きみの手が生み出す世界

 その日、浅葱(あさぎ)が描いていたのは青い絵だった。
 青だけ、の絵だ。青だけで絵になるかなんて言われそうだけど、なるのである。
 青い絵の具を数種類。それだけでなく、青い絵の具、そこへ白と黒の絵の具を足す。混ぜる。そうしてグレーがかっていたり、あるいはパステルがかっていたりする『青』を表現する。
 水色。
 マカロンブルー。
 スモーキーブルー。
 紺色。
 藍色。
 ディープブルー……。
 『青』の表現なんて日本語から英語までたくさんありすぎて、すべてなんて到底知らない。
 けれど名前がわからなくてもいい。好みの色になればいいのだ。
 構図を決めたあとは色を決めていく。その過程が一番楽しいのだった。
 この『青だけの絵』を描こうと決めたのは特に深い理由もない。
 青という色が好きだった。
 それ以外には、先日家族旅行で行った沖縄の水族館の水槽の青があまりに美しかった。
 それで描いてみたいと思った。
 そのくらいの理由。
 そう、水族館に感化されたくらいだ、この絵は『水』を表している。
 もう一歩踏み込めば『海』。
 南の海に自由に泳ぐイルカ。
 それをモチーフにしていた。
 海の底を泳ぐ一匹。
 その上にはきらきらと輝く水面があり、そこをしなやかに舞うもう一匹がいる。
 その『海の底の青』『水面の青』そして『イルカの青』。
 それらを全部違う色、しかし『青』とくくられる色で描いてみたかったのだ。
 今日、浅葱がしていた作業は色分け。
 カラーパレットを見て、ここにはこういう色。ここはもう少し薄い色。そういう割り振りを大まかに決めていく。
 地道だが楽しい作業だ。浅葱はどの工程だって好きだけど。
 少しずつ頭の中にあるものが形になるのにわくわくしてしまうのだ。
 だからこそ絵を描いているのだといえる。


「……あれ、六谷(ろくや)。まだ残ってたのか?」
 から、と、ふいにドアが音を立てた。おまけに浅葱の名字も呼ばれる。
 浅葱はどきりとしてそちらを見る。
 先生か誰かだろうか。
 もしくは先輩だろうか。
 所属している美術部の。
 『まだ』と言われたということはもう遅い時間になっているのかもしれない。夢中になっていて気がつかなかったけれど。
 怒られちゃうかな。
 そう思った浅葱だったけれど今度、違う意味でどきっとした。
 そこにいたのはイルカ……を思わせるようなすらっと背の高いひとだった。
 茶色の髪を綺麗に整えて、前髪は流して。
 いつも優しい目をしているその男子生徒は先輩だ。
 美術部、部長。蘇芳先輩。フルネームは蘇芳 壱樹(すおう いつき) 先輩。
「す、すみません。夢中になっちゃったみたいで……」
 浅葱はあわあわと謝った。誰かがいるかと思って蘇芳先輩はきてくれたのかもしれなかった。
 部長なのだ。部員が残っていては蘇芳先輩の責任になる。
 なので慌てて言ったのだけど、蘇芳先輩はふっと微笑んだ。
「いいや。確かにもうすぐ下校時間だけどもうちょっとあるよ。今から片付ければ間に合うさ」
「……ありがとうございます」
 優しい言葉をくれた。それにくすぐったくなってしまう。
 優しい言葉と、残っていた自分を気遣って見に来てくれたことだけではない。
 今は美術室、実はほかに誰もいないのだ。
 今日、部員たちはなんだかみんな早々帰ってしまった。
 偶然だ。「習い事があるから」とか「寄りたいところがあるから」とか普通の用事。
 けれど普段一人きりになることはあまりない。
 特に活動がない日でもなにかしら部室で過ごす生徒は多い。
 美術部としての決まった活動、例えばみんなで集まってデッサンをするとかクロッキーをするとか、そういう日は当たり前のように基本、全員参加。しっかり集まる。
 もしくは今の浅葱のように描きたいものがあるとき。そういうときだって部室で活動するのだ。
 そういう部員が今日に限って誰もいなかった。
 しかしそれがラッキーだった、と浅葱は思った。
 一人で集中して作業できるのは良かったけれど、少し寂しいなとは思っていたのだ。
 そこへこのできごとである。
 一人で残っていて良かった、とも思った。
「秋季賞に出すやつか? 随分早く取りかかってるんだな」
 蘇芳先輩はドアを閉めて中に入ってきた。
 見ただけで浅葱の描いている、というか描こうとしているものがなんの目的なのか当ててくるのは流石である。
 けれど当たり前なのかもしれない。
 蘇芳先輩は三年生。一年生の浅葱と違って秋季賞にももう二回参加しているのだから。
「はい。描きたいものができたので……」
 褒められるような言葉だったので嬉しくなってしまう。
 こんな些細なことだけど、自分を認めてくれるような言葉だ。
 優しい言葉をかけられて胸が騒ぐ以外にも、後輩として褒められれば当たり前のように嬉しい。
「青が多いんだな」
 浅葱が広げていたカラーパレットが青ばかりだったからだろう。蘇芳先輩は近くへきて覗いて言った。
 またどきりとしてしまう。ふわっと良い香りがしたので。
 蘇芳先輩はたまに良い香りがする。これは特に香水などではない。単にシャンプーなどだと思う。
 知らないけれど部員の女の子が話しているのを聞いたのだ。どこのメーカーだとか、芸能人が使っていると噂のものだとか。
 そのくらいに蘇芳先輩はオシャレなのである。すらっとしていてクラスでも一番うしろであるほど高い背丈だけでなく、そういうところからもスマートだと感じさせてくるひとだ。
 つまりわかりやすく言ってしまえばとても洗練された、格好良いひとなのである。
 当たり前のように女子からは注目の的である。そのくらい春にこの部活に入部してから思い知っていた。
 けれど別に自由だろう。
 ……片想いをする、くらいは。
「はい。青だけで描いてみたいと思ったんです」
 そんなひとと二人きりになれば心臓は騒いでしまうだろう。
 それでも嬉しくて浅葱の言った声は弾んだ。
 けれど蘇芳先輩は単に絵の話ができるのが楽しい、だとかに受け取ったようだ。にこっと笑ってくれた。
「そりゃ面白い。そういう発想はなかなか珍しいな」
 また褒められてくすぐったくなった。
 学校の王子様、なんて言えてしまうような蘇芳先輩が自分を見てくれるはずがないけれど。それでもこんな言葉をかけてもらえる。
 美術部、部員で本当に良かったと思ってしまうことである。
「水族館で見た青がとっても綺麗だったんです。だから絵にしてみたいと思って……」
 浅葱は言ったけれどすぐにはっとした。水族館に行った、なんて言ってしまったけれどそんな個人的なこと。友達に話すのではないのだから。
 なので慌てて「この間、家族旅行に行って」と説明しようかと思ったけれどそれは不要だったのである。
「ああ、沖縄だっけ」
 蘇芳先輩の言葉によって飲み込まれてしまった。それどころかかっと胸が熱くなる。
 沖縄旅行。
 覚えていてもらえた。
 部活にも学校にもなにも関係がないことなのに。
 確かに蘇芳先輩も知っていて不思議ではないことだ。
 何故なら。
「土産、ありがとな。クッキー、かわいくてうまかったよな」
 つまり、これ。
 連休に沖縄旅行に行ったお土産として美術部のひとたちにも配ったお土産だ。
 けれど特別に「これ、お土産です」なんて渡したわけではない。
 あくまでも『部活のひとへ』と大箱のクッキーを買ってきただけだ。
 「旅行に行ってきたので」と箱を開けて少しずつ配った。それだけ。
 まぁまぁよくあることである。長い休みには遠出する生徒もいる。夏休みにはもっとたくさんのお菓子が行き交っていたし。
 なのにたくさんある機会のひとつを覚えていてくれたというのか。おまけにどういうお菓子だったかまで覚えていてくれたようなのである。
「俺も行ったことあるんだよ。マナティーがいるんだよな。人魚のモデルになったとかいう」
 おまけにそんな話までしてくれた。
 今日はなんていい日だろう。浅葱の胸に嬉しさが溢れた。
「はい! とってもかわいくて……水面と、あと水中からも見られるんですよね」
「そうそう。全然印象が違って両方おもしろいよな」
 特別な会話。
 沖縄の水族館に関する話なんて誰とでもできるものではない。
 いや、できるけれど、行ったことのあるひととする話はまた違うから。
「俺は水中から見るのが好きだなと思ったよ。……ああ、この絵もそうだな」
 不意に話が浅葱の描きかけの絵に戻ってきてしまった。またどきりとしてしまう。そんな優し気な目で自分の描きかけの絵を見られたら。まるでじっと見つめられているようなものではないか。
「水中から水面を見上げる。そうしたら、きっときらきらして綺麗なんだろうなって。そう思うよ」
 それを表現できたらきっと、すげぇ綺麗だろうな。
 そう言って微笑んでくれた。おまけに手を伸ばしてそっとキャンバスに触れてくれる。
「絵、全体も楽しみだけど水面を見るのが楽しみだなぁ」
 水面になる予定の部分。まだおおまかな下書きとざっくりとした色分け指定しか描いていないのに的確だった。
 長い指、大きくて少しごついそれがまるで浅葱の頭を優しく撫でるように、まだ白いキャンバスを撫でてくれたのだった。
「しゅうきしょう、って聞いたことないけど。なんかの賞の名前? えらいひととか?」
 ある日のランチタイム。お弁当を食べながら親友の綾(あや)が聞いてきた。
 今日はクラスで仲のいい子たちと机をくっつけてお弁当を食べていた。お母さんが毎日作ってくれるお弁当だ。
 水色のチェックのクロスで包まれている紺のお弁当箱はシンプルだけど隅に入っている花の模様がかわいらしい。シックながら少しのかわいらしさもあって気に入っている。
 勿論気に入っているのは中身のお弁当も。
 玉子焼き、プチトマト、ハンバーグ……大体そういうごく普通の、家庭のお弁当だけどお母さんはお料理がうまいだけあって毎日とてもおいしかった。
 今日は唐揚げ。蓋を開けて大好きなそれを見て嬉しくなったものだ。
 それをお箸で摘まみながら、浅葱はちょっと笑ってしまった。
「ううん、普通に『秋』に季節の『季』で秋季。秋にあるコンテストだよって意味」
 綾はそれを聞いて「なんだ、シューキ、とかいう画家がいるのかと思っちゃったよ」なんて、あはは、と笑った。お茶目なのだ。
 綾はバレー部で、活発な性格と性質だ。ショートヘアに短いスカート丈といった活動的なスタイルをしている。
 だから絵のことにはあまり詳しくない。むしろ苦手かも、と言っている。外で体を動かすことが好きなのだ。それは中学校の頃からずっと同じ。
 でもなんだか気が合って、中学校からずっと親友。変わらないことだ。
 対して浅葱はもう少し大人しい見た目をしているといえた。
 茶色の髪はロングで普段は背中に流している。体育の時間は結ぶのだ。
 絵を描くときもまとめ髪にする。とはいえ別に凝った髪型にするわけではない。シンプルにみつあみをしたり、単にうしろでくくって小さなお団子にしたり。
 だってオシャレが目的ではないのだ。あくまでも髪が邪魔にならなければいい。
 でもここしばらく……数ヵ月くらいはそれだけではなくなっていた。
 それを意識してしまうとだいぶくすぐったい。
 邪魔にならなければ、という理由以外にも見た目としてかわいらしいように見えていたらいい、なんて思ってしまうことは。
 春は全く気にしていなかったのに夏になる頃にはそう思ってしまうようになっていて、その理由なんて明らかだった。
 コドモではないのだ。わかっている。
 ……片想いをしてしまったから。
 美術部部長の、蘇芳先輩に。
「それでもう描いてるんだ? 早くない?」
 隣から言ったのは別の友達。美術部でも一緒の萌江(もえ)だ。
 萌江は浅葱とは違ってイラストも好きだった。漫画もたまに描いていてそれはなかなか面白いのだった。
「そうかな。構想は早いほうが良くない?」
 付け合わせのほうれん草のソテーを摘まみながら浅葱は言う。
 萌江はシンプルに「そうだけどさー」と言う。割とギリギリ体質なのだ。
 サボるわけではないけれどなかなかスイッチが入らないのだと言っている。
 それは勉強も同じで夏休みの課題も、夏休みが明けても終わっていなかったくらい。先生に散々つつかれてやっと終わらせたと言っていた。
 勉強ができないわけではないし、美術部のほうもヘタではないのに。単にそうでないとできないというだけ。そこはちょっとした欠点かもしれなかった。
「浅葱は真面目だもんね」
 綾がフォローしてくれた。浅葱はそれに嬉しくなってしまう。
 真面目過ぎて固い子だとは思われたくないけれど、やっぱり好きなことにしっかり取り組んでいると言ってもらえるのは嬉しいから。
「秋季賞はなにかしら入賞したいもん。しっかり練っておこうと思って」
「入賞? 例えばどんな?」
「そりゃあ最優秀賞とか、佳作とか、入選とか……普通の賞だよ」
 友達たちに賞のシステムについて簡単に話す。
 そう、今回はなにかしら賞が欲しかった。まだ一年生。ヘタではないと思っているけれど、なにしろ技術的は当たり前に先輩が上だ。だから先輩のほうが評価されて当然だとは思う。
 けれど負けたくない。
 最優秀賞なんて無理だろう。
 無理、だろうけど。
 あわよくばという気持ちはあるし、それに現実的なところだと一番下の賞、入選でもいい。とにかくなにか欲しかった。
 それは純粋に自分の絵を評価してほしい気持ちである。
 でもそれだけではなくてこれもやっぱり。
「そういえば部長さん……蘇芳先輩、だっけ? 夏前にいい賞を取ったとかで表彰されてたよね」
 不意に綾が蘇芳先輩の話を出してきて、浅葱はどきっとした。
 綾は勿論、浅葱の片想いのことを知っている。だからどきりとしてしまったわけ。
 それはつまり、浅葱がどうして賞が欲しいかということもわかってしまっているということだろう。
「う、うん。特別賞。特別賞が三本だっけかな、あって。それに選ばれてたよ」
「ああ……集会で表彰式があったもんね」
 ほかの子も少しは覚えてくれていたらしい。なんだか自分のことのように嬉しくなった。
 美術部仲間の萌江も「そうそう! 美術部でもちょっとしたお祝いをしたんだよ」と話す。
 先輩のことが話題に出たのにはどきどきしてしまうけど。
 でも楽しい。こういう話は。
「それなら蘇芳先輩にいいところを見せないとね。気にかけてもらわないと!」
 やっぱりこういうほうへ話が進んでしまった。ほんのり頬が熱くなる。
 ぱくりとご飯を一口食べる。誤魔化すようだったけれど、そうでもしないと恥ずかしい。
「いいところっていうか……部員なんだからしっかりしたのを出したいなって……」
 ご飯を飲み込んでから言ったけれど、それは歯切れが悪くなってしまったし、実際それは友達に指摘されてしまった。
「しっかりしたのを出して褒めてもらえたらいいしね」
 それは明らかにからかう意図だったので浅葱は「そんな邪な気持ちじゃないから!」と膨れることになる。
 それは本当だ。
 褒めてもらいたい気持ちはある。それは邪。
 でも本当に純粋な『いい作品を作りたい』という気持ちなのだ。それも野望ともいえる大きなもの。
 美術部部員として。それから自分の実力を出したいという意味で。
 満足できるものを作り上げたかった。
「そうしたら蘇芳先輩も好きになってくれるかもしれないし!」
 しかし次に言われたことにはむせてしまった。ごほごほ、と咳き込んでしまう。
「そ、それはないから!」
 咳がおさまって、はーっと息をついたあとに言った。遅れて胸が高鳴ってくる。
 蘇芳先輩が自分を好きになってくれる。
 そりゃあ、そうなったらどんなに幸せだろうか。
 けれどなにしろ蘇芳先輩は学園の王子様なのだ。
 憧れている、というか片想いをしている子は星の数ほどいるだろう。
 その中の一番……つまり蘇芳先輩に好きになってもらえる存在になれるかと言ったら、それはすごく難しいと思う。
「そんなことないよ」
 そこで言ってくれたのは綾だった。浅葱を見てにこっと笑う。
「だって頑張ってる女の子は魅力的だもん。そういう女の子のことはいい印象を持ってくれるよ」
 浅葱の胸がじんと熱くなった。
 そうだ、好きになってもらえる、恋をしてもらえるなんてことはわからない。保証もない。
 けれど「頑張ってるな」「すごいな」と思ってもらえることは無理じゃない。
 それなら、それだけでもいい。いい印象を持ってほしい。
「ありがとう。頑張るよ!」
 明るい気持ちになってそう言った浅葱。友達たちも「確かにそうだよね」「頑張って!」と言ってくれた。
 そのまま話題は次に移っていったけれど浅葱の胸は熱いままだった。
 秋季賞に出す作品。
 自分の全てを詰めようと思う。
 好きなひとに認められたいというのは当たり前の感情であるし、それを別にしたって輝けることであるのだ。
 だからそういう姿勢で挑もう。
 魅力ある自分でいたいから。
 今日の部活の時間が既に楽しみになっていた。
 今日はどの作業をしようか。
 おしゃべりが終わって午後の授業がはじまっても。
 授業には集中していたけれど、合間合間につい頭に浮かんでしまっていた。