ええさっき僕の名前だけ呼ばれませんでした、と答えると、担任の高村先生は目をひんむいて驚いている。あの場で大事にしたら可哀想だから最後のSHRが終わってからそう言いに行くと、職員室の中がパニックになった。

別にあんなちょっと材質のいい紙切れいらないなぁ、などと思ったが、入学手続きの過程で出せと言われていたような気がするので黙って帰るわけにはいかない。

周りの教員に迷惑をかけながら汗をかいている高村先生には悪いことをしたなぁと思う。彼の不手際にしても、この場合きっと要因を持っているのは僕のついていない体質のほうだ。

職員室の端でお茶を出してもらい、ソファに座って待っていると、昇降口から横平が出てくるのが見えた。僕はなんとなく、本当になんとなく彼女の姿を追った。今日で会うのが最後でかつ、挨拶をしておきたい唯一の女子が彼女だからだ。職員室のドアから先生が僕を呼んでいる。


「瀬川?」

「すみません、すぐ戻ります」


彼女を追ってバス停に着くと、バス待ちの時間さえ参考書を開いていた。すごい徹底ぶりだ、と思いながら声をかけると、心の底から驚いたように彼女は振り返った。落ち着きのない表情だった。何か予想外なことが起こっている気配がする、と思うと案の定彼女はいつもとはまるで違う口調で言った。


「瀬川にあこがれて、勉強するようになったの」


こんな話し方のほうがよっぽど賢そうで、かつきみに似合ってるんじゃない、と思ったけど言わなかった。それよりも、驚いたからだ。


「本当に?世の中、人をインスパイアさせる理由って結構下らないことばかりなんだね」

「だから瀬川と離れるのは本当に寂しい」


横平が泣いている。

これはもしかして、初めて横平が素直に誰かに感情を伝えている瞬間なのかもしれない。そう思うと、卒業式の重みが突然心にのしかかってきた。

そういえば泣いているところは見たことがなかったなぁと、揺れる白い息に視線をやりながら思う。馬鹿なようでいて勉強をしていることは知っていたが、それが計算だとは思ったことがなかった、けれど。

もしかしたら横平は僕のことが、もしかしたら――


「隣の席が横平じゃなくなるのは、確かに寂しいね」

「寂しいとかじゃなくて、本当に寂しいの」