「それで? なんであんたみたいな若いお嬢さんが、こんなところでそんな古い絵を抱きしめて、泣いちょるんよ?」
「それは……」
いくら引き剥がそうとしても自分から離れない私に音を上げて、ハナちゃんは部屋の隅に置かれた椅子に座るよう勧めてくれた。
向かいあってハナちゃんも座りながら、私に質問をする。
しかし私はそのどれにも、答えることができない。
「どっから来たの? 何をしに?」
「…………」
黙りこむばかりの私に呆れて、ハナちゃんは椅子の背もたれに背中を預けた。
「これじゃ日が暮れてしまうわ……」
二呼吸ぐらいおいてから、今度は私から問いかけることにする。
「あの……ここって誰も住んでいないんですか?」
ハナちゃんは気負うこともなく、素直に頷いてくれた。
「そうじゃよ。薪小屋じゃったのをある人が買い取って、仕事の合間に息抜きする場所に使っちょったけど、もう亡くなったけねぇ……」
「その人って?」
「町で一人きりの弁護士先生じゃった。趣味が多くて、よくここにこもっちょったけえ、昔の馴染みで私が少し手伝いをして……」
「昔馴染み?」
「『成宮』に所縁の人じゃったからね。私もこう見えて、昔は『成宮』で働いて……と言っても、今の若いもんには『成宮』なんてわからんか……」
少し寂しそうな横顔に、私は胸騒ぎを覚えた。
「『成宮』……どうかしたんですか?」
ハナちゃんは、懐かしいものを見るような目で、私の顔を見る。
「知っちょるんか? 私たちが若い頃には、この町で知らない者はいない名家だったけど……跡取りのお嬢さまが結婚しないままに若くて亡くなってしもうてねぇ……今はもう、のうなってしまったんよ」
「――――!」
私は動揺のあまり、椅子を倒してその場に立ち上がった。
おそらく顔色を失っているだろう私を、ハナちゃんは不思議そうに見る。
「どうしたの? あんたそういえば、どことなくお嬢さまに似ちょるねぇ……いや、どちらかといえば、弁護士先生か……ここだけの話、あの二人はお互いを好いちょってね。旦那さまの許しが出なくて、一緒になることはなかったけど……もし結婚しちょったら、『成宮』がなくなることもなかっただろうし、あんたみたいな娘さん……いや、年齢的には孫娘かねぇ……おったかもしれんのにね……」
ハナちゃんが悪気なく語る夢物語が、私の胸にズキズキと刺さる。
「ハナちゃん……」
嗚咽をこらえて呼びかけた私に、ハナちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「どうしてその呼び名を知っちょるの? 私は確かに昔、お嬢さまたちからそう呼ばれちょったんよ……初めに言い出したのは、弁護士先生じゃったかねぇ……そうそう、あの『燈籠祭り』の夜だ。『来れなくなった』ってお嬢さまからの言伝に来た私を、あの人が『百合ちゃん、百合ちゃん』て呼ぶから、『その名前は好きじゃない』って言って、じゃあ何て呼べばいいのかって話になって、『ただの花とかでいいです』って言い張ったら、『じゃあハナちゃんだ』って……」
まるでその時の情景が、今目の前でくり広げられているかのように、優しい声で微笑みながら語り続けるハナちゃんに、私は驚きの目を向けた。
「百合さん!?」
ハナちゃんは、きょとんと私の顔を見た。
「はい……百合です……」
その、深い皺が刻まれた顔に、椿ちゃんのお屋敷で働いていたあの『百合さん』の顔がぴたりと重なる。
(そうか……そうだったんだ……)
ハナちゃんの話で得た情報から導き出した答えを、私は一つずつ丁寧に頭の中で整理していった。
父はおそらく椿ちゃんと誠さんの息子だった。
だとすれば私は、二人の孫娘に当たる。
父があれほど『成宮』に過敏に反応していたことにも説明がつく。
父は『青井』姓を名乗っているが、それは母と結婚する時改姓したのを、離婚後も使っているのだとは私も知っていた。
(きっと何かの理由で『成宮』を離れたんだ……)
その理由が何なのかは、今は確かめることができない。
椿ちゃんと誠さんが結婚しておらず、父という人間が存在しないからだ。
私は『長倉和奏』で、長倉さんと母の娘だ。
この髪振町には、縁もゆかりもない。
それなのに、夏祭りで事故に遭い、突然連絡が来たので、母はあれほど驚いていたのだとようやく理解できた。
(そうか……そういうことか……)
理解はできたが、しかし納得はいかない。
なぜなら私だけは、椿ちゃんと誠さんが結婚し、父が存在する現実を知っているからだ。
(どちらが正しくて、どちらがまちがっているかなんて、私にはわからない……でも私は、やっぱりお父さんの娘で……椿ちゃんにも誠さんにも幸せになってほしい……!)
縋るように掴もうとした胸もとには、父と一緒に作ったあの思い出のペンダントがなく、私は打ちひしがれる思いだったが、代わりにポケットに、小さな小箱の感触があった。
「あ……!」
急いで出して眺めてみると、赤いリボンをかけられたその箱を、ハナちゃんもじっと見つめる。
「あら、お嬢さまの名前が書いてあるねえ……なんか弁護士先生の字に似ちょる気がするけど……」
綺麗にリボンを掛けられたその箱に頭を下げて、私は丁寧にメッセージカードを抜き取り、リボンを解いた。
真新しい白木の蓋を開けてみると、中には丸いブローチのようなものが入っている。
細かな銀細工が縁を飾り、中央に焼きものが嵌めこまれているそれは、次第に涙で滲んで見えなくなっていった。
(よかった……お父さん……!)
それは、父が私に『祖母の形見』だといって見せてくれた、あの帯留めだった。
それが誠さんから椿ちゃんへのプレゼントとして存在しているということは、私の推測は当たっているということだ。
そして、私がまた父をとり戻せる可能性が残っているということだ。
私の祖父と祖母がいつ亡くなったのはわからないが、昔の人物である椿ちゃんと誠さんに、私が会うことができた理由ならば思い当たるものがある。
(椿ちゃんと初めて会った……あの場所だ!)
もともと私は、髪振神社の上之社を目指して山を登り、足を滑らせてあの場所へ落ちたのだったが、行くことを決意した理由の一つに、ハナちゃんからある話を聞かせてもらったことがあった。
『今の展望台が整備されるよりずっと前に使われちょった、自然の見晴らし台やね……どこにあるのか誰も知らんけど、古い言い伝えがあって……夕暮れ時に、その『うてな』へ行ったら、『いろんなもの』が見れるんじゃそうだ……『いろんなところ』へ行けると言う人もおる』
(『うてな』か……)
椿ちゃんや誠さんと会ったあの不思議な場所が、本当にその『うてな』なのかは不明だが、他に手がかりはない。
窓の外で夕日が傾きかけているのを見て、行くのならば早いほうがいいだろうと、私はハナちゃんに向き直った。
「ハナちゃん……私、もう行くね」
ハナちゃんは、私を不法侵入者扱いすることはもうなかったが、代わりにとても寂しそうに肩を落とした。
「そうかい。ひさしぶりに懐かしい話ができて嬉しかったけど、いつまでもひき止めるわけにはいかんもんねぇ」
つぶらな瞳を何度もぱちぱちと瞬かせて、涙を必死にこらえているようだった。
「みーんなもう、いなくなってしまったけえ……」
いつも小柄な姿が、より一層小さくなったように見え、私は胸が締めつけられる思いだった。
「あんた、またここへ来ることがあるかい? 家と小屋が壊れて崩れてしまわんように、私は時々修繕に来るけど……」
小さな声で訊ねてきたハナちゃんを、私は夢中で抱きしめた。
「絶対に来る! ハナちゃんがもう嫌だって思うほど、顔をあわせることになる未来を約束するし、お父さんにも必ずまた会わせてあげる!」
「何を言っちょるのかちっともわからんねぇ……ほんとうにおかしな子じゃ……」
ハナちゃんはしきりに首を傾げていたが、その表情は嬉しそうだった。
約束を現実のものにするため、私はすぐに山の頂上へ向かうことにした。
「それは……」
いくら引き剥がそうとしても自分から離れない私に音を上げて、ハナちゃんは部屋の隅に置かれた椅子に座るよう勧めてくれた。
向かいあってハナちゃんも座りながら、私に質問をする。
しかし私はそのどれにも、答えることができない。
「どっから来たの? 何をしに?」
「…………」
黙りこむばかりの私に呆れて、ハナちゃんは椅子の背もたれに背中を預けた。
「これじゃ日が暮れてしまうわ……」
二呼吸ぐらいおいてから、今度は私から問いかけることにする。
「あの……ここって誰も住んでいないんですか?」
ハナちゃんは気負うこともなく、素直に頷いてくれた。
「そうじゃよ。薪小屋じゃったのをある人が買い取って、仕事の合間に息抜きする場所に使っちょったけど、もう亡くなったけねぇ……」
「その人って?」
「町で一人きりの弁護士先生じゃった。趣味が多くて、よくここにこもっちょったけえ、昔の馴染みで私が少し手伝いをして……」
「昔馴染み?」
「『成宮』に所縁の人じゃったからね。私もこう見えて、昔は『成宮』で働いて……と言っても、今の若いもんには『成宮』なんてわからんか……」
少し寂しそうな横顔に、私は胸騒ぎを覚えた。
「『成宮』……どうかしたんですか?」
ハナちゃんは、懐かしいものを見るような目で、私の顔を見る。
「知っちょるんか? 私たちが若い頃には、この町で知らない者はいない名家だったけど……跡取りのお嬢さまが結婚しないままに若くて亡くなってしもうてねぇ……今はもう、のうなってしまったんよ」
「――――!」
私は動揺のあまり、椅子を倒してその場に立ち上がった。
おそらく顔色を失っているだろう私を、ハナちゃんは不思議そうに見る。
「どうしたの? あんたそういえば、どことなくお嬢さまに似ちょるねぇ……いや、どちらかといえば、弁護士先生か……ここだけの話、あの二人はお互いを好いちょってね。旦那さまの許しが出なくて、一緒になることはなかったけど……もし結婚しちょったら、『成宮』がなくなることもなかっただろうし、あんたみたいな娘さん……いや、年齢的には孫娘かねぇ……おったかもしれんのにね……」
ハナちゃんが悪気なく語る夢物語が、私の胸にズキズキと刺さる。
「ハナちゃん……」
嗚咽をこらえて呼びかけた私に、ハナちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「どうしてその呼び名を知っちょるの? 私は確かに昔、お嬢さまたちからそう呼ばれちょったんよ……初めに言い出したのは、弁護士先生じゃったかねぇ……そうそう、あの『燈籠祭り』の夜だ。『来れなくなった』ってお嬢さまからの言伝に来た私を、あの人が『百合ちゃん、百合ちゃん』て呼ぶから、『その名前は好きじゃない』って言って、じゃあ何て呼べばいいのかって話になって、『ただの花とかでいいです』って言い張ったら、『じゃあハナちゃんだ』って……」
まるでその時の情景が、今目の前でくり広げられているかのように、優しい声で微笑みながら語り続けるハナちゃんに、私は驚きの目を向けた。
「百合さん!?」
ハナちゃんは、きょとんと私の顔を見た。
「はい……百合です……」
その、深い皺が刻まれた顔に、椿ちゃんのお屋敷で働いていたあの『百合さん』の顔がぴたりと重なる。
(そうか……そうだったんだ……)
ハナちゃんの話で得た情報から導き出した答えを、私は一つずつ丁寧に頭の中で整理していった。
父はおそらく椿ちゃんと誠さんの息子だった。
だとすれば私は、二人の孫娘に当たる。
父があれほど『成宮』に過敏に反応していたことにも説明がつく。
父は『青井』姓を名乗っているが、それは母と結婚する時改姓したのを、離婚後も使っているのだとは私も知っていた。
(きっと何かの理由で『成宮』を離れたんだ……)
その理由が何なのかは、今は確かめることができない。
椿ちゃんと誠さんが結婚しておらず、父という人間が存在しないからだ。
私は『長倉和奏』で、長倉さんと母の娘だ。
この髪振町には、縁もゆかりもない。
それなのに、夏祭りで事故に遭い、突然連絡が来たので、母はあれほど驚いていたのだとようやく理解できた。
(そうか……そういうことか……)
理解はできたが、しかし納得はいかない。
なぜなら私だけは、椿ちゃんと誠さんが結婚し、父が存在する現実を知っているからだ。
(どちらが正しくて、どちらがまちがっているかなんて、私にはわからない……でも私は、やっぱりお父さんの娘で……椿ちゃんにも誠さんにも幸せになってほしい……!)
縋るように掴もうとした胸もとには、父と一緒に作ったあの思い出のペンダントがなく、私は打ちひしがれる思いだったが、代わりにポケットに、小さな小箱の感触があった。
「あ……!」
急いで出して眺めてみると、赤いリボンをかけられたその箱を、ハナちゃんもじっと見つめる。
「あら、お嬢さまの名前が書いてあるねえ……なんか弁護士先生の字に似ちょる気がするけど……」
綺麗にリボンを掛けられたその箱に頭を下げて、私は丁寧にメッセージカードを抜き取り、リボンを解いた。
真新しい白木の蓋を開けてみると、中には丸いブローチのようなものが入っている。
細かな銀細工が縁を飾り、中央に焼きものが嵌めこまれているそれは、次第に涙で滲んで見えなくなっていった。
(よかった……お父さん……!)
それは、父が私に『祖母の形見』だといって見せてくれた、あの帯留めだった。
それが誠さんから椿ちゃんへのプレゼントとして存在しているということは、私の推測は当たっているということだ。
そして、私がまた父をとり戻せる可能性が残っているということだ。
私の祖父と祖母がいつ亡くなったのはわからないが、昔の人物である椿ちゃんと誠さんに、私が会うことができた理由ならば思い当たるものがある。
(椿ちゃんと初めて会った……あの場所だ!)
もともと私は、髪振神社の上之社を目指して山を登り、足を滑らせてあの場所へ落ちたのだったが、行くことを決意した理由の一つに、ハナちゃんからある話を聞かせてもらったことがあった。
『今の展望台が整備されるよりずっと前に使われちょった、自然の見晴らし台やね……どこにあるのか誰も知らんけど、古い言い伝えがあって……夕暮れ時に、その『うてな』へ行ったら、『いろんなもの』が見れるんじゃそうだ……『いろんなところ』へ行けると言う人もおる』
(『うてな』か……)
椿ちゃんや誠さんと会ったあの不思議な場所が、本当にその『うてな』なのかは不明だが、他に手がかりはない。
窓の外で夕日が傾きかけているのを見て、行くのならば早いほうがいいだろうと、私はハナちゃんに向き直った。
「ハナちゃん……私、もう行くね」
ハナちゃんは、私を不法侵入者扱いすることはもうなかったが、代わりにとても寂しそうに肩を落とした。
「そうかい。ひさしぶりに懐かしい話ができて嬉しかったけど、いつまでもひき止めるわけにはいかんもんねぇ」
つぶらな瞳を何度もぱちぱちと瞬かせて、涙を必死にこらえているようだった。
「みーんなもう、いなくなってしまったけえ……」
いつも小柄な姿が、より一層小さくなったように見え、私は胸が締めつけられる思いだった。
「あんた、またここへ来ることがあるかい? 家と小屋が壊れて崩れてしまわんように、私は時々修繕に来るけど……」
小さな声で訊ねてきたハナちゃんを、私は夢中で抱きしめた。
「絶対に来る! ハナちゃんがもう嫌だって思うほど、顔をあわせることになる未来を約束するし、お父さんにも必ずまた会わせてあげる!」
「何を言っちょるのかちっともわからんねぇ……ほんとうにおかしな子じゃ……」
ハナちゃんはしきりに首を傾げていたが、その表情は嬉しそうだった。
約束を現実のものにするため、私はすぐに山の頂上へ向かうことにした。