月が変わり、八月になると、山の中腹に位置する父の仕事小屋兼住居でも、さすがに暑さを実感するようになった。
「暑い……」

 縁側にだらしなく伸びている私を、ハナちゃんは情けないと笑う。
「私の若い頃は、暑さなんて気合いで吹き飛ばしちょったけえ……いつでも着物をぴしっと着ちょったけえ……!」
「確かに……」

 若かりし頃のハナちゃん――百合さんの着物姿を思い返しながら、私は彼女が持ってきてくれたアイスキャンディーを舐める。

「お父さんにも、持っていってあげてねぇ」
 そう言い残して帰っていったハナちゃんに従い、私は残りの五本のうち四本を台所の冷凍庫へ入れ、あと一本を持って、父の仕事小屋へ向かった。

 途中、現在稼働中らしい焼きものの窯が、あり得ないほどの熱を発している。
「暑い! 熱い!」

 私はそこから逃げるように、父が作業場として使っている部屋の扉を開けた。
「お父さーん。アイス食べるー? って……わあっ!」

 中から一気に流れ出してきた熱気に、思わずのけ反ってしまった。
 父の作業部屋は、もともと祖父が絵を描いていたアトリエで、外の景色がよく見えるよう窓が多く設けられていたが、父がそれを改造して、いっそう増やしていた。

 焼きものを乾燥させる時や、絵付けのあと部屋の空気を入れ替える時などに、窓を開けることが多いからで、「窓さえ開けておけば夏でも涼しい」と父は自慢していたが、その窓を閉めきっているとなると話にならない。
 ガラスが多いぶん室内温度が上がりやすく、かえって自殺行為だ。

「ちょっとお父さん! 生きてる!?」
 私が慌てて父のいる部屋の左奥へ踏みこむと、机代わりのテーブルの上に上半身を乗せ、完全に伸びている父の姿があった。

「生きてる、生きてるって……あれ? なんで冴子がここにいるんだ?」
「私がお母さんに見えるくらい、完全に参っちゃってるじゃない!」
 私は持ってきたアイスキャンディーを袋ごと、父の顔に押しつけた。



 夕刻、ようやく起き上がれるようになった父と、少し早めの夕食を食卓で囲んだ。
 脱水しかけたのだから、水分を多めにとったほうがいいだろうと、ハナちゃんが持ってきてくれた夏野菜を中心に、今日のメインは冷しゃぶにした。

 軽く湯通しして薄く切った茄子や糸瓜を、同じように薄切りにした胡瓜と一緒に酢味噌で食べると、とても美味しいということを、私は父のところへ来てハナちゃんから学んだ。

 細かく切ったオクラにだし醤油をかけて、飽きることなく混ぜ続けている父は、時々思い出したかのようにそれをすする。

「いやぁ、あの時、和奏が来てくれて本当によかった……そうじゃないと脱水で死ぬか。軽くても熱中症で病院へ運ばれるところだった……」
「本当にそうだよ! どうしてあの暑い中、窓も開けないで仕事してるの?」

 硬めに炊いた玄米入りのご飯に、ハナちゃんが山で掘ったという自然薯をすりおろしてかけて、モリモリ食べる私の真似をし、父もオクラをご飯にかける。

「実はあの部屋。エアコンがついてるんだ……」
「ええっ?」
 思いもかけない返答に、私は目を見開いて父の顔を凝視した。

「今年もついに使う日が来たかと思って、窓を閉めきってスイッチを入れて、効き始めるのを今か今かと待っていたら、いつの間にか……」
「意識が朦朧としてきて、そこに私が踏み入ってきたってわけね?」
「ああ……だから本当に、和奏は命の恩人だ。ありがとう!」
「…………どういたしまして」
 始めのうち私をお母さんと見まちがえていたとは、教えずにおいてあげた。



「だけど実際、これからもっと暑い日があるかもしれないことを考えると、いくら山の中でも、扇風機だけっていうのは、少し心配だよね……」
 私と父の間で、懸命に首を振り続けている扇風機のことを見ながら言うと、父も頷く。

「ああ……それにも関連して、一つ提案があるんだが……」
「何?」
 ご飯をほおばりながら視線を上向けた私に、父は少しいたずらっぽくにやりと笑った。

「これからも俺とこの家で暮らすなら、自分の部屋がほしくないか? 和奏」
「ほしい! それはもちろんほしいよ!」
 私は猛烈な勢いで父の話に食いついた。

 古い日本家屋によくある造りの、縁側に面した六畳二間と、その北側に寝室と台所と水回りが集中するこの家は、襖で仕切ればそれぞれが独立した部屋になるとはいえ、普段はそれを開けたままの、実質2DKだ。

 しかもそのうち寝室は、もともと父が自分の部屋として使っていたので、私は床の間のある部屋に布団を敷いて、毎日それを上げ下ろししている。
 どうしてもベッドがいいわけではないが、せめて自分の荷物を置いておける私室はほしかった。

「どうするの? お家を建て替えるの?」
 夢に胸を膨らます私に、父はため息を吐く。
「そこまでのお金はないよ」
「そうよね……」

 父の仕事がどれだけの収入になっているのか、実際のところを私は知らないが、あまりお金を使わず、質素倹約を心がけていることは確かだ。

「じゃあどうするの?」
 問いかけた私に、父はまたにやりと笑ってみせた。

「自分でリフォームする。まあ仕事の合間を縫ってだから、何年計画になるかわからないがな」
「え……すごいじゃない」

 最近は古い古民家を買って、リフォームするのが流行っているし、リノベーションしたアパートに借り手が殺到するなどの例もある。
 ものを作ることが仕事の父ならば、おそらく細部にこだわって、他にはないリフォームをするのではないかと、それはそれでわくわくした。

「いいよ、いいよ。がんばって」
 応援する私に、父は呆れたように言う。

「もちろんお前もやるんだよ、和奏」
「え? ……私も?」
 それは発想になかったが、考えてみれば自分でやるのも楽しそうではある。

「おおもとは俺がやるけど、何か希望があったらあらかじめ言ってくれ。洗面所とは別のパウダールームがほしいなんて、後で言うなよ」
「え? なにそれ? ほしい! ほしい!」
 叫ぶ私に、父は床に無造作に積まれたインテリア雑誌を指した。

「お前の部屋の内装は、お前に任せるから……いろいろと見て勉強して、考えてみろ。絵に描いてたりしてたら、夏休みなんてあっという間に終わるぞ」
「うん、そうだね」

 せっかくできたと思った友だちの椿ちゃんとも、あれきり会えなくなり、私がやっぱり暇を持て余していることは、どうやら父には伝わっていたようだ。
 夏全部をつぎこんでも終わりそうにない課題を出されて、私は面倒だと思う気持ちよりも、ありがたいと思う気持ちのほうが大きかった。

「ありがとう、お父さん」
 お礼を言ってご飯を口の中にかきこむと、父も同じ動きをする。
「おう……」
 あまり父と娘らしいとは言えないが、それは私たちにとっては心地いい距離感だった。