本当は今すぐにでもキサさんのところへ行きたいのだけれど、館山達に疑われている間は迂闊な行動は控えた方がいいだろう。
それに僕にはやらなくてはいけない事がある。
生活費を家に納めなければならず、これをしないと僕は家を追い出されてしまう。この年でホームレスは笑えない。
母は自分で稼いだお金は自分の事にしか使わない。
自転車を大河の家に届けるとその足でアルバイトをしているお店に向かう。
しばらく歩いて寂れた駅舎の前まで来る。この駅舎に電車が来ることはもうない。僕が生まれたころに廃線となったらしい。その為、入り口には立ち入り禁止の看板が立ち、もちろん駅員も居ない。
夕日を浴びる駅舎は終焉の匂いを漂わせていた。
唯織に聞いたことがあるが、都会の駅というのは路線が何本も通って、平日でも人が祭りの時のように行き交っているらしい。僕が以前住んでいた街ではそういった光景は見られなかった。
そんな駅前にある道の駅『亀井』と看板を掲げた店の裏口に回る。ここが僕の仕事場だ。この町にはコンビニのように便利なものはないが、街道沿いに道の駅がある。道の駅といえども商店が一つあるだけで、利用する人は地元の人のみだ。色々な物を置いているわけではないが、食料品ならばここで揃えられる。きっとこの町と心中することになるのだろう。
「おはようございます。裕司さん」
「おはよう。今日もこれよろしくね」
裕司さんはこの店の経営者だ。店の名前が入ったエプロンをした裕司さんは相変わらず気さくで、物腰が柔らかく、昔の母ならともかく今の母にはもったいない相手だ。裕司さんと母が結婚したら僕は『亀井朱鳥』になるわけだが、想像してもいまいちピンとこない。
「終わったから上がって良いからね」
「ありがとうございます」
届いたばかりでカゴ台車数台に乗せられたままになっている商品を眺める。
届いた商品を荷台から下して、仕分けするのが僕の仕事だ。この町には自力で店まで来られない世帯も多い。その世帯の為に始めた宅配の仕分けをする。
人手不足でこの作業を一人でしなくてはならなのは大変だが、一人の方が気楽なのでレジ対応よりも数倍ましだった。
筋肉痛の身体では思うようにいかず時間を食ってしまい、ようやく台車から荷物を下し終える頃には、窓から覗く景色は夕焼けから夜に変わっていた。
時計の無い倉庫では時間の感覚が麻痺してしまう。
休むことなく裕司さんから預かったリストを見て今日も苦労しそうだと辟易する。
ここで働き始めて一年半。リストが増え続けている。この町の人口は減っていく一方なので、それだけ店に来る人が減って宅配を選択しているという事だ。
「こういう変化には対応できるんだな」
「どういう変化かな?」
独り言に返答が帰って来てハッとする。振り返るが誰も居ない。
「こっちだよ」
一つしかない窓、そこにキサさんは肘をついて立っていた。
どうしてだろう。この人の顔を見ると何故か重荷が取れたように心が軽くなる。笑顔なんて見せたら、またからかわれるので思わず零れそうになる笑顔をぐっと堪える。
「肉体労働なんて精が出るね」
「キサさんどうしてこんなところに。それよりそこの窓開くんですね」
「そうみたいだね」
随分不用心なことだ。今日はちゃんと閉めて帰ろう。
「ところで、それいつ終わる?」
「当分終わりませんよ」
「え? まだ終わらないの? もう待ちくたびれたよ」
一体いつから僕の事を見ていたのだろう。
キサさんは僕よりもずっと年上のはずなのに子供の用に駄々をこねる。綺麗な顔をしてそんなことをするのだからアンバランスでおかしくなる。
「もしかして僕を迎えに来たんですか?」
「そうだよ。だって私は君と契約したからね」
「その事なんですけど」
館山の事を詳しく話す。その間、キサさんは心底つまらなそうにその話を聞いていた。
「じゃあやめる?」
やめたくない。けれどキサさんを危険な目に合わせるくらいならその選択も。
「ごめんね。いじわるなこと聞いたね」
何かを察したのかキサさんは心苦しい表情で謝ると、窓枠を飛び越えて中に入って来る。
「え? ちょっと」
「窓越しに話していたら見られる確率が上がるでしょ」
「そうですけど、だからって中に入るのは」
こんなことがばれたらさすがの裕司さんも怒るだろう。裕司さんとの関係は母と直結するので余計なトラブルは避けたい。
「まあ、大丈夫だよ。誰かが来たらちゃんと隠れるからさ」
キサさんは適当な段ボールを見つけると頭から被って中に隠れる。確かにこれならばれないかもしれないが。なんだかおかしくなって笑ってしまう。
「なに? バカにしてる?」
「してないです」
「本当かな。いい大人がアホみたいなことしてとか思ってるんじゃないのかな」
尚もごちゃごちゃと文句を言っているキサさんを無視して仕事を再開する。
リストを見て商品を集めると専用の段ボールに梱包していく。正直、一人だと気が遠くなる作業だ。その間、キサさんは倉庫内を歩き回る僕をつまらなそうにじっと目で追っていた。
「ねえ。この仕事楽しい?」
「楽しそうに見えましたか?」
「ぜんぜん」
身体を動かしている方も退屈なのだ、見ている方はもっと退屈なはずだ。
「退屈しのぎに君の事を聞かせてよ」
「僕の事ですか?」
聞くべきはこの町の事で、僕の事なんて聞いて何の意味があるのか。
「私は朱鳥くんの事が知りたい。興味がある」
興味があるの言葉の真意は単純にそのままの意味なのだろうが、言う相手によっては勘違いされそうなので控えた方がいい。この人はこういうところがある。
「つまらないですよ。僕の事なんて」
「それを決めるのは私。さあ、話してごらん」
抵抗しても無駄だというように立ち上がって胸を張る。
いつものコートで厚着をしているから気づかなかったが、結構胸があるんだな。丁度手にしている梨と見比べても遜色ない。
「梨を両手に抱えて何をしてるの?」
「何でもないです」
慌てて止まっていた手を動かす。変な事を考えてしまった自分が恥ずかしい。キサさんといると、普段している俯瞰して周りを見るイメージから離れてしまう。
「それで君の話を聞かせてよ」
「そうしたら私のおっぱいがどれくらいか教えてあげる」
「は?」
驚きのあまり躓いて商品を詰めた段ボールを落としそうになる。商品を傷めたりしたら買い切りなので死活問題だ。
「さっきのそういう意味でしょ」
キサさんは梨を持つジェスチャーをして自分の胸にあてがう。
「君は嘘が下手だからすぐにわかるよ」
「…………」
本当の事なので否定できず、上手い言い訳も思いつかない。言い訳をすればするほどドツボに嵌りそうだ。
倉庫は外気と変わらず、気温が低いはずなのに僕の身体は火照っていた。
「さあ、私のおっぱいと引き換えってことで聞かせてよ。鳥海朱鳥の事を」
「別にキサさんの……と引き換えにする必要ないですから」
乱れた気持ちを落ち着かせるために、僕は自分の生い立ちについて滔々と話す。
幼い時に引っ越してきたこと、絵を描くのが好きだったこと、幸せだったこと、父親の事件のこと。
手を動かしながらキサさんに背を向けているので表情は伺えないが、面白そうにしていないのはわかる。
「これが僕です。笑えないですよね」
直ぐに返答はなかった。
手を止めて返答を待つ。後ろで衣擦れの音はするので居ることは確かだ。コツ、コツ、と足音が少しずつ近づいて来る。
振り向こうと思ったが、背中に体重を預けられて振り向けなくなる。
「確かに笑えないね」
背中全体が暖かくなるにつれて、キサさんが寄りかかっているのだとわかった。青果の匂いに紛れて、甘く清らかな匂いが漂う。
「笑えなくなるよね」
噛みしめるように呟く言葉が耳のすぐ隣で聞こえて吐息がくすぐったい。預けられた体の重みはしっかりと背中に感じられた。浮世離れしていたキサさんが少しだけこちら側に来たように感じる。
「て、ことでご褒美」
鉛ように重く冷たくなった空気を跳ね除けるかの如くキサさんは僕に抱き着く。背中に感じる柔らかい感触。クッションなんかでは比べようのない柔らかさ。それでいて形ははっきりと伝わって、梨ではあり得ないそれに身体が委縮する。
「いい大人が何やってるんですか」
「大人の余裕って奴さ。ほれ、感想は?」
「ノーコメントで」
回された腕を解いて密着した身体を離す。
「大好評と」
誰もそんなこと言ってない。
さっきまで鎮座していた重たい空気は埃のように舞ってしまう。この人は簡単に物事を軽くしてしまう。
「もう、そこで大人しくて下さい」
「はいはーい」
キサさんの匂いが鼻から離れてくれない。そんな所為もあっていつもよりも終わるのが遅くなってしまった。
「終わりましたよ」
「よし! じゃあ出発だ」
「何処にです?」
「夜の散歩だよ」
「だからそれはさっきも言った通り」
「こそこそしたって変わらないよ。それに見せつけてやれば良いじゃん」
「何を?」
「美女との夜デートをさ」
屈託のない無垢な笑顔に見惚れる。きっと今を精一杯生きているから出来る表情なのだろう。今の僕には出来そうにない。その内、出来るようになるのだろうか。例えばこの町を爆破した後とかに。
「それで私の物は梨と比べてどうだった?」
「……ノーコメントで」
今日はいいようにやられたい放題だ。
それに僕にはやらなくてはいけない事がある。
生活費を家に納めなければならず、これをしないと僕は家を追い出されてしまう。この年でホームレスは笑えない。
母は自分で稼いだお金は自分の事にしか使わない。
自転車を大河の家に届けるとその足でアルバイトをしているお店に向かう。
しばらく歩いて寂れた駅舎の前まで来る。この駅舎に電車が来ることはもうない。僕が生まれたころに廃線となったらしい。その為、入り口には立ち入り禁止の看板が立ち、もちろん駅員も居ない。
夕日を浴びる駅舎は終焉の匂いを漂わせていた。
唯織に聞いたことがあるが、都会の駅というのは路線が何本も通って、平日でも人が祭りの時のように行き交っているらしい。僕が以前住んでいた街ではそういった光景は見られなかった。
そんな駅前にある道の駅『亀井』と看板を掲げた店の裏口に回る。ここが僕の仕事場だ。この町にはコンビニのように便利なものはないが、街道沿いに道の駅がある。道の駅といえども商店が一つあるだけで、利用する人は地元の人のみだ。色々な物を置いているわけではないが、食料品ならばここで揃えられる。きっとこの町と心中することになるのだろう。
「おはようございます。裕司さん」
「おはよう。今日もこれよろしくね」
裕司さんはこの店の経営者だ。店の名前が入ったエプロンをした裕司さんは相変わらず気さくで、物腰が柔らかく、昔の母ならともかく今の母にはもったいない相手だ。裕司さんと母が結婚したら僕は『亀井朱鳥』になるわけだが、想像してもいまいちピンとこない。
「終わったから上がって良いからね」
「ありがとうございます」
届いたばかりでカゴ台車数台に乗せられたままになっている商品を眺める。
届いた商品を荷台から下して、仕分けするのが僕の仕事だ。この町には自力で店まで来られない世帯も多い。その世帯の為に始めた宅配の仕分けをする。
人手不足でこの作業を一人でしなくてはならなのは大変だが、一人の方が気楽なのでレジ対応よりも数倍ましだった。
筋肉痛の身体では思うようにいかず時間を食ってしまい、ようやく台車から荷物を下し終える頃には、窓から覗く景色は夕焼けから夜に変わっていた。
時計の無い倉庫では時間の感覚が麻痺してしまう。
休むことなく裕司さんから預かったリストを見て今日も苦労しそうだと辟易する。
ここで働き始めて一年半。リストが増え続けている。この町の人口は減っていく一方なので、それだけ店に来る人が減って宅配を選択しているという事だ。
「こういう変化には対応できるんだな」
「どういう変化かな?」
独り言に返答が帰って来てハッとする。振り返るが誰も居ない。
「こっちだよ」
一つしかない窓、そこにキサさんは肘をついて立っていた。
どうしてだろう。この人の顔を見ると何故か重荷が取れたように心が軽くなる。笑顔なんて見せたら、またからかわれるので思わず零れそうになる笑顔をぐっと堪える。
「肉体労働なんて精が出るね」
「キサさんどうしてこんなところに。それよりそこの窓開くんですね」
「そうみたいだね」
随分不用心なことだ。今日はちゃんと閉めて帰ろう。
「ところで、それいつ終わる?」
「当分終わりませんよ」
「え? まだ終わらないの? もう待ちくたびれたよ」
一体いつから僕の事を見ていたのだろう。
キサさんは僕よりもずっと年上のはずなのに子供の用に駄々をこねる。綺麗な顔をしてそんなことをするのだからアンバランスでおかしくなる。
「もしかして僕を迎えに来たんですか?」
「そうだよ。だって私は君と契約したからね」
「その事なんですけど」
館山の事を詳しく話す。その間、キサさんは心底つまらなそうにその話を聞いていた。
「じゃあやめる?」
やめたくない。けれどキサさんを危険な目に合わせるくらいならその選択も。
「ごめんね。いじわるなこと聞いたね」
何かを察したのかキサさんは心苦しい表情で謝ると、窓枠を飛び越えて中に入って来る。
「え? ちょっと」
「窓越しに話していたら見られる確率が上がるでしょ」
「そうですけど、だからって中に入るのは」
こんなことがばれたらさすがの裕司さんも怒るだろう。裕司さんとの関係は母と直結するので余計なトラブルは避けたい。
「まあ、大丈夫だよ。誰かが来たらちゃんと隠れるからさ」
キサさんは適当な段ボールを見つけると頭から被って中に隠れる。確かにこれならばれないかもしれないが。なんだかおかしくなって笑ってしまう。
「なに? バカにしてる?」
「してないです」
「本当かな。いい大人がアホみたいなことしてとか思ってるんじゃないのかな」
尚もごちゃごちゃと文句を言っているキサさんを無視して仕事を再開する。
リストを見て商品を集めると専用の段ボールに梱包していく。正直、一人だと気が遠くなる作業だ。その間、キサさんは倉庫内を歩き回る僕をつまらなそうにじっと目で追っていた。
「ねえ。この仕事楽しい?」
「楽しそうに見えましたか?」
「ぜんぜん」
身体を動かしている方も退屈なのだ、見ている方はもっと退屈なはずだ。
「退屈しのぎに君の事を聞かせてよ」
「僕の事ですか?」
聞くべきはこの町の事で、僕の事なんて聞いて何の意味があるのか。
「私は朱鳥くんの事が知りたい。興味がある」
興味があるの言葉の真意は単純にそのままの意味なのだろうが、言う相手によっては勘違いされそうなので控えた方がいい。この人はこういうところがある。
「つまらないですよ。僕の事なんて」
「それを決めるのは私。さあ、話してごらん」
抵抗しても無駄だというように立ち上がって胸を張る。
いつものコートで厚着をしているから気づかなかったが、結構胸があるんだな。丁度手にしている梨と見比べても遜色ない。
「梨を両手に抱えて何をしてるの?」
「何でもないです」
慌てて止まっていた手を動かす。変な事を考えてしまった自分が恥ずかしい。キサさんといると、普段している俯瞰して周りを見るイメージから離れてしまう。
「それで君の話を聞かせてよ」
「そうしたら私のおっぱいがどれくらいか教えてあげる」
「は?」
驚きのあまり躓いて商品を詰めた段ボールを落としそうになる。商品を傷めたりしたら買い切りなので死活問題だ。
「さっきのそういう意味でしょ」
キサさんは梨を持つジェスチャーをして自分の胸にあてがう。
「君は嘘が下手だからすぐにわかるよ」
「…………」
本当の事なので否定できず、上手い言い訳も思いつかない。言い訳をすればするほどドツボに嵌りそうだ。
倉庫は外気と変わらず、気温が低いはずなのに僕の身体は火照っていた。
「さあ、私のおっぱいと引き換えってことで聞かせてよ。鳥海朱鳥の事を」
「別にキサさんの……と引き換えにする必要ないですから」
乱れた気持ちを落ち着かせるために、僕は自分の生い立ちについて滔々と話す。
幼い時に引っ越してきたこと、絵を描くのが好きだったこと、幸せだったこと、父親の事件のこと。
手を動かしながらキサさんに背を向けているので表情は伺えないが、面白そうにしていないのはわかる。
「これが僕です。笑えないですよね」
直ぐに返答はなかった。
手を止めて返答を待つ。後ろで衣擦れの音はするので居ることは確かだ。コツ、コツ、と足音が少しずつ近づいて来る。
振り向こうと思ったが、背中に体重を預けられて振り向けなくなる。
「確かに笑えないね」
背中全体が暖かくなるにつれて、キサさんが寄りかかっているのだとわかった。青果の匂いに紛れて、甘く清らかな匂いが漂う。
「笑えなくなるよね」
噛みしめるように呟く言葉が耳のすぐ隣で聞こえて吐息がくすぐったい。預けられた体の重みはしっかりと背中に感じられた。浮世離れしていたキサさんが少しだけこちら側に来たように感じる。
「て、ことでご褒美」
鉛ように重く冷たくなった空気を跳ね除けるかの如くキサさんは僕に抱き着く。背中に感じる柔らかい感触。クッションなんかでは比べようのない柔らかさ。それでいて形ははっきりと伝わって、梨ではあり得ないそれに身体が委縮する。
「いい大人が何やってるんですか」
「大人の余裕って奴さ。ほれ、感想は?」
「ノーコメントで」
回された腕を解いて密着した身体を離す。
「大好評と」
誰もそんなこと言ってない。
さっきまで鎮座していた重たい空気は埃のように舞ってしまう。この人は簡単に物事を軽くしてしまう。
「もう、そこで大人しくて下さい」
「はいはーい」
キサさんの匂いが鼻から離れてくれない。そんな所為もあっていつもよりも終わるのが遅くなってしまった。
「終わりましたよ」
「よし! じゃあ出発だ」
「何処にです?」
「夜の散歩だよ」
「だからそれはさっきも言った通り」
「こそこそしたって変わらないよ。それに見せつけてやれば良いじゃん」
「何を?」
「美女との夜デートをさ」
屈託のない無垢な笑顔に見惚れる。きっと今を精一杯生きているから出来る表情なのだろう。今の僕には出来そうにない。その内、出来るようになるのだろうか。例えばこの町を爆破した後とかに。
「それで私の物は梨と比べてどうだった?」
「……ノーコメントで」
今日はいいようにやられたい放題だ。