夕焼けに照らされた『うてな』へ踏み入った瞬間に、私の服は紺地に朝顔柄の浴衣に変わった。
 母がとりあえず近くのスーパーで買ってきた服に、退院時は着替えていたはずなのに不思議だ。
 髪も、私が自分でアップにした夏祭りの日のものに変わっていた。

 そこに佇んでいた私と同じように浴衣姿の椿ちゃんが、何気なくこちらをふり返って私を見て、まるで信じられないものを見たとばかりに、涙に濡れた瞳を大きく開く。
「和奏……あなた何してるの? 夏祭りに行ったんじゃないの?」

 その顔を見れただけで、その声を聴けただけで、胸が熱くなって涙腺が緩む自分を必死に励まして、私は椿ちゃんに笑ってみせた。
「うん。今から行くから、椿ちゃんを迎えに来たんだよ……」

 椿ちゃんは少し困ったように、眉を寄せた。
「百合から事情は聞いたでしょ? 『燈籠祭り』に行く許可は、お父さまからもらえなかったの……今日も私は外出禁止」

「それなのに、お屋敷を抜け出して、またここで泣いてるんだね」
「それは! しょうがないでしょ……ここは私の秘密の場所なんだから……思いっきり泣いてすっきりしたら、すぐに家へ帰るわよ……お父さまに見つからないうちに……」

 椿ちゃんの家である『成宮』のお屋敷と、髪振神社があるこの山は、かなり離れているのに――とは指摘しなかった。
 あんなに建物は広いのに、なぜか窮屈に感じるあのお屋敷で、椿ちゃんが思いっきり泣ける場所もないのなら、ここは彼女にとって確かに大切な場所なのだ。
 私はそう思う。

「せっかくだから、お祭り……一緒に行こうよ」
 私の誘いに、椿ちゃんは長い黒髪をさらさらと揺らして、きっぱりと首を横に振った。
「それはダメ。行ってはならないというお父さまの言いつけを、破るつもりはないの」
「そっか……」
「うん……ごめんね」

 椿ちゃんならばそう答えるだろうと、私は頭のどこかでわかっていた。
 だからこそ彼女は、あの『成宮』の後継ぎなのだ。
 そうなるべくして生まれ、育てられた『お嬢さま』なのだ。

 わかっていても、やはり残念で、固く唇をひき結んだ椿ちゃんの横顔を名残惜しく見ているうちに、私はいいことを思いついた。
(そうだ……!)

 わくわくして先走ろうとする心を必死に抑えながら、私は椿ちゃんにとある提案をする。
「髪……結ってあげる約束をしてたよね? あの髪飾り持ってきた?」

 椿ちゃんならば、誠さんからもらったあの大切な髪飾りを、肌身離さず持ち歩くのではないかと思っていたが、予想通り、恥ずかしそうに腕に提げていた編み籠から、それは取り出された。
「持ってはいるけど……」

「せっかくだから、結ってあげるよ」
 背後にまわった私に、椿ちゃんは慌てた。

「祭りに行くわけじゃないんだし……もういいわよ」
「でもせっかくだから」

 結局は私が押し勝ち、椿ちゃんの長い髪を編み始めたのだが、椿ちゃんも案外、まんざらでもない顔をしている。
「和奏は器用ね……私は全然ダメ……三つ編みだって太さがめちゃくちゃになるもの……」

 編みこみをする私を横目に見ながら、椿ちゃんが呟くので、私は何げなく答える。
「誠さんは器用だよね。椿ちゃんがもらったその髪飾り……手作りでしょ?」

 瞬間、椿ちゃんは大切に手にしていた髪飾りを取り落としそうになるほど、大慌てした。
「そ、そうなの!?」

 その様子が、椿ちゃんへの想いを私が指摘した時の誠さんの反応を彷彿とさせ、私は笑わずにはいられない。
「そうだよ。とても上手だよね」

「そ、そうね……」
 悪いとは思いながらも、焦る椿ちゃんの様子を見るのは楽しかった。

 椿ちゃんも誠さんも、お互いに関して同じような反応をするのだ。
 それは二人の想いが同じであることの証明であり、私はますます嬉しくなる。
(きっとうまくいく……二人の恋がうまくいかない未来なんて……絶対に私が認めない!)

「できた!」
 編みあがった髪をまとめて、それを誠さんのプレゼントの髪飾りで留める。
 私がぜひそうであってほしい椿ちゃんの姿が、そこにはあった。

「似あう?」
 頬を赤らめてそんなことを訊かれるので、私は大きく頷く。
「似あう! 似あう!」

「か、可愛い……?」
「かっ……」
 はにかむ様子が本当に可愛らしく、私はすぐさま「可愛い!」と叫びかけたのだが、それを懸命に止めた。

(それはやっぱり……本人の口から言ってもらいたいよね!)
 決意を固め、私は椿ちゃんに背を向けた。

「椿ちゃん! ちょっとここで待ってて」
「え……? 何言ってるの、和奏……どこ行くの? 私、もう帰るわよ。お父さまに見つかる前に、部屋に帰らなきゃいけないんだから……!」

 叫ぶ椿ちゃんに、私は懸命に手をあわせてみせる。
「お願い、あと少しだけ! 近道見つけたから、いつもの三分の一ぐらいの速さで麓まで下りるから……そのあと上ってくる人は、たぶん私よりもっと速いはずだから!」

「何言ってるのか全然わからないわよ!」
 怒る椿ちゃんを置き去りに、私は本当に全力で、さっき見つけた近道を駆けおりた。

 上る時は、繁る草を必死にかきわけて進んだが、帰りは草などほぼ生えておらず、道も歩きやすく踏み固められていた。
 それだけで、もう違う世界へ踏みこんだのだということがわかる。

 父の仕事小屋では、知らない男の人が窯で炭を焼いていた。

「こんにちは!」
 私が駆け抜けながら挨拶すると、同じように「こんにちは」と返してくれたが、そのあと驚いたようにふり返って「なんだ!?」と大きな声を上げる。
 しかしそれに返事をしている余裕は、今の私にはない。

 さっきは閉めきられていた母屋も、人が生活している気配がし、庭も綺麗に手入れされていた。
(よかった……!)

 小道を行き来している鶏たちを、蹴散らすように走り、私は麓から上ってくる道に母と長倉さんの乗った車がないことを確認し、一気に坂を走り下りる。
(本当に……何もかもがもう変わっている……!)

 父をとり戻すまでにはあと少しだと自分を勇気づけて、麓に折りきるまで決して走るスピードは緩めなかった。