家に到着する。どのルートを辿って家までたどり着いたのか覚えていない。居間の窓から明かりが漏れていた。
 
 今日は裕司さんも居るので殴られることはないだろうが、僕を見て母が不機嫌になるのは目に見ている。二人の時間を邪魔してはいけない。

 ドアノブに掛けられた手を離して行く当てもなく歩き始める。

 行ける場所なんてなく、爆弾を仕掛けるために歩いた道をなぞるように歩く。まだ早い時間なので、他の家の窓からも明かりが漏れている。家に帰れるようになるまであと数時間はかかりそうだ。

 遠くから車のヘッドライトがこちらに近寄って来る。反射的に隠れると車はとある民家の近くに止まった。

 フードを目深に被った男が下りてくる。

 不審者は民家の何かを調べる。それはキサさんが仕掛けた爆弾だった。

「キサ……やっと見つけたよ」

 男は口角を不気味に釣り上げて笑う。それは獲物を捕らえた獣がするような笑いに見えた。そうした表情から相手の性格の異常さが伝わってくる。

 男は車に乗り込むとアトリエの方へ車を走らせた。

 胸騒ぎがして急いでその後を追うようにして走る。

 僕の知らない、キサさんの黒い何かが忍び寄っているような気がした。


 アトリエの手前にある駐車場には先ほどの車が止まっていた。

 やっぱり聞き間違いではなかったらしい。あの不審者はキサさんの名前を呟いていた。噂が本当なら相当な執着心をキサさんに持っている。

 あの男がストーカーだとして、あのキサさんがストーカーの被害に遭うのが想像できない。先輩たちにしたように、飄々とした態度で爆弾を仕込んで撃退してしまいそうだ。

 アトリエへ着く前に武器になりそうな木の棒を適当に拾う。

 閉じられていたはずの扉は明けられたままになっていた。

 切れかけの蛍光灯を見た時のような嫌な予感がする。

 足音を立てないように警戒しながら近づき、アトリエの前に差し掛かったところで、自分の直感が正しかったのだと判断した。

 中からキサさんの悲鳴が漏れ聞こえる。

「嫌だ! 来ないで!」

 いつも冷静でどんな状況でも飄々よしていたキサさんが、こんな声を上げるのを聞いたことがない。

「これ以上近寄らないで!」

 悲鳴の後に、なにかを床にばら撒く音がする。中で何が起こっているのか確認すると、先ほどの男がキサさんを壁へと追いやるように迫っていた。

 こちらからは男の後ろ姿しか見えないけれど、キサさんの恐怖に染まった表情をみるに状況は切迫している。

 こんな状況だというのに僕は足が竦んでいうことを聞かない。息の仕方も忘れてしまって、どんなに空気を吸い込んでも息苦しさから解放されなかった。

「こんなところまで君を迎えに来たのにその態度はないだろ。落ち着いて話をしよう」

 わざと子供をあやすような言い方をする男の声が室内から聞こえる。男は靴で床を鳴らしながらゆっくりと近づいていく。

「早く帰って。あなたと話すことなんて何もない」
「キサが居なくなって俺は心配していたんだ。どうして何も言ってくれなかったのさ。君を一番知っているのは俺だ。その証拠に君の居場所を突き止めただろ」
「ねぇ……お願い。帰って……こっちに来ないで」

 単純で悲痛な声に、僕は心臓を掴まれたようになる。

「帰る? もちろん帰るよ。君を連れてね。こんな辺鄙な田舎町で何をやっているのさ。君は世界をまたにかけるアーティストだ。民家にあんな仕掛けをして、新しい芸術のつもりなのかもしれないが、あんなもの君には似合わない」
「もう嫌なの。あなたの言う通りにはならない」
「そうじゃないだろ。君に相応しいのは破壊だよ。破壊っ!」

 男は手にしていたガラスのコップを地面に叩き付ける。
「破壊こそ君のアイデンティティだろう」

 キサさんは短い悲鳴を上げて蹲る。

「お前は俺の言う通りに壊せばいいんだよ」

 僕の足は相変わらず震えて言うことを聞いてくれない。

 動け! 動けよ! 頼むから動いてくれ。

 何度も拳で震える足を叩くが効果はない。

「ん? なんだ、この絵は」

 男が僕の置いていったスケッチブックに気づいたのだろう。ページをゆったりとめくりながら、気味の悪い笑い声をあげる。

「素晴らしい。これだ。これだよ。これこそ君らしい。利用価値がなく朽ちていくしかない田舎町を爆破で一掃してしまう。良いね。君の芸術の効果もあって過疎化の町は大盛り上がり。しかし、そこにはもう町はない。全て手遅れ。これほどセンセーショナルでインパクトのある事はない。傑作だよ。やはり君は天才だ……ただ」

 興奮気味に語っていた声のトーンが落ちる。

「これは君の絵ではないね」
「いやっ!」

 男はキサさんとの距離を一思いに詰め寄ると拳を握り容赦なく振り下ろす。

「これを描いたのはあいつだろ! 俺は知っているぞ。この町の男子高校生。君はこの町に来てからそいつと一緒に行動している。もしかしてあんな子供に唆されたのか? そうだよな。君は不安になるとすぐ人に頼りたがる。俺にだって何度、縋ってきたことか」
「違う。私はあなたに縋った事なんて一度も」
「口答えしていいなんて誰が言った!」

 再び鈍い音とがして、呻くような悲鳴が上がる。

「君に必要なのは俺だろうが! 誰が表舞台にだしてやったと思ってる。俺が居なければお前はただの自称芸術家だ。それを俺がプロデュースしてやったんだろうが! なに勝手に居なくなってんだ! ふざけんな! お前は破壊だけやってりゃいいだよ! そうすれば俺が売れるように幾らでも情報を後付けしてやるよ。ああ! 聞いてんのか! 返事くらいしたらどうだ!」

 鈍い音がする度に上がる悲鳴は弱々しくなり、僕の心も同じように打ちのめされていく。

 キサさんが不自由なく一流の階段を上がって行ったと決めつけていた。天才の彼女に非才の僕の気持ちなんてわかりはしない。勝手に作り上げたイメージを押し付けて、現実を受け止められない。

 あの人はこうだから、自分はこうだから。勝手に型に当てはめて、否定されたら相手を傷つける。僕がやった事と、あの男がやっている事に大差はない。
僕には才能がないからと諦めて。また傷つけてるからと逃げ出して。それを指摘されたら突き放す言葉を投げつけて。

 最低だ。こんな自分は壊してしまいたい。

 震える足に落ちていた小枝を突き刺す。腿から激しい痛みが広がり、それと併せて激情も開放する。

「勝手に……」

 キサさんの髪を握って押さえつけているあいつは僕だ。

「決めつけるな!」

 木の棒で後頭部を思いきり殴る。衝撃が手を伝わり痺れると同時に木の棒が二つに割れる。男は前のめりに倒れて壁に頭を打ち付け、その衝撃でキサさんの髪を掴んでいた手が離れる。

「いっつー。てめえ」

 男は血走った目でこちらを睨みつけると、落ちていたガラス片を握って振り回す。

 今の一撃で終わらせるつもりだった僕には男の反撃を受け止めるだけの余裕はなかった。腿に小枝を刺した影響もあり避ける動作が遅れる。

 男が振り回すガラス片はナイフのように照明を不気味に反射させる。それを避けようとするが足がもつれ尻から倒れこんでしまった。

 左腕に冷たい物を押し付けられたような感覚が走り、遅れて焼けるような痛みが広がる。腕を切られたと気づいた時には左手の感覚が痛覚に支配され、糸が切れたように力が抜けてしまう。

「くそがっ」

 男も直にガラス片を握った所為で痛みに耐えかねてガラス片を手放す。それと同時に赤いインクが飛び散るように鮮血が床に垂れた。

「朱鳥くん逃げて!」

 その隙をついてキサさんは男の後ろから縋るようにしてつかみかかり動きを制止させようとする。

「そんなにこいつが大事なのか!」

 しかし男はキサさん簡単に振り払うとそのまま踏みつけ、暴言を浴びせる。

「俺がいなきゃ! 何もできなかったくせに! 調子に乗るなよ!」
「キサさんから離れろ」

 その場に落ちている物を手当たり次第に投げつける。
すぐに立ち上がろうとするが、足がつったような感覚になり思たように動かせない。奮い立たせる為に腿に小枝を指した弊害がここに来て露呈していた。

「ガキは黙ってろ!」

 羽虫を振り払うような男の回し蹴りが腹部にめり込む。

 腹から競り上がる胃液を何とか飲み込んだが、前のめりになって怯んだ僕は続けざまに男の反撃を許してしまい、再び床に倒されてしまう。

「強がってんなよ! 何が勝手に決めつけるなだ」

 男は一言の度に蹲る僕を蹴り上げる。

「あいつは、弱くて! 臆病で! 泣き虫で! 一人じゃ何もできない! 駄目人間なんだよ!」

 痛みは限界を超えて完全に麻痺している。今は何処を蹴られているのかはっきりとせず、朦朧としていく意識の中で怒りの炎だけが燃え上がっていく。

 男の足が見える向こう側でケトルを抱えたキサさんが、怯えの影を落とした表情でこちらに向かって来ているのが見えた。

 逃げてください。そう言おうとしてもうまく喉が震えない。そんなことをしたらまたキサさんが標的にされてしまう。

「その子から離れて」

 キサさんがケトルのお湯を男にぶちまけた。

 頭から熱湯を浴びた男は引き裂かれるような声を上げてもがき苦しむ。

「きさーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 猛獣のようにキサさんに襲い掛かろうとする男の足を無我夢中で残った力を振り絞って掴む。前のめりに倒れ込む男に馬乗りになり、近くにあったスツールを振り下ろした。

「あんた何様だよ」

 振り下ろすと溜まった感情が押し出され、歯止めが利かなくなる。

 弱くて! 臆病で! 泣き虫で! 一人じゃ何もできない駄目人間!

「何もわかってないじゃないか」

 男六人に囲われたって飄々とした態度で、甘くて清らかな匂いがして、優しくて、いたずら好きで、からかうくせに反撃されると激弱で、耳まで真っ赤にして、料理が苦手で、だけど美味しそうに食べてくれて、こんな僕に才能があると言ってくれる。

「あんたにこの人の何がわかるって言うんだ!」

 キサさんを傷つける人間なんていらない。

 消えてしまえ。壊れてしまえ。
 消してやる。壊してやる。

「朱鳥!」

 凛として透き通る声が僕を現実に引き戻す。

 何度も叩きつけてひしゃげてしまったスツールは男の目の前で止まっている。

「それ以上は死んじゃう」

 正気に戻って馬乗りになっている相手を見下ろす。

 男は泡を吹いて痙攣しており、意識を完全に失っていた。自分がしでかした現実が恐ろしくて、男から出来るだけ距離を取ろうと立ち上がる。

 背中に壁が当たり、ずり落ちるように床に座る。

 ふと、スツールの脚を握ったままだったことに気が付くが、離そうとしても手が張り付いたように固まってしまい解けない。

「ゆっくりで大丈夫だから」

 優しく包み込むような声で焦る僕の手を握る。キサさんの体温は思ったよりも冷たくて焼けるような痛みが全身を駆けている状況では心地よかった。
キサさんの顔は頬が少し腫れていて笑顔が歪になっている。自分の未熟さを突きつけられたようで、解けかけていた指がまたきつく締められる。

「すみません。助けに来るのが遅れて」
「そんな事気にしなくて平気だよ。それにちゃんと助けてくれたじゃん」

 優しさが今の僕には毒のように滲みる。

「違うんです。僕、足が竦んじゃって。飛び出したきっかけも助けようと思ったわけじゃなくて」
「それでも良いんだよ」

 以前、してくれたようにキサさんは僕を胸に引き寄せる。

「今日はどうにでもなれって思わなかったでしょ」

 甘く清らかな匂いが僕を素直にさせてくれる。

「思わなかったです」
「よしよし。約束を守って偉いね」

 頭を撫でられるのはいつ以来だろうか。言いようのない安心感に包まれてそのまま眠ってしまいそうになる。

 遠くの方でパトカーのサイレンの音がする。

「後始末をしなくちゃだね」

 そっと僕から離れようとするキサさんを、今度は僕の胸に引き寄せる。握られていた手はいつの間にか解けていた。

「少しだけ。このままでいいですか?」
「……しょうがないな」

 言葉ではそういってもまったく抵抗しない。

「意外と逞しいね」
「キサさん一人ならちゃんと守れますよ」
「ボロボロのくせによく言うよ」

 耳を赤くしたキサさんは咽るような声を漏らす。小刻みな震えが胸から伝わって来る。

「ありがとう。君が居てよかった」

 縮まった距離を実感して僕は調子に乗ってしまう。

「こんな時に言うことじゃないかもしれないですけど」
「なに?」
「もっと知りたいです。キサさんのこと」

 キサさんは僕の胸の中で何も答えなかった。ただ、震える身体が少しだけ縦に動いたような気がした。