父の仕事小屋兼住居にたどり着くと、私は急いで母屋へ駆け寄った。
 中へ入るまでもなく、父が縁側に座り、煙草をくわえながら庭を眺めている姿が見える。
「お父さんただいま!」

 きっとここで待っていてくれるとは信じていたが、また父のいない世界になっていたらどうしようという不安もあり、いつも通りの姿を見て、ほっと安堵する思いは大きかった。

 花火は見ていないのかと訊ねると、「和奏と一緒に見ると約束したから、帰ってくるまでは音だけ聞いていた」とにやりと笑われ、私はまた泣きたいような気持ちになる。

 母屋の食卓から庭へ運び出した椅子を二つ並べて、ほぼ自分たちの頭上へ打ち上がる花火を、父と二人でじっくりと眺めた。
 椿ちゃんが言っていたとおり、火薬の匂いは凄いし、なんなら煙も酷かった。
 花火が連続して上がると、煙でその半分は見えなくなるほどだ。

「毎年派手になるなー……お金持ってるんだな、髪振町……」
 父は煙草を吸うのをやめ、花火を見上げて苦笑していた。

「お父さんの燈籠……私、見つけたよ」
 私が報告すると、苦笑いが本当の笑顔になる。

「お、そうか? でもよくわかったな……名前なんて入れてないのに……」
「え? そうだった?」

 確かに私は、絵に記された父の名前を確かめたわけではなかった。
 でも一目見た瞬間から、あれが父の絵だとわかってしまったのだから、確認の作業など必要なかった。

「あれってこの庭だよね?」
 訊ねると、父は照れくさそうに頬を指で掻く。

「やっぱり、知ってる奴にはわかるな……もっとデフォルメしとくんだったかな……」
 恥ずかしそうにため息を吐く父に、私は更に問いかける。

「じゃあ……あれって私?」
 父は照れもごまかしもせず、まっすぐに私を見つめて頷いた。
「まあな……」

「そっか……」
 逆に私のほうが照れてしまう。
 
 誠さんも椿ちゃんの絵を描いていたが、身近な人を描くというのはどういう気持ちなのだろう。
 私自身は、風景や静物の絵しか描かないので、父や誠さんにぜひ訊いてみたいところだ。

 二人の話を父としてみたくて、私は慎重に言葉を選びながら、父に話した。
「私、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会ったよ。お父さんが描いたような夢の中で……」

 実際の私の感覚としては、二人との邂逅は夢よりもっとリアルなものだったが、あの不思議な体験を語るには、『夢』で片づけるしかないだろうという結論に至ったのだった。

「お祖父ちゃんは、すごく絵がうまくて、手先も器用な穏やかな人で、お祖母ちゃんのことが大好きだった……お祖母ちゃんは、泣いたり笑ったり忙しくて、でもそんなところがとっても可愛くて、やっぱりお祖父ちゃんのことが大好きだった……」

「おお! 当たってる!」
 父は手を叩いて笑いながら、私の顔を見た。

「でも和奏……あの燈籠の絵は、夢じゃなくて、現実なんだよ……」
「え……?」

 驚いて目を瞬かせる私に、父は思いもよらない話をしてくれる。
「和奏が五歳の夏だったかな……この町へ家族で帰省して、この家に泊ったんだ。その時の絵だ。あの頃はもうすでに俺は本家に出入り禁止だったから、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんもわざわざ、本家からここへ泊まりに来てくれて……」
「本家?」

 首を傾げる私に、父は頷いた。
「ああ、『成宮家本家』。お前がこの間ちらりと聞いた『成宮』だよ……俺の実家……」
 やはりそうだったのだと、私も父へ頷き返した。

「お前が友だちになったっていう『成宮』のお嬢さんから、どこまで聞いてるかは知らないが……家督を継ぐことを放棄して、『成宮』と決別した叔父さんというのがいたとしたら、それが俺だ……『成宮』は、今はあの子の母親――俺の姉貴が継いでいる」
「そう……なんだ……」

 ここで私はとても重要なことに気がついた。
 父は、私が友だちになった『成宮のお嬢さん』を、今現在あのお屋敷で暮らしているらしい女の子のことだと持っているようだが、それは違う。
 私が友だちになったのは、『うてな』でこことは違う世界へ迷いこんで出会った、椿ちゃん――父の母だ。

 しかしそのまちがいを正すには、もういったいどこから説明しなければならないのかわからなくなるほど複雑で、その上そんな突拍子もない話を、信じてもらえる自信もない。
 ここは異を唱えず、とりあえず父と話を合わせておくことを選ぶ。

「特には、聞いてないけど……」
「そうか……」
 
 父は大きく息を吐き、椅子の背もたれに深く背中を預けた。
 花火を見上げ、その音に時々声をかき消されながら、話をしてくれる。

「俺と姉貴の上には兄貴がいて、『成宮』は当然その兄貴が継ぐものだと、周りも本人もまったく疑ってなかった。子供の頃から、俺たちとは別に英才教育を受けて、お前のお祖母ちゃんのお父さん――和奏から見たらひいお祖父ちゃんだな……その人から帝王学を叩きこまれて……頭のいい、優しい兄貴だったけど、まだ若いうちに亡くなったんだ……」

 父の家族の話など、これまで一度も聞いたことがなく、私は驚きの思いで目を見開く。
「そう……なの……」

「ああ。当然次は、次男の俺がって話になったけど、その頃にはもう俺はこの町にいなくて、和奏も生まれたばかりで、ここへ帰るっていう選択肢は選べなかった……それで姉貴が「だったら私が!」って継いだんだ。昔からしっかり者だし、人づきあいはいいし、却って和奏のひいお祖父ちゃんの代より、『成宮』は町への影響力と人脈を広げてるかもしれないな……」
「そうなんだ……」

 父の話によれば、あの椿ちゃんのお父さんから、椿ちゃんの娘に当たる人が家督を継いだということになる。
 だとすれば、椿ちゃんと誠さんはいったいどうしたのだろうと、私は不安になった。

「私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは……?」
 父は「ああ」と頷き、二人について教えてくれた。

「もともと俺を生んだあとからお祖母ちゃんは病気がちだったけど、兄貴が亡くなってからめっきり体を壊して……お祖父ちゃんと二人でこの家へ通うのが楽しみの、晩年だったな……」
「そっか……」

 その老後は、あれほど元気な椿ちゃんからは想像がつかないが、年をとっても誠さんと仲良しだったふうなのには、少し安心した。

「和奏が小学校へ上がる頃、もう長くはないと医者から診断されて、この家に引きこむことを決めたから、俺も最後の親孝行と思って一緒に住むことにした。そのせいで和奏には寂しい思いをさせることになったけど……悪かったな」
「ううん。あの時は寂しかったけど……今はもう大丈夫だから……」

 父が母と別れてこの町へ帰ってきたのにはそういう理由があったのかと、私は驚くばかりだった。
「お母さんと私もここへ連れて帰ろうとは思わなかったの?」

 訊ねてみると、とても驚いた顔をされる。
「冴子……いや、お母さんを? 無理だろ。あの仕事人間には……」

 酷い言い分の中にも、気心の知れた気安さが垣間見え、私は嬉しかった。
「そんなこと言うと怒られるよ」

「和奏が言わなきゃわからないだろ……まさか俺を裏切るつもりか?」
「大丈夫、大丈夫」
「本当かぁ……?」
 疑うように私の顔を見ながらも、父の目は笑っている。

「実際、東京生まれ東京育ちのバリバリのキャリアウーマンに、一緒に田舎へ帰ってくれとは言えないだろう……」
 少し未練を残したふうのぼやきには、私は何も答えなかった。

「その代わり、和奏を呼び寄せることには成功したからな」
 得意そうに胸を張る父は、私を横目に見る。

「どういうこと?」
 私は首を傾げる。

「お前が小さな頃にこの町を好きだったとわかってて、いかにも好きそうな風景の写真を送り続けた……こう見えて頭脳犯なんだよ、俺は。今頃、冴子が悔しがってるかもしれないな……」
 どこまでも天狗になりそうな父には悪いが、私はこのあたりで一度、釘を刺しておくことにした。

「それ、お母さんはわかってたと思うよ?」
「え?」

 意外そうに目を見開く父に、私は事実を告げる。
「お父さんが送ってくれた写真。いつでも私が見れるように、コルクボードに貼ってリビングに飾ってくれてたのはお母さんだもの……」

「……な! コルクボード? そんなの俺のパクリじゃないか!」
「どっちが先かは私にはわからないけど……お父さんの仕事部屋でコルクボードを見た時、今は他人でも『元夫婦』ってやっぱりすごいなーって、私、感心したよ」
 心から褒めているというのに、父の機嫌は直らない。

「なんだよ……じゃあやっぱり冴子のてのひらの上で転がされてただけかよ……」
 しょんぼりしてしまった父に、私は問いかける。

「でも今私はここにいるんだから、お父さんの『作戦勝ち』には違いないんでしょ?」
 父はにやりと、唇の端を歪めて笑った。
「まあな……」

 ふんぞり返った格好で椅子に座っていたので、少し眠けが出てきたのかもしれない。
 花火はまだバンバンと賑やかに頭上で鳴り響いているというのに、父の目はとろんと閉じ始める。

「でも一番大切なのは、お前自身がどうしたいのか、だからな……」
 少しトーンの下がった父の声に、私は「うん」と頷く。

「どこで生きていくのでも、何をするのでも、お前の好きなようにすればいい。俺は……冴子も、それを全力でバックアップするだけだ」
「うん!」

 父の言葉は、椿ちゃんと誠さんから、実際に父自身が言われた言葉なのかもしれないし、兄弟の死などの半生を経て、この自然豊かな土地でたどり着いた答えなのかもしれない。

 いつか私も、自分の子どもに、そういう言葉を伝えられる親になれたらと、私は微かな憧れを胸に抱いた。