2.
龍と虎が威嚇している。
空気が変わった。周囲から隔絶された独特の剣呑さが、渦を巻いて結界と成す。渦中では鞘香が泣き腫らし、店主にすがり付いたきり離れようともしない。
抱きとめた店主も、彼女を振りほどくことなく、頭に手を置いて撫でてやるのだった。
「泣くんじゃない。これから予選本番だろうに」
「だって、だって!」
何か言い募ろうとするも、うまく言語化できないのがもどかしい。
震えている。呂律が回らない。何が彼女の精神を蝕んだのかは言うまでもない。二人の眼前に仁王立ちする陸上部の顧問教師・徒跣八兵だ。
「店主さん、これ――」
かろうじて鞘香が提示したのは、スマートホンに保存した一枚の写真だった。
それは靴跡だ。いつぞや部室の外で撮影した、謎の気配。
「この靴跡がどうかしたのかね? 模様からして、恐らく革靴だな」まじまじと見入る店主。「まぁ良い。念のため我輩のスマホに転送したまえよ」
「は、はい――」
店主は自分のスマートホンをまさぐり出すと、その場で鞘香とアドレス交換をした。
まともに口が利けない鞘香の心情を先読みして、あれこれ世話を焼いてやる。その気遣いは踏絵にすら真似できない、大人ならではの気配りだった。
「おいおい、お前ら何の真似だ!」
徒跣が我慢できずに割って入った。彼にしてみれば、引率する生徒が部外者と連絡先を教え合っているのだから、止めに入るのも当然だ。
徒跣が額を小突き合わせるように、店主へ肉迫する。
「鞣革ぁ……どういう了見だ?」敵愾心を隠そうともしない徒跣。「うちの生徒から離れろ! 試合前の大事な時間に、陸上部のエースをかどわかすな!」
わざと声高に叫んで、まるで店主が悪人であるかのように主張した。
それは両雄の間だけでなく、周辺を行き交う他校の面々にまで聞きとがめられる声量である。こうやって衆目を集めることで、朝っぱらから未成年の女子を抱き込む不埒な店主という悪印象を貼る魂胆に違いない。
店主に良からぬ噂が立てば、いたたまれなくなって退散すると徒跣は踏んだようだ。
ところが、店主は逆に周囲を睨み返してやった。持ち前の鬼面で大衆を退ける。ぐるりと首を巡らせたあと、最後に徒跣へ照準を合わせた。
そして、嘲笑ってみせた。
「かんらかんら、かんらからからよ」
「何がおかしい、鞣革!」
「これが笑わずに居られるか。今の言動ではっきりした。徒跣八兵よ、貴様は一見、生徒を守るような聞こえの良い物言いをしては居るが、実態は全くの正反対だ」
「何ぃ? お前がさっさと跡部から離れて立ち去れば済む話だろうが!」
「そうやって一方的に他者を口汚く罵り、悪人に仕立て上げる論法。嗚呼、何と醜い。語るに落ちたな。そもそも強弁による注目が、この子のためになると思うか? 貴様が今述べた『試合前の大事な時間』にも拘わらず、いたずらに煽り、囃し立てたのは貴様だ!」
「うぐ……」
徒跣は痛い所を突かれた、と言わんばかりにほぞを噛んだ。遠巻きにこちらを眺める野次馬や通行人の視線にだんだん耐えられなくなる。
チッと盛大に舌を打った挙句、逃げるように踵を返した。
「と、とにかく入場するぞ跡部! 早く付いて来い。従わない場合は出場取り消しだ!」
八つ当たりも甚だしい。
意のままに操れない鞘香を恫喝することしか出来ない顧問。そんな男に尊敬の念を抱けるわけがなかった。生徒思いの熱血教師が聞いて呆れる。
「相変わらずの外道だな、八兵よ」
去り行く背中に、店主は投げかけた。
ぴたり、と徒跣の足が停止する。肩越しに首だけ振り返った奴の双眸は、憤怒のあまり血走っていた。
「何だ鞣革、今さら昔の恨み節でもぶつける気か? 大体、その時代錯誤な喋り方をやめろ! ずっと気になっていたんだが、笑い声もそうだし、我輩だの諸君らだの、古臭い言い回しをするじゃないか」
「貴様との記憶を忘れたくて海外で靴の修行をするうち、日本語も忘れてしまってな。思い出すために文豪の近代小説を読み漁った結果、当時の口調が移ってしまった」
「ハッ、下らない! そんな付け焼き刃の個性を上書きして、過去の自分と決別したつもりか? かつて俺に敗れた負け犬が、トラウマを消して生まれ変わった気で居るのか!」
徒跣の指摘は、店主のこめかみを疼かせるのに充分だった。
――図星なのか。
鞘香が思わずまぶたを見開く。
学生時代の過去をリセットするために、口調も性格も変更した靴職人。
偏屈な語り口の店主には、そんな意味が込められていたなんて――。
やはり店主と徒跣の間には、海より深い溝が刻まれているのだ。今はもう絶縁した不倶戴天の敵による、望まれざる再会と積年の回顧。
「八兵よ。我輩を罵るのは構わんが、鞘香さんをこれ以上傷付ける真似だけは許さんぞ」
店主は無表情のまま、冷淡に宣告した。
対する徒跣は鼻で笑い、部員の引率を再開した。鞘香を待たない。本当に置いて行きかねない状況だ。うかうかしていたら本当に出場が取り消されそうだった。
「さ、鞘香……行っちゃうよ?」
踏絵が不安げに呼びかけた。
起田や忍足も、怪訝な表情を鞘香に投げている。
鞘香は店主から離れたくなかった。行かなければいけないのに、今の徒跣には従いたくない。信頼できるのは店主だけだ。自覚のない好意。パーソナルスペースの近い彼女が、ひときわ距離を縮めた初めての異性。
「店主さん! 私は――」
「行って来い」
店主が両手を、鞘香の双肩に置いた。
くるりと彼女の体を反転させ、ぶっきらぼうに背中を押す。会場へ送り出す仕草だ。
押された拍子に二~三歩つんのめった鞘香だが、驚いて後ろを向き直ったときには、もう店主の人影は消えていた。
「あれ? 店主さん?」
きょろきょろと辺りを見回せば、長身の仏頂面はすでに一般観客席の入場門へ遠ざかる最中だった。とんでもない早足である。徒跣や陸上部を追い抜き、みるみる小さくなる。
完全に置いてきぼりだった。しかし、見捨てられたわけではない。
――行って来い。
彼はそう激励した。鞘香は彼に庇護されている。徒跣の指揮下に戻るのは億劫だが、会場のどこかで店主が見守ってくれていると考えれば、いくらか気分は楽になった。
「鞘香……?」
「ごめんね踏絵、待たせちゃったね!」
鞘香は大きく一歩、踏み出した。部員の輪に帰還する。今は予選のことだけに集中しよう。一番大切なのは勝つことだ。大丈夫、鞘香にはあの靴職人が付いている。
決然と立ち居振る舞う鞘香の勇姿を、徒跣は面白くなさそうに眺め、舌打ちした。
*
「なぁ跡部、聞いてくれ。どうもお前は俺のことを勘違いしているようだ」
アリーナ席の一角に荷物を置いた実ヶ丘高校陸上部は、プログラムに従って順次、出場種目の準備を始めていた。
まずは選手全員がトラック中央で開会式に参加する。そのあとは出場競技ごとにユニフォームへ着替え、アナウンスと共にトラックへ出る。その際、更衣室が混雑するためアリーナ席でジャージを脱ぎ出す出場者も散見された。
最初は百メートル短距離走から始まり、次に二百メートルや四百メートルと言った中距離走へと移行する。時間のかからない短距離走から進行するのは大会の常だ。さっそく鞘香は体をほぐしつつ、巾着袋とバッグを抱えて更衣室へ向かおうとした――のだが。
「跡部、俺の話を聞けって」
彼女へしつこくまとわり付いたのが、徒跣である。
出場選手に顧問が声をかけるのは、他校でもまま見られる光景だ。ただし当事者の間には、単なる師弟の語らいではない刺々しさが充満していた。
アドバイスの振りをして、徒跣は鞘香を口説いている。
立場を利用し、彼女を従属させようと躍起になっている。それほどまでに店主を嫉妬しているのか。
「俺は跡部のことを誰よりも大切に想っている。俺はお前を育てた恩師だぞ? 誰よりもお前を気にかけているし、案じても居るんだ……信じてくれ!」
「はぁ……」
「あの靴屋に何を吹き込まれたのかは知らないが、あんな出会って間もない唐変木より、高校の三年間を共に過ごした俺の方が、圧倒的に親密じゃないか? なぁ!」
同意を強要する問いかけに、鞘香は耳が痛くなった。
気が滅入りそうだ。コンディションに影響したらどうしてくれよう。
(これから本番なのに、先生は私への激励ではなく、自分の言い訳を優先するのね――この人は私のことなんか考えてない。自分の立場と欲求を最優先してるんだわ!)
鞘香に異様なこだわりを見せるのも、下心があるからだ。
病死した徒跣の妻は、鞘香に似ていたという。生前の面影を鞘香に見出し、寂しさを紛らわすために懸想している。
さらには店主との対立もある。徒跣が狙った獲物を、かつてのライバルだった店主が奪い取ろうとしているのは、彼にとって屈辱以外の何物でもないのだろう。
誰とでも屈託なくスキンシップする鞘香は、多くの異性に勘違いを生んだ。いつぞや店主も物申していたではないか――『もしも接触した人が悪意を持っていたら、無防備な君は真っ先に危害を喰らうに違いない』と。
それが今なのだ。
「まだ疑っているのか跡部? お前の身を一番真摯に考えているのは俺だぞ!」
「済みません先生、集中したいのでもういいですか?」
鞘香はすげなく断った。
アリーナ席を出て、屋内の通路を早足で進む。階段を下りて突き当たりにある部屋が更衣室だ。男女別の二部屋。さらに隣には大きな控え室もある。
「くっ……もう、どうなっても知らないからな! お前なんか負けてしまえ!!」
教師にあるまじき捨て台詞が、背後に刺さった。
それでも鞘香は立ち止まらない。力の限り前進した。決して屈服せず、振り切れた。
更衣室は目前だ。鞘香はようやく安堵の息を吐いた。悪意から免れたと油断してしまった。さらに彼女を待ち受ける新たな伏兵が潜んでいるとも知らずに――。
「あら、跡部鞘香さん? ご機嫌麗しゅう」
「――足高さん!?」
更衣室の直前で、進路を立ち塞がれた。
男子顔負けの長身美女が居る。ライバルとして一目置かれていた令嬢だ。女子とは思えない大きな歩幅でグイグイ迫られれば、さしもの鞘香も立ち止まらざるを得ない。
「足高さん、何の用? 先日は偵察に来てたみたいだけど」
「おっほっほ、気付いていたようですわね。さすがは我が宿命のライバルですわ!」
居丈高に高笑いする高飛車な美女は、高身長を活かして鞘香を見下そうとする。
「私、着替えたいんだけど」
「そう急がないで。本日は高校最後の大会ですもの、ご挨拶に伺いました」
「挨拶?」
うさん臭さに鼻白む鞘香だったが、見返した長身美女はにっこりと笑みを浮かべた。アスリートとは思えない白い肌、白魚のごとき細い手足は、モデルでも通用しそうだ。
「先日の偵察で、貴女の欠点だったランニングシューズが修理されているのを確認しましたわ。今日こそ心置きなく、雌雄を決することが出来ると期待しておりますの」
「偵察って、それを見に来てたの?」
鞘香は手に提げた巾着袋へ目をやった。ここにはかけがえのない勝負靴が入っている。
「その通りですわ! そのランニングシューズで貴女がきちんと全力を出せるよう、わたくしからも助言をお伝えしようかと思いまして! 敵に塩を送りますわ!」
「助言?」
鞘香は小首を傾げた。
表面上は、いかにも好敵手らしい発言である。まがりなりにもお互い競り合って来た選手だから、ここは真面目に聞くべきかな、と鞘香はパーソナルスペースを修正した。
そう――修正してしまったのだ。
鞘香は根本的に、人を疑わない性善説が信条だ。それが良いか悪いかは別にして。
「跡部鞘香さんは短距離ランナーですから、ランニングシューズも軽くて瞬発力のあるタイプを履いていると存じますが、靴紐の結び方にも気を遣うべきですわ!」
「シューレースの結び方?」
「ええ! シューレースの結び方一つで、足への負担も変わります! 走りやすさやスピードの出方も異なるのですわ! 例えば長距離ランナーは『オーバーラップ・シューレーシング』と呼ばれる結び方をしますわ。紐を上の穴から通して下に結ぶ方法で、締まりが良くて緩みにくい特徴があり、靴と足がフィットした状態が続きますのよ!」
足高がもっともらしい知識を披露した。
話を聞く間も、他校の出場者が更衣室を出入りしている。鞘香も早く入りたいと内心では焦りつつ、足高のアドバイスにも興味を惹かれた。
「そして短距離ランナーには『アンダーラップ・シューレーシング』が最適ですわ! シューレースを下の穴から通して上に出す、さっきと反対の結び方です! この方法は最初こそフィット感にゆとりがありますが、走るうちに適度に締まって足と馴染むのです!」
「そうなの?」
「そうなのです! 短距離ランナーは『アンダーラップ』を結びましょう! ご理解いただけましたら、百メートルトラックでお会いしましょうね! おーほほほほ……!」
足高はやっと身を引き、一足先にグラウンドの方へ歩いて行った。
鞘香はしばし途方に暮れたものの、ライバルがくれた善意の助言に感謝する。一度心を許した以上、相手を信用するのがパーソナルスペースの近さである。
(アンダーラップ・シューレーシング……アンダーラップ・シューレーシング、っと)
鞘香は胸中で繰り返しながら、更衣室の手近なロッカーで着替え始めた。
ジャージを脱いでハンガーにかけ、下に着込んでいたユニフォームと短パンをさらす。校名が刺繍されたタンクトップは、小麦色の肌をあらわにして健康的だ。背中にはゼッケン。最後に靴を、練習用のスニーカーではなく伝家の宝刀に履き替えた。
これの靴紐を、一から結び直すのだ。
「えーと確か、アンダーラップ・シューレーシングは『下の穴から紐を通して上に出す』のよね……」
普段と勝手が違う。だがこれが真に有用ならば、利用しない手はない。
意気揚々と更衣室を出た鞘香は、控え室には寄らず直接トラックを見に行こうとした。
まずは戦場を見ておきたい。そしてイメージするのだ。イメトレはアスリートの基本である。時間いっぱいまで、良いイメージを体に染み込ませる――。
「問題はなさそうだな」
「――あ! 店主さん!」
通路の壁際で、店主が背をもたれていた。
鞘香を待っていたらしい。鞘香も尻尾があったら全力で振っているであろう喜色満面さで、店主の元へまっしぐらに駆け寄った。
「問題ないですよ! さっき徒跣先生に付きまとわれたけど、何とかしのげました!」
だから褒めて、と言わんばかりに身を寄せる。
店主は言い寄る女子高生に強面をしかめたが、本番前に彼女の機嫌を損ねるのは良くないので黙っておいた。
「それとライバル選手から助言をもらえて、問題どころかラッキー続きですよ、ほら!」
鞘香は足元を指差し、爪先を一歩前へ提示した。
ランニングシューズの中央に結ばれたシューレースは、下の穴から上に向かって通されている。お手本のような『アンダーラップ・シューレーシング』だ。
「む?」
店主は半眼になった。
ただでさえ怖い面構えが輪をかけて恐ろしくなる。じっと鞘香の靴を俯瞰したかと思うと、しまいにはしゃがみ込んで、目を皿のようにすがめた。
「店主さん? どうかしたんですか?」
鞘香はわけが判らず、まじまじと足を見つめられて照れ臭くなった。
一体どうしたのだろう。まさかこの靴に、新たな欠損でも見付かったのだろうか?
「この結び方は、罠だ」
「――え!?」
店主は座り込んだ姿勢から、顔だけ上に向けた。
鞘香を見上げる構図だ。目が合った鞘香は、意外な店主の一声に身をのけぞらせた。
「罠って、アンダーラップ・シューレーシングが、ですか?」
「うむ。ライバル校の足高だったか? 謀られたな。今すぐほどけ。紐を解くのだ!」
紐を解く。
――紐解く?
はて、それは店主の決め台詞にも含まれているフレーズではなかったか。
店主は何を明察したのだろう。徒跣の助言に何を見出したのだろう?
「恐らく、徒跣と足高はグルだ。双方とも、君を負かしたい。利害が一致したのだろう。ちょっと推理すれば判るが、アンダーラップは短距離ランナーの足枷も同然なのだ!」
「あ、足枷っ!?」
驚愕の発言だった。短距離に最適と聞いたのに、実は違うと言われたら誰だって惑う。
店主の目はごまかせない。靴職人ならではの、最後の『紐解き』が開陳されようとしていた。さんざん苦しめられた徒跣八兵の嘘八百にめげず、七転び八起きで論破する。
*