キサさんと別れて一人で家に帰る途中、母の事を考えて憂鬱になる。どんな顔をして会えばいいのか。僕は未だにあの人から母親らしいことを期待してしまっている。

 ポケットに入れたスマートフォンが軽快な電子音を立てて震えた。初めての感覚に心臓が飛び跳ねる。

 初めて体験するタッチパネルに苦労しながら確認すると、キサさんからメッセージが来ていた。

『伝え忘れていたけど、エッチなサイトは見られないからね。これは私とのメッセージ専用だよ』

 初めからそんなサイトを見る気はないし思い付きもしなかった。これさえあれば僕は広い外の世界へ繋ぐことが出来る。と一瞬思ったが、これは僕にとっては過ぎた代物だ。

『キサさんだけにつながっていればそれでいいです』

 次の返信まで結構な時間が空く。
 
『友達もちゃんと作りなさい』

メッセージを打つキサさんの表情が想像できてそれまで憂鬱だった思いは消えて、笑えてくる。

『キサさんは、計画が成功した後はどうしますか?』

 メッセージを打ってからすぐに消去する。

『明日はバイトが休みなのでいつでも呼び出してください』

 無難な連絡にしておいた。相手の顔が見えないからこそ、踏み入った質問は避けた方がいい。

 電源を切ってからポケットにしまう。

 マフラーが見つかっただけであれだけ取り乱したのだ。これだけは何としても隠し通さなくてはならない。

 傷口以外の場所が疼く様に痛んだが気の所為だと思いなおす。こんな痛みにはもう慣れたはずだ。

「すみません。少しよろしいでしょうか」

 家まであと少しというところで女性に声を掛けられる。

 この町では見たことのない女性で年齢的にはキサさんよりも少し上に見える。

 この町に知らいない人がいる。それだけで嫌な予感がする。さらに女性の服装が黒のスーツであることも僕の警戒心を増幅させる。歩き方や振る舞いも都会的で絶妙な距離を感じさせる。

「なんですか」

 こちらの非社交的な態度に女性は表情一つ変えることなく、淡々と要件を告げる。

「ここに鳥海さんというお宅があると思うのですが、知りませんか?」
「すみません。わからないです」

 幸いな事に僕の家の表札は父の姓のままになっている。このまま知らないふりをしていればやり過ごせそうだ。

「そうですか……」

 女性は残念そうに眉毛を下げて視線を下へ逸らす。

 うまくやり過ごせそうだと油断したその時だった。

「渡会杞紗について話がしたかったのですけれど」

 彼女の切れ長の瞳がいつの間にか僕を捉えていた。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。彼女はまるで僕の瞳から情報を取り込んでいるように視線を動かさない。

 首を少しずつ絞められていたような息苦しさを感じる。

「貴方は鳥海朱鳥さんですね」
「最初から知っていたのではないですか?」
「ええ、知っていましたよ」

 さらっと罪悪感など微塵も見せずに応えると、ようやく僕から視線を外す。

「立ち話ではあれですので、車へどうぞ」

 いかにも怪しい黒塗りの車。ナンバーは都会の地名が書かれている。

「話すことはありませんので」

 車の中は向こうの独壇場だ。そんな誘いに乗るほど僕も馬鹿ではない。話を打ち切って立ち去ろうとすると今度は封筒の様なものを差し出してくる。

「そこに百万円入っています」
「それで?」
「手切れ金です。足りなければ金額をご指定下さい。用意しますので」

 キサさんとはもう関わるなと言う事なのだろう。いつかこんな時が来るだろうとは思っていたので、思いのほか冷静に受け入れられる。

「他人から貰う金なんて気味が悪いだけですから」

 差し出された封筒を突き返す時にしっかりとした封筒の厚みが指に伝わる。これだけのお金があれば、今すぐここを出て行ってもしばらくは暮らせるだろう。だが、それをしたところで僕は何も変われない。

「そうですか。貴方の母親は喜んで受け取りましたよ」
「母に会ったんですか?」
「はい。喜んでいらっしゃいましたよ。あいつもたまには役に立つと」

 最悪だ。鬱屈とした気持ちが湧き水のようにあふれ出て来る。

「僕とキサさんの関係を切り離してあなたに何のメリットがあるのですか?」
「立ち話で話す内容では、ありませんね」

 突き返された封筒を胸ポケットにしまいながら車に視線を流す。

「そうですか。だったらいいです。あなたに興味はありませんから」

 当てつけのように言ってこの場から離れた。

 名前くらいは聞いておけば良かっただろうか。いや、今度キサさんに聞けばそれで済む。深く関われば碌なことにならない。それよりも今は家に帰ってからを心配した方がいい。

 女性はこれ以上関わってくることはなかった。今日のところは諦めてくれたらしい。

 憂鬱な気持ちを抑え込んでドアノブをひねる。

「このお金はさすがに返した方がいいよ」
「何言ってるのよ。これはあの子が稼いだお金だよ。返す必要ないでしょ」
「だったらそれは朱鳥くんに渡すお金だろ」
「私はあの子の母親なんだからこのお金は私の物に決まってるじゃない」

 居間から裕司さんと母が言い争っている声が聞こえる。
 
 僕が何かをすれば誰かが争う。今回も同じことになった。

 台所で立ち尽くして二人の言い争いが収まるのを待つ。自分の部屋に戻るには居間の前を通る必要があった。今だけ透明人間になれたりしないだろうかと本気で考えてしまう。

「それにこれじゃまだ足りないよ。あの子にはもっと稼いでもらわないと。あの須藤とかいう女はまた来るとか言っていたから、その時に吹っ掛けよう」
「いい加減にしないか。それは人として最低だ」
「裕司さんはわからないのよ。貧困がどんなに惨めか。私はお金がないなか必死であの子を育ててきたの。これくらいじゃ全く釣り合わないよ」

 母は大金を前に興奮を抑えきれない様子で裕司さんの言葉に耳を傾けようとはしない。耳を塞ぎたくてもその力すら沸いてこない。

 お酒が無くなったのか居間から母が台所へ顔出す。

「あら、お帰り。朱鳥」

 上機嫌な母はお酒の臭いを漂わせながら笑顔を僕に向ける。穏やかだが、醜悪で薄汚い笑顔だった。

「ただいま」
「たまにはいいことするのね。あなたを育てて正解だったわ」

 母は醜い笑顔を浮かべて冷蔵庫から缶ビールを取り出すと居間に戻っていく。入れ替わりで今度は裕司さんが顔を出した。

「……朱鳥くん」

 適当なことを言って何も知らないふりをしようとしたけれど、喉が震えて上手く声が出せなかった。言葉にならない声が漏れて感情が目から零れそうになる。

「先に寝ます」

 何とかそれだけ絞り出して自分の部屋へ逃げる。

 明かりの無い暗闇の部屋の隅で蹲る。このまま暗闇に飲まれて消えたい気分だった。暗闇が僕を同化させようと隙間から入り込んでくる。半紙に零した墨汁が浸透していくように僕の中身を染めていく。

 久しぶりに名前を呼んでもらえた。久しぶりに笑顔を向けられた。だけど、それはどちらも望んでいるものとは程遠い。

 先ほどのあれを見た瞬間に、僕の知っている母は死んだのだと確信してしまった。

 僕の望んでいる物は二度と手に入らない。粉々に砕けたものを一つ一つ拾い上げて繋ぎ合わせても、まったく別の物が出来上がっていた。

 望んだ僕が馬鹿だった。希望なんて抱かいないほど完膚なきまでに破壊してしまいたい。

 ふと、僕の肩を叩くようにあの衝動がやって来る。

 目を閉じているはずなのに網膜に焼き付いたように一つの光景が浮かびあがってくる。
 
 それがはっきりと像を結ぶまで流れに身を任せるようにじっとする。

 今日は学校だった。

 牢獄の様な石壁の建物が無残な姿で崩れている。破壊されたというよりは、朽ち果てたと言った方が近い状況で、そこに近寄る人間は誰も居ない。

 右手が鉛筆を握りたそうに虚空を握る。絵を描かないとこの発作は治まらない。それでも今日はもう指一本も動かせる気力がなかった。気持ちを吐き出さなくては内側から破裂してしまうとわかっていながらも動き出せずに蹲る。

 次第に意識は遠くなっていき夢の中にいるような感覚に陥る。

 僕はまた白い鳥になって空を飛んでいた。足で掴んでいるのは武骨な形をして黒光りする爆弾。学校は既に破壊され血しぶきのような土埃を上げて崩れ落ちていく。

 次はどこに落とそうか。

 快晴の空を泳ぐように移動しながら落とすべき場所を探す。

 上空から見下す民家に中から一つに標準を合わせる。その家はかつては幸せだった家族が暮らしていた家。僕の家だ。

 僕はいままで色々な場所や建物を破壊してきたが、自分の家だけは破壊しなかった。現実では自分で壊してしまった家を妄想では壊さないように大事にしてきた。

 それももう終わりにしよう。

 掴んだ爆弾を放そうとして、不意にどこかからノック音が聞こえる。半分意識が現実に引き戻されるが構わずに続ける。

 もういい。放っておいてほしい。

 町を破壊したいなんて思っているけれど、本当に破壊したいのは自分自身だ。このままじっとしていれば僕は衝動に内側から破壊される。

 それでいい。どうにでもなってしまえ。

 もう一度、今度は固い何かで叩く音がした。すっかり意識を引き戻されてしまった。

 うるさいな。静かにしてくれ。
 
 膝に埋めた顔を上げてノック音の出所をさがす。その間にも不規則なノック音はなる。その音は扉からではなく窓の方から聞こえていた。

 不思議に思って立ち上がると、ポケットからスマートフォンが零れ落ちて鈍い音を立てて床に転がる。

 落としてしまったスマホが壊れていないか確認するために電源を入れる。無事に液晶画面は点り大量の不在着信を通知した。
 
 衝動的にカーテンを開ける。そこにはハンマーを振りかぶったキサさんの姿があった。今にも手にしたハンマーを振り下ろしそうな彼女を慌てて制止させる。

「なにやってるんですか」
「窓を割ろうと思って。青春ぽくて良いでしょ」

 ずれた答えをするキサさんはのんきな微笑みを浮かべている。行動と表情が一致していない。それもかなり計画的な犯行だったようで、窓ガラスには養生テープが張られていた。

「それに何度も連絡してるのに朱鳥が反応しないのも悪いと思う。ノックも無視するし」
「スマホは電源を切ってるので」
「え? 意味ないじゃん。使い方知らないの?」

 こちらを煽るような表情で首を傾げるキサさんにイラっとしたが、そのおかげで先ほどまで巣くっていた暗い気持ちはどこかに霧散していた。

「それで、僕にどんな用があって窓を割ろうとしたんですか?」
「ほら行くよ」

 ふいに差し出される手はピンチの時に現れるヒーローのようだった。さっきまで会っていたのに、しばらく会っていなかったくらいに気持ちが揺れ動く。

「さっき説明したばっかりでしょ。何のためにスマホ渡したと思っているのさ。助けてほしい時は素直に助けてって言いなさい」
「……僕は」

 助けてほしかったのだろうか。僕の返事を待たずにキサさんは僕の腕をとると窓の外へと引きずり出すように引っ張ってくる。

「ほら、夜の散歩に出かけよう」
「ありがとう……ございます」

 鳥籠から逃げ出す鳥のように、窓から外の世界へと逃げ出した。