3.



 起田渉の手掛ける牛革が、見るも無惨な姿に変わり果てていた。

 真っ黒だ。

 茶色い牛革を選んだのに、ドス黒く汚染されている。

 原因は机上に置かれていたインク瓶が何らかの衝撃あるいは振動で転倒し、蓋が外れて中身をぶちまけたのだと推察できる。

 それはちょうど、机の右端に置いた起田の牛革だけが直撃をかぶる角度だった。

 何ともはや、運が悪いとしか言いようがない。

「何ですか、これ」渋面で呟く起田。「僕の革靴が台なしじゃないですか!」

「申し訳ない。なぜ瓶が倒れたのかは不明だが、そもそも瓶の近くに置くべきではなかったという意味においては、我輩の落ち度だ」

 店主が珍しく頭を下げている。

 しかし店主とて、このような危険予知くらいは出来たはずだ。瓶は安定した場所に置かれている。よほどのことがない限り倒れないからこそ、ここに保管したのだ。

 ゆえに鞘香は、店主の肩を持つことに決めた。集まった一同からいち早く飛び出すや、店主の腕にしがみ付く。彼に染み付いた牛革の匂いと合成樹脂の香りが安心感を与えた。

「私は店主さんの味方です! インク瓶が不自然に倒れてるのも、きっと理由がありますよ! それに牛革はまだ製造途中です、造り直すなりインクを拭くなりすれば――」

「それはその通りだが」女子高生にくっ付かれて罰が悪い店主。「昨日の作業が丸ごと無駄になったのだ。これでは予定通りに実習が進まない。無論、三日で完成しないのは織り込み済みではあるが――」

 店主は珍しく歯切れの悪い口調だった。

 何事にも動じない超然とした印象だったが、鞘香は店主の意外な一面を目の当たりにして、なおさらいたたまれなくなった。

「跡部さん、そいつから離れなよ」

「起田くん……?」

「やっぱりおかしいよ、年の離れた大人にべったりな高校生なんてさ。同じ部の僕より、そいつの肩を持つのかい?」

「えっ? 私は年齢なんかで人を判断しないよ! 第一、失敗は誰にだってあるわ。一つの失態でネチネチいじめる方が私は好きじゃないわ」

「そりゃあ仕事に失策は付き物さ。けど実習本番で、僕にギリーシューズを勧めておきながら、速攻で台なしにされるなんて、お粗末すぎて笑えないよ」

「店主さんを悪く言わないで!」

 鞘香は売り言葉に買い言葉で、つい反目してしまった。

 だから彼女は気付かない。起田が怒る根幹には、牛革よりも鞘香の去就(きょしゅう)があるのだと。

 起田は鞘香に好意を持っている。パーソナルスペースが近くて人懐っこい、鞘香の天真爛漫さに惚れているのだ。

 そんな彼女が、自分よりも店主をかばうのだから、虫の居所が悪くなるのも当然だ。

「と……とにかく今、先生を呼んでます」

 踏絵がスマホ片手に声を張った。

 実習先で揉め事が起きた場合、学校へ連絡するよう徹底されている。

「それが一番ね」嘆息する鞠子。「先生は陸上部の顧問でもあるし、商店街周辺を見回りする担当でもあるから、すぐに駆け付けてくれるはず――」

「何だ何だ、何の騒ぎだ!」

 ――噂をすれば影が差す。

 工房の外、店の裏口からずかずかと上がり込んで来たのは徒跣(はだし)先生だった。

 昨日と同様、クールビズで来訪する。なぜか片手には高枝切りバサミを携えており、杖代わりに床を突きながら歩いていた。

 高枝切りバサミは長さが四〇センチほどだが、(つか)のパイプを伸ばせば一メートル以上になる。高所の木の枝を伐採するために使う道具だ。

「おはようお前ら! 裏口が開いてたんで勝手に入ってしまったがご容赦あれ!」

 ガニ股で闊歩する徒跣は、工房の扉をくぐってすぐ店主と対峙した。

 両雄は互いに一歩も引かない。どちらも二八歳の屈強な外見で、気が強い。唯一おかしな点を挙げるとすれば、店主の腕には鞘香が未だに抱き着いている点か。

 朝っぱらから教え子が大人といちゃ付いていたので、あからさまに徒跣は憤慨した。

「おい店主さんよぉ! いつからうちの生徒に手ぇ出した?」

「人聞きの悪いことを言わないでいただきたい」

「そう言われてもねぇ……おい跡部!」

「はいっ?」

 シャキッと背を伸ばす鞘香だが、それでも店主の腕を離さない。

 ますます徒跣は呆れ果てた。

「未成年が成人男性に密着するな。お前はそうやって誰にでも媚びを売るから、周りの男たちは勘違いするんだぞ? なぁ起田!」

「な、なんで僕に聞くんですか!」

「だってお前、跡部のこと好きだろ?」

「こ、こんな所でバラさないで下さいよ!」

 起田が顔を真っ赤にする。やはりこのエースは鞘香のことが好きなのだ。

 それを見た踏絵と鞠子が、絶望的なまでに肩を落とし、舌打ちを繰り返した。

 鞘香は知らぬ間に遺恨を刻んでいる。のちの部活動に悪影響がなければ良いが、それを望むことすら(はばか)れる空気になりつつある。

「ま、それはそれとしてだ。本題の実習トラブルについて話が聞きたい」

 徒跣は居住まいを正した。ここへ呼ばれた理由は、牛革の汚染に対する抗議である。片手に携えた高枝切りバサミをガツンと床に打ち付け、場の喧騒を静粛にした。

「待ちたまえよ、その高枝切りバサミは何かね?」

 今度は店主が物申す番だった。

 工房に余計な刃物を持ち込まないでもらいたい、と暗に苛立っている。指摘された徒跣も、初めて高枝切りバサミを見下ろした。

「ああ、これか? 別の生徒たちの実習先が造園業者でさ。しかも店頭が植木道具を販売するワークショップだったから、庭の手入れ用に購入したんだよ昨日」

「なぜそれを靴屋に持ち込むのだ?」

「それがさ、家に帰ったら同じものがすでにあったんだよ! だから返品するつもりで持って来たんだが、その道中に靴屋から連絡が来たんで、立ち寄ったまでだ」

「工房には不要なので外へ出していただきたい」

 店主が断固拒否したので、徒跣はいったん屋外へ引き返した。

 再び工房へ戻って来ると、改めて店主に向かい合う。

「済まんね。でだ、靴屋でトラブった状況を確認したいんだが?」

「存分に見学してくれ」

 店主が場所を譲った。今度こそ徒跣は工房内を見て回る。

 主に壁際の作業机を捜索した。

 机の奥にはワックスを詰めた瓶が置かれている。隣には倒れたインク瓶。視線を上げると、壁には前述もした窓枠がくり抜かれていた。

 格子窓だ。現在はとばりが上げられて、陽光が射し込んで非常に眩しい。

「瓶の手前に並んでいる牛革が、生徒たちの作成物か?」

「そうだ」

 店主は右から順番に、起田のインクにまみれた牛革、鞠子の牛革、踏絵の牛革、最後に左端が鞘香の牛革だと説明した。

 いずれもミシンで縫い合わされている。これは店主が夜なべして行なったものだ。すなわち昨日、生徒たちが帰ったあとに店主は牛革を触っている。

「ミシンで縫合した牛革を机に戻す際、インク瓶にぶつけて倒したんじゃないか?」

「それはない。我輩が瓶を倒したのなら、その場で気付くだろう」

 店主は理路整然と疑惑を否定した。確かにその通りなので、徒跣は反論しない。

 次に徒跣は首を回して「ミシンとは、これか?」と武骨なミシンに手を伸ばした。

「勝手に触るな」

「おお、怖い怖い」

 徒跣は反射的に手を引っ込め、軽く笑い飛ばす。

 触らない代わりに、ミシンの細部を嘗め回すように観察した。脇にはゴミ箱があり、使い古しの糸くずや針がまとめて捨てられている。

「なるほどねぇ。で? インクがこぼれていたのを最初に発見したのは誰だ?」

「わたしです」

 鞠子が名乗り出た。

 徒跣は鞠子へ方向転換し、彼女の手を握るなり作業机へ取って返す。

「こぼれたインクはどんな状態だった? 固まっていたか? まだ濡れていたか?」

「すでに乾いてました」

「てことは、インクがこぼれてから何時間も経過していたわけだ! 倒れたのは夜中!」

「ああ。それがどうかしたか?」

 店主は問い返した。現場の捜査に余念がない徒跣を、虎視眈々と注視している。

 まるで徒跣が探偵のようだ。昨日の現場にはおらず、極めて客観的な第三者という立場は、なるほど探偵役に適任だった。

「この机は壁に面しているだろ?」壁を叩く徒跣。「外から壁を強く叩けば、振動でインク瓶が倒れるんじゃないか!? 夜中にこっそり誰かが来て――」

「さすがにそこまで建て付けは悪くない。振動で倒れたのなら、一緒に置かれたワックス瓶が微動だにしていないのが不自然だろう」

「なら、実際に外から叩いてみようじゃないか! 壁には格子窓が開いているから、外から見ても目印になる」

 完全に徒跣が場を仕切っている。

 主導権を奪われた店主は、首を傾げつつも追従した。彼と手を繋ぐ鞘香が後続し、親友の踏絵も付いて行く。最後に鞠子と起田が、ここに居ても仕方ないと頷き合い、どちらともなく足を運んだ。

 裏口を出て、店の壁伝いにぐるりと回り込む。

 ――あった。とばりの上がった格子窓だ。

 そこは店の裏庭で、店主の所有するセダンが駐車されていた。

 徒跣は芝生を踏みにじるように歩くと、格子窓のそばに両手を突いた。

「せーの、っと!」

 壁に全体重を押し付ける。体当たりもしてみたが、手ごたえはなかった。

 格子窓の中を覗いても、眼下の作業机に振動が伝わった様子は一切見られない。

「チッ、振動は無理か」あっさり切り替える徒跣。「となると、他に手がかりを探さなきゃならんなぁ――」

 徒跣は芝生にしゃがみ込んだ。目を皿のようにして、遺留物がないか捜索している。

「何を探してるんですか先生?」

 鞘香が興味を惹かれた。店主から手を離すや、無警戒に徒跣のもとへ歩み寄る。

 この子は誰にでも距離感が近い。徒跣へ顔を寄せるや否や、徒跣は芝生から一本の糸くずを拾い上げた。

「見付けたぞ。物的証拠だ!」

「糸、ですか?」

 じっと見入る鞘香の頭を、徒跣は勝ち誇った面構えで撫でた。髪が乱れるほどに。

「その通りだ! 店主さんも見てくれ! これはミシンの縫い糸と同じものだよな?」

「ミシン糸だと?」

 店主は眉間にしわを刻んだ。

 仏頂面が険しくなる。踏絵がヒエッとおののくのも構わず、店主はさらに眼光をたぎらせた。徒跣にずかずかと肉迫し、彼の手から糸くずをもぎ取った。

 糸は太く、長さも両腕を広げるくらいはあった。だがゴミ箱ではなく店外に捨てられているのは、通常では考えられないことだ。

「馬鹿な。なぜこんな所に縫い糸が落ちているのだ?」

「聞いているのはこっちだよ店主さん。あんたの仕業じゃないのか? そこの、格子窓から投げ捨てたとかさ」

「我輩は必ずゴミ箱に捨てる。外に投げ捨てたら店の周りが汚れるではないか」

 確かにそうだ。

 店主は屋内にゴミ箱を用意していた。外に捨てる意味がない。

 ではなぜ糸くずが落ちていたのか、判然としなかった。何もかも意味不明だ。調べれば調べるほど不可解なことばかり湧いて出る。

「糸と言えば、裁縫が得意な子が居たな」

 店主は踏絵を振り返った。

 やにわ指名された踏絵は、肝を潰したように奇声をわめく。

「ふぁっ? あ、あたしですか?」

「うむ。ソーイングセットを持ち歩くほど裁縫が好きだったではないか」

「え……だからって革靴に使うような糸は持ってませんけど……」

「だが、以前の一件で、君は鞘香さんと我輩に軋轢を抱いたのではないかね?」

 以前の一件――。

 ランニングシューズを巡る、鞘香と店主の出会いにまつわる事件である。

 あのとき、鞘香に同伴した踏絵は、取り返しの付かない過ちを犯した。そのことを店主に推理され、踏絵は大いに反省したが、実はまだ心にわだかまりがあったのか――?

「加えて君の態度から察するに、同じ部の起田くんに気があるのではないかね?」

「えっ?」

「う……」

 名指しされた起田が驚き、言い当てられた踏絵は頬を紅潮させた。

 ついでに起田の隣に居た鞠子も発奮のあまり顔を真っ赤にした。

「もしかしてここに居る女子は全員、起田くん狙いなの!?」

「私は違うよ!」

 鞘香が否定した。起田は「跡部さんは違うのか……」と一人で勝手に落ち込んでいる。

 店主は剣呑な青少年たちを見渡して、さらに憶測を重ねた。

「つまり踏絵さんは、自分を差し置いて鞘香さんに懸想する起田少年を逆恨みした。そして我輩にも私怨を持っており、実習の妨害を企んだ。その結果が――」

「だ、だからあたしが、起田くんの牛革にインクを塗ったと……? 事実無根です!」

 踏絵は身の潔白を訴えた。

 彼女は鞘香の親友であり、二度と裏切らないと誓った人物だ。今回、起田を巡る嫉妬があったとしても、今さら他人に迷惑をかけるとは思えない。

「ふむ。君ではないのだな?」

「と、当然ですっ」

「ならば、今の戯言(ざれごと)は撤回しよう」

 店主はかまをかけたのだ。

 本気で踏絵を疑ったわけではない。あえて推理を外すことで、踏絵を『犯人』候補から除外した。こうやって一人ずつ消去法で絞るのが良いと判断したに違いない。

「店主さんよ、もう一回工房に戻ろうか」

 徒跣が先陣を切って歩き出した。

 まただ。またこの教師が現場を仕切っている。店主にとって、この男はどうにもやりにくかった。生徒のためとはいえ、ここまで率先できる原動力は何なのか。

「工房に戻ってどうするつもりかね」

「牛革に塗られたインクを()がしたい。色を落とせば、何か判るかも知れないだろ?」

「インクを拭くには専用の薬剤が必要だ。やるなら我輩に任せてもらおう」

「もちろん、餅は餅屋だ。乾いたインクの下に、俺は秘密が隠されていると思うね」

 果たして徒跣の述べた通り、工房でインクを落とす作業に入った店主は、驚天動地の大発見をする羽目になる。

 あたかもそれは、徒跣の掌で踊らされているかのようだった。

 この場では、奴が探偵役なのか?

 店主はただの脇役に落とし込まれてしまったのか?

 そもそも黒インクは、色あせた靴の修理に使う代物だ。ワックスだってそう。光沢のなくなった革靴に輝きを取り戻すだけでなく、これらの塗料によるコーティングは防水・撥水効果も兼ねている。

 そうした『思いやり』や『心遣い』の象徴であるインク瓶が、いかなる経緯で起田の牛革を汚辱(おじょく)したのか――?

 その一端を、店主は目の当たりにした。

「インクの下から、文字が見えて来たぞ!?」

 店主は息を呑んだ。

 薬剤を染み込ませた布巾(ウェス)で牛革を拭くうち、元の茶色い革地が復元したのみならず、そこにしたためられた落書きまでもが発掘されたのだ。

 刃物(ナイフ)か何かで牛革に切り込まれた、たどたどしい文字列だった。

 普通のマジックインキやボールペンでは革に文字が乗らないし、インクを拭き取ると同時に字も消えてしまうだろう。それを防ぐ意味でも、刃を立てて革に文字を刻んだに違いなかった。

 一体誰が――何のために?

「店主さん! 何て書かれてるんですか!」

 鞘香が背後から飛び付いた。

 作業机に座り込んだ店主は、起田の牛革を握ったまま、しばし逡巡する。

「読み上げても良いのかね? この落書きを?」

 店主は乗り気ではなかった。

 特に起田へ配慮しているらしく、ちらちらと彼の顔色を窺っている。

 起田はそんな店主と、彼の背中に密着する鞘香を羨ましそうに眺めてから、やがて不貞腐れたように吐き捨てた。

「いいですよ、教えて下さい。僕も腹をくくります」

「了解した……では」咳払いしてから重苦しく朗読する店主。「”起田は地区予選を辞退せよ。さもなくば今後も、お前の革靴に(・・・・・・)細工をし続ける(・・・・・・・)”……だそうだ」

「――え?」

「確か、起田少年の履く革靴はことごとく足に合わないという話だったが、それはどうやら何者かによる(・・・・・・)イタズラ(・・・・)のせいだったようだな」

「ほ、本当ですか!」

 驚いたというより愕然とした面持ちで、起田はその場にくずおれた。

 すぐさま鞠子と踏絵が両脇から駆け寄り、彼を介抱する。

 鞘香だけは起田を見向きもせず、店主と共に落書きへ目をすがめた。

「起田くんへの脅迫状、ってことですか?」

「ああ」

「おいおいおい、こいつは陸上部の顧問として見過ごせないぞ!」

 二人の間へ分け入るように、徒跣が机上へかじり付いた。わざとらしく鞘香を店主から遠ざけようと引き離す。ご苦労なことだ。

 刃物による落書きのため、筆跡鑑定も出来ない。(つたな)く彫られた字面には、無機質な悪意が宿っていた。もはやこの牛革は廃棄決定だ。起田は一から造り直しを余儀なくされた。

 徒跣がますますいきり立つ。熱血教師らしい一面を見せた。

「これは俺の沽券に関わる大事件だ! 陸上部の顧問として、ひいてはお前らの担任として、俺が『犯人』を暴いてやる!」

「待ちたまえ、我輩の店で勝手なことをするんじゃない――」

「この場は俺が預かった! 店主さんも協力してくれるよな!?」

 店主の忠告など聞く耳を持たず、徒跣による一大推理が幕を開けた。



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