束の間、何も考えられなくなる。真っ白になったあとに、血がにじむように胸の中が痛み出す。なんで、これ、誰が。全然知らなかった。だって相川がそんな素振りを今まで私に見せたことがなかったから。


「言わなきゃいけないことがあった」


顔を上げるのに、少し時間がかかった。大きく動悸がして、相変わらず私をまっすぐ見てくる彼が突然、消えてしまいそうな儚いまぼろしのような気がしている。駆け上がってくるような心臓の音に耐えて、何、と言った。




「イギリスに行くんだ。ずっと前から決めてた。でも言えなかった、伝えるための時間はいくらでもあったのに、なんでもない話をしてる時間はあまりにも短かったから」




彼の瞳が揺れた。私はきっと瞳の奥すら、身動きができなくなっている。きっと今まで相川と過ごしたどんな瞬間よりも彼の顔は私の顔の近くにいるはずなのに、彼の言葉以外、何にも気を払うことができない。雪が降っていることが、彼の黒いマフラーに積もっていくそれを見て分かる。だけど冷たいとか濡れるとか、全部、まるでどうでもいいことのように思える。

何を言っているんだろう。


「申し訳ないけど、やっぱり高須賀は被害者意識が強いとしか思えないよ。誰だって大なり小なり傷を抱えているんだ、それに折り合いをつけられるどうかは、最終的には本人次第なんだ。傷ついたことも、忘れなくてもいいけど、乗り越えていかなくちゃいけないんだよ」



それ、誰がやったの?と、アスファルトを走る車にかき消されてしまう程度の音量で聞いた私に対して、彼は小さく、父親、と答えた。言葉を認識して、想像をかきたてられたところで、彼の全ての言葉に説得力が重くのしかかっていく。



「辛い過去なんて底なし沼だ、馴れ合ったって出てこれなくなるだけだ。それだったら、あと少ししかなかった時間を、もっと楽しく過ごせると思ったんだよ」



相川の言葉の語尾に涙が混ざっている。そう思った瞬間、頭痛を覚えるほどの衝撃に似た、途方もない後悔が襲ってくる。


相川が毎日私に尋ねた、「今日は何か面白いことがあったの?」という言葉が、頭の中で繰り返される。


二度と返ってこない時間に、私は、何をしていたんだろう。



「高須賀は絶対に笑った方がいい。そして俺と高須賀は絶対、暗い経験よりも、幸せな気持ちを共有したほうがいい」