荒田咲の声があまりにも近くで聞こえたため驚いて声が出ない。驚いたりパニックになった時、とっさに声が出なくなるのは僕の癖で、それは人生がほぼ予想外の事件で構成されている僕に天が与えた唯一の救いだと思っている。目に見えていつも挙動不審だと、かわいそうだものね、フフ。くらいに笑われているに違いない。



「ほら、推薦で決まった人と難関私立に合格した人が、後輩に話しに行くって先生に言われてたじゃん」

「ああ。そうだったね。覚えてる」


僕はこの人に感謝している。この人のおかげでsculptureという単語を一発で覚えられたからだ。センター過去問の答え合わせの途中、辞書を引いた瞬間にああこの人のことか、と思ったのを覚えている。

長いまつげに差し込む光が当たって少し明るくなっている。触ったことなどないけれど、きっと少しも傷んでいないだろうと思う。いつか化粧をすることが礼儀だと言われる場面に立つときこの人はまつ毛を上げてマスカラを塗るのだろうか。そうしたら傷んでいくのだろうか。

大人になっていくことは、社会を知っていくことは、自分を少しずつ痛めてゆく作業のようだ。


そんなことを考えながら鞄を漁って僕はふと気づく。


「発表原稿がない」

「え゛っあれ何気に3~5分話せって言われたよね……」

「しかもあれ頼まれたその日に書いた原稿だから内容何も憶えてない」


時計を見ると4限まで残り10分だった。目を閉じて精神統一――しようと思ったら推薦入試の日の失敗を思い出す。あの時は想像し得る失敗をすべてリストアップして一から可能性を潰した。体調管理を綿密に行い、免疫をつけるために夏の終わりからは毎晩走ったし筋トレをした。腹をこわさないように前日の夜に食べるものは調味料まで消費期限をチェックして生野菜には手を付けなかった。何なら夕飯の買い物へ行く母親について行って食料の鮮度を一緒に確認した。文房具を忘れないように筆箱を3つに分けて予備を持って行ったし、財布をすられてもそこまで痛くないように財布を2つに分けてお金を半分ずつ入れた。鞄をどこかに忘れてもいいようにリュックとスクールバックの両方を持って行った。


「でも、瀬川くんならできそうだよね。数々の不測の事態をかいくぐってきたんだから」

「そうだね。とりあえずトイレ行って力を注入してくるよ」