「おはよう?12時10分だけど?僕が今起きたと思ってる?」

「あ、違ったー?ごめんごめん」

「何のために挨拶が多種類あると思ってるの?」


やかましい男だ。適当にえへへへと笑ってテキストに目を戻すと、彼は何も言わずに席について勉強を始めた。大学が決まってるのに勉強してる、嫌味な男。そう一度だけ思ってから、よく考えるとこの人は嫌味で勉強をしているわけではないことを思い出す。

この瀬川という男には失望した。わたしよりもよっぽど賢いくせに、地方の大学を推薦で決めてしまったからだ。

それとなく彼の机に目をやると、瀬川の筆箱に見たことのないパンダのマスコットがつけられている。それは瀬川のコンパクトな筆箱と比率が合わずでかくて、よく見るとしっぽからなにやら白い糸と、糸の先に人差し指が入る程度のプラスチックの輪がついている。

まさかと思って手を伸ばすと瀬川は焦ったようにちょっと、と言った。それを無視して伸びる糸を引くと、そのパンダのお尻は糸を巻き込みながらブルブルと震えた。


「せっ」

「何だよ!」

「瀬川バカじゃん!」

「きみには言われたくないな!」




卒業式の前日は少し晴れていて、風も弱かった。相変わらず地面は白く、今日はいつもよりも固い雪の音がする。太陽の光で雪面が少し溶けたせいだろう、積もりたてとはまた異なったざくり、ざくりという音を楽しみながら歩いている。

この音がわたしの邪念を払ってくれればいいんだけどなあ。

学校が近くなってぱっと前を顔を上げると、瀬川が歩いていた。瀬川の隣に女がいる。それは改めて認識する前に私の意識に入ってくる、特別な女の子だった。

別にわたしにとって特別なわけではない。荒田咲という女の子は、すべての人間にとって特別なのである。

それは抜群に整った容姿のことで、もはや卑怯だとも言えない。彼女を前にすると、誰も不満を抱くことなどできないのではないか、という気にさせられる。

実際にそんなことはなく、嫉妬深い人間には彼女は嫌なようにささやかれていることも多い。けれどわたしは気づいている、彼女の前に立った時に女ならきっと誰も同じ気分にさせられる、圧倒的な、敗北感に。