出来上がったスケッチを眺めて大きく息を吐く。水の中から出た時のような開放感が胸に広がる。それと同時に物語を読み終えた時のような余韻が残っている。

「キサさん?」

 アトリエにはキサさんの姿はなかった。

 胸騒ぎがして慌てて外に出る。月明かりに照らされてキサさんは佇んでいた。

 ぼんやりと月を見上げて誰かに話しかけているように見える。
白く発行したように見える肌はそのまま月の光に溶けてしまいそうな儚さがあった。

「これでやっと、立ち上がれるのかな」
「キサさん!」

 このまま消えてしまうのでは、という恐怖が勝りつい声をかけてしまう。

 緩慢な動作で僕の方を見るキサさんはいつにもまして綺麗に見えて、大人の女性を意識してしまう。

「できた?」
「はい」
「そっか」

 キサさんは自分に言い聞かせているように呟く。笑顔の合間に見せるふとした表情が切なさを感じさせる所為で、下手に触れることを躊躇わせる。

「中に入ろうか。風邪引きそう」
「はい」

 そうした切なさを振り払うように、キサさんは歯を見せて笑う。

「どうしたさっきから。私の顔ばかり見て」
「いいえ。何でもないです」

 ころころと変わる表情がいつも以上に魅力的に見えて、自分の頭がおかしくなったのではと思ってしまう。

 未だに残る右手の温もり。それを思い出すだけで顔が熱くなる。

「今日は泊っていくといい」
「でも」
「今日は一人になりたくない気分なんだ」

 笑っているけれど、泣きそうな顔をしている。その表情の下には何が隠されているのだろうか。

「その言い方、ずるいですね」

 どれほどの時間がたっているのか定かではないが、夜中であることは確かである。こんな時間に自宅に戻っても良いことはない。それにもっと一緒にいられる理由が出来たのだから、そちらを選ばない選択はない。

 居間で二人、あの日と同じように一つの毛布にくるまる。

「これで二回目だね」
「はい」

 あの時は気持ちがまるで違う。あの時の僕はボロボロに傷ついて、寒々とした燃えカスのようだった。今は小さいけれど火がついて少しだけ希望が見えている。

 暖房器具のない部屋は冷気が床を這い丸くなっていないと体温を奪われてしまう。

「もっとこっちにおいでよ」
「はい」

 肩と肩が触れ合い相手の体温を感じる。キサさんは僕よりも少しだけ暖かい。それだけなのに僕まですぐに暖かくなってしまった。

 お互いに顔を見られないまま無音の時間が過ぎていく。

 お互いの息遣いだけが聞こえる空間は平穏を感じられ、一人では決して感じることのできない特別な感情だった。

「私のことを少し話そうか」

 キサさんは身体を動かして居住まいを正す。

「私はこの町の出身なんだ。ここは私の実家になる。もう誰も住んでいないけれど。この町の人間を嫌っていた朱鳥にいきなりそんなことを話したら警戒されると思って嘘をついた」
「それでよかったと思いますよ」

 実際、あの時の僕がその話をされたなら、警戒して避けていただろう。そう思っていてもちょっとだけ傷つく。

「そんな顔をしないでくれよ。本当にごめんだってば」

 にやにやしながら謝ってくる。すぐにからかおうとする姿勢はいただけない。

「ところで、最後の一軒って」
「うん。ここだよ」
「やっぱり」

 この町にはここも当然含まれている。計画が実行されればここも廃墟と化してしまう。それで良いのか、と自分に問いかけるが、そうしなくてはならないのだ、という答えしか返ってこない。本当のところ僕は……

「キサさんはどうしてこの町を壊したんですか?」

 気にはなっていたがこれを聞いてしまったら、関係に終わりが来てしまうように思えて聞けていなかった。しかし、これ以上の先延ばしは出来ない。

「復讐だよ」

 じっとして続きの言葉を待つ。どう話せば良いのか言葉を選んでいる様子だった。

「私の父はここで絵画教室を開いていたのは知っているよね?」
「はい。僕も通っていたので」

「芸術の町、そう言われていたここに絵画教室を開いて廃れた芸術を復活させる。それが父の目的だった。この町の人間もそれを受け入れたけれど、本当の意味でそれを望んではいなかった。外からの人間に不安を覚えた住人たちは一斉に掌を返して、この教室は続けられなくなったの」

「僕の一件ですね」

「朱鳥が気に病むことじゃない。朱鳥の作品が有名にならなかったとしてもいずれ起こったことだから。気に病むべきは覚悟もないのに行動を起こした町の人間たち」

 大河の言っていたことと繋がる。親の世代はみんな後悔しているといっていた。だからといって許そうとは思わないけれど。

「それに気にするなら方向が間違っている。ここの人たちはこのまま廃れていくことが償いだとか考えてる。だからひっくり返してやるの。殻に閉じこもった人たちを起こすためにね。私の芸術をあいつらに叩きつけてやる」

 軽い口調で言っているけれど、言葉の節々に力がこもって相当な覚悟を伺わせる。

「ちょっと喉が乾いたね。飲み物取ってくる」

 この計画が終了した後、僕らはどこへ向かうのだろう。

 キサさんはミグラトーレとしての日々が待っている。しかし、僕には何も待っていない。

 全て破壊してゼロになったら、この場所に僕の居場所はない。

「おまたせ。朱鳥も飲むでしょ」
「いただきます」

 コップから漂うハーブの香りが気持ちを落ち着かせる。一口飲むと口の中で豊潤な香が広がった。

「キサさん、僕を弟子にしてくれませんか」

 思いついた勢いのまま伝える。

 この人の下でなら僕はいつまでも絵が描けるような気がする。

 理由はそれだけではない。

 憧れだった感情が今では違った形に変化を遂げている。それが何なのかはっきりとはわからないけれど、この人の傍にいるだけで世界が全く別のものに感じられる。

 いつもは黒いペンキを塗りたくっただけの夜空が無数の星が散りばめられた素敵なものに見え、うるさいだけの虫の声も麗しい音楽に聞こえ、煩わしいだけと思っていた人の温かさが心に安らぎを与えると知り、他人の匂いがこんなにも印象に残るのだと知った。他人の為に負う傷は痛みを感じないし、一人ではどうしようもない恐怖の前でも、立ち向かえることができた。

「僕はキサさん……が……」

 意識が薄れ始めて、見えていたキサさんの表情が簿やけていく。

「……僕は」

 身体に力を入れようとして前のめりに倒れる。倒れた先にはふわりとした温もりと、甘く清らかな、大好きな匂い。

 重くのしかかる感覚が眠気なのだと理解するときには僕はもう瞼を開けられずにいた。

「ごめんね」

 優しく諭すような甘い声を耳元で感じて意識が途切れた。