2.
「まずは起田少年の足の具合を見てみよう」
靴の製造へ取りかかる前に、店主は起田の足を観察することにした。
一同を工房へ余さず引き入れてから、店のシャッターを閉める。これから生徒に付きっきりとなるため、営業はしないようだ。学校から報酬をもらっているのだろうか。
店主は手近な丸椅子を手繰り寄せ、起田に座るよう勧めた。起田は恐縮した面持ちで従う。だが視線は店主ではなく、工房の風景に注がれていた。彼だけではない。鞘香たち全員が眺め回している。
珍しいのだ。靴工房なんて滅多にお目にかかれない。陸上部の顧問もさんざん靴の重要性を説いていたのだ。工房に目を輝かせるのも当然と言える。
「見たことのない機械や工具がたくさんありますね!」
鞘香がぴょんぴょん飛び跳ねながら言う。
壁際に吊るされたなめし皮、棚に並んだ様々な靴の木型、ヘラ、コテ、ワニ、トンカチと言った工具が箱に詰め込まれている。靴を縫い合わせる太い糸と針もあった。
工房の中央にはひときわ大きなテーブルがしつらえられ、上には巨大なミシンが据えられている。靴底は手で縫うが、革靴の外皮はこの機械で縫合するのだ。
牛革を貫通させる武骨なミシンは、家庭用ミシンとは重量感が段違いだ。踏絵が尻込みしながら「え……これがミシンなの?」と表情を曇らせた。ソーイングが得意な彼女でさえ、このサイズは物々しくて愛着を持てなさそうだった。
針と糸が分厚いのも、革に穴を通す強度が必要だからだ。小脇のゴミ箱には、ほつれた糸くずや折れた針が捨てられていた。
片隅には段ボールが積まれ、蓋が空きっ放しの中身は牛革が詰め込まれていた。黒革と茶革の二種類。これを切り取って革靴の外皮にするのだ。革の匂いが色濃く漂う。
「起田少年よ、右足を見せたまえ」
「はい、靴を脱げば良いんですか?」
起田は丸椅子に着席した姿勢から、右足を伸ばした。
店主はその場にしゃがみ込むと――それはまるで起田の足元にひざまずくような体勢だったので鞘香はおかしかった――起田の靴下をするりと脱がす。
さらされた起田の素足は、陸上部で鍛えられたおかげで筋肉質だ。足の指が太い。走る際に大地を踏みしめ、蹴り飛ばす訓練を繰り返した証だ。
太い五指は互いにせめぎ合い、密着している。指と指の間にゆとりが少ないため、先の細いトゥシューズを履いたら痛めそうだ。
何より特筆すべきは、甲の厚みだった。
足の甲が常人より膨らんでいる。決して怪我や腫れではない。筋肉が発達して盛り上がっているのだ。
「よく鍛錬されている。少年はいささか足の甲が分厚いな」
「一目で判るなんて、さすがですね」照れ臭そうに頬を掻く起田。「実は僕、足の甲がでかくて、革靴がキツイんです。運動靴なら伸縮するんですけど、革だとね……。爪先を広くデザインした靴は多いのに、足の甲にスペースを割いた革靴は見当たらなくて……」
「ふむ。この足の甲では、靴の上面……靴紐の下に敷かれた舌革がこすれて痛むのだろうな。なるほど、普通の革靴が足型に合わないのも合点が行った」
店主がすらすらと症状を看破してみせた。
起田は素早い鑑定に舌を巻くと同時に、改めて感服する。
「そうです、その通りです! 凄いですね、さすが本職の靴屋さんだ。的確な洞察です」
「我輩はシューズフィッターの民間資格を持っている。人それぞれの足型にフィットする靴造りを任ぜられた証だ」
こともなげに告げた店主だが、やはり資格があると顧客の信頼度が段違いである。
国家資格ではないにせよ、何らかの技能を認められた保証書が提示されるのは安心だ。
「いつまで起田くんの利き足を触ってるのよ?」
丸椅子の後ろに構える鞠子が、店主をねめつけた。
ひざまずく店主に対し、鞠子は起田のそばで屹立している。あたかも見下ろすような角度から、鞠子は刺々しく物申すのだった。
「さっさと革靴の製造に取りかかったらどうなの?」
「これはまた気の強いお嬢さんだな。何だ、愛しのカレシの足を、どこの馬の骨とも判らない男にベタベタまさぐられるのが不愉快だったかね?」
店主がシニカルに鼻で笑った。
言い返された鞠子は図星だったらしく、カッと顔面を赤く染める。せいぜい「そ、そんなんじゃない……あるけど」などと小声で呟くのが精一杯だ。
すると今度は、鞘香の横に居た踏絵が、もじもじと動揺し始めた。
「鞠子も起田くんが好きなのね……あたしも負けてられないわ……!」
「では、こうしよう」たしなめる店主。「足の甲が痛むのは舌革がこすれるせいだ。対策としては、緩衝材である中敷きをかかとの部分に入れることだ」
「甲の対策なのに、かかと?」
鞘香が後ろから覗き込んだ。店主は見向きもせずに頷く。
「ああ。中敷きでかかとを持ち上げれば、逆に爪先や足の甲は沈む。甲の上部に空間が生じてこすれにくくなる」
「ああ~、そっか! さすが店主さんですね!」
「それだけではないぞ。さらに念を入れて、舌革のない革靴を造ろうではないか。舌革がなければ、足の甲にこすれる心配もない」
「舌革のない革靴……?」
起田は珍しそうに首を傾げた。
先ほど店主が述べた通り、舌革とは靴紐の下部から足首正面にかけて伸びる内皮のことだ。まるで履き口から舌を出しているように見えるため『舌革』と呼ばれている。
それをなくすということは、足首の正面を野ざらしにするということだ。見栄えが悪くなるのではないか――?
「舌革のない革靴は、いくつも実在するぞ」
店主は腰を持ち上げた。
起田の右足が解放されたので、即座に鞠子が甲斐甲斐しく起田へ靴下を履かせてやる。起田は自分で出来るよと遠慮したものの、鞠子は世話焼き女房よろしく構うのだった。
それを遠巻きに眺める踏絵が、嫉妬にかられたのか頬を膨らませている。
陸上部のエースともなれば、女性にモテるのもさもありなんと言った所だが、鞘香だけは恋の争奪戦から外れて、能天気に店主の動向を目で追った。
「舌革のない革靴って、どんなのがあるんですか?」
「良い質問だ。今からサンプルを見せようとしていた所だ」
「やった、褒められたっ」
鞘香は起田そっちのけで店主との会話に興じる。
当の起田が、目を丸くして鞘香を見つめる。同じエースどうし親しみを感じていたのだろうが、あいにく鞘香は起田のことなど眼中になきがごとしの振る舞いだ。
起田は、ちょっと傷付いたような面持ちになった。
「これを見たまえよ」
店主が両手の指にそれぞれ革靴の見本をぶら下げて戻って来た。奥の棚には、いろいろな革靴のサンプルが陳列されている。
「革靴と言えばローファー、オックスフォード、スリッポンなどが有名だな。諸君らの履いている通学用の革靴も、大抵はこの三つだろう?」
「はい! そうです!」
鞘香が元気よく挙手する。
足を見下ろせば一目瞭然だ。茶色い牛革で縫製されたシンプルなフォルム。足首を革帯とサドルストラップで留めており、その下から舌革が顔を出している。
「鞘香さんはローファーだな。ストラップを靴紐に変えればオックスフォードやバルモラル型シューズとなる」
「あ、あたしの靴がそれかしら……?」
踏絵が恐る恐る足を前に出した。
彼女の革靴は靴紐が結ばれており、結び目の革がVの字に開いていた。
「踏絵さんはブラッチャー型だ。履き口がV字に開いた靴は基本的にバルモラルだが、ブラッチャーはV字部分が両サイドに向かって開いているのが特徴だ」
「へぇ……似たような靴でも細かな違いがあるんですね」
踏絵が感嘆の声を上げる。
一口に革靴と言っても、デザインや使用目的によって種類が分かれる。普段そこまで意識して買う者は少ないため、高校生には新鮮な話題だろう。
「御託はいいから、とっとと舌革のない靴とやらを教えなさいよ」
鞠子がツンケンした態度で非難した。
話の腰を折られた店主は、わずかにこめかみを疼かせた。青筋がうっすらと見える。
「こちらのサンプルを見たまえ。舌革のない革靴と言えば、有名なのは二つある。一つはサイドゴア・ブーツだ。かのビートルズが来日したときに履いていて人気を博した」
「びーとるずって何よ。昔のバンド?」
「知らないなら良い。ブーツなので丈が長く、舌革を必要としない。サイドゴアは足首の両側に切り込みを作り、そこにゴムを貼り付けて伸縮性を実現している」
「ブーツか……」難色を示す起田。「高校の通学にブーツを履くのは、仰々しいですね」
「確かにな。制服に合わせるならば、丈の短い靴にしたい所だ」
「じゃあ――」
「そこで二つ目の『ギリーシューズ』を勧めよう」
最後に掲示された靴型は、靴紐を結ぶのではなく絡めて縛り付けるタイプの、一風変わった革靴だった。
紐を絡める都合上、舌革が存在しない。また外皮も、先端の飾り革から両脇のスロートラインのつなぎ目、かかと、月型芯の接続面ごとに縫い跡や穴がわざと残されており、その模様が幾何学的なデザインを醸していてオシャレだった。
模様の少ないローファーとは大違いだ。
「変わったデザインですね」
起田が一目惚れしたようにまじまじと見入る。
「ギリーはもともと狩猟用に開発された靴なのだ。舌革のないデザインは足を束縛せず走りやすい。紐を結ぶのではなく絡める形だから、足の甲を圧迫しないのも利点だ」
「へぇ~」
「やがてギリーは、狩猟のみならず舞踊競技でも好んで履かれるようになった。足の激しい動きに適したデザインというわけだ」
「そんな革靴があったんですね。競技用なら足の負担もかかりませんし!」
「うむ。起田少年はこれを造って履くべきだ。――他の生徒らは何を造るかね?」
店主が首を巡らせると、鞘香と踏絵は決めあぐねた様子を見せた。
二人は特に足型で困っていない。とはいえ、せっかく造るなら自分の用途に合ったものを手掛けたい所だ。
そんな彼女らを尻目に、一足早く決断したのは鞠子だった。
「わたしも起田くんと同じギリーを造るわ。靴のペアルックよ!」
「ほう」
「えっ?」
店主が感心し、起田が声を裏返した。
鞠子は好きな男子と同じものを造ることで、共通の話題を増やしたいのだろう。
たちまち恋愛模様に火がついたのか、踏絵も一念発起したように宣言する。
「あ……あたしもギリーを造ります! お、起田くんとお揃いを履きたいです……!」
「そうか」肩をすくめる店主。「残るは鞘香さんだが」
「えーと、じゃあ私も同じにします。私だけ違うの造ったら、店主さんが大変でしょ?」
決める理由まで店主に寄り添う辺り、さすが鞘香は距離感が近い。
実際、一人だけ別だと指導方法が異なり、手間がかかる。店主は何か言いたげだったが結局、鞘香の意思を尊重した。
「跡部さんも僕と一緒か。良かった」
起田が嬉しそうに微笑んだ。彼はエースどうし、鞘香に特別な感情を抱いているのだ。鞠子や踏絵よりも断然、鞘香と同じ靴を造れることに喜んだ。
そのことを察知した鞠子が、嫉妬丸出しの視線を鞘香にぶつけた。あいにく鞘香本人はのほほんとしていて気付かないが。
ついでに踏絵も、遠慮がちではあれど「むぅ……あたし、少しだけ鞘香と距離を置こうかしら……起田くんの恋敵として……」なんてことを真剣にぼやいている。
起田を巡る争奪戦が水面下で進んでいた。
「次はいよいよ製法の説明だ」
店主はサンプルを元の棚へ片付けると、製造手順について教示した。
工場生産ではない手作業は、昔ながらの工具を使った『職人芸』が求められる。そのため道具の取り扱いや作法には細心の注意が欠かせない。
「製造は昔ながらの『グッドイヤーウェルト製法』を用いる」
「ぐっどいやー?」
鞘香が聞き返すと、店主は簡潔に語って聞かせた。
「靴の内側にコルクを敷く。履けば履くほどコルクが沈んで、履き主の足型にフィットする。靴擦れを起こしにくく、長持ちする仕様だ」
「おお~っ!」
「それだけではない。グッドイヤーは縫製が細かい。シンプルな縫合のマッケイや接着剤で付けただけのセメント靴とは比べ物にならない丈夫さを誇る。また、グッドイヤーは靴底を剥がすのが容易で、靴底がすり減ったときに修理・換装しやすいのも利点だ」
「……でも、そんな複雑な縫製を初心者が出来るんでしょうか……?」
踏絵がもっともな質問を投げた。
縫製が得意な彼女でも尻込みする無数の縫い目が、ギリーシューズには溢れている。
「我輩の指導に従えば問題ない。三日で主要な工程を体験できるよう、細かな工程は我輩が夜なべして進めておく。諸君らは初日に木型を使って足型を測定し、靴の採寸を取る。その晩、我輩が大まかな縫合を済ませる。諸君らは二日目に残りを手縫いしてみよう。三日目は靴の塗装を体験できれば理想的だが、そこは時間との勝負だろうな」
「時間……?」
「オーダーメイドで靴を造る場合、普通は一~二ヶ月かかるのだよ」
「え! そんなに!」
だから主要な工程だけを掻い摘んで体験するのか。
店主が万全のサポートを敷いてくれるからこそ、今回の課外授業が実現した案配だ。とはいえ四足もの革靴を店主一人で補助するのも、大変な労力に違いない。
「グッドイヤー最大の難関は、何と言っても手縫いだ。大まかな縫合はミシンを使うが、細かい箇所は『すくい縫い』と『出し縫い』という手作業を行なう。中でもアウトソールをウェルトで『出し縫い』する工程が難しく――」
「ち、ちょっと待って下さい……いきなり言われても判りませんって……!」
踏絵が抗議の声を上げた。裁縫の得意な彼女でさえちんぷんかんぷんなのだから、他の生徒にはなおさら意味不明だろう。
「これは失敬。いったん能書きは後回しにして、今日の予定である足型の採寸を済ませるとしよう。床に紙を敷くから、その上に素足を乗せたまえ」
さっそく実習が始まった。
丸椅子が人数分用意され、そこに座った鞘香たちは紙の上に足の形を鉛筆でなぞらされた。さらに巻き尺で足の幅や長さ、太さを計測し、紙の余白に記入して行く。
「採寸が済んだら、その足型に最も近い『木型』を持って来るのだ」
店主が棚の上に積まれた木型を指差した。
木型とは、足の形状を模したマネキンである。昔は木製だったが、現在は合成素材が主流だ。自分の足型に似た木型をもとに、自分の足と瓜二つの肉付けを施す。
「個人の肉付きや骨の出っ張りに合わせて、木型に合成革を貼りたまえ。完成したらすぐに剥がし、別の型紙に乗せてなぞるのだ。それこそが足型の最終デザインとなる」
言われた通りにこなせば、型紙には各自の足型を写し取った線画が出来上がる。
「次に型紙を牛革へ乗せろ。銀ペンでトレースして切り抜けば、それが靴の外皮となる」
店主は試しに起田の型紙を取り上げて、箱詰めされた牛革の一枚に重ねようとした。
「牛革の色は黒と茶色、どっちが良い?」
「まだ高校生なので、明るい茶色がいいですね」
「了解した」
店主は茶色の牛革を取り出して、型紙を銀ペンで強くなぞる。
すると牛革に銀ペンの線がくっきりと残された。それに沿って裁断すれば、外皮のパーツを採取できるのだが、これがまた生徒たちにとって重労働だった。
「牛革を切り抜くのは、工具のヘラを使う。ヘラの先端は鋭利に磨かれており、強く押し当てれば切れる。全て手作業だ。根気が要るぞ」
「こ……これは疲れますね……」
踏絵がさっそく音を上げた。
鞠子がそれを横目に「そんなへっぴり腰じゃ起田くんと同じギリーを造るなんて言語道断ね」と挑発している。その起田も慣れない作業に手間取っているのだが。
この工程が本日、最も長い時間を要した。実は採寸するだけでもとっくに昼を過ぎていたのだが、牛革の裁断を終えた頃には夕刻を回っていた。
「今日はここまでにしよう」壁時計を見上げる店主。「牛革の切り出しまで終えれば上出来だ。今夜中に我輩が四人分の牛革を、ミシンで縫い合わせておこう」
「あの物々しいミシンですね!」
鞘香が指さしたので、店主は頷いた。
「ああ。何なら起田少年の牛革で、さわりの部分だけ実演してみせよう」
店主は中央テーブルに置かれた巨大ミシン機の電源を入れた。バイクのエンジン音さながらの重低音が鳴り響く。
「靴専用の、十八種というミシン機だ。革は布と違って、一度でも穴をあけたら縫い直しがきかない。ゆえに線が歪まぬよう、慎重に縫わねばならない」
店主は語りながら、慣れた手付きでミシンを動かした。
バラバラだった牛革の各部位が、一つに繋がれて行く。爪先の飾り革、横に広がるスロートライン、靴紐を通す鳩目、アキレス腱を包む月型芯――それぞれが糸で縫合され、靴を平面図に展開したような形を成した。
これを折り畳めば、革靴になる。
折り畳んだものを明日、手縫いで縫い合わせるというわけだ。
「諸君らの牛革は、そこの作業机に置いて帰るように」
店主は縫い終えた起田の牛革を、壁際の作業机に安置した。机の右端だ。
鞠子が素早く歩み寄って、その隣に自分の牛革パーツを置く。
出遅れた踏絵が右から三番目、最後に鞘香が左端に牛革を置いた。
机は何もない。せいぜい奥側に、塗装用のインク瓶やワックス瓶が保管されているのみだ。塗料独特の匂いが鼻に突いた。壁際なので、上部に四角い窓枠が開いている。
この窓にはガラスがなかった。
格子を何本か立てただけだ。外はとばりで塞がれていた。昔ながらの意匠である。とばりは持ち上げれば簡単に開閉するが、格子が邪魔して泥棒に入られる心配はない。
「ふうん、一応プロなだけあって作業の手際は良いわね」
鞠子がミシンにずかずかと立ち寄った。
珍しく興味を持ったらしい。ゴミ箱へ捨てられた糸くずにも興味津々で、ごそごそと手で漁ったりしている。
「この糸で、起田くんの牛革を縫ったのね」
もう一度だけ作業机に舞い戻り、起田の牛革をまじまじと見下ろした。
「何をしている、早く帰れ」
店主が入口から声をかけた。
みんなはすでに退出を済ませている。鞠子もやむを得ず、名残り惜しそうに工房を立ち去った。鞘香と踏絵には目もくれず、起田にだけ頭を下げる。
「ごめんね起田くん、もたもたしちゃって」
「うん、早く帰ろう。これから学校に寄って活動報告しなきゃいけないんだから」
初日はこうして終了した。一見すると何事もないが、火種は確実に仕込まれていた。
*
――二日目の朝、再び鞘香たちは鞣革製靴店へ集まった。
鞘香はセーラー服ではなくジャージで馳せ参じた。工房で制服を汚さないためだ。起田も同じくジャージで来たので、期せずしてペアルックの様相を呈した。
踏絵と鞠子が烈火のごとき嫉妬を込めて、鞘香を睨む。咄嗟に起田が弁明した。
「ゆうべ跡部さんにメッセージを送って、実習はジャージがいいって結論になったんだ」
起田の爆弾発言がまた辛い。
「鞘香……起田くんとメッセしてたのね……いつの間にスマホのID交換したの……?」
「踏絵、目付きがものすごく怖いよ」
人気者が特定の女子と会話していたら、やっかまれるのも致し方ない。
これも鞘香のパーソナルスペースが近いせいだが、最も逆鱗に触れたのは鞠子だった。
「起田くん、わたしを差し置いて跡部さんとばかり懇意にしててずるい!」
「僕らは部のエースどうしだから話しやすいんだよ。選手の気持ちを分かち合えるし」
「ひどい、マネージャーのわたしは所詮、起田くんを支えられないってこと?」
鞠子は憤慨しながら、大股で靴屋に乗り込んだ。
今日は裏口から入る。店が開いていないからだ。終日閉店して実習に専念する予定なのだろう。店主もまた裏口の前で待っていた。
「よく来たな。工房へ案内しよう」
店主の先導も待たず、彼の脇をくぐるようにして鞠子がすり抜けた。
鞠子は一足先に工房へ踏み込む。起田のつれない態度に腹を立て、半ば振り切るような闖入だった。窓際の作業机へ肉迫し、自分の牛革を確認する。
昨日は起田の牛革しか縫われていなかったが、店主の夜なべによって全員の牛革がミシンで縫製されていた。
されていた――のだが。
「きゃああっ! 何これ!?」
鞠子が悲鳴と同時にたたらを踏んだ。
床に尻もちを突く。制服が埃にまみれた。ジャージで来た鞘香を羨ましく思った。
「どうした?」
店主が駆け寄った。追いかけるように鞘香と踏絵、最後に起田が乗り込んだ。
そして――異変を目撃した。
「インク瓶が引っくり返ってる!?」
机の奥にあったインク瓶が、倒れていた。
蓋が外れ、黒いインクが机上の右端へぶちまけられている。
机の右端――起田の牛革が安置されていた場所だ。
茶色いはずの牛革が、ドス黒く塗り潰されていた。しかもすでに乾ききっている。
「僕の牛革が、インクまみれで台なしだ!」
革靴を塗装する特殊なインクである。通常のインクより粘着力が強く、色も濃い。ひとたび乾いたが最後、専用の薬剤でなければ除去できない。
「瓶が倒れただと?」仏頂面をさらにしかめる店主。「ゆうべ地震でもあったのか?」
「けど店主さん! 地震なら、隣のワックス瓶も一緒に倒れるはずじゃないですか?」
鞘香の言う通りだ。ワックスの瓶は微動だにしていない。インク瓶だけが倒れている。
謎だった。しかもインクがかかったのは起田の牛革だけ。他の牛革は雫一つない。
一体何があったのか――紐解くべき謎が、眼前に提示されていた。
*