自転車を庭先に止める。

 家に入ろうとして鍵が開いていることに気がつく。母はまだ仕事のはずなので、いるとしたら裕司さんだろう。

 予想通り、裕司さんが居間に何もせずに座っていた。

「お帰りなさい」
「ただいま、です」

 裕司さんは仕事が終わればいつも母の働いている店に行き、母と一緒に帰宅する。

 この家で二人きりになるのは滅多にないことだった。どう声をかけていいのかわからず、緊張から喉が渇く。先に動いたのは裕司さんだった。

 冷蔵庫から未開封の二リットルのミネラルウォーターを取り出して開けてしまう。

「朱鳥くんも飲む?」
「いいえ。それにそれは母のなので」

 喉は乾いていたが、僕が飲んだと知られたら殴られるだろう。僕が許されている飲み物は水道水だけだ。色々なことがあったけれど、母との関係は何も変わっていない。それどころか金づるを逃がしたと罵られたりもした。

「そうか。そういうルールだったね」

 見ていられないというように視線を逸らして、コップに注いでいく。

「でも、ばれなきゃ問題ないよ」

 そう言ってコップをもう一つ取ると、飛び跳ねるほどに勢いよく注ぐ。並々みと注がれた水を零れるのもいとわずに僕に勢いよく差し出す。

「飲みたいときに、飲みたいものを飲むのが一番だよ」
「ありがとうございます」
「乾杯」

 今日の裕司さんはどこか変であった。水を飲んでいる間もちらちらと僕の様子を伺ってくる。まるで何かのタイミングを計っているようだった。

「もう一杯どう」
「いやそれはさすがに」

 気づけば二リットルのミネラルウォーターは半分ほどなくなっている。裕司さんはかなりのペースで飲んでいた。

「大丈夫。新しいの買ってきたから。むしろ中途半端に残っていると、ばれてしまうよ」

 なんだか共犯にされてしまった気がする。

「でしたらいただきます」
「水だけだと飽きてしまうね」
「でしたらおかずがありますよ」
「いいね。一緒に食べよう」

 僕たちは居間に戻って酒盛りでもするように、作り置きしていた食事をつつきながらミネラルウォーターを飲み干した。ふと父親とはこういうものなのかと意識してしまう。

 ただの水だというのに今日の水には味があったような気がする。

「予餞会の準備はどう?」
「順調です。何もなければ明日にも完成します」
「そうか。楽しみだな。朱鳥くんの絵」

 天井を見上げて想像を膨らませる裕司さんは幸せそうに頬を緩ませる。
「たいしたことないですから」
「謙遜しても良いことはないよ」
「謙遜ではないです。僕なんてまだまだ、それに納得のいく出来ではないので」
「自分の作品にこだわりを感じられるのは進歩している証だと思うけどね。まあ出来の良さは二の次だよ。なにより息子の晴れ舞台……」

 裕司さんは自分の失敗に気づいて言葉を止める。僕の反応を伺うように視線だけを僕に向ける。

「息子みたいなものでしょ」

 それに、近いうちに本当の息子になるのだから。

「そうだね」

 何かを決意したように裕司さんは胡坐から正座に変えて居住まいを正す。

「実はね、大事な話があるんだ」
「はい」

 その真剣なまなざしに僕も正座をする。

 他人の男二人が一つ屋根の下で正座している状況は、どんな状況だろうと考える。

「お母さんと結婚しようと思う」
「……そうですか」

 それ以外に答えようがなかった。

 もちろん反対なんかしないし、あんな母を貰ってくれるのならありがたいことはない。

 かといっておめでとうございます、も他人事のようで違う気がする。

「それだけかい?」
「よろしくお願いします」
「あ、はい。よろしくお願いします」

 まるで娘さんを下さいと、言いにきた男のようにがちがちに緊張している裕司さんを見て笑ってしまう。僕に何か気をつかわなくて構わないというのにこの人は本当にお人好しだ。

「笑うのはなしだろう」
「裕司さんが緊張しすぎなんですよ」

 四十代の大人が子供相手に結婚の報告でしどろもどろになっていたら笑ってしまう。

「こういう経験はなかったからね」
「経験してどうでしたか」
「二度はいらないね」

 お互い視線を合わせてふっと笑う。

「母のどこが良かったんですか?」
「全て。と言うとありきたりだけど、放っておけないんだよ」

 照れながらも素直に気持ちを吐露する裕司さんは本当に母にもったいない。この町が活気づいていたならば、母よりも良い相手が見つかっただろうに。

「言っておくけど、同情ではないからね」
「わかってます。ですけど、子供を殴る人と良く結婚しようと思えましたね」

 少し嫌味っぽくなってしまった。機嫌を損ねたかと思ったが、裕司さんは、にへら、と笑って頭をかいていた。

「ああ見えて繊細なんだよ。朱鳥くんを殴った事はいつも後悔しているよ。もちろんそれだから許してやれなんて言わないけれど、それだけは知っておいてほしい。彼女はもうそれくらいしかコミュニケーションの取り方がないと思い込んでしまっているんだ」

 そんなことを言われてもどんな反応をしていいか困る。残念なことだけれど、僕はもう母のことを諦めている。それにもうすぐ僕はこの町を出て行く。

「改めて母のことよろしくお願いします」

 深々と頭を下げる。一つの未練を断ち切ったような気分だった。

 話す事がなくなって、再び気まずい空気が訪れる。手持ち無沙汰になって空いた皿を重ねていく。

「ところで、母のところに行かなくて良いんですか?」
「行くよ」

 しかし、まだ話は終わったわけではなかったようで、裕司さんは立ち上がらない。僕をじっと見つめたまま何かを吟味している。

「どうかしましたか?」
「変わったね。朱鳥くん」
「そんなことは」
「あるよ。昔は人前では決して笑わなかったもの。やっぱり、彼女が影響しているのかな」
「あの人とは別に、噂は嘘ですから」
「隠す必要はないよ。渡会杞沙、彼女が何物かは知っている」

 皿が手元を離れて机に落ち大きな音がなる。割れはしなかったが、気まずい空気を打ち消すには十分だった。

「もちろん何をしようとしているのかも」

 今すぐにでも逃げ出してしまいたい気分だった。今まで誰にもばれずにいた計画が今になって露呈するなんて。焦りで焦点が合わない。

「そのこと、他の人には」
「言っていない」

 それ聞いてとりあえず安堵する。しかし問題はこの後だ。
裕司さんが何を考えているのかわからない。それまでお人好しに見えていた裕司さんが得体のしれない人間に感じてしまう。

「なぜです?」
「この計画には賛同しているからね」
「賛同?」
「不思議に思わなかった? 彼女はいったいどこからあれだけの物資を得ているのか」

 言われてみればそうだ。深く考えることを放棄していた僕は、日が高いうちにどこかから入手していると漠然と思っていた。

「今回の件、物資を供給していたのはうちなんだ。彼女からお金をもらってそれを卸していた。言うならば協力者だね」

 食材の中に紛れていた謎の荷物。あそこに爆薬が詰め込まれていたということか。

 僕は良いが大河にあれを運ばせていたのは申し訳ない気持ちになる。

「この町は病魔に侵されている。そのことはみんな知っているが痛みを恐れて治療することが出来ないんだ。子供の君にこんなことを託すのは大人として失格だと自覚しているけれど、だからこそ私たちごと、一思いにやってほしい」

 理解するのに数秒の時間を要する。計画が実行されれば店だって吹き飛んでしまう。それでも構わないと言っているのだ。正気の沙汰とは思えない。

「それじゃ、そろそろ行こうかな」
「待ってください。裕司さんはそれで何を得られるんですか?」
「朱鳥くんの作品が現実になる。それだけで満足だよ」
「でも、そんなことしたら」

 母との結婚どころではなくなってしまう。それは僕の本意ではない。

「これは止められない。朱鳥くんの気持ちがどんなに変わろうとも」

 キサさんと同じ言葉を残して、裕司さんは家を出て行った。

 その後も混乱した思考は正常な判断を下せず、僕は居間でぼうっと立ったままでいた。

 僕の知らないところで、色々なことが起こっている。

 いったい何が起こるのか。

 ことの顛末は僕の思っているものとは違っているのかもしれない。