新学期に入った学校は少し張り詰めた空気が広がっていた。学期がはじまってすぐ中間テストがあるからである。
なにしろ年度は三月までなのだ。一月に中間テストでも仕方がない。
よって浅葱もテスト勉強に励んだ。
傍らで部活も進めていたけれど。
次は春季賞がある。
これは部活が新しい世代になってから初めてのコンテストである。自然と気合が入る。
部活の運営とコンテストは直接関係ないけれど、部活動自体ももう二年生と一年生で進めていかなければいけないし、毎週のデッサン、もしくはクロッキー会だってそうだ。
はじめはぎこちなかった。それはそうだろう、今までは壱樹先輩や森屋先輩がメインになって進めてくれていたこと。今はもう三年生抜きで進めなければいけない。
流れもすることもわかっていてもどうしてもスムーズにはいかなくて。
でもこれにも慣れていって、うまくできるようになっていかなくてはいけない。
四月になれば新一年生が入ってくるのだから、それまでにしっかり部活として成立できるようにしておかねばならないのだ。
新二年生リーダーに任命された浅葱も、やることや覚えることがたくさんで。
新部長で、前二年生リーダーの金澤先輩によく質問させてもらって、聞いたことは全部メモしていった。
金澤先輩だけでなく隙あらば副部長、会計、書記……そういう役職持ちの先輩にも質問した。
立派な先輩で二年生リーダーになりたかった。
なにしろ壱樹先輩が「浅葱ならできる」と認めて任命してくれたのだ。その期待に応えなくては。
壱樹先輩は三月で卒業してしまう。
けれどそれで縁が切れてしまうはずはない。
たまには重色高校にも顔を出してくれるだろうし、浅葱はもっと特別な存在なのだ。「週に一回は会いたいもんだな」と言ってもらっていた。
だから今よりかなり頻度は落ちるけれど、それなりに多く会えるよう約束している。
デートのときに「部活のほうはどうだ?」なんて聞かれて、うまくいっていないなんて情けない返答をするわけにはいかないではないか。
よって浅葱のリーダーとしての活動は気合が入っていた。
二年生の先輩たちもそれを認めてくれて、金澤先輩などは「六谷はやる気に溢れてるなぁ。再来年度は俺が六谷を部長に任命するかもしれないな」なんて、冗談半分かもしれないけれど言ってくれたくらいである。
そのときは「いえ、そんな、まだ私なんて全然……」と言ってしまったけれど、嬉しかった。
二年生リーダーになれたときから浅葱には新しい目標ができたから。
……三年生になるとき。
部長になりたい。
壱樹先輩のような、先輩としても部長としても、立派な人間になりたい。
そういう、具体的で、絶対に叶えたい目標だ。
でも美術部なのだ。
絵だって勿論うまくなりたい。
進学するときは美大を受けて、合格して、大学生になりたい。
やりたいことも叶えたいこともたくさんだった。
それに向けてやることだって多すぎて、浅葱にはいくら時間があっても足りないように感じてしまう。
まだ高校一年生ではあるけれど、あと二ヵ月ほどでそれもおしまい。そうしたら高校生活は残り二年間なのだ。
その二年間でどれだけやりたいこと、できるようになりたいことを叶えられるか。
浅葱はひとつでも多く達成させるつもりだった。
そしてそういう姿勢は部活のひとたちは勿論、今はたまにしか美術室に顔を出さなくなってしまった壱樹先輩も認めてくれたのである。
「浅葱はすごいな」
ある放課後、カフェでお茶を飲みながらふと壱樹先輩が言った。
年末から壱樹先輩は受験直前の短期講習を受けに塾に通うようになっていた。よって新学期になっても一緒に帰れるのは一週間に二日ほどになってしまっている最近。
寂しいけれど壱樹先輩を応援する気持ちのほうが強かった。
それに一緒に帰れる日がもっと特別に感じられるのだ。
今日は更に特別な日だった。「たまには息抜きしようぜ」と壱樹先輩がムーンバックスに連れてきてくれたのである。
今回は学校のある駅前のムーンバックスで、地球堂のある駅のムーンバックスではない。つまり初めて一緒にカフェというものに入って、デートのようなことをしたお店とは別である。
あのときとは随分変わった、と浅葱は思う。
自分の気持ちも、先輩との関係も。
「そう、ですか? 受験勉強を頑張ってる壱樹先輩のほうがすごいと思いますけど」
浅葱はあつあつのキャラメルラテを、ふぅふぅと冷まして飲みながら言った。
浅葱の答えには笑みが返ってくる。
「そうだけど。そうやってひとの頑張りをよく見ていて認めてやれるところもすごいんだよ」
意外なところを褒められた。浅葱は一瞬の驚きののち、嬉しくなってしまう。
壱樹先輩に認められるのは嬉しい以上に特別なことだから。
一番、認めてほしいひとだから。
「そうできてたら、嬉しいです」
はにかんだような笑みを浮かべた浅葱に壱樹先輩はまたにこりと笑ってくれる。
穏やかな放課後だ。カフェの二階席のカウンター。
外はまだ夕暮れだけど暗くなりきっていない。
ほのかにオレンジ色をしている。
あ、あの絵みたいだ。
浅葱は不意にある一枚の絵のことを思い出した。
それは壱樹先輩に初めて『出会った』ときの絵のことだ。
夏の夕暮れの風景。オレンジ色がとても美しくて、優しいひかりをしていたあの絵。何時間でも眺めていたいと思ってしまった絵だ。
浅葱は自然に口に出していた。
「私、壱樹先輩の絵を初めて見たの、中学生の頃だったんです」
「え、そうだったのか?」
壱樹先輩が口にしていたホットコーヒーから視線をあげて浅葱を見る。
視線が合って、ちょっとだけ、とくんと心臓が跳ねたけれど浅葱は続けた。
「はい。コンテストで賞を取ったでしょう。夏の日暮れの絵。私、あれが展示された美術館に友達と見に行って……あの絵に引き寄せられちゃったんです」
「そう……だったのか」
壱樹先輩は驚いたという声、感嘆を含んだ声で言った。
浅葱はいくつか挙げていった。あの絵の好きなところ、興味を引かれたところ、魅力に感じたところ。それはいつも絵について語り合う感覚で話したのだけど途切れたとき壱樹先輩が言ったことに、はっとしてしまった。
「意外なところで見られていたと思うと、ちょっと照れるな」
実際にちょっと気まずそうにしている壱樹先輩。
浅葱はやっと気付いた。
壱樹先輩の『絵の』好きなところを挙げていったけれど、それは『壱樹先輩の』好きなところでもあるのである。
そんなことをぺらぺらと。
急に、かぁっと顔が熱くなった。
なんて恥ずかしいことを語ってしまったのか。
「す、すみません、私……」
恥じ入ってしまった浅葱を見て、けれどその姿を見たためか壱樹先輩は笑みになった。
「大胆だなぁ」
はっきりからかうようなことを言われてもっと顔が熱くなってしまう。
「ち、違います、絵の話で」
「絵だって俺の一部なんだなぁ」
「そ、そうですけどぉ……」
やりとりはからかわれているものであったけれど不快ではなかった。ただ、大胆なことを言ってしまって恥ずかしかっただけだ。
だからやりとりをする空気は穏やかだった。
しばらくして壱樹先輩が「すまん、からかいすぎた」とまだ笑っているくせに、でも一応そう言って終わらせてくれて浅葱はほっとした。
「いや、でも『絵はそのひと』っていうのは、俺もそう思う。俺も浅葱の絵が好きだよ」
違う意味で浅葱の心臓を跳ね上がらせてきた、その言葉。
今までだって「六谷の絵はいいな」と言われていたけれど、今のものは特別なのだ。
「ありがとう……ございます」
なので返事はもじもじしてしまった。
壱樹先輩はそんな浅葱を見て優しく微笑んでくれた。
「浅葱の手が好きだ」
不意に全く違うことを壱樹先輩は言う。浅葱が、え、と思ったとき。
カウンターの上にあった浅葱の手がそっと握られた。
ほわっと、もうだいぶ慣れたあたたかさが浅葱の手を包み込んだ。
「この手が素敵な世界を生み出すだろう。俺はそれが好きなんだ」
包み込むだけではない。両手を出してきゅっと両手で包まれる。
浅葱の手、全体があったかくなってしまう。
慈しむ、というような触れ方に、そこから火がついたように胸が熱くなっていく。
そのひとの手が生み出す世界。
それはひとの数だけ存在する。
いや、ひとの数以上に存在する。
同じ絵は、同じひとが描いたとしても二度として同じものはできあがらないのだから。
その、世界にたったひとつだけの『特別な世界』。それを生み出せる手は、まるで魔法のような存在だ。
「私だって、そうですよ」
自分の手を包んでくれるあたたかな手。
それを『好き』と感じる気持ちは同じだから。
「壱樹先輩の絵は『壱樹先輩』です。だから私は」
浅葱は言った。今度はためらわなかった。にこっと笑って口に出す。
「……先輩の世界が、大好きなんです」
一月末。いよいよ秋季賞の結果発表がある日となった。
部活のときに水野先生から伝えられるらしい。きっと学校経由で来ただろうから壱樹先輩も知らない、と思う。
壱樹先輩ら、三年生にとっては高校生として最後のコンテスト。みんないい結果が欲しいに決まっている。
浅葱だってそうだ。一年生ではあるけれど、だからといって全く諦めてしまう気はない。
それは賞の絵を描いていたときからずっと思っていた。なにかしらの賞を取る気で、そういう気合で描く、と。
一番下の賞でもいい。
評価されたい。
美術を、絵画を頑張る身としては当たり前だと思う。
壱樹先輩のことも、自分のことも。浅葱はふたつの意味で緊張していたけれど確かに楽しみでもあった。
その日も部活に部員全員が集められた。もうほとんど部活に来ることのない三年生も全員だ。
そりゃあそうだろう。
頑張ってきたコンテスト、秋季賞。結果なんて一番早く知りたいに決まっている。
「みんな、集まったわね」
美術準備室から水野先生が一枚の紙を持って出てきたとき、浅葱は喉から心臓が飛び出すかと思った。
今まではそわそわしていた程度だったのに一気に息苦しくなってくる。
「気になっているでしょうからすぐ発表しましょう。結論から言うとかなりいい結果だったわ。重色高校として誇らしい結果です」
前置きのあと、真っ先に呼ばれたのは壱樹先輩の名前だった。
「蘇芳くん。準大賞に選ばれました」
ざわっと部室に大きなざわめきが溢れる。
準大賞。
全国ではないが多くの高校からの応募があるコンテストで準大賞、なんて。
浅葱の心臓がもっと強く打った。
壱樹先輩なら賞に入ると確信していた。
しかし実際に結果を発表されてしまえば落ちついてなどいられない。まるで自分のことのように感動を覚えてしまう。
すぐに壱樹先輩のほうを見てしまった。それは浅葱だけではなかっただろうけど。
美術部の視線、すべてが壱樹先輩に集まる。その中で壱樹先輩はついていた机から立ち上がった。
浅葱の初めて見るような表情を浮かべて、だ。
顔を真っ赤にしていた。
それは照れではない。
嬉しさと、感動と、それから興奮からだろう。
「ありがとうございます!!」
口から出た言葉も明るくて、このとき壱樹先輩は『前部長』ではなく絵画を頑張る一人の男のひとだった。
「おめでとう!」
「おめでとうございます!」
部員たちから口々にお祝いの言葉がかけられる。浅葱も勿論だ。大きな拍手も弾けた。
「最後に素晴らしい結果を出せて良かったわね。部長としての集大成だわ」
「はい! 頑張った甲斐がありました!」
心底興奮している、という様子の壱樹先輩。
はぁ、とため息をつくのが見えた。それは感嘆のため息。いい意味でのため息だ。。
それから次々名前が呼ばれていった。
ほとんどが三年生。二年生もちらほら。
佳作、とか、優秀賞、とか。
数人ではあったけれどやはり大きなコンテスト。水野先生が『重色高校として誇らしい』と言った通りの結果だった。
でも浅葱の名前は呼ばれなかった。
まさかダメだったのだろうか。一番下の賞すら取れなかったのだろうか。
今度は嫌な意味でどきどきしてきた。心臓が冷たくなりそうだ。
壱樹先輩がとても立派な賞を取ったのに、自分はなにもなしなんて。そんなの恥ずかしすぎる。情けなさ過ぎる。
純粋に結果が出なければ落ち込んでしまうし。
しかし浅葱の心配は水野先生の最後の発表で軽々と吹っ飛んだ。
「審査員特別賞。六谷さん」
浅葱の意識が、一瞬、空白になった。
取れた。
頭の中にそれだけ浮かんだ。
空白になったのは、どんな賞であるのかわからなかったからだ。
よくある、大賞、とか、佳作、とか、優秀賞、とかではない。
審査員特別賞、とは。
部員のみんなも賞の種類がよくわからないようで、戸惑った空気が漂った。
水野先生はそれを予想していたように説明してくれる。
「審査員の方が特別な印象を受けられた、と評価してくれた賞ですね。ちょっと異色かもしれません。どちらかというと『今後に大いに期待している』というものと取っていいものかな」
ぽうっとしたままの浅葱に、じわじわとその説明は染み込んでいった。
それが胸の奥まで染み入ったとき。
かっと胸の奥で爆発した。
かぁっと顔に熱がのぼる。きっと真っ赤になっただろう。
これはさっきの壱樹先輩と同様。嬉しさや興奮から、だ。
水野先生の説明を飲み込んだのは浅葱だけではない。すぐに美術室内に拍手が溢れた。
そうだ、お礼を言わないと。
浅葱はあたふた立ち上がる。
「あっ、あっ、ありがとうっ、ございます!」
お礼を言う声は思いっきりひっくり返った。けれどそれを恥ずかしいと思う余裕もなければ、実際に恥ずかしいとも思わなかった。
だって立派過ぎるだろう。
賞のひとつに入った。
おまけに今後に期待している、とまで評価してもらえた。
嬉しくないはずがない。
これで発表は全てだった。賞に入ったひとは手放しで喜んでいたし、そうでないひとたちは賞賛の声や拍手を送ってくれていた。
「入賞したひとは、今度の朝集会で表彰される予定です。その打ち合わせがあるので、今日は少しだけ残ってくださいね」
水野先生がそんな言葉で締めた。
今日はまともに作業などできるものか。それで解散となった。
「六谷! やったな!」
解散後。真っ先にきてくれたのは壱樹先輩だった。今は部活なので前と同じように六谷、と呼んで。
「はい! やりました! 先輩もじゃないですか!」
「ああ! 超嬉しいよ!」
素直な喜びの言葉。満面の笑みで。
きらきらとしていて、とても綺麗だった。
おまけに。
「おめでとう!」
がばっと壱樹先輩の腕に強く抱きしめられる。
でもこのときも恥ずかしい、とは思わなかった。それほど感動してしまっていたし部活内だってそういう空気だったのだ。あちこちで同じようなことが交わされていたのだから。
ほかのものは女子同士だったけれどそんなことは関係ないし今はどうでも良かった。
「……はい!」
浅葱もそれに応えて壱樹先輩の背中に腕を回した。素直な気持ちで喜び合う。
今は恋人としてではない。
同じ、絵画に向けて頑張る同志として、だ。
それは違う意味で胸を熱くするものであったし、嬉しくてたまらない、完全に弾けてしまった熱い想いだった。
「今度、お祝いの会をやりましょうね」
ぱんぱん、と水野先生が手を叩いて一旦の終わりを告げるまで。
美術部内の感動と興奮に溢れた空気はやむことがなかった。