「和奏! 和奏!」
母が私を呼んでいる声が聞こえる。
それも、とても必死な様子で――。
いったい今どういう状況だっただろうかと、私は目を開けないままに考えた。
(えーと……)
とりあえず日曜日でないことは確かだ。
母が私に起こされることはあっても、私が母に起こされることはほぼないが、たとえ私が多少寝坊していたとしても、私の学校も母の会社も休みの日曜日ならば、何も問題は発生しない。
(待って……そもそも今、夏休みじゃない?)
その事実に思い当たり、私は少なからずむっとする。
(じゃあ私が起こされなくちゃいけない理由なんてないじゃない……お腹空いたから何か作ってくれとか? わざわざ私を起こして頼むより、お母さんならマンションの一階のコンビニに買いに行くよね……?)
首を傾げかけ、私ははたと思い当たった。
(そうだった……私、お母さんと暮らすあのマンションを出て、お父さんのところへ来たんだった……)
父の仕事小屋兼住居。
髪振神社と上之社。
蒸気機関車と無人駅。
田んぼの中の舗装されていない道と、魚が泳いでいた小川。
この町へ来て目にした光景が、頭の中でぐるぐると渦を巻き、圧倒的な茜色に競い負け、その中で目に涙を溜めていた黒髪の少女の顔が、脳裏いっぱいにフラッシュバックした。
(椿ちゃん――!)
その瞬間、私はぱちりと両目を開き、すぐ近くで顔を覗きこんでいた母は、歓喜の声を上げた。
「和奏!!!」
まだはっきりとしない意識の底に、幾百もの燈籠の光が輝いていたあの日の神社の光景が残る。
燈籠の灯りよりも数倍も眩しい車のヘッドライトに目を射られた瞬間、自分が車に撥ねられたことは覚えていたが、なぜここに母がいるのかはさっぱりわからなかった。
目は開けても首を動かさず、視線だけで、どこかの病院の病室らしい殺風景な部屋を見回している私に、母は涙声で話しかける。
「よかった……目が覚めて……和奏、あなた車に撥ねられたあと、二日も寝たままだったのよ……連絡を受けて、私、慌ててこの町に来て……特にけがはないってお医者さまは言ってくださったけど、心配で……どこか痛いところはない?」
問われるままに、首や手や足や腰と、簡単に動かせるところを確認してみて、特に異常はなさそうだと頷く。
「ないみたい……心配かけてごめんね、お母さん」
「いいのよ……無事で、本当によかった……」
両手で顔を覆った母の隣には、寄り添うように長倉さんが立っていた。
(長倉さんまで! わざわざこんな遠くに来てくれたんだ……)
申し訳ない思いで、私は軽く会釈する。
強張った顔で私を見つめている長倉さんは、普段とは少し雰囲気が異なるように感じた。
(…………?)
どこがどうとはっきりせず、じっと見つめる私の前から、母の肩を軽く叩いて長倉さんは姿を消す。
「目が覚めましたって、病院の人に伝えてくるから……」
「ええ、お願い……」
足音が完全に聞こえなくなるのを待ち、私は母に訊ねた。
「私……やっぱり車に撥ねられたの?」
母は深々と息を吐き、私の頭を撫でる。
「そうよ。病院からですって、突然電話がかかってきた時、私がどんなに驚いたか……考えてほしいわ」
「ごめんなさい……」
それでは母に連絡したのは、父ではなく病院なのだと納得する。
少しおかしな気がした。
母はベッド横のサイドテーブルの引き出しから、赤いリボンのかかった小箱を出し、私に渡してくれる。
「はい、これ。事故の時、和奏が握りしめていたものだって……大切なものなの?」
それは誠さんが、椿ちゃんにプレゼントするために夏祭りに持ってきていたもので、渡しに行く途中で私が事故に遭ってしまい、まだ椿ちゃんの手に渡っていないことを申し訳なく思った。
「うん、ありがとう」
(病院を出たら、すぐ渡しに行かなくちゃ)
責任を感じて小箱を握りしめる私に、母は首を傾げる。
「いったい誰に会いにこんなところまで来たの? 見たこともない浴衣を着てたし……」
「こんなところって……」
母の言い分に違和感を覚え、私はじっとその顔を見つめる。
その言い方ではまるで、夏祭りの夜にだけ私がこの町を訪れたかのようだ。
実際にはもっと早く、夏休みに入ってからすぐ、父のもとへ来ているというのに――。
私が事故に遭ったことで、父に腹を立てているのかもと思い、私は恐る恐る訊ねた。
「お父さんは? 仕事……?」
長倉さんがもし今部屋へ帰ってきたら、気分を悪くするかもしれないと気を遣い、声を抑えたつもりだった。
それなのに母は、そんな私の努力を無駄にするかのように、大きな声で呆れたふうに答える。
「何言ってるの? 今、病院の人にあなたが目を覚ましたことを伝えに行ったじゃない……やっぱり頭でも打った?」
確かに長倉さんはもうすぐ母と結婚し、戸籍上私の『お義父さん』になる人だが、私が今、母に訊いているのは実父のことだ。
「そうじゃなくて、私の本当のお父さんのことだよ」
母はきょとんとした顔で、私を見つめた。
「本当の……なんですって? 和奏、あなたやっぱり打ちどころが……?」
この後に及んでそのやり取りを続けようとする母に、私は少なからずイラッとして、少し声を荒げる。
「お母さん、いい加減にして。私、友だちと大事な約束もしてて、事故の時の状況を詳しく確かめたいの……お父さんが家にいるんだったら、私ももうあそこへ帰る」
起き上がってベッドを降りようとする私を、母は慌ててもう一度寝かせようとする。
「和奏、あなた本当に何を言ってるの? やっぱりおかしい……詳しく調べてもらったほうがいいわ。お父さんが帰ってきたら、お医者さまにもそう言って……」
「私はおかしくなんてない! おかしいのはお母さんだよ!」
母と問答している時に、長倉さんが医師を伴って部屋へ帰ってきた。
「何を騒いでるんだ? 目が覚めたばっかりなんだからおとなしく寝てないとダメだろう、和奏。冴子も……一緒になって大きな声を出してどうする」
「ごめんなさい」
長倉さんに注意された母は、私を押さえつけようとしていた手を除け、ベッドの横へ移動したが、私は呆気に取られたまま長倉さんの顔を凝視するばかりだった。
(なんで……?)
長倉さんは私のことを、『和奏』などと呼ばない。
『和奏ちゃん』と呼んでいたし、母のことも『冴子さん』と呼んでいた。
どうしようもない違和感に、ベッドの頭部分に入れられた自分の患者カードをふり返って確かめると、名前が『長倉和奏』と記されていた。
「え……?」
いったい何が起こっているのだろう。
とまどうばかりの私をよそに、長倉さんが連れてきた医師は、私の脈を診たり、熱や血圧を測ったりして、具合の悪いところはないかと問いかけてくる。
「特にないです……」
私が答えると、母と長倉さんに向き直った。
「最後にもう一度脳波の検査をして、異常がなければ退院も可能です。遠くから来られてるんですよね? 帰宅後は念のため、自宅近くの病院にも行っておいてください」
「ありがとうございます」
「お世話になりました」
母と長倉さんは交互に医師にお礼を言っているが、私は何がなんだかわからなかった。
確かめることが怖くて、ぞっとするような違和感を胸に抱えたまま、検査を受けて退院の準備をする。
すっかり口を閉ざしてしまった私に、母と長倉さんは「疲れているんだろう」と話しあっていたが、私はとても冷静に話ができるような状況ではなかった。
都会から車で駆けつけたという長倉さんの車に乗り、母と暮らしていたマンションのある街へ帰ろうという時、私はやっと『髪振神社』へ立ち寄ってほしいことだけ伝えた。
母は訝ったが、長倉さんは快く車を廻してくれ、私は後部座席から、いつもと何も変わらない神社の様子を確かめる。
祭りの燈籠も、それを吊るしていた竹もすべて撤去され、普段の状態に戻った神社は、あの祭りの夜が現実ではなかったのではないかという錯覚さえ起こさせた。
(それじゃ、今のこれが現実なの……? ううん、そんなはずない……!)
私は縋るような思いで、誠さんが椿ちゃんに渡すはずだったあの小箱を、ずっと握りしめている。
「神社にお参りしていくの?」
母の問いかけに私は首を横に振り、その代わりに神社の横から山へ登る道を、少し進んでほしいと懇願した。
「大丈夫なの?」
道の両脇から樹木が覆い被さるように伸びている悪路に、母はあからさまに嫌な顔をしたが、山の頂上にある上之社へも続いている道なのだと説明すると、長倉さんは車を進めてくれた。
「昔の参道かもしれないね」
「いったい何があるのよ?」
助手席から咎めるような視線を送ってくる母に、なんと説明したらいいのかわからない。
「友だちの……家があって……」
父の仕事小屋兼住居が、何事もなかったかのようにそこにあり、庭で休憩する父が私の姿を見て、「和奏……今戻ったのか?」と笑ってくれることだけを祈った。
母が私を呼んでいる声が聞こえる。
それも、とても必死な様子で――。
いったい今どういう状況だっただろうかと、私は目を開けないままに考えた。
(えーと……)
とりあえず日曜日でないことは確かだ。
母が私に起こされることはあっても、私が母に起こされることはほぼないが、たとえ私が多少寝坊していたとしても、私の学校も母の会社も休みの日曜日ならば、何も問題は発生しない。
(待って……そもそも今、夏休みじゃない?)
その事実に思い当たり、私は少なからずむっとする。
(じゃあ私が起こされなくちゃいけない理由なんてないじゃない……お腹空いたから何か作ってくれとか? わざわざ私を起こして頼むより、お母さんならマンションの一階のコンビニに買いに行くよね……?)
首を傾げかけ、私ははたと思い当たった。
(そうだった……私、お母さんと暮らすあのマンションを出て、お父さんのところへ来たんだった……)
父の仕事小屋兼住居。
髪振神社と上之社。
蒸気機関車と無人駅。
田んぼの中の舗装されていない道と、魚が泳いでいた小川。
この町へ来て目にした光景が、頭の中でぐるぐると渦を巻き、圧倒的な茜色に競い負け、その中で目に涙を溜めていた黒髪の少女の顔が、脳裏いっぱいにフラッシュバックした。
(椿ちゃん――!)
その瞬間、私はぱちりと両目を開き、すぐ近くで顔を覗きこんでいた母は、歓喜の声を上げた。
「和奏!!!」
まだはっきりとしない意識の底に、幾百もの燈籠の光が輝いていたあの日の神社の光景が残る。
燈籠の灯りよりも数倍も眩しい車のヘッドライトに目を射られた瞬間、自分が車に撥ねられたことは覚えていたが、なぜここに母がいるのかはさっぱりわからなかった。
目は開けても首を動かさず、視線だけで、どこかの病院の病室らしい殺風景な部屋を見回している私に、母は涙声で話しかける。
「よかった……目が覚めて……和奏、あなた車に撥ねられたあと、二日も寝たままだったのよ……連絡を受けて、私、慌ててこの町に来て……特にけがはないってお医者さまは言ってくださったけど、心配で……どこか痛いところはない?」
問われるままに、首や手や足や腰と、簡単に動かせるところを確認してみて、特に異常はなさそうだと頷く。
「ないみたい……心配かけてごめんね、お母さん」
「いいのよ……無事で、本当によかった……」
両手で顔を覆った母の隣には、寄り添うように長倉さんが立っていた。
(長倉さんまで! わざわざこんな遠くに来てくれたんだ……)
申し訳ない思いで、私は軽く会釈する。
強張った顔で私を見つめている長倉さんは、普段とは少し雰囲気が異なるように感じた。
(…………?)
どこがどうとはっきりせず、じっと見つめる私の前から、母の肩を軽く叩いて長倉さんは姿を消す。
「目が覚めましたって、病院の人に伝えてくるから……」
「ええ、お願い……」
足音が完全に聞こえなくなるのを待ち、私は母に訊ねた。
「私……やっぱり車に撥ねられたの?」
母は深々と息を吐き、私の頭を撫でる。
「そうよ。病院からですって、突然電話がかかってきた時、私がどんなに驚いたか……考えてほしいわ」
「ごめんなさい……」
それでは母に連絡したのは、父ではなく病院なのだと納得する。
少しおかしな気がした。
母はベッド横のサイドテーブルの引き出しから、赤いリボンのかかった小箱を出し、私に渡してくれる。
「はい、これ。事故の時、和奏が握りしめていたものだって……大切なものなの?」
それは誠さんが、椿ちゃんにプレゼントするために夏祭りに持ってきていたもので、渡しに行く途中で私が事故に遭ってしまい、まだ椿ちゃんの手に渡っていないことを申し訳なく思った。
「うん、ありがとう」
(病院を出たら、すぐ渡しに行かなくちゃ)
責任を感じて小箱を握りしめる私に、母は首を傾げる。
「いったい誰に会いにこんなところまで来たの? 見たこともない浴衣を着てたし……」
「こんなところって……」
母の言い分に違和感を覚え、私はじっとその顔を見つめる。
その言い方ではまるで、夏祭りの夜にだけ私がこの町を訪れたかのようだ。
実際にはもっと早く、夏休みに入ってからすぐ、父のもとへ来ているというのに――。
私が事故に遭ったことで、父に腹を立てているのかもと思い、私は恐る恐る訊ねた。
「お父さんは? 仕事……?」
長倉さんがもし今部屋へ帰ってきたら、気分を悪くするかもしれないと気を遣い、声を抑えたつもりだった。
それなのに母は、そんな私の努力を無駄にするかのように、大きな声で呆れたふうに答える。
「何言ってるの? 今、病院の人にあなたが目を覚ましたことを伝えに行ったじゃない……やっぱり頭でも打った?」
確かに長倉さんはもうすぐ母と結婚し、戸籍上私の『お義父さん』になる人だが、私が今、母に訊いているのは実父のことだ。
「そうじゃなくて、私の本当のお父さんのことだよ」
母はきょとんとした顔で、私を見つめた。
「本当の……なんですって? 和奏、あなたやっぱり打ちどころが……?」
この後に及んでそのやり取りを続けようとする母に、私は少なからずイラッとして、少し声を荒げる。
「お母さん、いい加減にして。私、友だちと大事な約束もしてて、事故の時の状況を詳しく確かめたいの……お父さんが家にいるんだったら、私ももうあそこへ帰る」
起き上がってベッドを降りようとする私を、母は慌ててもう一度寝かせようとする。
「和奏、あなた本当に何を言ってるの? やっぱりおかしい……詳しく調べてもらったほうがいいわ。お父さんが帰ってきたら、お医者さまにもそう言って……」
「私はおかしくなんてない! おかしいのはお母さんだよ!」
母と問答している時に、長倉さんが医師を伴って部屋へ帰ってきた。
「何を騒いでるんだ? 目が覚めたばっかりなんだからおとなしく寝てないとダメだろう、和奏。冴子も……一緒になって大きな声を出してどうする」
「ごめんなさい」
長倉さんに注意された母は、私を押さえつけようとしていた手を除け、ベッドの横へ移動したが、私は呆気に取られたまま長倉さんの顔を凝視するばかりだった。
(なんで……?)
長倉さんは私のことを、『和奏』などと呼ばない。
『和奏ちゃん』と呼んでいたし、母のことも『冴子さん』と呼んでいた。
どうしようもない違和感に、ベッドの頭部分に入れられた自分の患者カードをふり返って確かめると、名前が『長倉和奏』と記されていた。
「え……?」
いったい何が起こっているのだろう。
とまどうばかりの私をよそに、長倉さんが連れてきた医師は、私の脈を診たり、熱や血圧を測ったりして、具合の悪いところはないかと問いかけてくる。
「特にないです……」
私が答えると、母と長倉さんに向き直った。
「最後にもう一度脳波の検査をして、異常がなければ退院も可能です。遠くから来られてるんですよね? 帰宅後は念のため、自宅近くの病院にも行っておいてください」
「ありがとうございます」
「お世話になりました」
母と長倉さんは交互に医師にお礼を言っているが、私は何がなんだかわからなかった。
確かめることが怖くて、ぞっとするような違和感を胸に抱えたまま、検査を受けて退院の準備をする。
すっかり口を閉ざしてしまった私に、母と長倉さんは「疲れているんだろう」と話しあっていたが、私はとても冷静に話ができるような状況ではなかった。
都会から車で駆けつけたという長倉さんの車に乗り、母と暮らしていたマンションのある街へ帰ろうという時、私はやっと『髪振神社』へ立ち寄ってほしいことだけ伝えた。
母は訝ったが、長倉さんは快く車を廻してくれ、私は後部座席から、いつもと何も変わらない神社の様子を確かめる。
祭りの燈籠も、それを吊るしていた竹もすべて撤去され、普段の状態に戻った神社は、あの祭りの夜が現実ではなかったのではないかという錯覚さえ起こさせた。
(それじゃ、今のこれが現実なの……? ううん、そんなはずない……!)
私は縋るような思いで、誠さんが椿ちゃんに渡すはずだったあの小箱を、ずっと握りしめている。
「神社にお参りしていくの?」
母の問いかけに私は首を横に振り、その代わりに神社の横から山へ登る道を、少し進んでほしいと懇願した。
「大丈夫なの?」
道の両脇から樹木が覆い被さるように伸びている悪路に、母はあからさまに嫌な顔をしたが、山の頂上にある上之社へも続いている道なのだと説明すると、長倉さんは車を進めてくれた。
「昔の参道かもしれないね」
「いったい何があるのよ?」
助手席から咎めるような視線を送ってくる母に、なんと説明したらいいのかわからない。
「友だちの……家があって……」
父の仕事小屋兼住居が、何事もなかったかのようにそこにあり、庭で休憩する父が私の姿を見て、「和奏……今戻ったのか?」と笑ってくれることだけを祈った。