私のもとへたどり着いた百合さんは、息も絶え絶えといったふうに肩で大きく息をする。
 私はあらかじめ準備しておいた湯呑みを手渡し、百合さんはすぐにそれを飲み干した。

「大丈夫ですか? 百合さん」
「百合なんてそんな……たいそうな名前……どうか私のことは『おい』とか、『お前』とでも呼んでください……」

 死にそうに息を切らしている時でも、どうしてもそう主張せずにはいられない百合さんに、私は笑いながら提案してみる。
「じゃあ『ハナちゃん』でいいですか?」
「ハナちゃん……」

「ごく普通の花の『ハナちゃん』です。もちろん、百合の花の『ハナちゃん』でもいいですけど……」
「ごく普通の花でお願いします!」

 その後も「ハナちゃん、ハナちゃん」としきりに呟いている百合さんは、どうやらその呼び名を気に入ってくれたようだった。

(もとは誠さんが、今夜そう命名するはずだったんだよね……でももう百合さんと誠さんは、今夜は会うことはないから、私が付けてもいいよね……?)

 自問自答する私に、百合さん改め『ハナちゃん』は、椿ちゃんが今夜来れなくなったことを、懸命に伝えてくれた。
「旦那さまから、祭りへ行く許可が出なかったんです。お嬢さまは一日かけてずっと頼んでたけど……もう浴衣だって着てたけど……部屋から出るなっていつものように言い渡されて、それで私に……『二人が待ってるから、今日は行けないって伝えてくれ』って……」

 そこまで話してから、ハナちゃんは我に返ったように周囲を見回す。
「あれ? そういえば誠さまは……?」

 私は慌てて、曖昧に笑ってごまかした。
「あ! なんか急な用事で、来れなくなっちゃったそうです」

 それは私の嘘だったのに、ハナちゃんはとても気の毒そうに私を見つめた。
「それじゃ和奏お嬢さん一人ですか? この町に越してきて初めての『燈籠祭り』なのに?」

 あまりに憐みの目で見られるので、私はハナちゃんの腕をがしっと掴んだ。
「じゃあ代わりにハナちゃんが、一緒に燈籠を見てまわってくれますか? もう今日のお仕事は済んだんですよね?」

 ハナちゃんは目をぱちくりと瞬かせてから、何度も首を縦に振った。
「そうです、そうです、仕事はもう終わりました! じゃあ私でよければ……!」



 それから私たちは、人の波に乗って拝殿まで進んでお参りし、また参道まで下りてきた。
 その間、左右や頭上に掲げられた燈籠の中に、椿ちゃんや父の名前が書かれたものはないかと探したが、見つけられなかった。

「こんなに数が多いんだから仕方がないですよ」
 ハナちゃんに取り成され、最後にとまた二の鳥居の近くまで帰ってきた時、赤い花が描かれた小さな燈籠を見つけた。

 どうやら私たちが立っていた鳥居の反対側に提げられていたので、今まで気がつかなかったらしい。
『成宮椿』と力強い筆致で、それだけはとても美しく名前が記されていた。

 それに比べて絵のほうは、確かに椿ちゃんが誠さんに見られたくないと慌てるレベルだ。
「ええっとこれは……椿ちゃんの名前と同じ……『椿』かな?」

 中央が黄色く、赤い大きな花という情報しかない中で、私がなんとか導き出した答えに、ハナちゃんは申し訳なさそうに首を横に振った。
「すみません……それ『ハイビスカス』だそうです……」

「ハイビスカス!?」
 驚く私に、ハナちゃんは詳しく説明してくれる。

「はい。なんでも南国の花らしくて、『同じ色なら椿なんてしみったれた花じゃなく、これくらい華やかなのがいいわ』とお嬢さまがたいそうお気に入りで……」
 その勢いで、椿ちゃんは父の仕事小屋兼住居のあの庭にも、周囲との調和などまったく無視して、ハイビスカスを植えてしまったのかと思うと、私はもう笑うしかない。

「椿ちゃんって、とっても面白いですね」
「はい。でもそれだけじゃなくて、とても優しくて聡明な方なんですよ……」
 ハナちゃんが語る『椿ちゃん』は、私が知る彼女そのもので、嬉しくなる。

「どうぞこれからも、お嬢さまと仲良くしてくださいね」
 以前もかけられた言葉に、私は「はい」と頷き、同じような言葉をハナちゃんにも返した。

「どうぞハナちゃんも、ずっと椿ちゃんの傍にいてあげてくださいね」
 ぱあっと表情を明るくしたハナちゃんが、「はい」と力強く頷き、私はまた更に嬉しくなった。