母屋へ戻ると、縁側にもうハナちゃんの姿はなかった。
待っていると言われたわけでもなかったが、父といろんな話をした報告が果たせなかったことは残念だった。
(ハナちゃんのおかげだもんね……)
明日になるか明後日になるかは不明だが、また来てくれた時に話そうと心しながら、私は台所で西瓜の皮を片づけ、出かける準備をした。
(水筒と、タオルと、財布と、ペンケース……)
荷物が多くなりそうなので、必要なものを、昨日椿ちゃんと出かけた時のショルダーバッグから、リュックに詰め替える。
迷った末にスマホも、時計代わりと非常時の照明として持っていくことにした。
(電話としての機能は期待できないけど……まあいいか……)
履き慣れたスニーカーを履いて、帽子を被り、リュックを背負ってスケッチブックを抱える。
(出発!)
目的地は山の上のほうだと決めていた。
椿ちゃんと眺めたあの街全体を見下ろす光景を、父がくれたスケッチブックの一ページ目に描いておきたいと思った。
しかし――。
(そうだった……そうだったわ……)
父の仕事場兼住居の近くを通っている道は、地域の人たちからは『獣道』と呼ばれており、人が登る用のものではなかった。
頂上まで脇道もなければ、景色を眺めるような場所もない。
私が望んだように麓の町の風景を描きたければ、山の頂上にある髪振神社の上之社まで行くしかなかった。
(失敗したわ……)
どこか景色のいいところで絵が描きたいのなら、いったん麓まで下り、椿ちゃんが教えてくれた山の反対側から登る道を行くべきだったのだ。
そうすれば頂上まで行かなくても、休憩できる眺めのいい場所があったはずだ。
(仕方ない……今更もうひき返せないもの……)
かなり登ってきてしまった急斜面の道をふり返り、私はため息を吐く。
(次に山を登る時こそ、もう絶対にまちがえない!)
強く心しながら、私は息を切らせてその道を登り続けた。
(やっと着いたぁ……)
上之社へと続く最後の石段前にたどり着いた時、私はもう虫の息だった。
先日と同じように湧き水で手と顔を洗い、ついでに喉も潤す。
「おいしい……」
口の中をゆすぐだけで、飲むのはやめておきなさいと、初詣の参拝のマナーでは母に教わったが、この山頂の澄みきった湧き水では話が別だ。
火照った頬を濡らすと同時に、喉の奥も冷えて、上がりきった身体の温度が瞬く間に下がる。
(今日もお邪魔します……)
石の鳥居の前で軽く頭を下げて、私は石段を登った。
しばらくすると、石段の終わりが見えてきた。
登りきって落下防止用の柵沿いに境内をぐるりと裏手へ廻ると、どれほど素晴らしい景色が待ち構えているのかを、私は忘れていない。
最後のひと踏ん張りとばかりに石段を登りきって、たどり着いた上之社の境内は、今日も静けさに満ちていた。
(本当に誰もいないな……こんなに素敵なところなのに……)
簡単に参拝できる大きな社が山の麓にあるのだから当然なのだろうが、少しもったいない気がする。
拝殿にお参りして、私は展望台のほうへと進んだ。
転落防止用の柵と原生林の向こうに広がる見事な景色。
私は新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんで見渡したが、少し違和感を覚えた。
(あれ……?)
私が描こうと思っていた景色と、微妙に違う気がする。
そんなことがあるだろうかと首を傾げて、すぐに気がついた。
(あ! そうか!)
いつの間にか私の頭の中で、上之社からの景色が、椿ちゃんと初めて会ったあの場所で見た景色とすり替わっていた。
おそらくここより低い位置から見た景色だったのだから、違うように感じて当然だ。
(どうしようかな……)
考えながら私の足はすでに、転落防止用の柵を越えている。
私はやっぱり、椿ちゃんと一緒に見た、夕焼けに染まる町の風景が忘れられない。
絵に残すのならばやはりあの景色がいいと、彼女に手を引かれてあの場所から戻ってきた道を探すことにした。
(確かこのへんだったと思うんだけどな……)
目印となるはずの大岩はすぐに見つかったが、その影に隠れるようにしてあるはずの抜け道への入り口が、どうしても見つからない。
(そんなはずないんだけどな……)
諦め悪く岩の周りをぐるぐると回っているうちに、木の根につまずき、私は足を滑らせた。
「きゃあっ!」
近くには崖もあったのになどと、考える余裕もない。
落ち葉や枯れ木が折り重なった上をごろごろと転がり、空中へ放り出された。
「きゃああああっ!」
急速で下へ落ちていく感覚に、これでもう私の人生は終わりかもしれないと覚悟して、固く目をつむった。
待っていると言われたわけでもなかったが、父といろんな話をした報告が果たせなかったことは残念だった。
(ハナちゃんのおかげだもんね……)
明日になるか明後日になるかは不明だが、また来てくれた時に話そうと心しながら、私は台所で西瓜の皮を片づけ、出かける準備をした。
(水筒と、タオルと、財布と、ペンケース……)
荷物が多くなりそうなので、必要なものを、昨日椿ちゃんと出かけた時のショルダーバッグから、リュックに詰め替える。
迷った末にスマホも、時計代わりと非常時の照明として持っていくことにした。
(電話としての機能は期待できないけど……まあいいか……)
履き慣れたスニーカーを履いて、帽子を被り、リュックを背負ってスケッチブックを抱える。
(出発!)
目的地は山の上のほうだと決めていた。
椿ちゃんと眺めたあの街全体を見下ろす光景を、父がくれたスケッチブックの一ページ目に描いておきたいと思った。
しかし――。
(そうだった……そうだったわ……)
父の仕事場兼住居の近くを通っている道は、地域の人たちからは『獣道』と呼ばれており、人が登る用のものではなかった。
頂上まで脇道もなければ、景色を眺めるような場所もない。
私が望んだように麓の町の風景を描きたければ、山の頂上にある髪振神社の上之社まで行くしかなかった。
(失敗したわ……)
どこか景色のいいところで絵が描きたいのなら、いったん麓まで下り、椿ちゃんが教えてくれた山の反対側から登る道を行くべきだったのだ。
そうすれば頂上まで行かなくても、休憩できる眺めのいい場所があったはずだ。
(仕方ない……今更もうひき返せないもの……)
かなり登ってきてしまった急斜面の道をふり返り、私はため息を吐く。
(次に山を登る時こそ、もう絶対にまちがえない!)
強く心しながら、私は息を切らせてその道を登り続けた。
(やっと着いたぁ……)
上之社へと続く最後の石段前にたどり着いた時、私はもう虫の息だった。
先日と同じように湧き水で手と顔を洗い、ついでに喉も潤す。
「おいしい……」
口の中をゆすぐだけで、飲むのはやめておきなさいと、初詣の参拝のマナーでは母に教わったが、この山頂の澄みきった湧き水では話が別だ。
火照った頬を濡らすと同時に、喉の奥も冷えて、上がりきった身体の温度が瞬く間に下がる。
(今日もお邪魔します……)
石の鳥居の前で軽く頭を下げて、私は石段を登った。
しばらくすると、石段の終わりが見えてきた。
登りきって落下防止用の柵沿いに境内をぐるりと裏手へ廻ると、どれほど素晴らしい景色が待ち構えているのかを、私は忘れていない。
最後のひと踏ん張りとばかりに石段を登りきって、たどり着いた上之社の境内は、今日も静けさに満ちていた。
(本当に誰もいないな……こんなに素敵なところなのに……)
簡単に参拝できる大きな社が山の麓にあるのだから当然なのだろうが、少しもったいない気がする。
拝殿にお参りして、私は展望台のほうへと進んだ。
転落防止用の柵と原生林の向こうに広がる見事な景色。
私は新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんで見渡したが、少し違和感を覚えた。
(あれ……?)
私が描こうと思っていた景色と、微妙に違う気がする。
そんなことがあるだろうかと首を傾げて、すぐに気がついた。
(あ! そうか!)
いつの間にか私の頭の中で、上之社からの景色が、椿ちゃんと初めて会ったあの場所で見た景色とすり替わっていた。
おそらくここより低い位置から見た景色だったのだから、違うように感じて当然だ。
(どうしようかな……)
考えながら私の足はすでに、転落防止用の柵を越えている。
私はやっぱり、椿ちゃんと一緒に見た、夕焼けに染まる町の風景が忘れられない。
絵に残すのならばやはりあの景色がいいと、彼女に手を引かれてあの場所から戻ってきた道を探すことにした。
(確かこのへんだったと思うんだけどな……)
目印となるはずの大岩はすぐに見つかったが、その影に隠れるようにしてあるはずの抜け道への入り口が、どうしても見つからない。
(そんなはずないんだけどな……)
諦め悪く岩の周りをぐるぐると回っているうちに、木の根につまずき、私は足を滑らせた。
「きゃあっ!」
近くには崖もあったのになどと、考える余裕もない。
落ち葉や枯れ木が折り重なった上をごろごろと転がり、空中へ放り出された。
「きゃああああっ!」
急速で下へ落ちていく感覚に、これでもう私の人生は終わりかもしれないと覚悟して、固く目をつむった。