アトリエの隣に立つ家に初めて立ち入る。そこは長い間放置されていたためか、生活感を感じることは出来ず、リビングにはくびれたソファーに年季の入った机があるだけ。
ガス、電気、水道、ライフラインも問題なく人が住める環境が整っているにも関わらず、そこには人が暮らしている息吹が感じられない。
キッチンには食器や調理器具が一式揃えられており、使われなくなってしばらく経つ家電も一つ一つ動作確認が必要であったが、どれも久しぶりの労働に文句ひとつ言わずに動いてくれた。
正直なところ、何も調理器具がないことも想定していただけに拍子抜けだった。
「君はいいお嫁さんになるよ」
「僕は男ですけどね」
「細かいことはいいんだよ。君は料理がうまい。それが事実」
空になった食器を片付けながら適当に聞き流す。
作った料理を残さずに食べてもらえるのは正直嬉しい。
母はなにかと文句を付けて僕の料理を全て食べることはしない。その癖、作らなければ激怒するのだから手に負えない。
「片付けは私がやるから、水に漬けといて」
くたびれたソファーで横になったキサさんの頬はほんのりと赤く心地よさそうだ。
傍には空になったビールが二本、三本目も空になりかけている。あの苦い飲み物の何が美味しいのか僕にはわからない。大人になったらわかるのだろうか。
お酒が飲めるということはキサさんも大人だ。当たり前の事実に少し残念な気持ちになるのは何故だろう。
あまりお酒には良いイメージがない。母は酔うと暴力的になるし、それに醜悪を詰め込んで煮詰めたようなあの臭いが嫌いだ。
キサさんからもあの醜悪な臭いがするのだろうか。想像なんてしたくないけれど、こういう時だけ僕の頭は良く働く。
「やめましょう」
四本目に手を伸ばしたキサさんに控えめに言ったつもりだったが、思いの外言葉がきつくなってしまった。
「飲み過ぎですよ」
声が震える。
「うん。そうだね」
キサさんはまだ正常な判断ができるようで、伸ばしていた手を引っ込めた。
胃の中に鉛の様なものが落ちてきた気がして吐き気がする。流しの水が流れるのをじっと見つめて気分を落ち着かせている
「大人は嫌い?」
「急に何ですか?」
「私を見る目がね」
ゆっくりと立ち上がってミネラルウォーターのボトルを袋から取り出す。一思いに半分ほど口に流し込んでから、核心を突いてくる。
「敵を見ている目をしていたよ」
そんなことないです。と否定できるのほどの根拠がない。確かに僕はキサさんに何か失望に似た感情を抱いていた。
「気づいていないかもしれないけれど、大人に対している時の君は目の色が変わる」
周りにいる大人の殆どが僕の事をよく思っていない。だから僕もそんな人たちに隙を見せるわけにはいかない。そうした感情が目に現れてしまっていた。
「すみません」
思わず謝るが、何に謝っているのかわからない。
「謝る必要ないよ。これは君に対して大人が取った行動の裏返しなんだ」
キサさんは僕の謝罪に悲痛な表情を浮かべる。
「大丈夫。君がそうなったのは大人たちの所為だ。変わろうなんて思う必要はないよ。大丈夫だから」
必要以上に大丈夫を繰りえしてキサさんは僕に諭すように言う。
そんな風に甘やかすから僕はその背中に寄りかかってしまう。
「母がスナックで仕事をしているんですけど、深く酔ってしまうと僕に暴力を振るうんです。酔ってますし、容赦ない時も結構あります。だけど僕はもうこの年ですし反撃だってできるんですけど……」
言葉が見つからない。何を伝えたくて、僕はこんな話をしているのだろ。
「反撃したら終わりですから。そんなことしたら、あの頃の母は二度と戻って来ませんし、きっと裕司さんと再婚したら変わるかもしれないですから」
僕の家庭の話なんて、何も知らないキサさんにしても意味がない。
それなのに僕は誰に伝えるわけでもなく言葉を零した。
「僕はあの頃の母に戻ってほしいんです」
つらつらと言い訳を並べる自分が嫌いだ。全てを壊したと思っていながら、昔に戻りたいと思っている自分が嫌いだ。
こんな自分ごと全て破壊してしまいたい。
「すみません。いきなり」
開けたままだった蛇口を閉める。急に室内が静かになり居心地の悪さを感じた。キサさんは黙ったまま手にした水を見つめている。
「ごめんね。私のミスだ。もっと君の事を調べるべきだった。私が他の大人と同じに見えてしまった?」
「……別に」
否定しようとしても言葉が出てこない。キサさんを他の大人と同等にして距離を置こうとしたのは事実なのだから。
「嫌な事でもあったんですか?」
話を逸らすよために話題を変える。
大人が酒を飲むとき、それはどんな時なのだろう。単純に嗜好品として嗜む場合もあるだろう。それ以外の事で考えられることは、気分を逸らしたい時だ。
「鋭いね。まあこっちにも色々あるのさ」
やっぱりキサさんは話してくれない。少し愚痴を聞くくらいなら僕にだって出来るというのに。
「それよりも。さっきの話、君の家も対象になるけど」
キサさんは誤魔化すように話を戻す。露骨なやりかたに不満がないわけではないが、僕にはまだその価値がないのだと自分に言い聞かせる。
「今なら止められるよ」
「冗談を言わないでください。酔ってるんですか?」
ここで僕がやめると言ってもキサさん何も言わずに許してくれる。だけど、今の僕に必要なのはそんな優しさじゃない。
「やり抜きますよ。何があっても」
優しさを振りほどく様に首を振る。残っている全ての可能性を吹き飛ばしてしまわないと僕は前に進めない。
「……わかった」
「じゃあ僕はこれで」
これ以上ここに居ても重い空気にするだけで忍びなかった。
帰路につきながらさっきの言葉にどんな意図があったのか考える。僕が止めると言ってしまったら、計画はそこで終了してしまう。本当は爆破したくなのだろうか。僕はキサさんが爆弾を仕掛ける理由を知らない。
その事が僕の心に引っかき傷をつける。
ガス、電気、水道、ライフラインも問題なく人が住める環境が整っているにも関わらず、そこには人が暮らしている息吹が感じられない。
キッチンには食器や調理器具が一式揃えられており、使われなくなってしばらく経つ家電も一つ一つ動作確認が必要であったが、どれも久しぶりの労働に文句ひとつ言わずに動いてくれた。
正直なところ、何も調理器具がないことも想定していただけに拍子抜けだった。
「君はいいお嫁さんになるよ」
「僕は男ですけどね」
「細かいことはいいんだよ。君は料理がうまい。それが事実」
空になった食器を片付けながら適当に聞き流す。
作った料理を残さずに食べてもらえるのは正直嬉しい。
母はなにかと文句を付けて僕の料理を全て食べることはしない。その癖、作らなければ激怒するのだから手に負えない。
「片付けは私がやるから、水に漬けといて」
くたびれたソファーで横になったキサさんの頬はほんのりと赤く心地よさそうだ。
傍には空になったビールが二本、三本目も空になりかけている。あの苦い飲み物の何が美味しいのか僕にはわからない。大人になったらわかるのだろうか。
お酒が飲めるということはキサさんも大人だ。当たり前の事実に少し残念な気持ちになるのは何故だろう。
あまりお酒には良いイメージがない。母は酔うと暴力的になるし、それに醜悪を詰め込んで煮詰めたようなあの臭いが嫌いだ。
キサさんからもあの醜悪な臭いがするのだろうか。想像なんてしたくないけれど、こういう時だけ僕の頭は良く働く。
「やめましょう」
四本目に手を伸ばしたキサさんに控えめに言ったつもりだったが、思いの外言葉がきつくなってしまった。
「飲み過ぎですよ」
声が震える。
「うん。そうだね」
キサさんはまだ正常な判断ができるようで、伸ばしていた手を引っ込めた。
胃の中に鉛の様なものが落ちてきた気がして吐き気がする。流しの水が流れるのをじっと見つめて気分を落ち着かせている
「大人は嫌い?」
「急に何ですか?」
「私を見る目がね」
ゆっくりと立ち上がってミネラルウォーターのボトルを袋から取り出す。一思いに半分ほど口に流し込んでから、核心を突いてくる。
「敵を見ている目をしていたよ」
そんなことないです。と否定できるのほどの根拠がない。確かに僕はキサさんに何か失望に似た感情を抱いていた。
「気づいていないかもしれないけれど、大人に対している時の君は目の色が変わる」
周りにいる大人の殆どが僕の事をよく思っていない。だから僕もそんな人たちに隙を見せるわけにはいかない。そうした感情が目に現れてしまっていた。
「すみません」
思わず謝るが、何に謝っているのかわからない。
「謝る必要ないよ。これは君に対して大人が取った行動の裏返しなんだ」
キサさんは僕の謝罪に悲痛な表情を浮かべる。
「大丈夫。君がそうなったのは大人たちの所為だ。変わろうなんて思う必要はないよ。大丈夫だから」
必要以上に大丈夫を繰りえしてキサさんは僕に諭すように言う。
そんな風に甘やかすから僕はその背中に寄りかかってしまう。
「母がスナックで仕事をしているんですけど、深く酔ってしまうと僕に暴力を振るうんです。酔ってますし、容赦ない時も結構あります。だけど僕はもうこの年ですし反撃だってできるんですけど……」
言葉が見つからない。何を伝えたくて、僕はこんな話をしているのだろ。
「反撃したら終わりですから。そんなことしたら、あの頃の母は二度と戻って来ませんし、きっと裕司さんと再婚したら変わるかもしれないですから」
僕の家庭の話なんて、何も知らないキサさんにしても意味がない。
それなのに僕は誰に伝えるわけでもなく言葉を零した。
「僕はあの頃の母に戻ってほしいんです」
つらつらと言い訳を並べる自分が嫌いだ。全てを壊したと思っていながら、昔に戻りたいと思っている自分が嫌いだ。
こんな自分ごと全て破壊してしまいたい。
「すみません。いきなり」
開けたままだった蛇口を閉める。急に室内が静かになり居心地の悪さを感じた。キサさんは黙ったまま手にした水を見つめている。
「ごめんね。私のミスだ。もっと君の事を調べるべきだった。私が他の大人と同じに見えてしまった?」
「……別に」
否定しようとしても言葉が出てこない。キサさんを他の大人と同等にして距離を置こうとしたのは事実なのだから。
「嫌な事でもあったんですか?」
話を逸らすよために話題を変える。
大人が酒を飲むとき、それはどんな時なのだろう。単純に嗜好品として嗜む場合もあるだろう。それ以外の事で考えられることは、気分を逸らしたい時だ。
「鋭いね。まあこっちにも色々あるのさ」
やっぱりキサさんは話してくれない。少し愚痴を聞くくらいなら僕にだって出来るというのに。
「それよりも。さっきの話、君の家も対象になるけど」
キサさんは誤魔化すように話を戻す。露骨なやりかたに不満がないわけではないが、僕にはまだその価値がないのだと自分に言い聞かせる。
「今なら止められるよ」
「冗談を言わないでください。酔ってるんですか?」
ここで僕がやめると言ってもキサさん何も言わずに許してくれる。だけど、今の僕に必要なのはそんな優しさじゃない。
「やり抜きますよ。何があっても」
優しさを振りほどく様に首を振る。残っている全ての可能性を吹き飛ばしてしまわないと僕は前に進めない。
「……わかった」
「じゃあ僕はこれで」
これ以上ここに居ても重い空気にするだけで忍びなかった。
帰路につきながらさっきの言葉にどんな意図があったのか考える。僕が止めると言ってしまったら、計画はそこで終了してしまう。本当は爆破したくなのだろうか。僕はキサさんが爆弾を仕掛ける理由を知らない。
その事が僕の心に引っかき傷をつける。