「……わたし、忘れていたの。小泉由宇の存在も、彼女が持っている能力のことも。……思い出した今はね、忘れていた自分の馬鹿さに……後悔してる」
――小泉? どうしてこのタイミングで、その名前が出てくるんだ?
「……何が言いたいのか、よくわからん」
青葉はゆっくりと腕を振りほどいて、恭矢を見つめた。その大きな瞳からは、まだ静かに大粒の涙が流れていた。
「……ごめんね」
青葉は涙を拭い、無理な笑顔を作ってから、恭矢の頬を両手で掴んだ。そして恭矢の唇に、本当に少しだけ触れるだけのキスをした。
その瞬間、恭矢の脳味噌は熱くなった。
頭の天辺から足のつま先まで痺れ出す感覚に意識を取られていると、無抵抗だった恭矢の脳味噌は無理やりこじ開けられ、封印されていた記憶が次々と駆け巡っていった。
小泉由宇に飴をあげて、なんとか話そうと努力していた放課後。
情緒不安定な女性、支倉を自転車に乗せて、初めて由宇の仕事を知ったあの日。
八畳間で何度も見た彼女の涙。
西野の恋愛を請け負って、恋なんてできる気がしないと言い切った彼女の表情。
レギュラー争いに負けて心が折れていた瑛二と話し合った夜。
それから――彼女の喜ぶ顔が見たくて、恭矢自身の思い出を差し出していたこと。
……それが原因で、彼女から距離を置かれてしまったこと。
どうして忘れていられたのだろう。由宇が人一倍優しく、それゆえ傷つきやすいということをすぐ近くで見てきたというのに、どうしてまた一人にしてしまったのだろう。
青葉が指でそっと頬を伝う水滴を拭ってくれたことで、恭矢は自分が涙を零していることに気がついた。
「……青葉、俺に何をしたんだ?」
「小泉由宇が〈記憶の墓場〉と呼ばれ、ひとの記憶を奪うことができるなら、わたしは逆だった。わたしは……ひとの忘れた記憶を思い出させることができるの」
恭矢の脳味噌は確かに、忘れていた由宇との記憶を思い出している。青葉が嘘をついていないことは身をもってわかった。
「わたしは、自分の能力の存在を忘れていた。正確に言えば、忘れ“させられていた”の」
「どういうこと……?」
青葉は答えなかったが、恭矢はすぐに答えに行き着いた。恭矢が知っている中で、そんなことができるのは、一人しかいない。
「……小泉が……?」
青葉は小さく頷いた。
「わたしがこんな力を持っているなんて、知らない方が幸せに暮らせると考えた小泉由宇は……わたしに接近して、わたしの能力と、それと……を奪った」
「え、ごめん。最後の方聞こえなかった」
青葉が思い出したという記憶の中には、おかしな点がある。そのことに関係があるのだろうかと考えていると、青葉に手を握られた。
「……帰ろ?」
「ちょ、ちょっと待って! 気になるだろ! 最後まで話してくれよ!」
「……ここから先は、わたし一人じゃ話せないんだ。だから……」
青葉の言いたいことがわかった恭矢は、黙って青葉に手を引かれて歩き出した。
行き先は、由宇のいる雑貨屋だ。恭矢は思い出した由宇への気持ちと、青葉を守りたいという気持ちの間で揺れながらも、何があっても三人で前に進みたいと思った。
二人は電車とバスを乗り継いで、夜道を歩き雑貨屋までやって来た。
恭矢が由宇との記憶を失っていたのは、およそ二ヶ月間だ。店の風貌を見ただけでもこんなに胸が苦しくなるのに、忘れていた自分が信じられなかった。一刻も早く由宇の顔が見たくて、青葉の手を握ったまま歩を早めた。
「……恭ちゃん、待って。……ここまで来て今更何を言っているって思うかもしれないけれど、やっぱりわたし、小泉由宇に会うのが怖い。会って話してしまったら、きっとわたしたちはもう、今までみたいにいられないんだよ? だから……」
「大丈夫だよ。青葉がどんな過去を背負っていても、俺がどんな事実を知っても、青葉が受けとめられなくて暴れても、ちゃんとそばにいるから」
「ううん、違う。それも怖いけど、何より……小泉由宇に会って、恭ちゃんが恋をしている顔を見るのが、たまらなく怖いんだよ」
「……大丈夫だよ」
青葉の気持ちが、繋いだ手と不安そうな表情から伝わってくる。恭矢の根拠のない言葉に彼女が不満や疑いを口にしないのは、恭矢を信じているからではないだろう。
青葉はわかっているからだ。恭矢が由宇を一目見たら、恋心を隠し切れないであろうことに。
「……さ、行こう」
半ば強引に青葉の手を引いて雑貨屋に入ると、相も変わらず女子高生でも買えそうな手頃な値段のキーホルダーから、購入層不明な高価な置物まで陳列されていた。恭矢にはやっぱり、この店のラインナップはよくわからない。
「いらっしゃいませ」
店長は恭矢を見て少し面食らったようだが、すぐに営業用の顔を繕った。
「……こんばんは店長さん。俺、思い出しました」
会釈をしてからそう言うと、少しの戸惑いを見せた後で店長は笑った。
「そっか……いや、ごめん。君のためを思うと、忘れていた方がよかったんじゃないかなとも思ったんだけど、やっぱり嬉しくてね」
「途中で投げ出すような中途半端な真似をして、すみませんでした」
「いやいや……でもね、熱心に面倒みていた野良犬を急にほっぽり出したもんだからねえ、あの子は今まで以上に辛そうに見えたよ」
「……すみません」
「って、ごめん、忘れてくれ。君の記憶を消したのは由宇自身だもんね……あ」
店長は青葉の存在を失念していたようで、零した言葉に慌てていた。
「わたしは、綾瀬青葉っていいます。心配しないでください。わたしも同じですから。今日は由宇さんに会いに来ました」
さっきまで不安そうな顔をしていた青葉が、頑張ってしっかり者を演じていた。
「そっか。……あの子、今日はもう一仕事終えたからさ。目が赤いとは思うけど」
二人は店長に一礼し、二階への階段を昇った。その間もずっと、青葉は恭矢の左手を握っていて離さなかった。
右手で二回扉をノックして反応を窺うと、少ししてから由宇の返事が聞こえた。
すべてを思い出してから由宇の声を聞いてしまうと、まるで性質の悪いドラッグのように耳から痺れていく感覚があった。もっと聞きたい、早く会いたいと、我慢ができなかった恭矢は急くようにドアノブを回し、部屋の中に足を踏み入れた。
初めてここで由宇を見たときと同じように、教室とは違う雰囲気の彼女に、恭矢は一瞬で心を奪われた。
由宇の大きな瞳を守る長い睫毛が涙で濡れているのを確認できたのは、今この瞬間、由宇と恭矢がお互いを見ているからだ。
もし青葉と手を繋いでいなければ、たとえ由宇に叫ばれようとも引かれようとも、恭矢は全力で彼女を抱き締めただろう。
そんなことを考えてしまった時点で、恭矢は青葉に嘘を吐いていたことを悟る。
俺は――今でもどうしようもなく、小泉由宇が好きなのだ。
「相沢くんに、青葉……?」
由宇は恭矢の存在よりも、青葉に驚いているようだった。恭矢から外れた視線は、ずっと青葉を見つめていた。
「……久しぶりだね、由宇ちゃん」
「なんで……? どうしてわたしのこと……?」
由宇の表情は今までみたこともないほど狼狽していたが、青葉は迷いなくしっかりと由宇の瞳を見つめていて、恭矢の持つ印象の二人とは正反対だった。
「……わたしね、お母さんに会ったんだよ」
青葉が生まれてすぐに失踪したという母親のことを、恭矢は何も知らない。だが、由宇は青葉の一言で察するに十分だったらしい。
「……座って」
ゆっくりとした瞬きの後で、そう促した。ソファーに腰掛けていると、由宇は恭矢と青葉の分の湯のみを、ローテーブルに置いた。
「あれ、コーヒーじゃないんだ?」
恭矢の記憶では、由宇はホットコーヒーを好んでいて、いつも恭矢にも淹れてくれたはずだ。
「うん……相沢くん、コーヒー苦手だって言っていたから」
申し訳なさそうに口にする由宇を見て、恭矢は記憶を失う前に彼女にひどいことを言ったことを思い出した。由宇が恭矢との関わりを絶とうと決意した、夏休み前のあの日。もし過去に戻れるのなら、あの辺りの生活や態度を全部やり直したい。
「……今更なんだけど、ちゃんと謝らせてほしい。俺、小泉にひどいこと言った。本当にごめん」
「謝らないで。お願い」
恭矢が顔を上げると、由宇はどこか寂しげな表情をしていた。そんな顔を見たくなくて、恭矢は目の前にある湯のみを持ち上げ、緑茶を一気飲みした。
「ご馳走様でした! でも俺、コーヒーが飲みたいな。俺、ここにいるときはコーヒーじゃないと落ち着かないから」
由宇も青葉もきょとんとした顔で恭矢を見ていたが、図々しく湯のみを由宇に突き出すと、彼女はカップに熱いコーヒーを注いでくれた。
「……無理しないでね」
「無理してないよ。あー、やっぱり慣れてきたのかな? 前より美味しく感じるわ」
久々に飲むコーヒーは、やっぱりどうしたって苦かった。だけど恭矢はそんな素振りを微塵も見せないように、黒い液体をぐっと飲み込んだ。
青葉が由宇に目配せをした。由宇が頷くと、青葉は再び恭矢の手を握った。
「恭ちゃんには言わなくちゃいけないと思う。あのね、わたし綾瀬青葉と小泉由宇は……異父姉妹なの」
唐突すぎて、言葉の意味を瞬時に理解できなかった。
二人とも今は母親と暮らしていないことだけは知っていたが、まさか――。
「……冗談だろ?」
「相沢くんは、わたしと青葉が似ていると思ったこと、一度もない?」
確かに、二人に近いものを感じたことがあった。それに、恭矢が由宇に幼馴染がいると話したとき彼女は『どんな女の子?』『セックスしたことある?』
恭矢は一言も幼馴染の性別を言っていないのに、そう口にした。どうして、青葉が女だとわかったのだろう。
はっとして二人を見たとき、彼女たちが纏う雰囲気の説得力に、息を呑んでしまった。
由宇は軽く息を吸って、淡々と語り始めた。
「……わたしたちの母親は、わたしを産んですぐにわたしの父の前からいなくなり、青葉を産んでまたすぐに、青葉のお父さんの前から姿を消したらしいの。小さい頃は、母が何をしたいのかわからなかった。だけど、十三歳のとき……言い方を変えると、わたしが初潮を迎えたとき、やっと腑に落ちたわ。母は、自分の能力を子どもたちに受け継がせようとして、子作りをしたのだと」
「……はい?」
「それはわたしが、ひとの記憶を奪う能力に気がついたときと同時期なんだけど……伝わったかしら?」
「……待って待って! 頭が追いつかないって!」
ショチョウやらコヅクリやら、そんなあっさり言われても、恭矢は脳内変換すら追いつかなかった。補足するように青葉が続けた。
「えーっとね、つまりわたしたちのお母さんはね、由宇ちゃんの持つ『ひとの記憶を奪う力』と、わたしの持つ『ひとが忘れていた記憶を思い出させる力』の両方を持っているの。で、それがわたしたちに、それぞれ一つずつ受け継がれたってこと。そのタイミングが由宇ちゃんもわたしも、その……初潮と同時だったって話!」
恭矢の理解力の問題ではなく、簡単に納得できるような話ではなかった。
「だけど……母は子どもに能力を引き継ぐことしか考えていなかった。子育てには微塵も興味がなかったから、生まれてすぐには能力を使えなかったわたしや青葉を捨てて、行方を眩ませたの。わたしのお父さんは苦労したみたい」
「わたしのお父さんも、大変だったって言っていたよ。うちは、恭ちゃんちがいろいろ面倒みてくれたから本当に有難かったって」
顔を見合わせて苦笑する由宇と青葉の表情は、とてもよく似ていた。
「……そうやって話しているのを見ていると、姉妹に見えるな」
「そう言われると、わたしは嬉しいけれど……わたしは、青葉に姉と呼ばれる資格なんてないから」
由宇は青葉から目を逸らし、天井を見上げた。
「母親がろくでもない人物だということ。わたしという、異父違いの姉がいること。青葉がそれらを知っていることは百歩譲って許せても、この能力のことだけは絶対に青葉には知ってほしくなかった。知ってしまったらもう、普通じゃいられなくなるから。……だからわたしは、青葉を探した。見つけて、わたしに都合のいいように記憶を奪った」
由宇が一旦言葉を区切ると、代わって青葉が語り出した。
「わたしは……お母さんのことも、由宇ちゃんの存在も、自力で調べて大体わかっていたし、記憶を思い出させる能力にもすでに気がついていたよ。……中学校三年生の冬、学校帰りに由宇ちゃんがわたしに接触して、記憶を奪うまではね。わたしは能力のこともお母さんのことも、何もかもを忘れた。学校に行くと何かを奪われてしまうという恐怖から、学校には行けなくなっちゃったけど……由宇ちゃんの計画は成功したことになるね」
青葉は静かに、淡々と言葉を紡いでいる。
「青葉には能力に対する耐性が少なからずあったのか、完全に記憶を消すことはできなかったわ。『奪われた』という記憶が残ってしまうことを、予想していなかったの。青葉にトラウマを植え付けてしまったこと、本当に申し訳ないと思っているわ。ごめんなさい」
恭矢は由宇が言っていた、贖罪の対象が誰なのかを知った。由宇が辛辣な顔で深く頭を下げると、青葉は無表情のまま「顔を上げて」と呟いた。
「……別に、怒ってないよ」
「……それと……青葉にもう一つだけ、謝らなきゃいけないことがあるの。わたしは青葉から奪った記憶の中で、相沢くんが青葉にとても優しくしてくれていたことを知った。それから相沢くんがわたしの仕事を知り、一緒に過ごす時間が増えていくにつれて、わたしは……相沢くんのことを、もっと知りたいと欲を抱いてしまったわ」
「……由宇ちゃんがわたしにしてきたことは、わたしのためを思ってのことなんでしょ? だからさっきも言ったけど、わたしは怒ってもいないし、怨んでもいない。むしろ、感謝すらしているよ。……だけど」
青葉は急に怒りを露にして、敵対心丸出しで口にした。
「恭ちゃんだけはあげない。恭ちゃんに手を出そうとしたら、許さないから!」
由宇と接触したことで、感情が制御できないときの青葉になってしまったのだろうか。恭矢への異常な執着心、依存心を見せつけられた由宇は、大きな瞳でしっかりと青葉を見ながら、言い聞かせるように告げた。
「……安心して。わたしは決して、相沢くんのことを好きにならないわ」
「その言葉だけは、信じられないよ。恭ちゃんから自分のことを本当に忘れさせたかったのなら、恭ちゃんが由宇ちゃんの仕事を知ったとき、すぐにでも記憶を消しちゃえばよかったのに。恭ちゃんに少しでも長く、自分のことを覚えていてほしかったんだよね? だから恭ちゃんがおかしくなるまで、そばに置いておいたんだよね?」
「……確かに、すぐにでも記憶を消さなかったのは、相沢くんにわたしのことを知っていてほしいと思ったわたしの我儘だった。でも、男のひととして好きというわけじゃない」
「だったら! 由宇ちゃんはどうして、恭ちゃんの唇にキスしたの? 記憶を消すだけだったら、手でも頬でもどこでもよかったでしょ?」
青葉の詰問に対して、由宇はひどく顔を赤らめ、明らかな動揺を見せた。
「青葉、知っていたの……?」
「……知らないよ。わたしだったらそうするから、由宇ちゃんもそうだろうと思っただけ。……でも言いすぎた、ごめんなさい。恭ちゃんを卑怯なやり方で自分のそばに置いていた、わたしが責められることじゃなかった」
青葉が謝ると、二人はしばらく口を開かなかった。恭矢は二人の会話に、どう入っていいのかわからなかった。
自分についての話をしているようだが、女同士の会話は感情的で抽象的、とても難しくて、詳細を把握できるものではなかったからだ。
「そ、それで……青葉はお母さんに会って、何をされたんだ? 覚えている範囲でいいし、言いたくなければ言わなくてもいいから……できる範囲で話してもらってもいいか?」
恭矢が話を戻そうとすると二人も緊張を解いたようで、この場の空気が少しだけ緩和した。
青葉は緑茶を一口飲んで、ゆっくりと話し始めた。
「……公園内で恭ちゃんを待っていたわたしに声をかけて来た女性――お母さんはね、はぐれてしまった子どもを探してるって言ってた。わたしはお母さんの顔を知らなかったから、綺麗な奥さんだな、としか思わなかった。それで、お母さんが子どもの写真を見せてくれたんだけど……写っていたのは、スーパーで買い物をしているわたしの姿だった」
青葉の手は、小さく震えていた。
「愕然とするわたしに、お母さんは笑いながらわたしのこめかみを押さえつけて、わたしの額に唇を触れさせた。すぐにわたしは意識を失って、目を覚ましたときにはもうお母さんの姿はなかったけれど……たったそれだけで、わたしは……今まで忘れていた記憶を取り戻していたの」
なんだよ、それ。青葉の話を聞いていたら、腹の中から沸々と怒りが込み上げてきた。
いくら二人の母親だとしても、彼女がとった行動は人として許容できる範囲を十分に超えた、非人道的な行動だ。
「……これから、青葉はどうしたいんだ? 忘れていた記憶を思い出すことを強制されたことに対して、もう一度お母さんに会って、今までの不満を言いたい? 文句を言いたい? 平手打ちをかましてやりたい? 青葉がしたいと思ったことを、俺は全力で協力するつもりだぞ」
怒りは増す一方だが、自分の感情より青葉の感情が優先されなければならないことくらいはわかっている。恭矢が問いかけると、青葉は恭矢の手をより強く握った。
「……わたしより……由宇ちゃんに、聞いてほしいな。わたしは今日まで、由宇ちゃんと恭ちゃんにずっと守られて来たから、平気だよ」
青葉の力のない笑顔を見たとき、抑えこんでいた恭矢の激情はついに振り切れて、防波堤を突破した。
「青葉が平気でも、俺が平気じゃない! ふっざけんな! 勝手に出ていって母親業を放棄したくせに、勝手に青葉に接触しやがって! 青葉は玩具じゃねえんだよ!」
「……わたしが油断していたのも悪いんだよ。知らないひとにあんなに接近されたのに、不審に思わなかったんだもん。普段、家に居過ぎて警戒心が鈍くなっちゃったんだね、きっと」
「俺には訳がわからないほど執着するくせに、どうして自分を守ることに疎いんだよ! そういう問題じゃないだろ!? 他にもなんかされてないよな!? 青葉に何かあったら俺、死ぬほど嫌だからな!」
青葉の体を引き寄せて抱き締めると、彼女の瞳にゆっくりと涙が滲み始めた。そして色素の薄い瞳からぼろぼろと涙を零して、恭矢の胸にしがみついた。
「……怖いよ……本当は怖かったよ……今だって、どうしたらいいのかわかんないよ! う、うわあああああ!」
堰を切ったように泣く青葉を胸に抱くと、由宇は何も言わずに恭矢たちの姿を目に焼き付けるように見ていた。
青葉の泣き声が落ち着いてきた頃、恭矢は切り出した。
「……と、いうわけで。俺は二人の母親とちょっと話がしたいと思っている。小泉、母親がどこにいるのか、教えてもらえるか?」
「……会ってどうするつもりなの? 説教でもするつもり?」
「母親業を放棄したことと、急に青葉に接触したことに文句言って、言い分を聞く。話をしてみようと思うんだ。どうしようもない理由でやったことでも、これから改心してくれれば何よりだし、変わらないのなら……もう二度と二人に近づくなって言うつもりだ」
「……世間知らずな子どもの台詞だね。どうしようもない理由しかないと思うし、改心するなんて考えられない。第一、相沢くんが話をできるような環境にいるひとじゃないわよ」
手厳しい言葉だが由宇は恭矢を馬鹿にしているのではなく、あくまで今まで母親と接してきて感じた自分の意見を述べただけなのだろう。
「やってみなくちゃわからないだろ」
「無駄だと思う」
「無駄になるかどうかは俺が決める。頼む、教えてくれ」
恭矢が絶対に引かないことを悟ったのか、由宇は少しだけ逡巡した後、溜息を吐いて立ち上がった。
「……お代わりはコーヒーでいいのよね?」
由宇が折れてくれた理由はわからないけれど、第三者の介入で母親が変わることを彼女自身も少しだけ期待しているからだと予想した。
「相沢くんや青葉みたいな、真面目な若者に話すのも気が引けるんだけど……世の中には昔から、裏の世界というものが存在しているの。まあ正直、表と裏は手を組んでいるんだけどね。……今は裏の世界の話だけしていくわ」
自分だってまだ高校生のくせに、由宇はまるでマフィアの大物のような口振りで語り出した。
「母が興した会社〈レミリア〉はね、表の世界では美学とされていることへの反乱をモットーに、大きくなっていった会社なの」
「ちょっと難しい……由宇ちゃん、どういうこと?」
泣きはらした瞳を充血させながら、青葉が問いかけた。
青葉はあくまで、忘れていた記憶を思い出しただけであって、元々知らない話は今でもわからないのだと言っていた。
「辛い思いをしているひとに対して、『これを乗り越えれば必ず成長できるから頑張れ!』って応援するのが、表の世界の常識。相沢くんも、新谷くんにそう言ったでしょ? それを『辛かったね。だったら忘れて楽になろうよ』って声をかけるのが、裏の世界で母がやっていることなの」
「具体的には小泉がやっているように、『ひとの記憶を奪う』ってこと?」
「そう。基本的に、人間って脆くて弱いの。だから、そこを突いた〈レミリア〉はすぐに裏社会で有名になって、世界中に多くの顧客を持つ大企業に成長したわ。わたしはこの仕事を始めたときから、月に一度、母と〈レミリア〉で打ち合わせをしているわ。仕事の話しかしていないけれど、一高校生にしか過ぎないわたしでもわかる。あのひとは……普通じゃない。だからできれば、これからも青葉と接触してほしくないと思っている。それだけは忘れないで」
由宇はローテーブルの棚からメモ用紙を取り出し、ボールペンを走らせた。走り書きでも、日誌や黒板で見る手本のような字の美しさは顕在していた。
「目的を違えないでね。相沢くんに母の居場所を教えるのは、相沢くんが母に説教したいって欲望を叶えさせるためでもない。今後、あのひとと青葉を接触させない確率を、少しでも上げたいだけだから」
恭矢は深く頷いた。
「はい、これがわたしが使用しているIDカード。カードがないと入れない社長室はビルの八階にあって、母は大体十九時から朝の五時までそこにいるわ。依頼主が来るのはイレギュラーがない限り二十二時過ぎだから、その時間までに行くのがいいかも」
由宇から渡されたメモ用紙には、〈レミリア〉の住所と母親の名前が書いてあった。恭矢はメモ用紙は受け取ったものの、IDカードは由宇に返した。
「教えてくれてありがとう。でも、IDカードはいらない。俺が我儘言って勝手するだけだからさ、なるべく小泉には甘えたくないんだ。それに、下手にカードを使って小泉に足がついたら困るだろ?」
「……相沢くんがわたしの同級生だって知られた時点で、真っ先にわたしに疑いはかかるだろうけどね……でもわかった。頑張ってね、相沢くん」
IDカードを仕舞った由宇を見て、青葉だけが戸惑っていた。
「え、いいの? 恭ちゃんはそれで大丈夫なの? 裏の世界の会社なんでしょ? 危ないんじゃ……?」
「いいの。青葉には無理してほしくないけれど、相沢くんは自分から首を突っ込みたいって言ったんだから。無理してでも頑張ってもらう」
「由宇ちゃん、それは恭ちゃんに対してちょっと……酷いんじゃないかな?」
由宇を嗜めようとする青葉に、恭矢は笑った。
「……あのな、小泉は青葉のことが、可愛くてしょうがないんだよ。超シスコンなの、シスコン。だから青葉のためなら俺が多少どうにかなっても、自分が被害を受けても平気ってこと。俺もその考えには賛同しているから、全然気にしてないって」
青葉は驚いたように由宇の顔を見たけれど、どうして今まで気がつかなかったのか恭矢には不思議でならなかった。
青葉には普通の生活を送ってほしい。青葉には幸せになってほしい。
由宇はいつだって、それだけは一貫してきたというのに。
「……もう、今頃気づいたの?」
由宇もまた青葉の反応に驚き、照れたように笑った。
青葉と由宇の母親である舘美緒子が社長を務める会社〈レミリア〉は、この地域の中心部にある八階建てのビルだった。表向きは対企業へのコンサルタント業を営む中小企業として経営している会社が、実は人間の記憶を自在に操ることで収入を得ているトンデモ企業だなんて、普通なら夢にも思うまい。
自転車から降りた恭矢はビルを見上げ、正体を隠すことと頭を守ることを目的として家から拝借してきた、修矢のバイクのヘルメットを被った。そして軽くストレッチをして、勢いよく〈レミリア〉に向かって駆け出した。
だが、出陣した恭矢はすぐに後悔することになった。ヘルメットを被った恭矢を見て、警備員がぎょっとした顔で捕まえようとしてきたからだ。当然だ。
もっと上手いやり方があっただろうに、どうしてわざわざ警戒させる格好で正面突破しようとしたのかと自分に呆れる。頭に血が昇っていてまったく冷静でなかったことを思い知ったが、遅すぎた。こうなったらもう、突っ走るしかない。
制止するよう警告された声を無視して、ビル内を走り曲がり角に姿を隠した。そして追いかけてきた警備員が角を曲がった瞬間、彼に頭突きをかました。
ヘルメットを被ったまま力いっぱい放った一撃は、警備員をしばらく戦闘不能にさせた。倒れた警備員をこっそりとトイレに運び込み、彼の胸ポケットに入っていたIDカードを抜き取った。
人目を盗んで事務室に潜り込んだ恭矢は、社内全部のブレーカーを落とした。すぐに予備電源に切り替わったが、暗闇を生んだそのわずかな時間は、十分な効果を発揮する。
「どうした、何があった?」
すぐに誰かが事務室に入って来た。そうだ、混乱しろ。たった五分でいい。少しだけ社内を慌ただしくさせることができれば、社長室に行くことが容易になる。
身を隠しながら非常階段を昇って社長室を目指したが、目的地が近づくにつれ、恭矢は上手く行きすぎている現実に不安を覚えはじめた。
ちっとも冷静ではない頭で考えたこの計画。進入時点から早速後悔で始まったくせに、社内に入ってからは不自然なほどに警備が甘く、スムーズに事が進んでいる。警備員をトイレに運んでいるときも、階段を昇ったときもそうだったが、いくら人目を避けていたとはいえ、誰にも会わないのはおかしいだろう。
裏稼業だからこそ、侵入者に警戒するものではないのか? こんな緩い警備で大丈夫なのか?
不安を抱えながら社長室の前に到着したとき、やっと馬鹿な恭矢でも気がついた。美緒子は恭矢が来ているのをわかっていて、わざと招き入れているのだと。
カードリーダーにIDカードを通すと、電子音の後、ランプが緑色に変わった。恭矢はヘルメットを脱ぎ捨て、重圧感のある扉を開いた。
足を踏み入れ、室内を見渡してみる。想像していたよりは狭い部屋だと思った。白い壁で囲まれた室内の社長机の背後には、大きな窓があって開放感がある。床には暖色系の絨毯が敷いてあり、由宇のいる雑貨屋の二階と同様、白いソファーが置いてあった。
「……表向きはコンサルタントの会社だからですか? 想像していたよりずっと、一般的な社長室ですね」
恭矢は穏やかに、あくまで好青年を気取って声をかけた。
社長椅子に座る美緒子――由宇と青葉の母親は、年齢を感じさせない若さと人目を惹く美しい容姿が特徴的で、娘は二人とも母親似だと思った。
「それも理由の一つだけどね。精錬された美しさをもつ直線的で金属的な部屋よりも、こういう一般家庭のように安らぎを重視した温かい雰囲気を持たせた方が、人間はリラックスできるものなんだよ。リラックスできるということは、私の仕事ではとても重要なことなんだ」
美緒子の堂々とした雰囲気からは、成功者の自信が透けて見えていた。
「初めまして。俺は相沢恭矢といいます。今日は舘さんとお話をさせていただきたくて、お忙しいところ恐縮ですが伺いました」
「知っているよ。あと、美緒子でいいよ。苗字は好まないんだ」
「では、美緒子さんとお呼びします。……あの、知っているというのは、俺の素性はある程度ご存じということでしょうか?」
「ある程度がどの程度なのかは、個人によって定義が異なると思うけどね。私が知っているのは、君は綾瀬青葉の幼馴染で、小泉由宇の同級生であるということ。彼女たちの持つ記憶に関する能力を知っているし、能力を使われて記憶を消されたことも、再生されたこともあるということ。……そして、由宇を裏社会で働かせているだけではなく、突然青葉にまで接触した二人の母である私に腹を立て、ここまで乗り込んで来たということ。それくらいかな?」
部屋の中に緊張が走った。美緒子の威嚇に、恭矢が無意識のうちに構えてしまったからだ。
「改めましてようこそ、騎士気取りの青二才くん。私も君と話がしたかったんだよ」
美緒子は由宇を想像させる穏やかな話し方から一転、殺伐としたオーラを纏って恭矢に襲い掛かってきた。美緒子を『普通じゃない』と表現した由宇の言葉が思い出される。
恭矢は彼女の、人間を飲み込まんばかりの深い瞳の色を睨みつけ、息を吸った。
「……あなたがやってきたことを、全部俺に話せ。どうして二人を捨てた? どうして小泉を裏の世界に引き込んだ? どうして……今更青葉に接触した? 返答次第では、小泉があなたを許そうとも、青葉が泣き寝入りしようとも、二人にこれ以上関わることは俺が絶対に許さない」
「それで? それだけかい?」
「俺にできることなんて、これくらいしかないからな。だけど俺はたぶん、あなたが想像しているよりはしつこいと思うぞ」
美緒子は嘲笑した。動物同士の喧嘩のように、あるいは品定めしているように、彼女は決して恭矢から目を逸らさなかった。
「面白そうだから話そうか。一言で言えばね、男は不甲斐なかったんだよ。私の持つ〈記憶の強奪〉と〈記憶の再生〉の能力を引き継いだ才能を持った子どもは、由宇と青葉だけだったのさ」
「……どういうことだ?」
「私は由宇と青葉を含め、四人の子どもを産んでいる。由宇と青葉以外の二人は男だ。だが残念なことに、私の能力は男には引き継げなかったのさ。由宇が強奪能力だけを、青葉が再生能力だけを引き継いだのは、興味深い結果だった。兄弟の多い君なら理解できるだろう? 同じ親から生まれているのに性格が全く異なるなんてことは、身をもって知っているはずだ」