3.



 ついさっき教わった靴紐(シューレース)の結び方が、さっそく間違っていると注意された。

 店主に面と向かって咎められた鞘香は、どう返答すべきか判断に困る。

「その結び方は、むしろ足枷なのだ」

 店主は鬼気迫る形相で詰め寄ったからたまらない。

 鞘香は威圧感に気圧(けお)されて、通路の壁際で背中をぶつけた。ひんやりと冷たい。百メートル走の本番はもうすぐなのに、ウォーミングアップもままならない。

 しかし、店主が鞘香に嘘をつくとも思えない。あり得るとしたら、結び方を教えた足高が彼女を騙したという可能性だ。

「足高さんが助言の振りをして、私を陥れようと画策したんですか!」

「ご名答。加えて言うなら、足高の接触も十中八九、八兵の入れ知恵(・・・・・・・)に違いない」

 店主は決然とした口調で断定した。

 鞘香が暗澹と落ち込んだのは言うまでもない。顧問教師への失望は底を抜けた。どこまでも最悪な、嫉妬に狂ったモンスターであると決定付けられたのだ。

「店主さん、詳しく教えて下さい! 説明してもらわないと、私も納得できません!」

「もちろん語って聞かせよう。今、君が結んでいるのは『アンダーアラップ』だろう?」

 鞘香のランニングシューズは、靴紐を下から通して上に出しており、綺麗に蝶々結びされている。

 足高が言うには、こうすれば履いているうちに靴紐の締まりが徐々に馴染んで来るらしいのだが――。

「アンダーラップは長距離ランナー用の結び(・・・・・・・・・・・)()なのだ!」

「えっ!」

「されど、君は百メートル走の短距離(・・・)ランナーだ。性質が全くの正反対ではないか!」

「どうして――」

「短距離はすぐ走り終える。ゆえに最初からきつく縛った『オーバーラップ・シューレーシング』を結ぶべきなのだ! 翻ってアンダーラップは、最初のうちは締まりがゆるく、徐々にきつくなって足に馴染む……短距離だと馴染む前に走り終えてしまい無意味だ」

「ああっ! 言われてみればそうですね!」

 短距離走は、ものの十数秒で終わる一瞬の攻防だ。

 そんな短時間で、のんべんだらりと靴紐の締まりを馴染ませる時間などない。アンダーラップは長距離用の結び方なのだ。

「オーバーラップは上から穴を通して下で結ぶ。すなわち足首に近い上部が最初から締まった状態になるため、スタートダッシュから足にフィットした全力疾走が可能となる」

「だから短距離向けなんですね!」

「左様。その代わり履き続けると足首を圧迫するため、長距離には向いていないがな」

「足高さんは、私に嘘を吹き込んだんですね! 徒跣先生に頼まれて――?」

 危うく騙される所だった。

 足高は親しげに振る舞って、罠に嵌めようと企んだ。鞘香のパーソナルスペースが近いことを悪用した策謀だ。卑劣極まりない手口である。

「そう言えば先日、足高さんが偵察に来てたことを、先生は最初から知ってました(・・・・・・・・・・)――」

「二人が結託していた証左だな」スマホの写真をちらつかせる店主。「君が撮影した靴跡の画像は、スリッポンと呼ばれる革靴だ。足高はスリッポンを履いていただろう?」

「当たりです! でもあの靴跡って、女子とは思えないほど大きかったですよ?」

「足高は長身で、足のサイズも男子並みに大きい(・・・・・・・・)人物ではないか?」

 そうだった。つまり足高が部室の外で立ち聞きしていたのだ。偵察のために。

「けど店主さん、部外者は校内に立ち入れないはずですけど――」

「八兵にこっそり招き入れられたのだろう。二人は、憎き鞘香さんを蹴落とすために手を組んだのだ……やはり八兵を信用してはならない!」

 店主はひざまずくと、鞘香の靴紐をほどき始めた。いつも見上げていた偉丈夫が膝を付き、鞘香にうやうやしく(かしず)いているように見えてこそばゆい。鞘香の顔が熱くなった。

 通路を歩く他校の出場選手が、鞘香を振り返っては「何あれ」「男を従えてるの?」などと後ろ指を差している。ますます鞘香は頬を染めた。

「あっあのう、店主さん? 靴紐くらい私が自分で結び直しますよ? だからその、私なんかのために手を(わずら)わせないで下さい!」

「乗りかかった舟だ。八兵の奸計を払拭する意味でも、我輩が直さなければ安心できん」

「う――……」

 鞘香は妙に照れ臭くなった。

 人目に触れたら恥ずかしいというのもあるが、大の男に身支度の世話をさせるなんて、まるでお姫様の主従関係ではないか。

 鞘香の体温がみるみる上昇する。

 心拍数まで上がって来た。

 それは期せずして、ウォーミングアップと同じ様相を呈していた。

(私、店主さんに優しくされると胸がドキドキする。これってやっぱり、踏絵がからかってた通り、恋――?)

「よし、出来たぞ」

 店主が顔を上げた。

 思いがけず目が合って、鞘香は頭が爆発しそうになる。

「あっ、えっと、ありがとうございましたっ!」

 火照(ほて)った顔を背けつつ、鞘香は早口で礼を述べる。

 店主が再び膝を伸ばすと、もはや二度と見下ろせない身長差が立ちはだかった。鞘香は店主の頭身におのぼりさんと化したあと、ハッと我に返って靴紐に視線を落とした。

 オーバーラップ・シューレーシングに訂正されている。

 なるほど、足に吸い付くような密着感があった。足と靴が一体化し、初速から全開で走行できそうだ。

「終始、限界突破(オーバーラップ)で飛ばして行け」うまいことを言う店主。「ほんの十数秒という短い世界に、青春の全てをつぎ込むのが百メートル走だ。絶対に手を抜くなよ。三年間の集大成を、君の兄に届けたまえよ」

「はいっ!」

 鞘香はランニングシューズを一歩、大きく踏み出した。

 軽くて歩きやすい。店主の(ほどこ)しが、こんなにも彼女を支えているなんて思わなかった。

(もともとお兄ちゃんに買ってもらったけど、今は店主さんのために勝ち進みたい!)

 彼女の双肩に背負わされた想いは、二つに増えた。

 靴を買った兄への恩返し。

 靴を直した店主との約束。

 勝って(にしき)を飾らなければ、鞘香の立つ瀬がない。

「あっ、そうだ店主さん!」

 最後に鞘香はくるりと身を翻した。ランニングシューズが床の上でキュッと鳴る。

 見送る店主と目が合った。しばし見つめ合う。絶対にそらさない熱烈な視線だった。

「どうかしたか?」

「店主さん、そろそろ私にも聞かせて下さい! 徒跣先生と店主さんの間に昔あったという三角関係や軋轢の、詳細な経緯を!」

「――――……聞きたいのか?」

 徒跣と店主の過去。

 色恋沙汰で揉めたことは以前に軽く口頭されたものの、あれは飽くまで梗概(こうがい)に過ぎなかった。細かな顛末(てんまつ)を知らなければ理解したことにならない。

 三角関係の真相や、具体的にどんな嫌がらせを受けていたのか。恋の争奪と学生時代の悲喜こもごもを、鞘香はもっと聞きたいと願った。

「二人の因縁に巻き込まれた私も、知る権利があると思うんです!」

「今、それを聞いてどうする? もうじき予選が始まるぞ。余計な雑事に心を乱されるのは良い傾向とは言えないが」

「知らずにモヤモヤしたままの方が、集中して走れないんですってば!」

 鞘香は食い下がった。

 目頭が熱い。体が温まった状態なので、気分も高揚しているのだ。

 誰よりも鞘香の身を案じ続けてくれた、大好きな靴職人をもっと知りたい――。

 それは自然な感情だ。

 特別な恩人と繋がりを求めたい。店主とのパーソナルスペースをゼロにしたいのだ。

「やれやれ。では手短に話そうか」

「やった! 感謝します店主さん!」

 店主としては、こんな場所で立ち話するような内容ではないのだが……とさんざん言い訳めいた前置きを吐いたあとで、ようやく過去の記憶を開陳(かいちん)した。

 店主にも羞恥心があるのか。若干いつもより歯切れの悪い口ぶりで、懸命に喉から声を絞り出した。



   *



 ――我輩と八兵は、高校の陸上部でライバルだった。

 そう驚いた顔をするな。我輩も選手だったのだ。そうでもなければ靴に興味など持たないからな。自ら履きこなし、さらなる高みを目指したくて、靴の製法に関心を抱いた。

 我輩は短距離および中距離走の代表選手だった。八兵も同様だ。複数の種目を掛け持ちすることで、どれか一つは勝ち星を拾おうと努力した――。

 しかし、八兵は我輩を裏切った。

 奴は強欲だった。勝ち星を全て自分のものにしたいと目論(もくろ)んだのだ。貪欲に勝利を求めるハングリー精神は大切だが、いかんせん八兵は、なりふり構わなかった。

 他人を蹴落としてまで勝利しよう(・・・・・・・・・・・・・・・)と算段を練る腹黒さは到底、常人の感覚から逸脱していた。スポーツマンシップからもかけ離れていた。

 欲望に正直すぎたのだ。

 八兵は、我輩のランシューやユニフォームを破損させ、出場できないような惨状を作った。さらには陸上連盟へ教師の振りをして電話し、出場辞退などの工作もしたそうだ。

 それだけではない。部内のタイム測定でも難癖を付け、我輩の自己記録が不正だとでっち上げた。我輩は卑怯者と罵られ、一方的に悪者扱いされた。

 我輩は芽を潰され、陸上部を追われた。

 ――それは同時に、部員たちの羨望の的だった一人の女子マネージャーを八兵が独占することにも繋がった。

 察しの通り『徒跣』の名を持つ令嬢だ。

 大手シューズメーカーの大株主で、元華族の資産家でもある。

 とはいえ令嬢は、何人もの兄姉が居る末娘で、あまり家柄に縛られず、自由に暮らしていた。だからお嬢様高校ではなく、市内の公立校に通学できたのだろう。

 市井(しせい)に暮らす庶民とふれあい、見聞を広げたかったのかも知れない。

 何にせよ、彼女の存在が八兵を狂わせた。

 我輩と八兵のどちらが彼女のお眼鏡に(かな)うのか――という競争がもてはやされたのも、このときだ。


 ――部内最速のスプリンターに、令嬢は大手シューズメーカーのコネを使って、新作シューズの開発モニターに採用したいと言い出したのだ。


 一流企業の最新モデルを試し履きして、その実績が商品開発に反映される。公式大会で名声を得ればメーカーから報奨金がもらえるし、ゆくゆくは企業お抱えの社員選手として登用されることも視野に入る。

 この話に、八兵は飛び付いた。

 何が何でもトップに立つべく、我輩を罠に嵌めて(・・・・・・・・)蹴落とした。

 奴は令嬢の後ろ盾を得てモニターとなり、スポーツ特待生として大学へ進学した。将来はメーカーに雇われる予定もあった。

 ――一方、我輩はアスリートの道を断たれ、以前から関心を抱いていた『靴職人』を目指すことにした。靴の専門学校へ進み、卒業後は海外で修行に明け暮れた。

 ゆえにその期間、八兵が大学でどう過ごしたのかは判らない。ただ、風の噂で伝え聞いた所によれば、八兵と令嬢は将来を誓って学生結婚したらしい。

 何不自由ない資産家だから、学生のうちに結婚しても問題なかったのだろう。

 しかし奴の幸せは、長くは続かなかったようだ。


 ――令嬢が急死した。

 何かの流行り病にかかって、呆気なく早世した。


 八兵は令嬢の口利きでモニターとなっていたが、令嬢が死んだ途端にメーカーとのコネは消え、大卒後の社員選手登用も白紙に戻されたという。

 もともと八兵は卑怯な手を用いて頭角を現わした二流だ。純粋な実力ではメーカーの満足する数値が出せなかったことも災いした。

 ――徒跣家の義父母や義兄姉からも、八兵はお荷物扱いされ、疎まれたらしい。

 徒跣家の籍だけは残してもらえたようだが、八兵は居場所がなくなって家を出た。

 たまたま大学が教育学部だったため、取得した教員免許で高校教師に就職したそうだ。

 しかし高校と言えば、かつて令嬢と出会った青春の舞台でもある。

 八兵は当時の幸せを忘れられず、令嬢の面影を求めて教え子たちに手を出している。

 令嬢に似ている鞘香さんへ劣情を抱くのも、時間の問題だった――。



   *



「我輩は、八兵を恨んでいる。あんな目に遭ったのだから、怨嗟がないとは言えない」

 店主は握り拳を震わせた。

 あの手この手で部活を邪魔され、想い人まで奪われたのだから、当時の憎しみは相当なものだったに違いない。

 これが、店主と八兵の確執なのだ。

「ひどいです! 私は徒跣先生を見損ないました!」

 鞘香が我が事のように悔し涙を流した。

 彼女はパーソナルスペースが近いから、すぐに心へ寄り添って、共感しがちなのだ。

 やはり本番前に聞かせるべきではなかった。こんなことで気持ちを消沈させないで欲しい。店主は大いに後悔した。

「落ち着きたまえよ」

 店主はせいぜいなだめるしかない。傍目には、店主が鞘香を泣かしているような絵面だったので、通路を歩く選手たちに白い目で見られるのが辛かった。

「今の話は我輩の主観も混じっている。だから鵜呑みにせず、自分で判断して欲しい」

「ぐすっ、ひっぐ……私が判断するんですか?」

「そうだ。君はどちらを信じる? 徒跣八兵か、それとも我輩か」

「私は店主さんの味方です! ランシューを修理してくれたときから、ずっと!」

 即答である。彼女が店主に寄せる想いは絶大だった。少なくとも人を騙す徒跣よりは。

「ふむ。それで良いのだな、本当に?」

「はい! 私は店主さんが好き(・・・・・・・)ですから!」

「――――……なに?」

 さんざん踏絵に言われて来た『自覚』を、鞘香はようやく表現できた。

 誰よりも一番パーソナルスペースを接近できる殿方。心を許せる異性。特別な人。

「これが『好き』っていう気持ちなんですね! えへへっ……」

 鞘香は涙を拭い、満面の笑顔を湛えた。

 頬をほころばせた女子高生は無敵である。良い具合に緊張もほぐれた。

 もう少しだ。万全の体調で本番を走るためには、あと一押し、体を温める必要がある。

「店主さん、ちょっとしゃがんでもらえますか?」

「な、なぜだ?」

「いいから、いいから、ほらっ!」

 鞘香は店主の手を掴み、思い切り下へ引っ張った。

 店主は前かがみに体勢を崩されて、鞘香と同じ目線の高さまで引きずり降ろされる。

 ――その仏頂面に、鞘香の口吻(くちびる)が、一瞬だけ接触した。

 パーソナルスペースがゼロになった。究極の接近である。至近距離の真髄だ。

 店主の鉄面皮がみるみる紅潮した。甘酸っぱい汗の匂いが鼻腔をくすぐる。

 鞘香は顔を離し、店主の手も離して、スキップを踏むように通路を出て行った。

「お、おい――」

 店主は何事か言おうとして口をぱくぱく開いたが、驚愕のあまり言葉が浮かばない。

「きゃははっ! ようやく店主さんの鉄面皮を剥がせました! 心置きなく走れます!」

 鞘香はグラウンドに躍り出た。外から射し込む陽光が眩しい。もう負ける気がしない。

 置き去りにされた店主は、彼女の健闘を確信しながらも呆然と立ち尽くした。

 彼女が吹っ切れた今、店主も徒跣と最後の決着を付けねばならないと腹をくくった。



   *