「そのひとは忘れることを嫌がっていた。それでもわたしは、自分の都合でそのひとにとって大切なことを忘れさせたの。そのひとが覚えているはずがないけれど、わたしは一生怨まれても文句の言えないことをしたの」
「……だからその分、誰かの辛い想いを引き受けようとしているの? 自分に罰を与えたくて?」
彼女は目を丸くした。
「……すごいね、相沢くん。だからわたしは、記憶を奪ったひとたちからお金を貰ったことはないわ」
「そうなんだ……仕事って言うから、てっきりお金が発生しているものだと思ってた」
「わたしが仕事をしているのは、あくまで贖罪のためだから。……でも、依頼主に〈記憶の墓場〉を紹介しているわたしの母は貰っているみたい」
「は……? 母親が娘を商売に使っているってことか!?」
「母も記憶に関する能力を持っているから、仕事を分担しているといった方が正しいかな。……母親といっても一緒に暮らしているわけじゃないし、仕事上の付き合いしかしていない分、母親のあるべき姿とか期待していないから。怒りとか失望とかないし、平気」
由宇と母親との関係は恭矢にとって理解できるものではないし、彼女の家庭環境もまるでわからないが、小泉由宇の献身的な仕事ぶりの理由だけはわかった。
だが、彼女のやっていることは全部『そのひと』への贖罪の気持ちからきているのだと思うと、どこかやりきれない思いが胸の中に残った。
「……小泉の能力って生まれつきなの? もし俺にも使える可能性があるなら、小泉の力になりたいって思うんだ」
「わたしや母以外にもこういう能力を持っているひとはいるけれど……ある理由があって、相沢くんには使えないわ」
「……遺伝ってこと?」
「遺伝はあくまで原因の一つであって、すべてではないわ。……わたしも、詳しくは知らないけれど」
由宇が目を逸らして言葉を濁したため、あまり踏み込んでいいことではないと察した恭矢は、閉口した。
「……『そのひと』に対してしたことが許されるとは思っていないけれど、楽しい思いをしているよりは許されている気がするから。……結局、わたしは自分のことしか考えてないの。幻滅したでしょ?」
「……俺はいつだって小泉の味方でありたいって思っているけど、都合のいい男じゃないよ。小泉が自分を追い詰めることで楽になりたいって考えなら『逃げるな』って怒るし、『そんなことないよ』って慰めてほしいのなら『甘えるな』って言うよ」
由宇は少しの沈黙の後、ゆっくりと瞬きをしてから呟いた。
「……相沢くん、ありがとう」
由宇はそれ以上何も言わずに再び歩き出し、恭矢は自転車を押しながら彼女の横を歩いた。それからはいつものようにたわいのない話をして、雑貨屋まで由宇を送り届けてから帰途についた。
家に帰るといつも騒がしい家族がいて自分の時間がない恭矢にとって、一人の時間は自転車を漕いでいるときしかない。
だが、この僅かな時間で確信したことがある。
小泉由宇には絶対に幸せになってほしい。そのために自分にできることがあれば、なんでもしてあげたい。可能なことなら一人の男として、彼女のそばにいられる権利がほしいと思った。
本格的な梅雨に突入した。雨の日は自転車に乗るのが面倒だし、買い物客も減るからエイルの店長の機嫌も悪い。学校でも期末テスト前で鬱屈した雰囲気が漂っていて、どこもかしこもどんよりしている、そんなある日のことだった。
恭矢がバイトから帰ると、姉の桂の車があった。珍しく帰って来ているのだと思い玄関を開けると、兄の修矢の靴まであった。
今日って何かあっただろうか? 小首を傾げつつ、恭矢は居間に顔を出した。
「桂姉、修兄、久しぶり。二人してこっちに来るなんて珍しいね」
「遅かったな恭矢。お前に用があって顔を出したんだ。早く手を洗って来い」
父親のいない相沢家において、長男である修矢の言葉は絶対という暗黙のルールがあった。いつだって上から目線で強引な物言いをする修矢と恭矢は喧嘩も絶えなかったが、小さい頃から面倒を見てくれた二人の姉兄は恭矢にとって頭が上がらない存在であることも事実だ。
そんな二人が怖い顔をして恭矢を待ち構えているということは、どうやら一波乱ありそうだ。手を洗い終え気持ちを引き締めて居間に戻ると、桂が茶碗に白米を盛り、暖めたおかずをテーブルの上に置いてくれた。
そういえば、今日は青葉がいない。二人が青葉に帰るように言ったのだろうか。それとも、青葉が久々に帰って来た二人に気を遣って帰ったのだろうか。
疑問に思ったが、二人の話が終わってから聞いてみようと恭矢は先に夕食に手を付け始めた。
「……おい恭矢。お前、青葉に飯を作らせるのが当たり前だと思ってるんじゃねえだろうな?」
結果、それが修矢の怒りの引き金を引く結果となってしまった。恭矢は咀嚼していた野菜炒めと白米を飲み込んでから、明らかに怒っている修矢に反論した。
「思っているわけないだろ。勝手な決めつけで話すのはやめてくれよ」
「だったらなんで、青葉がうちの家事をやっているんだ? お前たちの飯を作って、龍矢の面倒を見て、玲や桜の世話もしてるんだってな? まるで家政婦みたいに」
「青葉がそう言ったのかよ」
「青葉がそんなこと言うわけがないだろう。久々に帰った実家で目まぐるしく働いている女の子がいれば、そりゃあいろいろ聞き出すさ。……で? お前と青葉はいつから付き合っていたんだ? いくら彼女といっても押しつけすぎだろう。今後の在り方を話し合うぞ」
「いや、俺と青葉は付き合ってないよ。だけど、青葉に押しつけすぎているってことには、返す言葉もない」
「……どういうことだ? お前はただの幼馴染にすぎない青葉を、こき使っているのか? ……まさかお前、青葉がいるのに他の女とチャラチャラ遊んでいたりしていないだろうな? いつも夜遅くまでバイトしているっていうのも、嘘なんじゃないのか?」
瞬時に全身の血液が沸騰した。
「遊んでねえよふざけんな! 俺はいつだって家族のために働いてるんだよ! それに俺には好きな子がいる! その子と仲良くなりたいと思って、何が悪いんだよ!」
そう口にした瞬間、桂が鋭い視線で恭矢を射抜いた。
「青葉は?」
「え?」
「青葉は恭矢にとって、なんなの?」
「何って……大事な幼馴染だよ」
桂の表情が呆れ返ったものに変わった。修矢は今にも恭矢に殴りかかる勢いでテーブルを叩いた。
「じゃあお前は、ただの幼馴染に俺たち家族の面倒を見させているってことか!? そんな阿呆な話があるか!」
「知らねえよ! 青葉が勝手に俺のそばにいるんだ! 頼んだわけじゃない!」
最低なことを口にしたのだとわかったが、瞬時に反省してももう遅い。修矢が拳を振り上げ殴られると確信したとき、桂が恭矢の胸倉を掴み、低い声で告げた。
「……青葉を、あんたにとって都合のいい女にするんじゃないわよ」
頭に響く至極真っ当な言葉に、何も言えなかった。
「――はい、そこまでにしてちょうだい」
恭矢の胸倉を掴む桂の手が緩んだ。声のした方へ振り向くと、仕事帰りの母と、目を真っ赤にしている青葉の姿があった。
――どこから聞いていた? 恭矢は心臓を鷲掴みにされたような罪悪感で、青葉の顔を見ることが出来なかった。
「あんまり恭矢を責めないで。青ちゃんに甘えた生活をしている現状は、お母さんが一番悪いんだから」
「でも母さん、こいつは!」
「修矢。お願いよ」
母に諭され、修矢は黙った。桂は恭矢から手を離し、母と青葉に座るように促してから飲み物を用意し始めた。
仕切り直しの空気の中で、何を言っていいのかわからない恭矢と、機嫌の悪そうな修矢、顔を上げようとしない青葉が言葉を発することはなかった。
そんな三人の顔を見ながら、母は穏やかに語り出した。
「兄ちゃんたちはああ言うけどね、お母さんは恭矢に好きな子が出来て、その子を幸せにしたいって考えられるなら、立派な男の子になったもんだなあって思えて嬉しいよ。そりゃあね、お母さんたちは青ちゃんが大好きだから、あんたが選ぶ女の子が青ちゃんであればいいなとは思うけど……そう思える相手が青ちゃんじゃないなら、ケジメをつけなさい。修矢も落ち着いて。長男のあんたが家族のことに口を出したいのはわかるけど、ちょっと言いすぎだよ。あんたの知らないところで色んなことがあるんだから」
母は恭矢の方を見て、隣で放心している青葉の肩を優しく叩いた。
「さ、恭矢。青ちゃんを家まで送って行ってあげて。青ちゃんは修矢たちが怖い顔をして自分を追い返したから、恭矢が何か言われるんじゃないかって心配で、母さんを呼んできてくれたのよ? ちゃんとお礼言っておきなさい」
「……うん。青葉、送って行くよ」
恭矢は立ち上がって青葉の手を握った。修矢と桂が青葉を気遣う言葉を口にしていたけれど、彼女の耳には届いていないようだった。それでも恭矢が手を握ると青葉は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
恭矢は無言のまま青葉を部屋まで連れて行った。真っ暗な部屋の電気を点けて、青葉の匂いがするベッドに彼女を座らせた。青葉は四肢に力が入らないのか、まるで人形のように恭矢にされるがままであった。
青葉がこんな風になってしまったあの日のことを、恭矢ははっきりと覚えている。
昨年の冬、青葉が恭矢に抱きついて朝まで離れない夜があった。何があったのかを聞いても決して口にしなかったけれど、その日から青葉は外に出ることをやめ、生きる理由を恭矢に求め始めた。
当時の恭矢は、青葉が元気でいてくれるならば、彼女の望むままの存在であろうとした。
青葉が家事をやってくれれば褒め、青葉が笑えば笑い、青葉が抱きついてきたら抱き締め返した。
「……青葉。俺たちがこのままじゃいけないってことは、わかってるよな?」
青葉は恭矢がいなければ生きていけない。青葉にとって、恭矢が人生のすべてだからだ。
だけどこのままではいけないということは、お互いにわかっている。恭矢ができるだけ優しく青葉の髪の毛を撫でると、彼女は静かに頷いた。
「少しだけ、一緒にいる時間を減らそう。少しでも離れないと、何も変わらないよ」
「……恭ちゃんの好きなひとって、誰? 同じ学校のひと? バイト先のひと? 何歳なの? 可愛い? どれくらい好き?」
「……可愛いよ。もっと彼女のことを知りたいって思うくらい、なんでもない時間に彼女のことを考えてしまうくらい、好きだ」
もう何を話しても傷つけるなら、正直な気持ちを真正面から青葉に伝えようと思った。
「そっか。それならしょうがないよね。どんなひとなのかあとで紹介してね。わたし、恭ちゃんとその子が上手くいくように、ちゃんと……」
笑顔を作ろうと試みていた青葉の言葉が詰まり、恭矢は彼女の感情が振り切れる瞬間に怯えた。悲しみの中で青葉が不自然なほど明るく振舞おうと試みたとき、反動で後から感情を爆発させることを知っているからだ。
「……いや! 駄目なの! 恭ちゃんの隣に、わたし以外の女の子がいるなんて嫌なの! お願い恭ちゃん、わたしから離れないで! 離れないでよお!」
青葉は喚き、顔をくしゃくしゃにして泣いた。子どものように泣きじゃくる青葉を抱き締めると、彼女は素直に恭矢の胸にしがみついた。
普段はしっかりしている青葉だが、この状態になると龍矢よりも幼い子どもなのだ。過去に何度か経験したが、この青葉を慰める方法は抱いて、泣きやむまで待つしかない。
「ごめんね、わたしもっと強くなるから……。恭ちゃんに好きな子がいても笑顔になれるようにがんばるから、ごめんね……!」
青葉を言い訳にはしたくない。だけど、こんな姿を見せられたら身動きが取れない。
青葉は恭矢にすべてを委ね、恭矢は青葉にすべてを託している。こんな共依存のままではお互い幸せになれない。彼女のことを家族として、愛おしく思っているがゆえに何もできないのだ。
その夜、青葉は恭矢から離れようとせず、恭矢もまた彼女を一人にしてはおけなかった。
月明かりの入る青葉の部屋で、彼女の呼吸を聞きながら、恭矢はある決意を固めた。
由宇への恋心を忘れ、これからは青葉を大事にしていこう。
由宇には男としてではなく、友人としてできる限りのことをしていこうという決意を。
恭矢は小泉由宇を友人の範囲内で、可能な限り幸せにしたいと思った。具体的には、ひとの悲しい記憶ばかりを請け負って涙を流すことの多い彼女に、楽しい気持ちになってほしいという考えだ。
いつものようにバイト帰りに雑貨屋に寄ると、仕事を終えていた彼女は目を赤くしてソファーでコーヒーを飲んでいた。
「相沢くんも、飲む?」
「いや、大丈夫。それより今日は、小泉に受け取ってほしいものがあってさ……はい、これ」
由宇の笑顔が見られることを期待して、恭矢が鞄から取り出したのは映画の半券だった。以前に友達と一緒に観に行った際、記念にとっておいたものだ。
「この映画、すっげー面白かったんだ。だからさ小泉、俺の記憶から楽しい思い出を持っていってよ」
半券を不思議そうに眺めていた由宇は趣旨を理解したのか、途端に困惑した表情になった。
「で、でも……これじゃ……」
「ただで映画見た気分で罪悪感があって嫌? じゃあこのTシャツはどう? シチローのサイン入りの激レアものなんだぜ!」
「……気持ちは嬉しいけれど、相沢くんが持っている楽しかったり嬉しかったりした記憶をわたしが貰ってしまったら、相沢くんの中からその記憶はなくなってしまうのよ? そんなの……」
「だからこそ、小泉に貰ってほしいんだよ。俺、小泉にはもっと楽しい思いや嬉しい思いをしてほしいんだ」
由宇はしばらく考えこんでいたが、
「……ありがとう。わたし、相沢くんの記憶をいただきたいと思います」
顔を上げたときには微笑んでくれて、恭矢は早速嬉しくなった。記憶を奪うために優しく半券に口付けた由宇の唇の中心から光が放たれると、恭矢は意識が奪われていく感覚を覚えた。忘れてしまう前に、映画の内容を記憶から掘り起こして脳内で反芻していたのにもかかわらず、目を覚ましたときにはなぜ由宇が映画の半券を手にしているのかさえわかっていなかった。
「あれ? それって映画の半券?」
「……相沢くんから貰った記憶から見た映画は、本当に感動的な物語だったわ。でも、やっぱり忘れちゃうよね。ごめんなさい」
由宇は困ったように笑った。彼女が半券と一緒に手にしているシチローのサイン入りTシャツを見て、恭矢はやっと彼女に『記憶をあげた』ことを思い出した。
「あー! そっか、俺! うわー、ごめん! 全然気にしてないから! 映画面白かっただろ? 俺の人生ベスト3に入る映画だからさ!」
由宇に気を遣わせないよう明るく振舞うと、彼女は安心した顔つきになった。
「うん。特にクライマックスにかけてのシーンでは、相沢くんが主人公に感情移入している様子がよく伝わってきたわ」
「そうだろ? 俺もレンタルで借りてもう一度見るわ!」
もうその映画の内容を全く覚えていなかった恭矢は、由宇の能力の凄さを実感すると同時に、恐ろしさも感じていた。
「よし、じゃあTシャツの方もやっちゃって! 小泉には幸せになってほしいからさ!」
由宇は恭矢の顔色を窺いながらも、礼を述べてTシャツに優しく口付けた。
その後、また同じようなやり取りをしたことは言うまでもない。
恭矢は毎日、バイト帰りに雑貨屋に寄って、楽しかった思い出や感動した思い出を由宇にあげていく日々を送っていった。
龍矢が初めて立ったときの感動をあげた。
兄弟皆で祖母の家に遊びに行ったとき、山菜を採ったりスイカの種の飛ばしっこをしたりして、田舎を満喫した思い出をあげた。
中学生の頃、友人が好きだった子への告白に成功したとき、皆で海に飛び込んではしゃいだ思い出をあげた。
バイトを始めたばかりで失敗が続いて落ち込んでいたとき、店長に食べ放題の店に連れて行って貰って、たくさん食べながらいろいろ語り合った思い出をあげた。
思い出をあげることを、恭矢は惜しいとは思わなかった。
あげられる思い出があるということは、自分が思っていたより幸せな人生を送っていたという証明のようにも思えた。
何より、由宇が笑ってくれることが嬉しかった。
そんな生活が一ヶ月ほど続き、季節は夏休み目前となっていた。暑さが一段と増していった季節だったため暑さのせいだと思い込んでいたが、恭矢はこの頃、少しだけ笑顔が作りにくくなっていた。
「相沢は大学に行くつもりはあるのか?」
窓を開けた生徒指導室には、昼休みを満喫している生徒たちの騒がしい声が入ってくる。進路希望調査を参考にして行なわれる担任との二者面談は、生ぬるい炭酸のような雰囲気の中で始まった。
「ないっすねー。大学行くにも金がないので」
姉も兄も高校卒業後はすぐに就職している。毎日働いて家にお金を入れてくれる二人に家族皆が感謝しているし、自分もそうしなければならないと思ってきた。
「そうか、勿体ないな、お前がちゃんと勉強に専念できる環境だったら、ある程度の大学には入れたと思うけどな」
「お、先生俺のこと褒めてくれてるんですか? 照れるなー!」
ふざけた恭矢に、担任は溜息を吐いた。
「……大学に行って、やりたいことはないのか? もしお前が大学に行きたいと言うなら、俺もできる限りご家庭の負担にならない道を提案する。お母さんへの説得にも協力する」
「んー、やりたいことは特にないし、大学はいいっすよ。それより一円でも多く稼がないと! 先生、こんな苦学生である俺にお恵みとかくれたりしません?」
恭矢は大袈裟に明るい笑顔を貼り付かせたまま、手のひらを上にして担任の前に手を差し出した。
「アホウ、俺だって安月給だ。とにかく、お母さんとも話し合ってみろ。先に進めば進むほど選択肢は限られて来るからな。お前の歳ならもっと我儘を言っていいんだ」
「しつこいっすよ先生。じゃあ、母さんと話して大学行かせてくれるって話になったら、また相談します」
「おう、そうしろ。報告を待っているからな」
「はい、それじゃあ失礼します」
生徒指導室を出た恭矢は静かに溜息を吐いた。担任が話した内容を母に言うつもりはさらさらない。言えるはずがない。
誰にも話したことはないが、本心を言えば、恭矢は母と同じように学校の先生になりたいと思っていた。教員免許を取るために大学に行きたいと考えたこともあるが、それは口にしてはいけない我儘だとわかっていた。
どうせ大学に通う金は家にない。留年しない程度に適度に勉強に励んで、金を稼ぐのが恭矢の高校生活だ。逆に、大した学力もないくせに、金さえ積めば入れるような大学に入って四年間楽しく過ごす奴が世の中にはたくさんいるのだろう。
真面目にやっている俺って馬鹿みたいだなと思った後、恭矢は自分の性格の悪さに愕然とした。必死にかぶりを振り、今の気持ちを忘れようと努めた。
だが、恭矢の僻んだ心は悪化の一途を辿っていた。
エイルでバイトをしているときも、些細なことに苛々した。会計を告げてから財布を取り出す客に、自分で商品を探そうともせずすぐに聞いてくる客。普段なら笑顔で対応できることでも、いちいち心がささくれた。そんな恭矢を店長が叱らない理由などなく、恭矢はバックヤードに呼び出された。
「どうした恭矢、最近、お前変だぞ。体調でも悪いか?」
「……別に、なんでもないです」
店長は俺の何を知っているというのか。たかが一年程度の付き合いで保護者面するのはやめてほしい。恭矢の胸中は態度から伝わってしまったようで、店長は溜息を吐いて恭矢にタイムカードを手渡した。
「今日はもう帰れ。次の出勤は明後日だよな? それまでにモチベーションを戻せ。戻らなかったらしばらく休ませるから連絡しろ」
店長の有無を言わさない強制帰還命令に、従うほかなかった。
毎日行くのが当たり前のようになっている雑貨屋に向かって自転車を漕ぎながら、自身の行動の必要性に疑問を感じた。
恭矢は由宇のことを友人として幸せにしたいと思い、由宇の喜ぶ顔が見たくて楽しかった記憶を差し出している。これは自分の意思に違いないはずなのに、どうして――面倒だと思ってしまったのだろう。
しっかりしろ。俺が笑っていないと小泉も笑わない。そう自分に言い聞かせて、恭矢は深呼吸をしてから扉をノックした。
「小泉、お疲れ。今日はどうだった?」
「相沢くんも、お疲れさま。今日は……あ、ごめんね、座って」
由宇は目尻を拭いながら立ち上がり、コーヒーを淹れる準備を始めた。恭矢は定位置となっているソファーに腰掛け、適当に返事をしながら彼女の様子をぼんやりと眺めていた。
目の前に置かれたカップを手に取り、熱い液体を一口飲んだ。相変わらず苦くて、美味しいとは思えない。
「……実はさ、俺コーヒー苦手なんだ」
どうしてそんなことを言ってしまったのだろう。由宇に、自分の隠れた努力を知ってほしかったからだろうか。
「……そうだったの? 相沢くん何も言わずに飲んでいたから、てっきり……気がつかなくてごめんなさい」
由宇は申し訳なさそうに謝った。
「少しでも小泉によく思われたくて、格好つけて見栄張ってたんだよ」
恭矢が由宇を見つめると、彼女の白い頬はほんのりと朱色に染まった。
「……からかわないで」
「そんな言い方するなよ、冗談でこんなこと言えるわけないだろ? ……俺の記憶を少しずつ自分のものにしている小泉なら、わかってくれると思ってた」
口から滑り落ちた言葉の酷さで我に返った。あまりにも理不尽な皮肉を口にしてしまったのだ。
「こ、小泉ごめん! 俺、ひどいこと言った……!」
「……わたしこそ、ごめん。相沢くんにはたくさん楽しい記憶を貰ったり、仕事のあとそばにいて貰ったりして、ついつい甘えるクセがついちゃったみたいで……ごめんなさい」
「俺が好きでやっていることだから小泉は気にしなくていいんだ! ……でも」
恭矢はカップを置いて立ち上がった。
「……今日は帰るよ。情けないけど、一緒にいたらもっとひどいことを言ってしまう気がするから」
由宇は恭矢を引き止めなかった。
「おかえりー。あれ? いつもより早かったね」
出迎えてくれた青葉に、恭矢は笑顔を向けることができなかった。
「ちょっと、いろいろあって。てか、青葉は俺が早く帰って来るのが嫌なの?」
「そんなことないよ! 嬉しいよ? 先にごはん食べる? お風呂入る?」
青葉にまで突っかかってしまったことを後悔したものの、謝るのも躊躇われてそのままにしてしまった。
「……風呂入る。悪いけど、食欲ないから飯はいらない」
極力青葉と目を合わさないようにして、風呂場に向かった。お湯を溜めてくれたのも、夕食の準備をしてくれたのも青葉だ。それなのに今日はどうしても、献身的な青葉の優しさにさえ素直に礼が言えなかった。
湯船に浸かりながら恭矢は、今まで抱いたこともない気持ちで青葉のことを考えていた。
今日は母が玲と桜、龍矢を祖母の家に連れて行くと聞いている。だから今、この家には青葉しかいない。恭矢が帰って来るのを待って、恭矢のために風呂と夕食の準備をしてくれた、青葉しか。
それなのに恭矢は、風呂から上がったあと青葉と言葉を交わすことを避けて、早々に部屋に引きこもった。一人になりたかったのだ。しかし、
「恭ちゃん、入ってもいい……?」
おそるおそる、弱々しい声色で恭矢の様子を窺う青葉の声が聞こえた。彼女の可愛らしい声にも今は耳を塞ぎたくなった。それからすぐに恭矢の感情は、青葉はどうしてわかってくれないのだという、苛立ちへと変わった。理性でそれらを必死に押し留め、普通に接することができる心境になるのを待ってから「いいよ」と返事をした。
青葉はゆっくりと部屋に入って来て、寝転んでいる恭矢の横で足を崩した。
「今日は龍ちゃんたちがいなくて寂しかったな。恭ちゃんが早めに帰って来てくれてよかった」
「うん」
「おばさんの帰りが早かったから、龍ちゃんを買い物に連れて行ったよ。ほら、イオンで小さい子に風船あげるキャンペーンやっているでしょ?」
「あー……龍矢が集めているやつか」
「龍ちゃん、今日は黄色貰うんだって張り切っていたんだけど、黄色がなくて赤貰って来たんだ。最初は泣いて嫌がったみたいなんだけど、桜ちゃんが『赤が一番格好いいよ』って上手にあやしてくれたんだって。もうすっかりお姉ちゃんだよね」
恭矢は青葉と目を合わせられなかった。やはり今日はどうしても、青葉と会話をすることが辛い。
「……あのさ、俺ちょっと体辛いんだ。一人にしてもらっていいか?」
「え!? 大丈夫? 風邪かな? 恭ちゃんここのところ、忙しそうだったもんね……無理しちゃってたのかな。ちょっと待ってて、体温計持ってくる。だから食欲もなかったのかな? とにかく、布団敷くからすぐ横になって」
しかし青葉は、恭矢を一人にすることを許さなかった。
途方に暮れた恭矢は、自分の世話を焼こうと甲斐甲斐しく動き回る青葉を、この手で傷つけてしまいたいと思った。
「じゃあ熱を測るね。体温計、脇に挟むよ?」
無防備に近くにきた青葉を無言で抱き締めて、押し倒した。青葉の手首は驚くほど細くて、恭矢が掴んだ途端に彼女は自由を絡め取られた。恭矢の下で怯えた顔を見せながらも、青葉は抵抗しなかった。
恭矢はちっとも優しくないキスを青葉の首筋に降らせて、強引に髪を梳いた。聞き慣れた青葉の声の中に、聞いたことがない声が混ざる。甘い匂いの中に漂う確かな色気に、長年見てきた幼馴染がまるで違う女に見えて興奮した。
最低だ。青葉を傷つけるためにやっている行為で、喜んでいることになる。
最悪だ。それなのに、なかなかやめることができない。
「……恭ちゃん……わたしを、抱くの?」
――きっと、青葉は俺を受け入れる。俺がいないと生きていけないからだ。
恭矢がどんなに酷いことをしても、どれだけ自己中心的に振り回しても、たとえその瞬間こそは涙を浮かべても、青葉は翌朝には笑顔で接してくれるだろう。だったら、欲望のままに抱いたっていいじゃないか。
自分に都合のいい言い訳を振りかざしながら、青葉の質問に答えることもなく、ついに恭矢は彼女の唇を奪った。間抜けな話だが、信じられない柔らかさに触れてようやく、恭矢は自分が間違ったことをしていると我に返った。
なんて愚かなことをしてしまったのだろう。唇を離したあと、後悔で動けなくなった。気づくのがあまりにも遅かった。
「どうしたの……? 顔色、すごく悪いよ?」
恭矢を心配する青葉の優しさに、耐えられなかった。
「ごめん……!」
恭矢は青葉から離れ、その後はひたすらに謝罪を繰り返した。
気がつけば青葉はいなくなっていて、恭矢は久しぶりに長い一人の時間を手に入れた。
だがそれは恭矢が思っていたより落ち着くものではなく、先程まで青葉に行なった最低な行為や自分の性格の悪さを振り返る時間となり、苦痛でしかなかった。