ハナちゃんと別れたあと、私は最後にもう一度、拝殿まで上って父の仕事小屋兼住居へ帰ることにした。
参道から石段を百段ほど上ったところにある拝殿からは、実は直接山道へ抜ける別の出口がある。
神社へは正面から入るものだと、老婆のハナちゃんに口酸っぱく言われていたので、お参りする時に通ることはない道だが、帰る時は話が別だ。
すでにお参りを済ませたあとならば、今日は疲れたからと裏口から帰っても、神様も笑って見送ってくださるとハナちゃんも語る。
(特別疲れたってわけじゃないけど……どうしても確かめたいことがあって……)
途中で近道を使ったとはいえ、山の頂上付近まで上ったり、そこから麓まで駆け下りたりと、今日は絶対に体が疲れているはずなのに、気持ちのほうは高揚している。
椿ちゃんと誠さんをなんとか引きあわせて、私が望む未来に近づけたからかもしれない。
もう少しだけ、燈籠を見てまわりたい思いもあった。
少女のハナちゃんと一緒に椿ちゃんの燈籠を見つけたのは、まだ太陽が沈みきる前だった。
遠くに沈む夕日を感じながら、ハナちゃんと笑い、それから別れた。
その間に、太陽は山の向こうへ沈みきってしまい、燈籠の灯りがいよいよ本来の役目を果たす時間になった。
さっき椿ちゃんの燈籠を見つけた二の鳥居へ行ってみたが、もうそこには彼女の描いたハイビスカスの絵の燈籠はなかった。
代わりに違う少女の絵が貼られた燈籠があった。
(やっぱり……)
昼と夜の境の時間が終わると同時に、あの世界の人たちとは生きる世界が異なってしまったのだ。
今私がいるのは、私が本来生きるべき世界。
だとすれば、あの時間にはいくら捜しても見つけられなかった父の燈籠が、今の世界にならば存在するのではないかと思った。
父は確か『町役場から頼まれて燈籠の絵を描いた』はずだ。
ならば参道の左右にずらりと列を成す小さな燈籠ではなく、石階段を上る時に頭上を渡っている大きな燈籠を描いたのではないかと、私は思っていた。
予想通り、石段をちょうど半分上り、参拝者が疲れて休憩する辺りに設けられた、茶店と社務所が連なる大きな見晴らし場へ入る直前に、父の描いた大きな絵は高く掲げられていた。
(あー……お父さんの絵だ……)
私がしみじみと見上げたのは、淡い水彩の風景画だった。
この祭りを長い時間見てまわってわかったことだが、一口に燈籠の絵と言っても、その種類は無限にある。
夏らしい金魚やかき氷や西瓜の絵。
海や山や虹などを描いたもの。
今流行りのアニメキャラクター。
好きなアイドルの似顔絵。
真剣に動物や昆虫の絵を描いてあるものなどもあって、見ていて飽きることはなかった。
その中にあって、さすがは頼まれて描いた芸術家だけあり、父の絵はとても私の心を惹きつけた。
縁側に座った小さな女の子がシャボン玉で遊んでいて、それを家族が見守っている、なんでもない日常のひとコマを切り取った風景なのだが、随所に夏らしさが散りばめられている。
少女が被った麦わら帽子。
庭の草木に水をやっているらしいお祖父さんが、上向けて持ったホースから飛び散る水飛沫。
母親らしき人が晴天の下に真っ白な洗濯物を干しているところにも、祖母らしき人が少女の隣で大きな西瓜に包丁を入れているところへも、少女が丸い頬を膨らませて作ったしゃぼん玉が煌きながら浮いており、まるで夢の世界のように幸せで満ち足りた時間を、見事に描き出している。
(綺麗……)
他の人の邪魔にならないよう、端に避けて、私はその絵をずっと眺めていたが、ふと気がついた。
(そういえば、この子のお父さんは……?)
これだけ家族が揃った絵を描いているのだから、わざわざ父親だけ省くことはしないだろう。
そう考えて初めて、しゃぼん玉のストローを口にくわえた少女が体を捩って、半分ふり返り、こちらへ手を振っていることに気がついた。
「あ……!」
少女の父親は、この絵を描いている人物だ。
だからこの中には描かれていない。
だけど確かに存在はしている。
そう思い当たり――私は涙が溢れて仕方がなかった。
(お父さん……!)
よくよく見れば、少女は私の小さな頃に似ている気がする。
描かれている縁側と庭は、父の仕事小屋兼住居の、私の大好きなあの庭。
お祖父さんもお祖母さんもお母さんも、見れば見るほど、誠さんや椿ちゃんや私のお母さんに見えて仕方がなく、私は長いことその場に縫い留められていた足を、ようやく動かして帰り始めた。
ちょう拝殿まで上りきったところで、シューッと夜空を何かが駆けのぼっていく音がし、バーンと大きな大輪の花が夜空に開く。
「――――!」
あまりにも近すぎて、鼓膜に響くような大きな音に、私は両耳を手で塞ぎ、父の仕事小屋兼住居へと続く山道を急いだ。
(早く! 早く! 間に合うかな……?)
椿ちゃんが「数はあまり多くないけど」と花火のことを語っていたのを思い出し、急いだのだったが、よくよく考えてみれば、それは彼女が生きたあの世界での話だった。
私が生きるこの世界では、私が神社の敷地を抜けて山道へ入り、家路を急ぐ間もずっと鳴りやむことなく、夜空を彩る大輪の花は、私の頭上で次々と花開き続けていた。
参道から石段を百段ほど上ったところにある拝殿からは、実は直接山道へ抜ける別の出口がある。
神社へは正面から入るものだと、老婆のハナちゃんに口酸っぱく言われていたので、お参りする時に通ることはない道だが、帰る時は話が別だ。
すでにお参りを済ませたあとならば、今日は疲れたからと裏口から帰っても、神様も笑って見送ってくださるとハナちゃんも語る。
(特別疲れたってわけじゃないけど……どうしても確かめたいことがあって……)
途中で近道を使ったとはいえ、山の頂上付近まで上ったり、そこから麓まで駆け下りたりと、今日は絶対に体が疲れているはずなのに、気持ちのほうは高揚している。
椿ちゃんと誠さんをなんとか引きあわせて、私が望む未来に近づけたからかもしれない。
もう少しだけ、燈籠を見てまわりたい思いもあった。
少女のハナちゃんと一緒に椿ちゃんの燈籠を見つけたのは、まだ太陽が沈みきる前だった。
遠くに沈む夕日を感じながら、ハナちゃんと笑い、それから別れた。
その間に、太陽は山の向こうへ沈みきってしまい、燈籠の灯りがいよいよ本来の役目を果たす時間になった。
さっき椿ちゃんの燈籠を見つけた二の鳥居へ行ってみたが、もうそこには彼女の描いたハイビスカスの絵の燈籠はなかった。
代わりに違う少女の絵が貼られた燈籠があった。
(やっぱり……)
昼と夜の境の時間が終わると同時に、あの世界の人たちとは生きる世界が異なってしまったのだ。
今私がいるのは、私が本来生きるべき世界。
だとすれば、あの時間にはいくら捜しても見つけられなかった父の燈籠が、今の世界にならば存在するのではないかと思った。
父は確か『町役場から頼まれて燈籠の絵を描いた』はずだ。
ならば参道の左右にずらりと列を成す小さな燈籠ではなく、石階段を上る時に頭上を渡っている大きな燈籠を描いたのではないかと、私は思っていた。
予想通り、石段をちょうど半分上り、参拝者が疲れて休憩する辺りに設けられた、茶店と社務所が連なる大きな見晴らし場へ入る直前に、父の描いた大きな絵は高く掲げられていた。
(あー……お父さんの絵だ……)
私がしみじみと見上げたのは、淡い水彩の風景画だった。
この祭りを長い時間見てまわってわかったことだが、一口に燈籠の絵と言っても、その種類は無限にある。
夏らしい金魚やかき氷や西瓜の絵。
海や山や虹などを描いたもの。
今流行りのアニメキャラクター。
好きなアイドルの似顔絵。
真剣に動物や昆虫の絵を描いてあるものなどもあって、見ていて飽きることはなかった。
その中にあって、さすがは頼まれて描いた芸術家だけあり、父の絵はとても私の心を惹きつけた。
縁側に座った小さな女の子がシャボン玉で遊んでいて、それを家族が見守っている、なんでもない日常のひとコマを切り取った風景なのだが、随所に夏らしさが散りばめられている。
少女が被った麦わら帽子。
庭の草木に水をやっているらしいお祖父さんが、上向けて持ったホースから飛び散る水飛沫。
母親らしき人が晴天の下に真っ白な洗濯物を干しているところにも、祖母らしき人が少女の隣で大きな西瓜に包丁を入れているところへも、少女が丸い頬を膨らませて作ったしゃぼん玉が煌きながら浮いており、まるで夢の世界のように幸せで満ち足りた時間を、見事に描き出している。
(綺麗……)
他の人の邪魔にならないよう、端に避けて、私はその絵をずっと眺めていたが、ふと気がついた。
(そういえば、この子のお父さんは……?)
これだけ家族が揃った絵を描いているのだから、わざわざ父親だけ省くことはしないだろう。
そう考えて初めて、しゃぼん玉のストローを口にくわえた少女が体を捩って、半分ふり返り、こちらへ手を振っていることに気がついた。
「あ……!」
少女の父親は、この絵を描いている人物だ。
だからこの中には描かれていない。
だけど確かに存在はしている。
そう思い当たり――私は涙が溢れて仕方がなかった。
(お父さん……!)
よくよく見れば、少女は私の小さな頃に似ている気がする。
描かれている縁側と庭は、父の仕事小屋兼住居の、私の大好きなあの庭。
お祖父さんもお祖母さんもお母さんも、見れば見るほど、誠さんや椿ちゃんや私のお母さんに見えて仕方がなく、私は長いことその場に縫い留められていた足を、ようやく動かして帰り始めた。
ちょう拝殿まで上りきったところで、シューッと夜空を何かが駆けのぼっていく音がし、バーンと大きな大輪の花が夜空に開く。
「――――!」
あまりにも近すぎて、鼓膜に響くような大きな音に、私は両耳を手で塞ぎ、父の仕事小屋兼住居へと続く山道を急いだ。
(早く! 早く! 間に合うかな……?)
椿ちゃんが「数はあまり多くないけど」と花火のことを語っていたのを思い出し、急いだのだったが、よくよく考えてみれば、それは彼女が生きたあの世界での話だった。
私が生きるこの世界では、私が神社の敷地を抜けて山道へ入り、家路を急ぐ間もずっと鳴りやむことなく、夜空を彩る大輪の花は、私の頭上で次々と花開き続けていた。