七歳の時に両親が離婚し、母と二人暮らしになってから、私は少しでも母の負担を減らすため、家事を手伝った。
雑誌の編集者として朝から晩まで働く母は、仕事の帰りが遅く、家のことはいつの間にか全部私の担当になっていたので、家事が好きなのでも得意なのでもなく、やらざるを得なかったというのが実際のところだ。
都会の手頃なマンションでの母との二人暮らしには、特に不満もなかったが、つい先日、母が長年つきあっていた恋人との結婚を決意した。
相手の長倉さんとは私もよく会っていて、いい人だとはわかっていたし、二人の結婚に文句などなかったが、「だったら私、お父さんのところへ行ってみようかな」と自分の口からぽろりと出たのは、我ながら意外だった。
『え? なんで? 和奏、再婚には反対?』
慌てて問いかける母を『まあまあ』と宥めている長倉さんとの結婚を、反対する気持ちなど、私には微塵もない。
『ううん、大賛成だよ』
『だったらなんで?』
『うーん……』
自分でもよくわからないが、『いい機会』だから、父のところへ行ってみようかと、瞬間的に頭を過ぎったことだけは確かだ。
母と離婚してから都会を離れ、遠い故郷の田舎へ帰った父とは、十年来会っていない。
折に触れて、母が手紙を書くようにと促すので、私は写真を添えた手紙を時々送っているが、父から帰ってくるのはいつも写真のみだ。
それも父本人は写っておらず、緑豊かな田舎の風景が写された写真ばかり。
『信治さんらしい……』
楽しそうに笑い、父が送ってくれた写真を居間のコルクボードに並べて貼っていた母が、どうして父と別れたのかを私は知らない。
母が寝食を忘れるほどに仕事に没頭していったのは、父のことを忘れるためもあったのだろうと今ならばわかるが、訊ねるタイミングをすっかり逃してしまった。
私の記憶に残る父は、部屋にこもってばかりで口数の少ない人という印象なので、今更あちらに訊ねてみても答えは貰えないだろうが、離婚の理由を訊いてみようかと思ったのも理由の一つではある。
それから――。
母と暮らしていたマンションの、リビングのコルクボードに貼られていた写真をいったん頭に思い浮かべ、それから私は改めて目の前の景色へ視線を移した。
父が住む家の縁側から眺める庭は、人が行き来する部分と洗濯もの干しが置かれた部分を除き、あとは全て緑に覆われている。
私の腰ぐらいの高さで、こんもりと丸く切り揃えられているのは躑躅の木。
一番奥に、壁のように並んでいるのは山茶花。
屋根よりも高い、柿や枇杷や栗の木。
上にではなく左右に枝を大きく伸ばした、松の木と梅の木。
その横に寄り添うように繁る、南天の木。
樹木の名前は、ほぼハナちゃんからの受け売りだが、季節を通してさまざまな花が咲き、実が生り、眺めていて飽きることのない立派な庭だとハナちゃんは褒める。
事実、父が撮ったこの庭と、その奥にどこまでも続く鬱蒼とした森の写真を見て、実際に見てみたいと思ったのが、私がここへ来た理由のもう一つではある。
縁側にこうして座っていると、時が経つのを忘れる。
家にテレビがないことと、電波状況が悪くてスマホがほぼ使いものにならないこともあるが、ここで庭を眺めていると、何も考えずにのんびりしていられた。
冷蔵庫にどんな食材が残っていて、それで今晩は何を作ろうかとか、明日は天気が崩れそうだから、今日のうちに大きな洗濯ものは済ませてしまおうだとか、家事のことだけ考えていられる間は、この家での暮らしを私はずいぶんと気に入っていた。
しかし――。
(転校手続きはしたけど、新しい学校でどのあたりまで授業が進んでいるのかは聞きそびれちゃったな……そもそも教頭先生にわかるとも思えないけど……)
二学期からはこちらの学校へ通おうと、夏休みに入るとすぐに手続きはしたものの、高校も二年になって学校を変わるということがどれほど面倒か、私はよくわかっていなかった。
(せめて二学期が始まるのにあわせてこちらへ来るべきだったかな……早くここでの生活に慣れたほうがいいかと思ったんだけど……することがない……)
都会にいた頃も、友人と頻繁に出かけたりするほうではなかったので、どうせSNSでやり取りするのならば遠くでも変わらないだろうと思っていたが、そもそもそれが繋がらない。
父はほぼ仕事小屋から出てこないので、ハナちゃんが来てくれなければ、誰とも話すことなく終わる一日が続いてもおかしくない状況だった。
(すごく仲がよかったってわけじゃないけど……みんな私のことなんてすぐ忘れちゃうんだろうな……)
あまり多くはなかった友人たちの現在を想像し、一抹の寂しさを感じ、ここへ来た選択を少し後悔する気持ちが芽生え始めた時、ハナちゃんがふいに口を開いた。
「することがなくて暇じゃったら、上之社の展望台に行ってみたらどうじゃろ」
「上の社? 展望台……?」
暇すぎて縁側に寝転がっていたことをハナちゃんに見破られしまい、少し恥ずかしく思いながら、私は聞き慣れない言葉を確認した。
「ああ。麓に大きな神社があるじゃろ? そのもともとの社が山の上にあって、町の全部を見渡せる展望台があるんじゃ」
「へえ……」
それはとてもいい景色だろうと、私が興味を持ったことが嬉しいらしく、ハナちゃんはにこにこと勧めてくれる。
「車で登れる道はないけえ、送っていってはやれんけど、ここからなら一時間もかからんじゃろ。時間があったら、『うてな』を探してみるのもいいかもしれん」
「『うてな』?」
「ああ、今の展望台が整備されるよりずっと前に使われちょった、自然の見晴らし台やね……どこにあるのか誰も知らんけど、古い言い伝えがあって……」
「言い伝え……」
説明に耳を傾けながら、もうすでに、縁石の上に脱ぎ捨てていたスニーカーを履き始めた私を、ハナちゃんは嬉しそうに見つめる。
「ああ。夕暮れ時に、その『うてな』へ行ったら、『いろんなもの』が見れるんじゃそうだ……『いろんなところ』へ行けると言う人もおる」
「それって……?」
いったいどういうことだかわからず、首を傾げる私に、ハナちゃんはふぉふぉふぉと笑った。
「さあ、わしにもよくわからん。ほんとに『うてな』を見つけたっちゅう人も知らんしね」
「ああ……」
都市伝説のようなものかと笑い返す私の肩を、ハナちゃんはそっと叩いた。
「どのみち、夕暮れまで上なんぞにおったら、帰りの道は真っ暗じゃ……そうならんうちに、帰ってくるんじゃよ」
私は、この家に来てからほぼ時計としてしか機能していないスマホの画面を見て、まだ昼を少し過ぎた時刻なことを確認し、庭に下り立った。
「うん、行ってくる。ハナちゃん、ありがとう!」
笑顔で手を振るハナちゃんに見送られながら、颯爽と出発したはいいものの、スマホを忘れてしまったことに気がついたのは、でこぼこの山道を、山頂にあるという『上之社』目指して、かなり登ったあとだった。
(まあいいか、一時間ぐらいで着くだろうってハナちゃんも言ってたし……)
そう決断した時は、私はまだ、森の怖さというものをまったく理解していなかった。
車も通れるほどの広さだった道幅が、やがて人一人が歩くのにちょうどの狭さになり、ある程度の前方まで見渡せていた視界が、前後左右すべて見上げるほどの木々に遮られてしまうに至り、軽率に出かけてきたことを後悔しそうになった。
(いったいどこまで行ったら頂上なの? もう一時間以上歩いたんじゃないかな……ハナちゃーん!)
疲れた足をひきずり、心の中だけで、助けを求める叫びを上げた時、ようやくそれらしき場所へと着いた。
苔むした石造りの鳥居の向こうに、角度の急な石階段が見える。
近づいてみても、登った先に何があるのか見えないほど長い石段だが、鳥居の脇の石碑に『髪振神社上之社』と彫られているので、おそらく私が目指していた場所にまちがいないだろう。
「着いたあ……」
ほっとひと息をつき、鳥居の横の岩肌をちょろちょろと伝い流れている湧き水で、手を洗った。
冷たい水が心地いい。
両手ですくって少し飲んで、それから私は再び歩き始めた。
途中で大きな風が吹いた時にも感じたことだが、ふとしたきっかけで、山の空気はガラリと変わる。
今もそうで、私が鳥居を潜って石段を登り始めた途端、また体感温度が下がったように感じた。
(寒いくらいだ……)
もうすぐ七月も終わり。
まさに夏真っ盛りのはずなのに、半袖の上に何か羽織ってくるべきだったかと後悔するほど、山の頂上付近は涼しい。
アスファルトの照り返しでじりじりするようだった都会とは、まるで違う国へ来たかのようだ。
(暑い暑いって言いながら、お母さん、今日も仕事へ行ったんだろうな……)
母のことを思うと少し胸が痛むので、しばらくは考えないように努力しながら、私は石段を登った。
登りきった先は、想像していたよりもずっと拓けた場所だった。
神社の拝殿と、その奥に本殿、お守りやお札の授与所と、社務所らしき建物もある。
しかしそのどれも無人で、授与所に至っては閉めきられており、私以外には人の気配もなかった。
「…………」
ひとまず拝殿でお参りしてから、ハナちゃんが言っていた『展望台』へと向かう。
敷地をぐるりと囲っている柵に沿って進むと、すぐにそれらしき場所へ到着した。
「わあああっ」
思わず大きな歓声を上げずにはいられない。
確かにその場所からは遥か眼下に見下ろす形で、町を一望することができた。
大きな川沿いに田園と住宅地が広がり、高いビルはほとんど見当たらないこの『髪振町』は、人口四万人弱の、山も海もある町だ。
主な産業は農業と漁業だが、世界的にも名の知れた大きな企業の工場もある。
田舎のわりには若者が多く、高校が三つ、短大と大学も一つずつあった。
私が九月から通うことになっている中高一貫の女子高も見え、家からの大筋の道のりを確認できた。
(やっぱり自転車かな……山を下りるのは楽だけど、登るのは……地獄だな)
今のうちに体力と脚力をつけておくべきかと、腕組みをした時、視界の隅を何か黒いものが横切った。
「あれ……?」
思わずそちらへ視線を向けてしまったのは、長い髪の女の子のように見えたからだ。
社は無人だったので、私のようにわざわざ山を登ってきたもの好きが他にもいたのかと、確認しようとしたが、すでに姿がなかった。
「え? ……え?」
影が消えていった先は、柵の向こう。
原生林が鬱蒼と繁る中だ。
落下防止の防護柵を越えてまで、そんな場所へ入っていく理由がわからず、思わずその場所へ駆け寄る。
「あ……」
長い髪を翻らせて、確かに私と同じくらいの年齢の女の子が、木々の間に消えていった。
「いったいどこへ……?」
その子の行き先が、どうしても知りたかったわけではない。
ましてやあとを追ってみようなどと、思ったのでもない。
それなのに、柵から乗り出して少女の姿を確認しようとした私は、大きくバランスを崩して、防護柵の向こうに落ちてしまった。
「きゃあああああっ!」
木の枝や葉にバサバサとぶつかりながら、いったいどれぐらい落下してしまったのかわからない。
気がついた時には、断崖絶壁からわずかに突き出た足場のような場所に、仰向けで横たわっていた。
崖の下まで落ちず、運よくその場所にひっかかったらしい。
落ちてしばらく気を失っていたらしく、いつの間にか日が暮れかけている。
夕焼けに染まる真っ赤な空を見上げながら、ぼんやりと考えた。
(助かった……)
と、その時――。
私の視界を全て埋め尽くすようにして、見知らぬ女の子の顔がぬっと目の前に現れた。
「ちょっと! あなた大丈夫!? 大丈夫なの!!!?」
「――――」
必死で呼びかけてくれるのに、私がすぐに返事をできなかったのは、その子の顔があまりにも整いすぎていたからだ。
びっくりして、思わずまじまじと見つめてしまった。
睫毛のびっしりと生えた大きな瞳が印象的な、抜けるように白い肌の、日本人形のように綺麗な女の子だった。
腰まである長い黒髪はまっすぐサラサラで、襟と袖とスカートが紺色の、白いセーラー服を着ている。
(あ、これって……秋から私も通う聖鐘女学院の制服だ……可愛い子が着るとほんと可愛いな……私、大丈夫かな……?)
そんなことを考えながらぼんやりしている私を見つめる女の子は、大きな瞳からぽろぽろと涙を零している。
拭っても拭っても溢れてくるらしい涙を見ながら、また「綺麗だ」などという考えが頭を過ぎったが、客観的に考えてみれば、彼女が気の毒だと気がついた。
(これって……早く返事してあげたほうがいいよね?)
私は急いで、こくこくと彼女に頷いてみせた。
「私は、大丈夫……みたい……ありがとう」
「よかったあ」
彼女は大きく叫んで、そのまま足を投げ出し、地面にぺたりと座りこんだ。
私も起き上がって、彼女と向かいあうようにして座ってみる。
腕や足に多少の擦り傷はあるが、大きなけがのようなものはない。
ほっとしながら改めて、自分が今いる場所を見渡した。
白詰草がびっしりと生えているその場所は、マンションのベランダほどの広さしかない。
あまり端に寄ると、また崖下へ落ちてしまいそうだ。
かなり端のほうにいる女の子のスカートの裾を、思わず掴んだ私を、彼女は涙に濡れた瞳で見つめる。
「ところで……あなた誰? いったいどうやってここへ来たの?」
(どうやってって……)
私は頭上へ視線を向けた。
ここがどこかはわからないが、上之社があった山の頂上より低い位置であることは確かだ。
今のところはっきりしている情報だけ、ひとまず伝えておく。
「私は……青井和奏。高校二年生、十七歳。たぶん……上の神社から落ちた……のかな?」
「落ちたですって!?」
女の子はただでさえ大きな瞳をますます見開いて、驚愕の表情で私を見た。
(よく表情が変わって、見てて面白い子だな……)
私の心の声が聞こえたわけでもないのだろうが、自分の大きな声が森にこだましたことが恥ずかしかったらしく、彼女はこほんと咳ばらいをして、私の目の前に座り直す。
「うまくここで止まれて、運がよかったわね、和奏。上之社から麓まで落ちたら、猪や兎や鹿だって、助からないわ。よく麓で死体が見つかるのよ」
「そ、そうなんだ……」
あまり嬉しくはない例を出されて、思わず自分で自分を抱きしめた私を、女の子は黒目がちな瞳でじいっと見つめる。
どきりと胸が跳ねた。
(何……?)
彼女がふいに口を開く。
「私は、椿。成宮椿。和奏と同じ高校二年生よ……ここは私の秘密の場所なの。一人きりになりたい時、よく来るんだけど……他の人と会ったのはこれが初めてだわ。隠し通路を抜けたらあなたが倒れてて、心臓が止まりそうにびっくりした」
「驚かせてごめんなさい……」
頭を下げつつも、私は首を捻らずにはいられなかった。
「……隠し通路?」
首を傾げた私に、『椿』と名乗った女の子は、背後の崖を指してみせる。
「そうよ。蔦で見えないけど、あの裏に、人一人通れるだけの穴があるの。中は真っ暗だけど……緩やかな勾配になっていて、山の頂上付近の大きな岩まで続いてるわ」
「そうなんだ」
それでは彼女は、山頂近くのその岩へ向かうため、防護柵を越えて原生林の中へと踏み入ったのだ。
そうとも知らず、行く先を確かめようとしてバランスを崩し、崖から転落した自分が情けない。
「…………」
なんとも言えず視線を地面へ向けた私を、彼女がまだじいっと見ている気配がする。
「あの……何か……?」
気になって問いかけようとしたが、彼女の声が重なった。
「あなた、この町の人間じゃないでしょ」
「え……?」
突然何を言われたのかと間が空いてしまったが、確かに彼女の言うとおりなので、私は正直に頷く。
「うん、そう。このあいだ、越してきたばかり」
「やっぱり」
なぜわかったのかを訊ねるまでもなく、彼女が説明してくれた。
「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」
少し棘のある声でそう呟くと、彼女は長い髪を翻して私に背を向け、原生林の向こうに広がる麓の景色を指す。
「あの丘の上に大きなお屋敷があるでしょう? あれが私の家」
彼女が指した場所には、工場や学校などにも匹敵する面積を有する建物群があった。
いくつもの家屋と蔵のようなもの、小屋や木々、それらを取り囲む長い白塀が見える。
ぱっと見にはとても個人の邸宅には見えないが、もし本当にそうならばかなりの資産家にまちがいない。
「すごく大きなお家だね」
率直に感想を言った私に、彼女は叫んだ。
「私は大っ嫌い!」
うしろ姿なのでその表情は見えないが、彼女のこぶしは、固く握られている。
細い肩も震えているように感じ、私はそっと呼びかけた。
「椿ちゃん?」
黒髪を翻してもう一度こちらを向いた彼女は、目にいっぱい涙を溜めていた。
私を呼び起こした時も泣いていたが、あれはこの場所に到着する前から、すでに泣いていたのではないかと思う。
だからあれほど、拭っても拭っても涙が止まらなかったのではないだろうか。
(椿ちゃんはここを『私の秘密の場所』って言った。『一人きりになりたい時よく来る』とも……だとしたら悪いことしちゃったな……)
興味本位で私があとを追ったせいで、彼女の大切な時間を邪魔してしまったのではないかと、申し訳ない気持ちになる。
「あの……」
謝ろうかと発した声に、また彼女の叫びが重なった。
「私だって好きなことがしたい! 行きたい場所へ行って、食べたいものを食べて! 友だちと他愛もない話をして、一緒に笑って、泣いて! 今しか作れない思い出をいっぱい作りたい! ……私だって!」
それはどれも、私にはまったく関係のないことで――でもだからこそ、彼女は思いっきり叫べたのではないだろうか。
彼女の立場や、置かれている状況や、責任や決まりごとなど何も知らない――この町に越してきたばかりで初対面の私にだからこそ、彼女は思いっきり本音をぶつけることができた。
そう感じたので、私はめいっぱい彼女の思いを肯定することにした。
私が迷ったり悩んだりした時、母がいつもそうしてくれたように――。
「うん、そうだよね。私もそう思うよ」
「――――!」
私の返事を聞いた椿ちゃんが、今にも零れ落ちんばかりに大きく目を開き、そこでみるみるうちに膨れ上がった涙が、ぽろぽろと止まることなく白い頬を伝う。
「うわーん!」
大声を上げて子どものように泣きだした彼女に寄り添い、私はその頭をよしよしと撫でた。
思いっきり泣いてすっきりした彼女が落ち着くまでにはかなりの時間がかかったが、次第に闇に沈んでいく町の光景に不安を覚えながらも、私は彼女を急かすことはしなかった。
「勉強も、習いごとも、お稽古も、この夏は一度も休まないってお父さまに誓ったの。だからせめて一日だけ、私の好きなように過ごさせてほしいって……なのに、それでもダメだって言われるんだもの……もう嫌になるわ……」
さっきまでの激しい調子ではなく、淡々と不満を呟く椿ちゃんと手を繋ぎ、私は山道を歩いていた。
二人であの場所にいるうちにすっかり日が暮れてしまい、いったいどうやって家へ帰ったらいいのかと焦った私に、何を困ることがあるのかと椿ちゃんが手をさし伸べたのだ。
「日が暮れたら、月明かりで歩けばいいのよ……月がない夜なら、星明りという手もあるわ」
彼女の言うとおり、頭上から私たちの行く末を照らす月は、私が知っているそれよりもかなり明るいように感じた。
私よりも山歩きに慣れているという椿ちゃんと手を繋いでいれば、尚更安心だ。
「ええっ? 来る時は森を抜ける道から来たの!? あれは動物しか通らない獣道よ。人間が登る道じゃないわ……人間はこちら側から登るのよ」
椿ちゃんに教えてもらった帰り道は、確かに私が行きに通った道よりもなだらかで、周りが見えなくなるほど背の高い樹木もなかった。
空が隠れることもなく、おかげでずっと月明かりの中、歩き続けられる。
(仕方ない。だってうちの家が獣道沿いにあるんだもの……ハナちゃんのせいじゃない。うん)
上之社へ行くことを勧めてくれたハナちゃんに罪はないと、心の中でくり返しながら、私は歩き続けた。
いったんこの道を麓まで下りて、またいつもの道を登るのは時間がかかるだろうが、真っ暗な森の中を進むよりかえって早いはずだと思うことにする。
幸か不幸か父は、仕事小屋を出て住居部分へ帰ってくることがほぼないので、私の帰りが多少遅くなっても、気づきはしないだろう。
「高校を卒業したら東京へ行きたいって野望は、まあ今はもう言わないでおくから……せめてこの夏に、一日隣街へ遊びに行きたいって希望くらい、叶えてくれたっていいのに……」
椿ちゃんはぶつぶつと呟きながら、私と繋いだ手を大きく振る。
「まあ、どうせ私には……一緒に行く友だちもいないけどね……」
照れたように笑いかけられた瞬間、私は椿ちゃんと繋いだ手を高々と掲げた。
私のほうが背が高いので、彼女は腕を吊り上げられて、つま先立ちのような格好になる。
「え? 何?」
焦る椿ちゃんに、私は笑いかけた。
「じゃあ私と一緒に行こう!」
「……え?」
それは彼女にとって、とても思いがけない提案だったらしく、かなり驚いた顔を向けられる。
その表情が面白くて、私は頬が綻ぶ。
「今日出会ったばかりだけど、私も秋からは聖鐘女学院に通うし、一足先に『友だち』ってことでどうかな? それで……『友だち』の私と一緒に、隣街へ遊びに行く……それが椿ちゃんのやりたいことなんだよね?」
私の言葉を聞きながら、彼女の表情はみるみるうちに笑顔へと変わった。
「行く! 行く行く!」
「お家の人には黙って行くことになるけど、買いものしたりお茶したりするぐらいだよね? ちょっと行ってすぐに帰ってくれば大丈夫じゃないかな」
この町へ来る時に電車で通り過ぎた、いかにも地方の少し栄えた街というふうの隣県を思い返しながら、私は提案する。
椿ちゃんは目をきらきらさせて、私の手を両手で握りしめた。
「ありがとう和奏! 明日10時に、駅で待ってるね!」
「うん、10時ね、わかった」
麓に着いて道がわかれてからも、椿ちゃんは何度も私をふり返り、嬉しそうに手を振りながら帰っていった。
私も嬉しかった。
新しい町で新しい友だちができたこと、この夏と、そのあとに控えている秋からの新学期を、どうやら一人きりで過ごさずに済みそうなことには、上之社へ行ったらと勧めてくれたハナちゃんと、そこで出会った椿ちゃんに、感謝してもしきれない思いだった。
山の麓から、父の仕事小屋兼住居へと続く道を登っていると、遠くで人の声が聞こえた。
(珍しい……こんな夜に……)
昼間でもハナちゃんぐらいしか来ることのない家だが、夜になるとそれもないので、家の外から聞こえてくるのはいつも、鳥の声や虫の声くらいだ。
静か過ぎていっそ怖いほどだが、真夜中でも常に人の声や車の音が窓の外から聞こえていた都会から来た身としては、憧れていた環境と言えなくもない。
しかし、夜の人の声となれば、少し話は別だ。
(ちょっと怖いな……)
警戒しながら道を登り続けるうちに、私はそれが父の声だと気づいた。
(え……お父さん?)
しかもしきりに、私の名前を呼んでいる。
「和奏ー……どこだ? どこにいるー? 和奏ー」
私は慌てて、それまでのんびりと登っていた道を駆け上がった。
「お父さん! ここだよ!」
庭の植え込みを揺らしてざざざっと父の前に走りこんだ私を見て、父は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
仕方がないので私のほうから訊ねる。
「どうしたの?」
頭に被っていた手拭いを取り、ぺたんこになった髪を雑にかき上げながら、父は私に背を向けた。
「いや、特に用はないが……母屋に帰ってきたらお前がいないから……」
ぽつぽつと呟かれる言葉は、単に事実を述べているだけで、それに関して父がどう思っているのかの説明はない。
口数が少なくてあまり自分のことを語らない父に、母はよくイライラして、もっともっとと言葉を求めていたが、その気持ちもわからなくはない。
父が言わないので自分で推し測るしかなく、夜に出歩いていたことを咎められているのだろうと、私は解釈した。
「ごめんなさい……こんなに遅くなると思わなくて」
「そうか」
うしろ姿のまま呟き、家の中へ入っていく父に、私も続く。
(どこへ行ってたのかとか、誰といたのかとか……訊かれたら訊かれたで鬱陶しいと思うのかもしれないけど……何も訊かれないっていうのもな……)
まるで『お前が何をしようと関係ない、興味もない』と言われているかのようで、そもそも父のところへ来たこと自体を、後悔してしまいそうになる。
(そうじゃない! お父さんはあまりしゃべらない人なんだって、昔の記憶でも、ここに来てからの経験でも、よくわかってるじゃない……無関心とかそういうことじゃないんだよ、たぶん……きっと……)
断定できないところが我ながら苦しいが、そう思っていなければ、ここへ来た私の選択は、父にとっては迷惑でしかないという結論にたどり着いてしまい、悲しくなる。
(迷惑……なのかな……)
紺地の作務衣に包まれた広い背中を追って、私も家の中へ入った。
「お仕事、ひと段落したの?」
「ああ……」
向かいあって少し遅い夕食を食べながらの会話は、途切れ途切れで、時々沈黙が続く。
父の家へ来て始めの頃は、なんとか話を続けようと、無理に話題を探していたが、一人で空回りするのに疲れて、最近ではもう気にしないことにしていた。
どうしても話をしなければいけないわけではない。
黙って食事に専念するのも、作法には適っている。
とはいえ今日の夕食は、昼にハナちゃんが持ってきてくれたおにぎりの残りと、朝食の味噌汁の余りと、常備食の漬物だけになってしまった。
これは完全に私の落ち度で、父に申し訳ない。
「ごめんね、今日はご飯ちゃんと作れなくて」
味噌汁の椀に口をつけながら謝ると、父がはっとしたように私を見た。
「いや……じゅうぶんだよ」
慌てて漬物を掴む箸を握る手は、赤や緑の染料で汚れている。
父が作る陶器は、焼き上げてから表面に絵を描く種類のものだ。
繊細な草花の絵が特徴的で、ひそかに人気もあるらしい。
私はここへ来るまで、父がそういう仕事をしていることさえ知らなかった。
昔から手先が器用な人ではあったが――。
(…………)
服の中に隠すようにして、首から下げているペンダントに意識が集まる。
それは小学校に入学してすぐの授業参観で、父と一緒に作ったものだった。
プラ板に熱を加えると縮むことを利用しての小物作りだったが、私の描いた絵に見事な縁取りと鎖をつけ、瞬く間に可愛らしいアクセサリーにしてしまった父の手腕は、友人たちからとてもうらやましがられた。
私としても自慢だった。
だからそれからずっと、いつもこのペンダントを下げていた。
あの頃はまだそれが、父が来てくれた最初で最後の授業参観になるとは思っていなかった。
母と暮らしたマンションを出て、父の住むこの家に来るにあたり、机の引き出しの奥にしまっていたこのペンダントをひっぱり出してきたのは、何がしかの会話のきっかけになるかもしれないと思ったからだ。
しかし私がこれみよがしにこれを下げていても、父は何も言わなかった。
ひょっとすると、気づいてさえいなかったかもしれない。
(まあ、それでもいいんだけど……)
考えていると気持ちが落ちこみそうだったので、私は頭を切り替えることにした。
「明日ね、ちょっと友だちと出かけることになったから」
「友だち?」
突然の私の宣言に、父はかすかに首を傾げる。
「もうできたのか? 早いな……」
ほんの少し笑ってくれた気がして、私も頬が緩む。
「うん、今日仲良くなったの……昼前に出るけど、夕方には帰ってくるから……晩ご飯、何か食べたいものがある?」
父は困ったように私から視線を逸らした。
「今から、次の仕事にとりかかるから……」
「そっか……」
作業に入った父は、朝昼晩という食事の仕方をしない。
少し時間ができた時に、それも流れの一環であるかのように、急いで食べものを体内に摂りこむ。
だからこそ、ハナちゃんが持ってくるのは『おにぎり』なのだろうし、父は滅多にこの母屋まで帰ることはない。
私がここへ来たことで、その習慣を変えようともしてくれたが、私が断った。
私は父の仕事の邪魔をしたくて、ここへ来たのではない。
だったら何がしたいのかと訊ねられると、自分でもよくわからないのだが――。
(明日からは、またこんなふうに向きあってご飯を食べられるかどうか、わからないってことね)
心の中で確認してから、私はとっくに食べ終わっていた自分のぶんの食器を持って立ち上がった。
「じゃあ私の好きなもの作ろうかな……」
食器を流しへ下げようと、台所へ向かって歩き始めると、父に呼び止められる。
「和奏」
「何?」
いったい何だろうとふり返ったが、父は軽く首を振ってまた私から視線を逸らした。
「いや……なんでもない……」
父が言おうとして呑みこんでしまった言葉がどんなものなのか、知りたくはあったが、どう訊ねたらいいのかは私にはわからず、再び背を向けるしかなかった。
翌日。
駅で待っていた私の前に現れた椿ちゃんは、白いワンピースに麦わら帽子という絵に描いたようなお嬢さまスタイルだった。
「わあっ、可愛い!」
思わず声を上げた私から、頬を赤くして顔を逸らす。
「ちょっと散歩に行くだけだって言うのに、どこで誰に会うかわからないからちゃんとした格好をしないとってお母さまが……」
不満そうに口を尖らせている表情さえ可愛いと、本人に言ったら嫌がられそうだが、事実なのだから仕方がない。
「よく似あってるよ」
軽く背中を押して歩き始める私に、やっぱり椿ちゃんはしかめ面をした。
「どうせ着るなら和奏みたいな服がいい」
「そう?」
なんでもないブラウスに膝丈のスカートという私の格好は、あのお屋敷のお嬢さまとしてはやはり不釣り合いなのではないかと思う。
「椿ちゃんにはその服がいいと思うけどな……」
「えーっ」
正直に伝えると、不満そうな声を上げられた。
ぶつぶつとまだ何か言いながら、椿ちゃんは駅員さんのいる窓口で切符を二枚買い、一枚を私に渡す。
「え、お金自分で出すよ?」
焦る私に、いいからいいからと強引に切符を握らせてしまった。
「私のわがままにつきあってもらうんだもの、ここは出させてよ」
「わかった。じゃあ帰りは私が払うね」
「それじゃ意味ないじゃない!」
今日もくるくるとよく表情の変わる椿ちゃんと一緒に、二番目のホームで電車を待っていると、線路の向こうからもくもくと白い煙が見え始めた。
「え……?」
まさかどこかで火事でもと焦ったが、私以外は誰も動揺していない。
それどころか椅子に座っていた人も立ち上がり、みんな電車に乗るための整列を始める。
「和奏、なにやってるの? ほら並ぶわよ」
椿ちゃんに促されるまま列に並んだが、その間にも、遠くに見える煙がどんどん大きなる。
「ねえ椿ちゃん……あの煙って……」
私が問いかけようとした時、煙の中から大きな黒い列車の車体が現われた。
「なっ……!」
息を呑む私の前にそれはどんどん迫り、シューッと上気音を響かせてホームに停まった。
中から人が下りてくるのと入れ替わりに、ホームで電車の到着を待っていたはずの人たちが次々と乗りこむ。
「和奏、早く!」
乗降口に足をかけた椿ちゃんのあとを、私も慌てて追ったが、頭の中は疑問符だらけだった。
(蒸気機関車……だよね? これに乗るの? 確か町に初めて来た時は、普通の電車だったような……)