「快感だったのよ」



自分が狂っていることなど、とっくに気づいている。



靴を履いて外に出ると風がさああ、と鳴った。末端冷え性のわたしはもう足先に感覚がなく、もう少ししたら、これが寒いということも分からなくなる。

感覚がなくなって寒いということを忘れて雪が積もったら、そこに還っていきたい。


バスを待ちながら単語帳を開いたけれど、何も頭に入ってこない。2次対策に単語を見ても意味がないことも知っている、けれど何かしなければならない。

その時、右耳の上あたりから白い空気が流れて、あれ、という声がした。


「後期試験の2次は数学じゃなかったの?」

「何でわたしが受けるところ知ってるの」

「たまたま職員室行ったら学年主任が嬉々としてさあ、僕と僕の隣の席で学年ツートップだって言ってて」


惨めなわたしに神様が与えてくれた。最後に瀬川の声を聴くチャンス、と思うと、彼の声がいつもよりもずっと優しいものに聞こえる。


「横平が僕の学校の星だ。頑張って」


違うんだよ、というのは声にならなかった。


「横平は何でK大に行くの?」

「僕は獣医になりたいんだ」

「そんな遠くに行かないと、なれないの?」


俯いたまま生産性のないことを言うわたしを、瀬川がどんな顔して見ているのかは分からない。わたしはこんなことを言いたいのだろうか、考えても分からない。

感情がそのまま言葉になったことは、しばらくない。


「瀬川にあこがれて、勉強するようになったの」

「本当に?世の中、人をインスパイアさせる理由って結構下らないことばかりなんだね」

「だから瀬川と離れるのは本当に寂しい」


顔を上げると、遠くの方からバスがやってくるのが見える。わたしはあれに乗るけれど、瀬川が乗るのは違うものだということは知っている。

今バス停にいる人たちは、やっときたバスを、待ちくたびれたように迎えるのだろうか。

この集団の中で一番、ここに留まりたいのはわたしなのだろう。見たくない、と思ってまた俯くと、目の前にはわたしと瀬川の足と、白。


「隣の席が横平じゃなくなるのは、確かに寂しいね」

「寂しいとかじゃなくて、本当に寂しいの」

「横平、俯くのやめて」


だって顔を上げたらバスが来てしまう。


「横平、前を見るんだ」

「なにそれ、誰」