「和奏! 和奏!」
母が私を呼んでいる声が聞こえる。
それも、とても必死な様子で――。
いったい今どういう状況だっただろうかと、私は目を開けないままに考えた。
(えーと……)
とりあえず日曜日でないことは確かだ。
母が私に起こされることはあっても、私が母に起こされることはほぼないが、たとえ私が多少寝坊していたとしても、私の学校も母の会社も休みの日曜日ならば、何も問題は発生しない。
(待って……そもそも今、夏休みじゃない?)
その事実に思い当たり、私は少なからずむっとする。
(じゃあ私が起こされなくちゃいけない理由なんてないじゃない……お腹空いたから何か作ってくれとか? わざわざ私を起こして頼むより、お母さんならマンションの一階のコンビニに買いに行くよね……?)
首を傾げかけ、私ははたと思い当たった。
(そうだった……私、お母さんと暮らすあのマンションを出て、お父さんのところへ来たんだった……)
父の仕事小屋兼住居。
髪振神社と上之社。
蒸気機関車と無人駅。
田んぼの中の舗装されていない道と、魚が泳いでいた小川。
この町へ来て目にした光景が、頭の中でぐるぐると渦を巻き、圧倒的な茜色に競い負け、その中で目に涙を溜めていた黒髪の少女の顔が、脳裏いっぱいにフラッシュバックした。
(椿ちゃん――!)
その瞬間、私はぱちりと両目を開き、すぐ近くで顔を覗きこんでいた母は、歓喜の声を上げた。
「和奏!!!」
まだはっきりとしない意識の底に、幾百もの燈籠の光が輝いていたあの日の神社の光景が残る。
燈籠の灯りよりも数倍も眩しい車のヘッドライトに目を射られた瞬間、自分が車に撥ねられたことは覚えていたが、なぜここに母がいるのかはさっぱりわからなかった。
目は開けても首を動かさず、視線だけで、どこかの病院の病室らしい殺風景な部屋を見回している私に、母は涙声で話しかける。
「よかった……目が覚めて……和奏、あなた車に撥ねられたあと、二日も寝たままだったのよ……連絡を受けて、私、慌ててこの町に来て……特にけがはないってお医者さまは言ってくださったけど、心配で……どこか痛いところはない?」
問われるままに、首や手や足や腰と、簡単に動かせるところを確認してみて、特に異常はなさそうだと頷く。
「ないみたい……心配かけてごめんね、お母さん」
「いいのよ……無事で、本当によかった……」
両手で顔を覆った母の隣には、寄り添うように長倉さんが立っていた。
(長倉さんまで! わざわざこんな遠くに来てくれたんだ……)
申し訳ない思いで、私は軽く会釈する。
強張った顔で私を見つめている長倉さんは、普段とは少し雰囲気が異なるように感じた。
(…………?)
どこがどうとはっきりせず、じっと見つめる私の前から、母の肩を軽く叩いて長倉さんは姿を消す。
「目が覚めましたって、病院の人に伝えてくるから……」
「ええ、お願い……」
足音が完全に聞こえなくなるのを待ち、私は母に訊ねた。
「私……やっぱり車に撥ねられたの?」
母は深々と息を吐き、私の頭を撫でる。
「そうよ。病院からですって、突然電話がかかってきた時、私がどんなに驚いたか……考えてほしいわ」
「ごめんなさい……」
それでは母に連絡したのは、父ではなく病院なのだと納得する。
少しおかしな気がした。
母はベッド横のサイドテーブルの引き出しから、赤いリボンのかかった小箱を出し、私に渡してくれる。
「はい、これ。事故の時、和奏が握りしめていたものだって……大切なものなの?」
それは誠さんが、椿ちゃんにプレゼントするために夏祭りに持ってきていたもので、渡しに行く途中で私が事故に遭ってしまい、まだ椿ちゃんの手に渡っていないことを申し訳なく思った。
「うん、ありがとう」
(病院を出たら、すぐ渡しに行かなくちゃ)
責任を感じて小箱を握りしめる私に、母は首を傾げる。
「いったい誰に会いにこんなところまで来たの? 見たこともない浴衣を着てたし……」
「こんなところって……」
母の言い分に違和感を覚え、私はじっとその顔を見つめる。
その言い方ではまるで、夏祭りの夜にだけ私がこの町を訪れたかのようだ。
実際にはもっと早く、夏休みに入ってからすぐ、父のもとへ来ているというのに――。
私が事故に遭ったことで、父に腹を立てているのかもと思い、私は恐る恐る訊ねた。
「お父さんは? 仕事……?」
長倉さんがもし今部屋へ帰ってきたら、気分を悪くするかもしれないと気を遣い、声を抑えたつもりだった。
それなのに母は、そんな私の努力を無駄にするかのように、大きな声で呆れたふうに答える。
「何言ってるの? 今、病院の人にあなたが目を覚ましたことを伝えに行ったじゃない……やっぱり頭でも打った?」
確かに長倉さんはもうすぐ母と結婚し、戸籍上私の『お義父さん』になる人だが、私が今、母に訊いているのは実父のことだ。
「そうじゃなくて、私の本当のお父さんのことだよ」
母はきょとんとした顔で、私を見つめた。
「本当の……なんですって? 和奏、あなたやっぱり打ちどころが……?」
この後に及んでそのやり取りを続けようとする母に、私は少なからずイラッとして、少し声を荒げる。
「お母さん、いい加減にして。私、友だちと大事な約束もしてて、事故の時の状況を詳しく確かめたいの……お父さんが家にいるんだったら、私ももうあそこへ帰る」
起き上がってベッドを降りようとする私を、母は慌ててもう一度寝かせようとする。
「和奏、あなた本当に何を言ってるの? やっぱりおかしい……詳しく調べてもらったほうがいいわ。お父さんが帰ってきたら、お医者さまにもそう言って……」
「私はおかしくなんてない! おかしいのはお母さんだよ!」
母と問答している時に、長倉さんが医師を伴って部屋へ帰ってきた。
「何を騒いでるんだ? 目が覚めたばっかりなんだからおとなしく寝てないとダメだろう、和奏。冴子も……一緒になって大きな声を出してどうする」
「ごめんなさい」
長倉さんに注意された母は、私を押さえつけようとしていた手を除け、ベッドの横へ移動したが、私は呆気に取られたまま長倉さんの顔を凝視するばかりだった。
(なんで……?)
長倉さんは私のことを、『和奏』などと呼ばない。
『和奏ちゃん』と呼んでいたし、母のことも『冴子さん』と呼んでいた。
どうしようもない違和感に、ベッドの頭部分に入れられた自分の患者カードをふり返って確かめると、名前が『長倉和奏』と記されていた。
「え……?」
いったい何が起こっているのだろう。
とまどうばかりの私をよそに、長倉さんが連れてきた医師は、私の脈を診たり、熱や血圧を測ったりして、具合の悪いところはないかと問いかけてくる。
「特にないです……」
私が答えると、母と長倉さんに向き直った。
「最後にもう一度脳波の検査をして、異常がなければ退院も可能です。遠くから来られてるんですよね? 帰宅後は念のため、自宅近くの病院にも行っておいてください」
「ありがとうございます」
「お世話になりました」
母と長倉さんは交互に医師にお礼を言っているが、私は何がなんだかわからなかった。
確かめることが怖くて、ぞっとするような違和感を胸に抱えたまま、検査を受けて退院の準備をする。
すっかり口を閉ざしてしまった私に、母と長倉さんは「疲れているんだろう」と話しあっていたが、私はとても冷静に話ができるような状況ではなかった。
都会から車で駆けつけたという長倉さんの車に乗り、母と暮らしていたマンションのある街へ帰ろうという時、私はやっと『髪振神社』へ立ち寄ってほしいことだけ伝えた。
母は訝ったが、長倉さんは快く車を廻してくれ、私は後部座席から、いつもと何も変わらない神社の様子を確かめる。
祭りの燈籠も、それを吊るしていた竹もすべて撤去され、普段の状態に戻った神社は、あの祭りの夜が現実ではなかったのではないかという錯覚さえ起こさせた。
(それじゃ、今のこれが現実なの……? ううん、そんなはずない……!)
私は縋るような思いで、誠さんが椿ちゃんに渡すはずだったあの小箱を、ずっと握りしめている。
「神社にお参りしていくの?」
母の問いかけに私は首を横に振り、その代わりに神社の横から山へ登る道を、少し進んでほしいと懇願した。
「大丈夫なの?」
道の両脇から樹木が覆い被さるように伸びている悪路に、母はあからさまに嫌な顔をしたが、山の頂上にある上之社へも続いている道なのだと説明すると、長倉さんは車を進めてくれた。
「昔の参道かもしれないね」
「いったい何があるのよ?」
助手席から咎めるような視線を送ってくる母に、なんと説明したらいいのかわからない。
「友だちの……家があって……」
父の仕事小屋兼住居が、何事もなかったかのようにそこにあり、庭で休憩する父が私の姿を見て、「和奏……今戻ったのか?」と笑ってくれることだけを祈った。
父の仕事小屋兼住居へと入っていく小道にさしかかると、私はそこで車を停めてもらい、後は歩いて行くことにした。
「本当に大丈夫なの?」
母は何度も確かめたが、父に会わずに髪振町を出ることはできない。
「大丈夫だから……」
砂利を踏んで進むと、母屋の隣にハナちゃんの軽トラックが停まっているのが見えた。
「あ……!」
いつもと同じ光景に、私は喜び勇んで歩を進める。
しかしどれほども進まないうちに、やはり『いつもどおり』ではないことに気がついた。
父とハナちゃんが手入れし、雑草一本も生えていなかったあの庭が、草に覆われている。
躑躅も山茶花も枝が伸び放題で、松や梅の木には蔓草が巻きつき、果樹はそもそも植えられてもいなかった。
「そんな……」
がくりとその場に膝をついてしまいそうな足を励まし、私は母屋の正面に回りこむ。
入り口の引き戸は少し斜めになっており、長年使われていないように見えた。
縁側も、木製の雨戸が閉めきられており、中を覗くことさえできない。
「…………」
泣きだしてしまいたい気持ちを必死にこらえ、私は父の仕事小屋へ急いだ。
窯が使われている形跡がないのは、遠くからでも一目でわかる。
隣に建つ部屋は、破れた窓をガムテープや木の板で修繕されており、開きっぱなしの入り口から覗いてみても、中に人の気配はなかった。
「お父さん……」
我慢できずに泣きだした私は、この町へ来てからずっと首から提げていたペンダントが、なくなっていることに、はっと気がつく。
溢れる涙を必死に手の甲で拭いながら、父の仕事部屋へ足を踏み入れた。
(こんなの嫌だよ……!)
部屋いっぱいに父が置いていたテーブルはなく、もちろんその上にところ狭しと並べられていた焼きものもない。
代わりに古い木製の机とイーゼルがあり、大きさの様々なキャンバスが雑に地面に置かれ、上から布を掛けられていた。
私は近くにあったものを捲り、一つ持ち上げて手で埃を払ってみる。
「これって……」
綺麗な油絵だった。
髪振町の景色が見事に描かれている。
一つ、また一つと順に確かめてみたのは、父が私に写真を送ってくれた風景と、重複しているものが多かったからだ。
(まさかお父さんが……?)
しかし私の記憶にある限りでは、父は昔も今も、絵は描かない。
焼きものに絵入れならばしているが、それは祖父の作品と、私の絵に影響されてやってみたのだと笑っていた。
(じゃあ、これは誰が……?)
不思議に思いながら絵を漁っているうちに、その一枚に巡りあった。
「そんな!」
驚愕して、何度も見直さずにはいられない。
それは夕日に染まる髪振町を、高い場所から眺めた光景を、一枚のキャンバスに収めた絵だった。
茜色に照らされた雲の中に、少女の横顔が見え隠れするその絵は、私が見たことのあるものだ。
モデルとなっただろう人物を、深く考えもせずに言い当ててしまい、描き主をおおいに慌てさせたものだ。
「誠さん……?」
いったいどうして彼の絵がこんなところにと首を傾げた時、部屋の入り口のほうから鋭い声がした。
「誰じゃ? そこで何をしちょる?」
呼びかけはかなり厳しい声音で、私はあきらかに不審者扱いされているのに、その声を耳にして、私は嬉しくて涙が止まらなかった。
「ハナちゃん!」
絵を抱えたまま駆け寄ってきた私に、小柄な老婆は動揺する。
「なんじゃ? なんでその名前を知っちょる……?」
私に抱きつかれ、あたふたとしながら、それでも訝る態度は崩さない。
「ここにはなんもねえぞ! 金になるようなものはなんもねえ!」
空き巣を追い払おうという気概を示してみせるが、私はそんなものは気にもせず、ぎゅうぎゅうとハナちゃんに抱きつき続ける。
『あなたこそが、今の私にとっては何にも代えられない大切な存在だ』とは、さすがに口に出しては言えなかった。
「それで? なんであんたみたいな若いお嬢さんが、こんなところでそんな古い絵を抱きしめて、泣いちょるんよ?」
「それは……」
いくら引き剥がそうとしても自分から離れない私に音を上げて、ハナちゃんは部屋の隅に置かれた椅子に座るよう勧めてくれた。
向かいあってハナちゃんも座りながら、私に質問をする。
しかし私はそのどれにも、答えることができない。
「どっから来たの? 何をしに?」
「…………」
黙りこむばかりの私に呆れて、ハナちゃんは椅子の背もたれに背中を預けた。
「これじゃ日が暮れてしまうわ……」
二呼吸ぐらいおいてから、今度は私から問いかけることにする。
「あの……ここって誰も住んでいないんですか?」
ハナちゃんは気負うこともなく、素直に頷いてくれた。
「そうじゃよ。薪小屋じゃったのをある人が買い取って、仕事の合間に息抜きする場所に使っちょったけど、もう亡くなったけねぇ……」
「その人って?」
「町で一人きりの弁護士先生じゃった。趣味が多くて、よくここにこもっちょったけえ、昔の馴染みで私が少し手伝いをして……」
「昔馴染み?」
「『成宮』に所縁の人じゃったからね。私もこう見えて、昔は『成宮』で働いて……と言っても、今の若いもんには『成宮』なんてわからんか……」
少し寂しそうな横顔に、私は胸騒ぎを覚えた。
「『成宮』……どうかしたんですか?」
ハナちゃんは、懐かしいものを見るような目で、私の顔を見る。
「知っちょるんか? 私たちが若い頃には、この町で知らない者はいない名家だったけど……跡取りのお嬢さまが結婚しないままに若くて亡くなってしもうてねぇ……今はもう、のうなってしまったんよ」
「――――!」
私は動揺のあまり、椅子を倒してその場に立ち上がった。
おそらく顔色を失っているだろう私を、ハナちゃんは不思議そうに見る。
「どうしたの? あんたそういえば、どことなくお嬢さまに似ちょるねぇ……いや、どちらかといえば、弁護士先生か……ここだけの話、あの二人はお互いを好いちょってね。旦那さまの許しが出なくて、一緒になることはなかったけど……もし結婚しちょったら、『成宮』がなくなることもなかっただろうし、あんたみたいな娘さん……いや、年齢的には孫娘かねぇ……おったかもしれんのにね……」
ハナちゃんが悪気なく語る夢物語が、私の胸にズキズキと刺さる。
「ハナちゃん……」
嗚咽をこらえて呼びかけた私に、ハナちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「どうしてその呼び名を知っちょるの? 私は確かに昔、お嬢さまたちからそう呼ばれちょったんよ……初めに言い出したのは、弁護士先生じゃったかねぇ……そうそう、あの『燈籠祭り』の夜だ。『来れなくなった』ってお嬢さまからの言伝に来た私を、あの人が『百合ちゃん、百合ちゃん』て呼ぶから、『その名前は好きじゃない』って言って、じゃあ何て呼べばいいのかって話になって、『ただの花とかでいいです』って言い張ったら、『じゃあハナちゃんだ』って……」
まるでその時の情景が、今目の前でくり広げられているかのように、優しい声で微笑みながら語り続けるハナちゃんに、私は驚きの目を向けた。
「百合さん!?」
ハナちゃんは、きょとんと私の顔を見た。
「はい……百合です……」
その、深い皺が刻まれた顔に、椿ちゃんのお屋敷で働いていたあの『百合さん』の顔がぴたりと重なる。
(そうか……そうだったんだ……)
ハナちゃんの話で得た情報から導き出した答えを、私は一つずつ丁寧に頭の中で整理していった。
父はおそらく椿ちゃんと誠さんの息子だった。
だとすれば私は、二人の孫娘に当たる。
父があれほど『成宮』に過敏に反応していたことにも説明がつく。
父は『青井』姓を名乗っているが、それは母と結婚する時改姓したのを、離婚後も使っているのだとは私も知っていた。
(きっと何かの理由で『成宮』を離れたんだ……)
その理由が何なのかは、今は確かめることができない。
椿ちゃんと誠さんが結婚しておらず、父という人間が存在しないからだ。
私は『長倉和奏』で、長倉さんと母の娘だ。
この髪振町には、縁もゆかりもない。
それなのに、夏祭りで事故に遭い、突然連絡が来たので、母はあれほど驚いていたのだとようやく理解できた。
(そうか……そういうことか……)
理解はできたが、しかし納得はいかない。
なぜなら私だけは、椿ちゃんと誠さんが結婚し、父が存在する現実を知っているからだ。
(どちらが正しくて、どちらがまちがっているかなんて、私にはわからない……でも私は、やっぱりお父さんの娘で……椿ちゃんにも誠さんにも幸せになってほしい……!)
縋るように掴もうとした胸もとには、父と一緒に作ったあの思い出のペンダントがなく、私は打ちひしがれる思いだったが、代わりにポケットに、小さな小箱の感触があった。
「あ……!」
急いで出して眺めてみると、赤いリボンをかけられたその箱を、ハナちゃんもじっと見つめる。
「あら、お嬢さまの名前が書いてあるねえ……なんか弁護士先生の字に似ちょる気がするけど……」
綺麗にリボンを掛けられたその箱に頭を下げて、私は丁寧にメッセージカードを抜き取り、リボンを解いた。
真新しい白木の蓋を開けてみると、中には丸いブローチのようなものが入っている。
細かな銀細工が縁を飾り、中央に焼きものが嵌めこまれているそれは、次第に涙で滲んで見えなくなっていった。
(よかった……お父さん……!)
それは、父が私に『祖母の形見』だといって見せてくれた、あの帯留めだった。
それが誠さんから椿ちゃんへのプレゼントとして存在しているということは、私の推測は当たっているということだ。
そして、私がまた父をとり戻せる可能性が残っているということだ。
私の祖父と祖母がいつ亡くなったのはわからないが、昔の人物である椿ちゃんと誠さんに、私が会うことができた理由ならば思い当たるものがある。
(椿ちゃんと初めて会った……あの場所だ!)
もともと私は、髪振神社の上之社を目指して山を登り、足を滑らせてあの場所へ落ちたのだったが、行くことを決意した理由の一つに、ハナちゃんからある話を聞かせてもらったことがあった。
『今の展望台が整備されるよりずっと前に使われちょった、自然の見晴らし台やね……どこにあるのか誰も知らんけど、古い言い伝えがあって……夕暮れ時に、その『うてな』へ行ったら、『いろんなもの』が見れるんじゃそうだ……『いろんなところ』へ行けると言う人もおる』
(『うてな』か……)
椿ちゃんや誠さんと会ったあの不思議な場所が、本当にその『うてな』なのかは不明だが、他に手がかりはない。
窓の外で夕日が傾きかけているのを見て、行くのならば早いほうがいいだろうと、私はハナちゃんに向き直った。
「ハナちゃん……私、もう行くね」
ハナちゃんは、私を不法侵入者扱いすることはもうなかったが、代わりにとても寂しそうに肩を落とした。
「そうかい。ひさしぶりに懐かしい話ができて嬉しかったけど、いつまでもひき止めるわけにはいかんもんねぇ」
つぶらな瞳を何度もぱちぱちと瞬かせて、涙を必死にこらえているようだった。
「みーんなもう、いなくなってしまったけえ……」
いつも小柄な姿が、より一層小さくなったように見え、私は胸が締めつけられる思いだった。
「あんた、またここへ来ることがあるかい? 家と小屋が壊れて崩れてしまわんように、私は時々修繕に来るけど……」
小さな声で訊ねてきたハナちゃんを、私は夢中で抱きしめた。
「絶対に来る! ハナちゃんがもう嫌だって思うほど、顔をあわせることになる未来を約束するし、お父さんにも必ずまた会わせてあげる!」
「何を言っちょるのかちっともわからんねぇ……ほんとうにおかしな子じゃ……」
ハナちゃんはしきりに首を傾げていたが、その表情は嬉しそうだった。
約束を現実のものにするため、私はすぐに山の頂上へ向かうことにした。
母と長倉さんが車で私の帰りを待っているため、来た道を戻ることはできなかった。
なんとかこの小屋の近くから、山道へ出る方法はないだろうかと、あちこち見てまわる。
(ここって、もとはお祖父ちゃん……誠さんが使ってた小屋なんだよね……あんな大きなイーゼルを、『うてな』まで運んで絵を描いてたんだもん、もしかしたらどこかに抜け道があるんじゃないかな……?)
予想通り、敷地の最奥の端に、今は雑草で塞がりかけているが、確かに細い道のようなものを見つけた。
「あった!」
私は手頃な長さの棒を拾い、なるべくそれで草をかきわけるようにしながら、道に足を踏み入れる。
『虫は逃げるし、なるべく汚れないで草をかきわけられるし、このほうがいいのよ?』
初めて『うてな』から椿ちゃんと一緒に帰った夜、彼女は器用に棒で草をかきわけながら、私に教えてくれた。
彼女と一緒の山道は、もう月が高くなるくらいの時刻だったにもかかわらず、ちっとも怖くなどなかった。
彼女が教えてくれる山のことや自然のことや町のことは、どれも私にはもの珍しく、今もしっかりと心に刻まれている。
(お祖母ちゃんだったんだね……)
とてもそうは見えない、あの美少女然とした風貌の彼女にぜひもう一度会いたくて、私の足は自然と速くなった。
実際に上之社まで一旦登って崖から転げ落ちるより、その道を進んだほうが、目的の場所へたどり着くまで半分の時間ほどしかかからなかった。
もっとも崖を落ちたあとは、私はいつも気を失い、起きるまでどれだけかかっているのかはわからないので、正確なところは不明だが――。
ともあれ、沈み始めた太陽が、遠くの山の稜線の向こうへ、完全に姿を消してしまわないうちに、なんとか『うてな』へたどり着くことができた。
その時間に行くことには、おそらく意味があるのだ。
ハナちゃんも「夕暮れ時に、その『うてな』へ行ったら」と話していた。
昼と夜の境目。
人と、人ならざるものが交わる時間。
異なる世界が交錯する時刻――。
その特別な時に起きた不思議な現象に関する伝承ならば、この町に関してではないが、私もいくつか耳にしたことがある。
(神隠しとか……もう死んだ人に会ったとか……私のこれも、『もう死んだ人に会った』ってことになるのかな?)
それにしては、椿ちゃんも誠さんも、今この時を生きているかのようにリアルだった。
確かに今になって思い返してみれば、少し時代が古いのではないかという考え方や、事象もあったが、この町ではそうなのだろうと、都会とそうではない場所の地域差のように私は受け止めていた。
二人が抱えていた問題も、私たちくらいの年齢の者がもっとも関心を大きくしている恋愛問題で、だからこそ私は、そこに本当はかなりの時間差があったなど、こうなるまでまったく気がつかなかった。
(本当に、また会えるかな……?)
少しの不安と、大きな期待を抱えて、私はその場所へ足を踏み入れる。
最後の草をかきわけて前へ進むと、目が眩むほどの夕焼けに迎えられた。
夕焼けに照らされた『うてな』へ踏み入った瞬間に、私の服は紺地に朝顔柄の浴衣に変わった。
母がとりあえず近くのスーパーで買ってきた服に、退院時は着替えていたはずなのに不思議だ。
髪も、私が自分でアップにした夏祭りの日のものに変わっていた。
そこに佇んでいた私と同じように浴衣姿の椿ちゃんが、何気なくこちらをふり返って私を見て、まるで信じられないものを見たとばかりに、涙に濡れた瞳を大きく開く。
「和奏……あなた何してるの? 夏祭りに行ったんじゃないの?」
その顔を見れただけで、その声を聴けただけで、胸が熱くなって涙腺が緩む自分を必死に励まして、私は椿ちゃんに笑ってみせた。
「うん。今から行くから、椿ちゃんを迎えに来たんだよ……」
椿ちゃんは少し困ったように、眉を寄せた。
「百合から事情は聞いたでしょ? 『燈籠祭り』に行く許可は、お父さまからもらえなかったの……今日も私は外出禁止」
「それなのに、お屋敷を抜け出して、またここで泣いてるんだね」
「それは! しょうがないでしょ……ここは私の秘密の場所なんだから……思いっきり泣いてすっきりしたら、すぐに家へ帰るわよ……お父さまに見つからないうちに……」
椿ちゃんの家である『成宮』のお屋敷と、髪振神社があるこの山は、かなり離れているのに――とは指摘しなかった。
あんなに建物は広いのに、なぜか窮屈に感じるあのお屋敷で、椿ちゃんが思いっきり泣ける場所もないのなら、ここは彼女にとって確かに大切な場所なのだ。
私はそう思う。
「せっかくだから、お祭り……一緒に行こうよ」
私の誘いに、椿ちゃんは長い黒髪をさらさらと揺らして、きっぱりと首を横に振った。
「それはダメ。行ってはならないというお父さまの言いつけを、破るつもりはないの」
「そっか……」
「うん……ごめんね」
椿ちゃんならばそう答えるだろうと、私は頭のどこかでわかっていた。
だからこそ彼女は、あの『成宮』の後継ぎなのだ。
そうなるべくして生まれ、育てられた『お嬢さま』なのだ。
わかっていても、やはり残念で、固く唇をひき結んだ椿ちゃんの横顔を名残惜しく見ているうちに、私はいいことを思いついた。
(そうだ……!)
わくわくして先走ろうとする心を必死に抑えながら、私は椿ちゃんにとある提案をする。
「髪……結ってあげる約束をしてたよね? あの髪飾り持ってきた?」
椿ちゃんならば、誠さんからもらったあの大切な髪飾りを、肌身離さず持ち歩くのではないかと思っていたが、予想通り、恥ずかしそうに腕に提げていた編み籠から、それは取り出された。
「持ってはいるけど……」
「せっかくだから、結ってあげるよ」
背後にまわった私に、椿ちゃんは慌てた。
「祭りに行くわけじゃないんだし……もういいわよ」
「でもせっかくだから」
結局は私が押し勝ち、椿ちゃんの長い髪を編み始めたのだが、椿ちゃんも案外、まんざらでもない顔をしている。
「和奏は器用ね……私は全然ダメ……三つ編みだって太さがめちゃくちゃになるもの……」
編みこみをする私を横目に見ながら、椿ちゃんが呟くので、私は何げなく答える。
「誠さんは器用だよね。椿ちゃんがもらったその髪飾り……手作りでしょ?」
瞬間、椿ちゃんは大切に手にしていた髪飾りを取り落としそうになるほど、大慌てした。
「そ、そうなの!?」
その様子が、椿ちゃんへの想いを私が指摘した時の誠さんの反応を彷彿とさせ、私は笑わずにはいられない。
「そうだよ。とても上手だよね」
「そ、そうね……」
悪いとは思いながらも、焦る椿ちゃんの様子を見るのは楽しかった。
椿ちゃんも誠さんも、お互いに関して同じような反応をするのだ。
それは二人の想いが同じであることの証明であり、私はますます嬉しくなる。
(きっとうまくいく……二人の恋がうまくいかない未来なんて……絶対に私が認めない!)
「できた!」
編みあがった髪をまとめて、それを誠さんのプレゼントの髪飾りで留める。
私がぜひそうであってほしい椿ちゃんの姿が、そこにはあった。
「似あう?」
頬を赤らめてそんなことを訊かれるので、私は大きく頷く。
「似あう! 似あう!」
「か、可愛い……?」
「かっ……」
はにかむ様子が本当に可愛らしく、私はすぐさま「可愛い!」と叫びかけたのだが、それを懸命に止めた。
(それはやっぱり……本人の口から言ってもらいたいよね!)
決意を固め、私は椿ちゃんに背を向けた。
「椿ちゃん! ちょっとここで待ってて」
「え……? 何言ってるの、和奏……どこ行くの? 私、もう帰るわよ。お父さまに見つかる前に、部屋に帰らなきゃいけないんだから……!」
叫ぶ椿ちゃんに、私は懸命に手をあわせてみせる。
「お願い、あと少しだけ! 近道見つけたから、いつもの三分の一ぐらいの速さで麓まで下りるから……そのあと上ってくる人は、たぶん私よりもっと速いはずだから!」
「何言ってるのか全然わからないわよ!」
怒る椿ちゃんを置き去りに、私は本当に全力で、さっき見つけた近道を駆けおりた。
上る時は、繁る草を必死にかきわけて進んだが、帰りは草などほぼ生えておらず、道も歩きやすく踏み固められていた。
それだけで、もう違う世界へ踏みこんだのだということがわかる。
父の仕事小屋では、知らない男の人が窯で炭を焼いていた。
「こんにちは!」
私が駆け抜けながら挨拶すると、同じように「こんにちは」と返してくれたが、そのあと驚いたようにふり返って「なんだ!?」と大きな声を上げる。
しかしそれに返事をしている余裕は、今の私にはない。
さっきは閉めきられていた母屋も、人が生活している気配がし、庭も綺麗に手入れされていた。
(よかった……!)
小道を行き来している鶏たちを、蹴散らすように走り、私は麓から上ってくる道に母と長倉さんの乗った車がないことを確認し、一気に坂を走り下りる。
(本当に……何もかもがもう変わっている……!)
父をとり戻すまでにはあと少しだと自分を勇気づけて、麓に折りきるまで決して走るスピードは緩めなかった。
山道を下った私が目にしたのは、多くの人でごった返す髪振神社の境内だった。
初めて見た時は感動した光景だったが、二度目ともなると単純にそうはいかない。
参道も、そこへ向かう小道も、色とりどりの浴衣に身を包んだ老若男女で埋め尽くされている風景の中に、すぐさま私自身も飛びこんだ。
二の鳥居の前ではすでに誠さんが、椿ちゃんと私を待っていた。
前回は私がそうしていたように、背中を鳥居に預けて立つ誠さんに、私は息を切らしながら駆け寄る。
「お、お待たせしました……!」
まるで前回の百合さんのようだと、自分でも思ったのだったが、誠さんの反応もほぼ同じだった。
「和奏ちゃん? いったいどこから走ってきたの……大丈夫? ちょっとお水もらってくるね」
百合さんにそうしたように、ひとまず私の喉を潤すための水を探しに行ってくれようとするので、私は彼の浴衣の袖を引いて制止する。
「いえ……大丈夫ですから!」
弾みで彼の浴衣の袖口から、何か箱のようなものが落ちた。
「あ!」
誠さんは慌てて拾い、必死に懐に隠そうとするが、残念ながら私はそれが何なのかをすでによく知っている。
(『うてな』に着いて浴衣姿になった途端、どこかへ消えちゃったけど……よかった。ちゃんと誠さんのところにあった!)
私は大喜びで、その箱がしまわれた誠さんの懐を凝視した。
「……見た?」
恐る恐る訊ねてくる誠さんに、「見ていません」と嘘を吐いてあげることは、やはり今度もできない。
なるべく早く、そのプレゼントを椿ちゃんに渡してあげてほしいというのが、私の本音だ。
「見ました! すみません!」
勢いよく謝って、誠さんに「あー! なんで和奏ちゃんには、ことごとく見つかっちゃうんだ! 椿本人には全然伝わらないのに!」と嘆かせる時間も与えなかった。
「見ちゃったんでもう、早く椿ちゃんに持っていってあげてください!」
「え?」
誠さんが驚くのも当然だ。
私の言っていることは前後の脈絡もなく、まったくもって支離滅裂だ。
自分でもそう思う。
誠さんも同じことを思ったらしく、笑いながら私に問いかける。
「椿はここに来ないの?」
「あー……」
やはりその説明を省いてことを進めるのは無理だと、私は覚悟を決めた。
「椿ちゃんは来ません。お父さんから祭りへ行く許可が出なかったそうです。一日かけてずっと頼んだけど……もう浴衣だって着てたけど……部屋から出るなっていつものように言い渡されて……」
本当は百合さんが私たち二人に伝えるはずだった内容を、私が誠さんに語っていいのかとも思ったが、すでに一回椿ちゃんと会い、もう知ってしまっているのだから仕方がない。
(あとで一生懸命走ってくる百合さんには悪いけど……私が先にちゃんと伝えておきましたからね!)
私は心の中で百合さんに手をあわせた。
その殊勝な顔を、誠さんがどう解釈したのかはわからないが、優しい声をかけられる。
「やっぱり無理だったか……こうなるかもしれないとは思ってたから、和奏ちゃんがそんな顔しないでよ」
それから前回と同じように、椿ちゃんへの想いをぽつぽつと語ってくれた。
「僕は『成宮』の遠縁で、そのせいもあって小さい頃から、あの家には時々出入りしてたんだ……椿の遊び相手として呼んでもらえていたのは、かろうじて『成宮』の血筋だってことと、椿と一番年が近かったから以外の理由はないだろうな……」
「そうなんですか?」
前回と同じ言葉を返しながらも、私は納得しない思いが大きい。
「ああ。何よりやっぱり『成宮』は特別だからね……その跡取りで一人娘の椿に、近づける者は厳選されるし、僕は運がよかったんだよ……」
誠さんの話を聞きながら我慢できず、つい本音が口から出てしまった。
「そんなことないと思います!」
「え……?」
驚いた顔の誠さんに、私は言葉をぶつける。
中には前回の彼の話から仕入れた情報も含まれていたが、細かなことにはもう目をつむることにした。
「誠さんはなんとか椿ちゃんとつりあう人間になろうと、猛勉強して都会の大学へ行ったんですよね? 来年の春には法律関係の仕事も始めるし、資格試験も受けるんですよね? だったら単なる運なんかじゃなく、これからの人生で椿ちゃんの隣にいるための努力を、精一杯やってる人です!」
私のすごい剣幕に、一瞬呆気に取られていた誠さんだったが、すぐに目を細めて笑い始めた。
「ははは、ありがとう……そんなふうに言ってもらえると嬉しいよ。誰に聞いたの? 椿?」
「う……はい……」
椿ちゃんのせいにしてしまってよかったのかという思いはあったが、他に答えようがなく、私は曖昧にごまかした。
「……だから、自分は今すぐではなくても近いうちに必ず、『成宮』のお嬢さまに見合う人間になるので! と宣言して誓いを立てれば……椿ちゃんのお父さんだって他に誰かを探すより、誠さんなら、きっと……」
話すうちに椿ちゃんのお父さんの迫力を思い出してしまい、私の言葉にはだんだん自信がなくなってきたのだが、逆に誠さんの表情は明るくなり始めた。
「許して……くださるかな?」
期待に満ちた目で見つめられると、それを裏切ることができず、私は頷くしかない。
「はい……きっと……」
最終的には申し訳なさに俯いてしまった私の頭を、誠さんは軽く撫でた。
「ありがとう、和奏ちゃん。勇気が出たよ」
そういうふうに扱われても、変に緊張したり驚いたりせずしっくりとくるのは、彼が自分の祖父なのだと知ってしまった今となっては、もう何の疑問もない。
「じゃあその勇気を持って、懐の中のプレゼントを渡しに、今すぐ椿ちゃんのところへ行ってください」
軽く背中を押し出した私に、誠さんは驚いた顔を向けた。
「椿のところへ? でも……」
そのあとに続く言葉は、今『成宮』の家へ行っても会わせてもらえないだろうという心配だとわかり、私はすぐに神社の背後にそびえる山を指した。
「椿ちゃんなら今、『秘密の場所』に居ます。誠さんなら行き方わかりますよね?」
「ああ……」
頷いた彼の背を、私は両手で押した。
「早く行かないと、帰りが遅くなって椿ちゃんが怒られちゃいます。だから全力で走っていってください。プレゼントを渡したら、椿ちゃんをちゃんとお屋敷まで送っていってあげてくださいね」
その間には、祭りのトリを飾る花火も上がるだろうと思った。
お屋敷へこっそりと戻るために急ぎながら、椿ちゃんがあの田んぼ道で、誠さんと二人で花火を見上げることが出来たら、それはどんなにロマンチックだろう――。
その光景を想像して、私は自分のことのように胸をときめかせる。
「わかった。じゃあ行ってくるね。和奏ちゃん」
鷹揚に手を振っている誠さんを、私は懸命に言葉で急かす。
「いいから急いで! 急いで行ってください!」
「わかった!」
笑顔で答えると、本当に全力で山道を上るほうへ走っていった誠さんを見送り、私はほっと胸を撫で下ろした。
(よかった……この先はもう私には確かめることができないけど……きっとうまくいくはず……あの二人ならうまくいってくれるはず……)
私の目から見ても、可愛らしいとしか言いようのない感情を向けあっている二人が、自分の祖父母の若い頃の姿だという事実を、本当に面白く思いながら、私はようやく一息ついた。
と、その時――。
私が立っている場所へ向かい、懸命に駆けてくる人影が見える。
(あ……)
人波を必死にかきわけ、足をもつれさせながら走ってくる、小豆色の着物に白いエプロンを付け、髪を首のうしろでお団子にまとめた若い女性のシルエット――。
(百合さん! ううん……ハナちゃん!)
息を切らせて駆けつけるはずの彼女のため、何か飲みものを確保しておかなければと、私は周囲を見回した。
私のもとへたどり着いた百合さんは、息も絶え絶えといったふうに肩で大きく息をする。
私はあらかじめ準備しておいた湯呑みを手渡し、百合さんはすぐにそれを飲み干した。
「大丈夫ですか? 百合さん」
「百合なんてそんな……たいそうな名前……どうか私のことは『おい』とか、『お前』とでも呼んでください……」
死にそうに息を切らしている時でも、どうしてもそう主張せずにはいられない百合さんに、私は笑いながら提案してみる。
「じゃあ『ハナちゃん』でいいですか?」
「ハナちゃん……」
「ごく普通の花の『ハナちゃん』です。もちろん、百合の花の『ハナちゃん』でもいいですけど……」
「ごく普通の花でお願いします!」
その後も「ハナちゃん、ハナちゃん」としきりに呟いている百合さんは、どうやらその呼び名を気に入ってくれたようだった。
(もとは誠さんが、今夜そう命名するはずだったんだよね……でももう百合さんと誠さんは、今夜は会うことはないから、私が付けてもいいよね……?)
自問自答する私に、百合さん改め『ハナちゃん』は、椿ちゃんが今夜来れなくなったことを、懸命に伝えてくれた。
「旦那さまから、祭りへ行く許可が出なかったんです。お嬢さまは一日かけてずっと頼んでたけど……もう浴衣だって着てたけど……部屋から出るなっていつものように言い渡されて、それで私に……『二人が待ってるから、今日は行けないって伝えてくれ』って……」
そこまで話してから、ハナちゃんは我に返ったように周囲を見回す。
「あれ? そういえば誠さまは……?」
私は慌てて、曖昧に笑ってごまかした。
「あ! なんか急な用事で、来れなくなっちゃったそうです」
それは私の嘘だったのに、ハナちゃんはとても気の毒そうに私を見つめた。
「それじゃ和奏お嬢さん一人ですか? この町に越してきて初めての『燈籠祭り』なのに?」
あまりに憐みの目で見られるので、私はハナちゃんの腕をがしっと掴んだ。
「じゃあ代わりにハナちゃんが、一緒に燈籠を見てまわってくれますか? もう今日のお仕事は済んだんですよね?」
ハナちゃんは目をぱちくりと瞬かせてから、何度も首を縦に振った。
「そうです、そうです、仕事はもう終わりました! じゃあ私でよければ……!」
それから私たちは、人の波に乗って拝殿まで進んでお参りし、また参道まで下りてきた。
その間、左右や頭上に掲げられた燈籠の中に、椿ちゃんや父の名前が書かれたものはないかと探したが、見つけられなかった。
「こんなに数が多いんだから仕方がないですよ」
ハナちゃんに取り成され、最後にとまた二の鳥居の近くまで帰ってきた時、赤い花が描かれた小さな燈籠を見つけた。
どうやら私たちが立っていた鳥居の反対側に提げられていたので、今まで気がつかなかったらしい。
『成宮椿』と力強い筆致で、それだけはとても美しく名前が記されていた。
それに比べて絵のほうは、確かに椿ちゃんが誠さんに見られたくないと慌てるレベルだ。
「ええっとこれは……椿ちゃんの名前と同じ……『椿』かな?」
中央が黄色く、赤い大きな花という情報しかない中で、私がなんとか導き出した答えに、ハナちゃんは申し訳なさそうに首を横に振った。
「すみません……それ『ハイビスカス』だそうです……」
「ハイビスカス!?」
驚く私に、ハナちゃんは詳しく説明してくれる。
「はい。なんでも南国の花らしくて、『同じ色なら椿なんてしみったれた花じゃなく、これくらい華やかなのがいいわ』とお嬢さまがたいそうお気に入りで……」
その勢いで、椿ちゃんは父の仕事小屋兼住居のあの庭にも、周囲との調和などまったく無視して、ハイビスカスを植えてしまったのかと思うと、私はもう笑うしかない。
「椿ちゃんって、とっても面白いですね」
「はい。でもそれだけじゃなくて、とても優しくて聡明な方なんですよ……」
ハナちゃんが語る『椿ちゃん』は、私が知る彼女そのもので、嬉しくなる。
「どうぞこれからも、お嬢さまと仲良くしてくださいね」
以前もかけられた言葉に、私は「はい」と頷き、同じような言葉をハナちゃんにも返した。
「どうぞハナちゃんも、ずっと椿ちゃんの傍にいてあげてくださいね」
ぱあっと表情を明るくしたハナちゃんが、「はい」と力強く頷き、私はまた更に嬉しくなった。
ハナちゃんと別れたあと、私は最後にもう一度、拝殿まで上って父の仕事小屋兼住居へ帰ることにした。
参道から石段を百段ほど上ったところにある拝殿からは、実は直接山道へ抜ける別の出口がある。
神社へは正面から入るものだと、老婆のハナちゃんに口酸っぱく言われていたので、お参りする時に通ることはない道だが、帰る時は話が別だ。
すでにお参りを済ませたあとならば、今日は疲れたからと裏口から帰っても、神様も笑って見送ってくださるとハナちゃんも語る。
(特別疲れたってわけじゃないけど……どうしても確かめたいことがあって……)
途中で近道を使ったとはいえ、山の頂上付近まで上ったり、そこから麓まで駆け下りたりと、今日は絶対に体が疲れているはずなのに、気持ちのほうは高揚している。
椿ちゃんと誠さんをなんとか引きあわせて、私が望む未来に近づけたからかもしれない。
もう少しだけ、燈籠を見てまわりたい思いもあった。
少女のハナちゃんと一緒に椿ちゃんの燈籠を見つけたのは、まだ太陽が沈みきる前だった。
遠くに沈む夕日を感じながら、ハナちゃんと笑い、それから別れた。
その間に、太陽は山の向こうへ沈みきってしまい、燈籠の灯りがいよいよ本来の役目を果たす時間になった。
さっき椿ちゃんの燈籠を見つけた二の鳥居へ行ってみたが、もうそこには彼女の描いたハイビスカスの絵の燈籠はなかった。
代わりに違う少女の絵が貼られた燈籠があった。
(やっぱり……)
昼と夜の境の時間が終わると同時に、あの世界の人たちとは生きる世界が異なってしまったのだ。
今私がいるのは、私が本来生きるべき世界。
だとすれば、あの時間にはいくら捜しても見つけられなかった父の燈籠が、今の世界にならば存在するのではないかと思った。
父は確か『町役場から頼まれて燈籠の絵を描いた』はずだ。
ならば参道の左右にずらりと列を成す小さな燈籠ではなく、石階段を上る時に頭上を渡っている大きな燈籠を描いたのではないかと、私は思っていた。
予想通り、石段をちょうど半分上り、参拝者が疲れて休憩する辺りに設けられた、茶店と社務所が連なる大きな見晴らし場へ入る直前に、父の描いた大きな絵は高く掲げられていた。
(あー……お父さんの絵だ……)
私がしみじみと見上げたのは、淡い水彩の風景画だった。
この祭りを長い時間見てまわってわかったことだが、一口に燈籠の絵と言っても、その種類は無限にある。
夏らしい金魚やかき氷や西瓜の絵。
海や山や虹などを描いたもの。
今流行りのアニメキャラクター。
好きなアイドルの似顔絵。
真剣に動物や昆虫の絵を描いてあるものなどもあって、見ていて飽きることはなかった。
その中にあって、さすがは頼まれて描いた芸術家だけあり、父の絵はとても私の心を惹きつけた。
縁側に座った小さな女の子がシャボン玉で遊んでいて、それを家族が見守っている、なんでもない日常のひとコマを切り取った風景なのだが、随所に夏らしさが散りばめられている。
少女が被った麦わら帽子。
庭の草木に水をやっているらしいお祖父さんが、上向けて持ったホースから飛び散る水飛沫。
母親らしき人が晴天の下に真っ白な洗濯物を干しているところにも、祖母らしき人が少女の隣で大きな西瓜に包丁を入れているところへも、少女が丸い頬を膨らませて作ったしゃぼん玉が煌きながら浮いており、まるで夢の世界のように幸せで満ち足りた時間を、見事に描き出している。
(綺麗……)
他の人の邪魔にならないよう、端に避けて、私はその絵をずっと眺めていたが、ふと気がついた。
(そういえば、この子のお父さんは……?)
これだけ家族が揃った絵を描いているのだから、わざわざ父親だけ省くことはしないだろう。
そう考えて初めて、しゃぼん玉のストローを口にくわえた少女が体を捩って、半分ふり返り、こちらへ手を振っていることに気がついた。
「あ……!」
少女の父親は、この絵を描いている人物だ。
だからこの中には描かれていない。
だけど確かに存在はしている。
そう思い当たり――私は涙が溢れて仕方がなかった。
(お父さん……!)
よくよく見れば、少女は私の小さな頃に似ている気がする。
描かれている縁側と庭は、父の仕事小屋兼住居の、私の大好きなあの庭。
お祖父さんもお祖母さんもお母さんも、見れば見るほど、誠さんや椿ちゃんや私のお母さんに見えて仕方がなく、私は長いことその場に縫い留められていた足を、ようやく動かして帰り始めた。
ちょう拝殿まで上りきったところで、シューッと夜空を何かが駆けのぼっていく音がし、バーンと大きな大輪の花が夜空に開く。
「――――!」
あまりにも近すぎて、鼓膜に響くような大きな音に、私は両耳を手で塞ぎ、父の仕事小屋兼住居へと続く山道を急いだ。
(早く! 早く! 間に合うかな……?)
椿ちゃんが「数はあまり多くないけど」と花火のことを語っていたのを思い出し、急いだのだったが、よくよく考えてみれば、それは彼女が生きたあの世界での話だった。
私が生きるこの世界では、私が神社の敷地を抜けて山道へ入り、家路を急ぐ間もずっと鳴りやむことなく、夜空を彩る大輪の花は、私の頭上で次々と花開き続けていた。
父の仕事小屋兼住居にたどり着くと、私は急いで母屋へ駆け寄った。
中へ入るまでもなく、父が縁側に座り、煙草をくわえながら庭を眺めている姿が見える。
「お父さんただいま!」
きっとここで待っていてくれるとは信じていたが、また父のいない世界になっていたらどうしようという不安もあり、いつも通りの姿を見て、ほっと安堵する思いは大きかった。
花火は見ていないのかと訊ねると、「和奏と一緒に見ると約束したから、帰ってくるまでは音だけ聞いていた」とにやりと笑われ、私はまた泣きたいような気持ちになる。
母屋の食卓から庭へ運び出した椅子を二つ並べて、ほぼ自分たちの頭上へ打ち上がる花火を、父と二人でじっくりと眺めた。
椿ちゃんが言っていたとおり、火薬の匂いは凄いし、なんなら煙も酷かった。
花火が連続して上がると、煙でその半分は見えなくなるほどだ。
「毎年派手になるなー……お金持ってるんだな、髪振町……」
父は煙草を吸うのをやめ、花火を見上げて苦笑していた。
「お父さんの燈籠……私、見つけたよ」
私が報告すると、苦笑いが本当の笑顔になる。
「お、そうか? でもよくわかったな……名前なんて入れてないのに……」
「え? そうだった?」
確かに私は、絵に記された父の名前を確かめたわけではなかった。
でも一目見た瞬間から、あれが父の絵だとわかってしまったのだから、確認の作業など必要なかった。
「あれってこの庭だよね?」
訊ねると、父は照れくさそうに頬を指で掻く。
「やっぱり、知ってる奴にはわかるな……もっとデフォルメしとくんだったかな……」
恥ずかしそうにため息を吐く父に、私は更に問いかける。
「じゃあ……あれって私?」
父は照れもごまかしもせず、まっすぐに私を見つめて頷いた。
「まあな……」
「そっか……」
逆に私のほうが照れてしまう。
誠さんも椿ちゃんの絵を描いていたが、身近な人を描くというのはどういう気持ちなのだろう。
私自身は、風景や静物の絵しか描かないので、父や誠さんにぜひ訊いてみたいところだ。
二人の話を父としてみたくて、私は慎重に言葉を選びながら、父に話した。
「私、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会ったよ。お父さんが描いたような夢の中で……」
実際の私の感覚としては、二人との邂逅は夢よりもっとリアルなものだったが、あの不思議な体験を語るには、『夢』で片づけるしかないだろうという結論に至ったのだった。
「お祖父ちゃんは、すごく絵がうまくて、手先も器用な穏やかな人で、お祖母ちゃんのことが大好きだった……お祖母ちゃんは、泣いたり笑ったり忙しくて、でもそんなところがとっても可愛くて、やっぱりお祖父ちゃんのことが大好きだった……」
「おお! 当たってる!」
父は手を叩いて笑いながら、私の顔を見た。
「でも和奏……あの燈籠の絵は、夢じゃなくて、現実なんだよ……」
「え……?」
驚いて目を瞬かせる私に、父は思いもよらない話をしてくれる。
「和奏が五歳の夏だったかな……この町へ家族で帰省して、この家に泊ったんだ。その時の絵だ。あの頃はもうすでに俺は本家に出入り禁止だったから、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんもわざわざ、本家からここへ泊まりに来てくれて……」
「本家?」
首を傾げる私に、父は頷いた。
「ああ、『成宮家本家』。お前がこの間ちらりと聞いた『成宮』だよ……俺の実家……」
やはりそうだったのだと、私も父へ頷き返した。
「お前が友だちになったっていう『成宮』のお嬢さんから、どこまで聞いてるかは知らないが……家督を継ぐことを放棄して、『成宮』と決別した叔父さんというのがいたとしたら、それが俺だ……『成宮』は、今はあの子の母親――俺の姉貴が継いでいる」
「そう……なんだ……」
ここで私はとても重要なことに気がついた。
父は、私が友だちになった『成宮のお嬢さん』を、今現在あのお屋敷で暮らしているらしい女の子のことだと持っているようだが、それは違う。
私が友だちになったのは、『うてな』でこことは違う世界へ迷いこんで出会った、椿ちゃん――父の母だ。
しかしそのまちがいを正すには、もういったいどこから説明しなければならないのかわからなくなるほど複雑で、その上そんな突拍子もない話を、信じてもらえる自信もない。
ここは異を唱えず、とりあえず父と話を合わせておくことを選ぶ。
「特には、聞いてないけど……」
「そうか……」
父は大きく息を吐き、椅子の背もたれに深く背中を預けた。
花火を見上げ、その音に時々声をかき消されながら、話をしてくれる。
「俺と姉貴の上には兄貴がいて、『成宮』は当然その兄貴が継ぐものだと、周りも本人もまったく疑ってなかった。子供の頃から、俺たちとは別に英才教育を受けて、お前のお祖母ちゃんのお父さん――和奏から見たらひいお祖父ちゃんだな……その人から帝王学を叩きこまれて……頭のいい、優しい兄貴だったけど、まだ若いうちに亡くなったんだ……」
父の家族の話など、これまで一度も聞いたことがなく、私は驚きの思いで目を見開く。
「そう……なの……」
「ああ。当然次は、次男の俺がって話になったけど、その頃にはもう俺はこの町にいなくて、和奏も生まれたばかりで、ここへ帰るっていう選択肢は選べなかった……それで姉貴が「だったら私が!」って継いだんだ。昔からしっかり者だし、人づきあいはいいし、却って和奏のひいお祖父ちゃんの代より、『成宮』は町への影響力と人脈を広げてるかもしれないな……」
「そうなんだ……」
父の話によれば、あの椿ちゃんのお父さんから、椿ちゃんの娘に当たる人が家督を継いだということになる。
だとすれば、椿ちゃんと誠さんはいったいどうしたのだろうと、私は不安になった。
「私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは……?」
父は「ああ」と頷き、二人について教えてくれた。
「もともと俺を生んだあとからお祖母ちゃんは病気がちだったけど、兄貴が亡くなってからめっきり体を壊して……お祖父ちゃんと二人でこの家へ通うのが楽しみの、晩年だったな……」
「そっか……」
その老後は、あれほど元気な椿ちゃんからは想像がつかないが、年をとっても誠さんと仲良しだったふうなのには、少し安心した。
「和奏が小学校へ上がる頃、もう長くはないと医者から診断されて、この家に引きこむことを決めたから、俺も最後の親孝行と思って一緒に住むことにした。そのせいで和奏には寂しい思いをさせることになったけど……悪かったな」
「ううん。あの時は寂しかったけど……今はもう大丈夫だから……」
父が母と別れてこの町へ帰ってきたのにはそういう理由があったのかと、私は驚くばかりだった。
「お母さんと私もここへ連れて帰ろうとは思わなかったの?」
訊ねてみると、とても驚いた顔をされる。
「冴子……いや、お母さんを? 無理だろ。あの仕事人間には……」
酷い言い分の中にも、気心の知れた気安さが垣間見え、私は嬉しかった。
「そんなこと言うと怒られるよ」
「和奏が言わなきゃわからないだろ……まさか俺を裏切るつもりか?」
「大丈夫、大丈夫」
「本当かぁ……?」
疑うように私の顔を見ながらも、父の目は笑っている。
「実際、東京生まれ東京育ちのバリバリのキャリアウーマンに、一緒に田舎へ帰ってくれとは言えないだろう……」
少し未練を残したふうのぼやきには、私は何も答えなかった。
「その代わり、和奏を呼び寄せることには成功したからな」
得意そうに胸を張る父は、私を横目に見る。
「どういうこと?」
私は首を傾げる。
「お前が小さな頃にこの町を好きだったとわかってて、いかにも好きそうな風景の写真を送り続けた……こう見えて頭脳犯なんだよ、俺は。今頃、冴子が悔しがってるかもしれないな……」
どこまでも天狗になりそうな父には悪いが、私はこのあたりで一度、釘を刺しておくことにした。
「それ、お母さんはわかってたと思うよ?」
「え?」
意外そうに目を見開く父に、私は事実を告げる。
「お父さんが送ってくれた写真。いつでも私が見れるように、コルクボードに貼ってリビングに飾ってくれてたのはお母さんだもの……」
「……な! コルクボード? そんなの俺のパクリじゃないか!」
「どっちが先かは私にはわからないけど……お父さんの仕事部屋でコルクボードを見た時、今は他人でも『元夫婦』ってやっぱりすごいなーって、私、感心したよ」
心から褒めているというのに、父の機嫌は直らない。
「なんだよ……じゃあやっぱり冴子のてのひらの上で転がされてただけかよ……」
しょんぼりしてしまった父に、私は問いかける。
「でも今私はここにいるんだから、お父さんの『作戦勝ち』には違いないんでしょ?」
父はにやりと、唇の端を歪めて笑った。
「まあな……」
ふんぞり返った格好で椅子に座っていたので、少し眠けが出てきたのかもしれない。
花火はまだバンバンと賑やかに頭上で鳴り響いているというのに、父の目はとろんと閉じ始める。
「でも一番大切なのは、お前自身がどうしたいのか、だからな……」
少しトーンの下がった父の声に、私は「うん」と頷く。
「どこで生きていくのでも、何をするのでも、お前の好きなようにすればいい。俺は……冴子も、それを全力でバックアップするだけだ」
「うん!」
父の言葉は、椿ちゃんと誠さんから、実際に父自身が言われた言葉なのかもしれないし、兄弟の死などの半生を経て、この自然豊かな土地でたどり着いた答えなのかもしれない。
いつか私も、自分の子どもに、そういう言葉を伝えられる親になれたらと、私は微かな憧れを胸に抱いた。