からつま先まで押さえつける、逃れようもない重力が。

 気持ちの悪い浮遊感が全身を包んでいく。だがそれに反するように、腕の中に収まった夏目の身体は、太陽のように安心する温もりを発していた。

 守らないと、夏目を。

 俺は夏目の驚くほど華奢な身体を、一層強く抱きしめた。
 俺はどうなってもいい、とにかく、夏目だけは。この胸に収まった温かみを絶対に失いたくないんだ。

 いや、助けるでしょ。助けるに決まってるよ。
 だって。
 だって夏目、お前はさ。
 俺を。

 こんなどうしようもなく救えない、うそつきの俺を。

 俺を救ってくれたんだから。