「造形がうまくいかない時や、絵柄のアイデアに詰まった時なんかに、和奏の顔を見ると癒されるんだ……いつの間にか時間が過ぎてて、仕事にならない時もあるけどな……」
父は少し恥ずかしそうに私から目を逸らし、コルクボードに私の写真が貼ってある理由を教えてくれた。
「これって……親バカか?」
照れくさそうな様子に、私まで恥ずかしくなる。
「親バカ……だね」
父は、はははと笑って、西瓜の皮と種が乗ったお盆を隣のテーブルへ移す。
机の代わりに使っているテーブルに紙を置き、すらすらと色鉛筆を走らせた。
「これ……なんだかわかるか?」
訊ねられるので、父の横から顔を出して、描かれたものを確かめる。
「わかる! わかるよ!」
私は急いで、いつも首から提げているペンダントを服の中から引っ張り出した。
小学校初めての授業参観で、父と一緒に作ったペンダントだった。
そこに描かれた私の絵と、よく似た花の絵を、父は紙に描いていた。
「なんだ? いつも提げてるのか?」
いつになく大きな声で驚く父に、私は笑いながら答える。
「違うよ。でもここに来てからは提げてるかな……やっぱり気づいてなかったんだ」
父は照れたように頬を指で掻いた。
「高校生の娘の胸もとなんて、じろじろ見るわけにはいかないだろ……『セクハラ親父』って言われたら悲しいし……」
「言わないよ!」
十年近く離れて暮らしていた娘が、突然一緒に暮らすことになり、父も思うことがあったのだろう。
私の知らないところで、いろいろと気を遣ってくれていたのだ。
どこで仕入れたのか怪しい知識ではあるが――。
「そうか……大事にしてくれてるんだな……父親らしいことなんて何一つしてやってないのに……嬉しいな……」
独り言のように呟きながら、父は花の絵の周りに、タッチはよく似ているが違う種類の花の絵を次々と描き始める。
「可愛い……」
私が呟くと、嬉しそうに肩を竦めた。
「最初に描いたのはお前だろ……まだ一年生なのに、なんて上手に描くんだって、我が子ながらすごいと思った。その絵をずっと残しておけるものに加工できたあの授業は、本当に感動だったな……」
私が向かいあっているのではなく、横にいるからだろうか。
今日の父は普段よりかなり饒舌だ。
「あれからすぐにこっちへ来て、何をして暮らそうかと考えた時に、親父が趣味で使っていたこの窯で、本気で焼きものを作ってみようと思ったのは……お前の絵を思い出したからだ」
「私の絵?」
「ああ……俺の親父も、趣味で絵を後付けする焼きものを作ってたが、ああいうのに和奏が描いたような絵を入れたらどうだろうって思った……結果、仕事としてやっていけてるんだから、和奏に感謝しないといけないな……」
「そんな……私は何もしてないよ……」
父は、近くに置いてあったまだ絵を描いていない小さな皿を私に手渡した。
「描いてみるか?」
「え……?」
私が返事もできないでいるうちに、次々と目の前に絵の具の入った皿と絵筆などが並べられる。
「お前が使う用にするから、好きに描いていいぞ」
「そんな……! 描けないよ!」
「描ける、描ける」
父はすっと、私が首から提げたペンダントを指した。
そこに描かれているのは、たどたどしい子どもの絵で、私から見ればとても下手なのだが、父にとってはそうではないらしい。
「和奏は天才だから」
にやりと笑われて、脱力する思いだった。
「ほんとに、かなりの親バカだよ……」
「ははは、そうかな」
笑う父の声を聞きながら、私は絵筆を手に取った。
何を描こうかと思う間もなく、一つの光景が頭に浮かび、私は筆を動かし始める。
父は興味津々といったふうに、それを見ていた。
この家に来てから、私は毎日縁側に座って庭を眺めているが、真夏なこともあり、花はほぼ咲いていない。
その中にあって、なぜか遠くのほうに、赤い花が咲いているのを見つけた。
家の敷地内ではなく、その外の竹やぶの中の、それもかなり高い位置に、ぽつぽつと咲いている真っ赤な花。
その名前をハナちゃんに教えてもらって、思わず笑ってしまったことを思い出す。
「できた!」
描き上げた絵を父に見せると、あの日の私と同じように吹き出した。
「ハイビスカス! なんで? って……ああ、そうか……!」
父は懐かしそうに目を細めながら、私の手から小皿を取り上げた。
「家にいながら南国気分が味わえるとか言って、母さんが……お前のお祖母ちゃんが庭に植えたんだよ。うまく育たなかったけど、いつの間にか家の外で育って……」
「面白いお祖母ちゃんだったんだね」
「そうだな……数えられるぐらいしか会わせてやれなかったけど、お前をとても可愛がっていたよ……」
少ししんみりした雰囲気を払拭するように、父は声を弾ませる。
「それにしても……やっぱり和奏は絵がうまいな! うん、天才だ!」
「だから、それはさすがに買いかぶり過ぎだって」
「お絵描き帳をすぐ使い切るくらい、いつも絵ばっかり描いてただろ? 今は、もう描いてないのか?」
「それって、小学校に入る前の話じゃない! 今は……うん、描いてないかな……」
父に訊かれて、私は初めて気がついた。
自分はいったいいつから、絵を描かなくなったのだろう。
確かに小さな頃は、母に呆れられるほど絵ばかり描いていた。
(それと同じくらい楽しいことが出来たから……じゃないかな? 友だちと遊ぶとか、テレビを見るとか……学校に行くようになったら、宿題だってあって、忙しくなったのもあるだろうし……)
心の中で考えているうちに、気づいてしまった。
理由はいろいろ考えられるが、最大のものは、おそらく手放しでそれを褒めてくれていた父がいなくなったからだ。
今されたように、「和奏は天才だ!」と笑顔で私の描いた絵を褒めてくれる父が、いなくなったから――。
そう思うと、目頭が熱くなり、涙が溢れないようにするのがせいいっぱいだった。
仕上げの場所へと私が絵を描いた小皿を運んでいた父には、私の心の中の葛藤などわかるはずもないのに、うしろ姿のまま、ますます私の涙腺を緩めてしまうような言葉をくれる。
「うちはこんな山の中だし、テレビもなくて、都会から来た和奏には退屈だろうけど……来てくれたことは嬉しく思ってるんだ……でもそれは、和奏に家のことをしてほしいからじゃない」
「え……?」
小皿を置いて戻ってきた父は、手に大きなスケッチブックを持っていた。
「十年近くも一人で暮らしてきたんだから、俺もたいていのことは自分で出来る。と言ってもハナさんに頼ってる部分は大きいが……とにかく、掃除でも洗濯でも料理でも、時間が空いたら俺もやるんだから、和奏はもっと自分のことに時間を使っていいんだ」
思いがけないことを言いながら、父はスケッチブックを私に渡した。
「なんてかっこいいこと言いながらも、これは親の欲目なんだが……描いて見せてくれよ、小さな頃みたいに……この町のいろんな景色、和奏だったらどんなふうに描くんだろうって思いながら、いつも写真を撮ってた……」
「あ……」
父から送られてきたこの町の写真の数々が、脳裏にぱあっと蘇った。
気がついたら私はスケッチブックを強く握りしめて、叫んでいた。
「私も見てみたいと思ったの! お父さんが送ってくれた写真の町をこの目で……それがここへ来た一番の目的だったの!」
父はにやりと笑いながら、近くのテーブルの上に置いてあった煙草を一本取り出し、先に火を点ける。
「作戦成功」
唇に挟んで大きな壺の一つに向きあったので、私はスケッチブックを脇に抱え、お盆を持って、その部屋から帰ることにした。
「お仕事邪魔してごめんね」
父は煙草をくわえたまま、目尻を下げて笑ってみせる。
「和奏を邪魔だと思ったことなんて、お前が生まれてからこれまでに一度もないよ」
その言葉が、私にどれほどの自信とやる気をくれるか、父にはわからないだろう。
「これ片づけたら、ちょっと絵を描きに行ってくるね!」
駆け出ていく私をふり返らず、父は言葉だけで見送った。
「気をつけろよー」
「はーい」
来る時とは別人のように軽くなった足取りで、私はハナちゃんが待つ母屋へ駆け戻った。
父は少し恥ずかしそうに私から目を逸らし、コルクボードに私の写真が貼ってある理由を教えてくれた。
「これって……親バカか?」
照れくさそうな様子に、私まで恥ずかしくなる。
「親バカ……だね」
父は、はははと笑って、西瓜の皮と種が乗ったお盆を隣のテーブルへ移す。
机の代わりに使っているテーブルに紙を置き、すらすらと色鉛筆を走らせた。
「これ……なんだかわかるか?」
訊ねられるので、父の横から顔を出して、描かれたものを確かめる。
「わかる! わかるよ!」
私は急いで、いつも首から提げているペンダントを服の中から引っ張り出した。
小学校初めての授業参観で、父と一緒に作ったペンダントだった。
そこに描かれた私の絵と、よく似た花の絵を、父は紙に描いていた。
「なんだ? いつも提げてるのか?」
いつになく大きな声で驚く父に、私は笑いながら答える。
「違うよ。でもここに来てからは提げてるかな……やっぱり気づいてなかったんだ」
父は照れたように頬を指で掻いた。
「高校生の娘の胸もとなんて、じろじろ見るわけにはいかないだろ……『セクハラ親父』って言われたら悲しいし……」
「言わないよ!」
十年近く離れて暮らしていた娘が、突然一緒に暮らすことになり、父も思うことがあったのだろう。
私の知らないところで、いろいろと気を遣ってくれていたのだ。
どこで仕入れたのか怪しい知識ではあるが――。
「そうか……大事にしてくれてるんだな……父親らしいことなんて何一つしてやってないのに……嬉しいな……」
独り言のように呟きながら、父は花の絵の周りに、タッチはよく似ているが違う種類の花の絵を次々と描き始める。
「可愛い……」
私が呟くと、嬉しそうに肩を竦めた。
「最初に描いたのはお前だろ……まだ一年生なのに、なんて上手に描くんだって、我が子ながらすごいと思った。その絵をずっと残しておけるものに加工できたあの授業は、本当に感動だったな……」
私が向かいあっているのではなく、横にいるからだろうか。
今日の父は普段よりかなり饒舌だ。
「あれからすぐにこっちへ来て、何をして暮らそうかと考えた時に、親父が趣味で使っていたこの窯で、本気で焼きものを作ってみようと思ったのは……お前の絵を思い出したからだ」
「私の絵?」
「ああ……俺の親父も、趣味で絵を後付けする焼きものを作ってたが、ああいうのに和奏が描いたような絵を入れたらどうだろうって思った……結果、仕事としてやっていけてるんだから、和奏に感謝しないといけないな……」
「そんな……私は何もしてないよ……」
父は、近くに置いてあったまだ絵を描いていない小さな皿を私に手渡した。
「描いてみるか?」
「え……?」
私が返事もできないでいるうちに、次々と目の前に絵の具の入った皿と絵筆などが並べられる。
「お前が使う用にするから、好きに描いていいぞ」
「そんな……! 描けないよ!」
「描ける、描ける」
父はすっと、私が首から提げたペンダントを指した。
そこに描かれているのは、たどたどしい子どもの絵で、私から見ればとても下手なのだが、父にとってはそうではないらしい。
「和奏は天才だから」
にやりと笑われて、脱力する思いだった。
「ほんとに、かなりの親バカだよ……」
「ははは、そうかな」
笑う父の声を聞きながら、私は絵筆を手に取った。
何を描こうかと思う間もなく、一つの光景が頭に浮かび、私は筆を動かし始める。
父は興味津々といったふうに、それを見ていた。
この家に来てから、私は毎日縁側に座って庭を眺めているが、真夏なこともあり、花はほぼ咲いていない。
その中にあって、なぜか遠くのほうに、赤い花が咲いているのを見つけた。
家の敷地内ではなく、その外の竹やぶの中の、それもかなり高い位置に、ぽつぽつと咲いている真っ赤な花。
その名前をハナちゃんに教えてもらって、思わず笑ってしまったことを思い出す。
「できた!」
描き上げた絵を父に見せると、あの日の私と同じように吹き出した。
「ハイビスカス! なんで? って……ああ、そうか……!」
父は懐かしそうに目を細めながら、私の手から小皿を取り上げた。
「家にいながら南国気分が味わえるとか言って、母さんが……お前のお祖母ちゃんが庭に植えたんだよ。うまく育たなかったけど、いつの間にか家の外で育って……」
「面白いお祖母ちゃんだったんだね」
「そうだな……数えられるぐらいしか会わせてやれなかったけど、お前をとても可愛がっていたよ……」
少ししんみりした雰囲気を払拭するように、父は声を弾ませる。
「それにしても……やっぱり和奏は絵がうまいな! うん、天才だ!」
「だから、それはさすがに買いかぶり過ぎだって」
「お絵描き帳をすぐ使い切るくらい、いつも絵ばっかり描いてただろ? 今は、もう描いてないのか?」
「それって、小学校に入る前の話じゃない! 今は……うん、描いてないかな……」
父に訊かれて、私は初めて気がついた。
自分はいったいいつから、絵を描かなくなったのだろう。
確かに小さな頃は、母に呆れられるほど絵ばかり描いていた。
(それと同じくらい楽しいことが出来たから……じゃないかな? 友だちと遊ぶとか、テレビを見るとか……学校に行くようになったら、宿題だってあって、忙しくなったのもあるだろうし……)
心の中で考えているうちに、気づいてしまった。
理由はいろいろ考えられるが、最大のものは、おそらく手放しでそれを褒めてくれていた父がいなくなったからだ。
今されたように、「和奏は天才だ!」と笑顔で私の描いた絵を褒めてくれる父が、いなくなったから――。
そう思うと、目頭が熱くなり、涙が溢れないようにするのがせいいっぱいだった。
仕上げの場所へと私が絵を描いた小皿を運んでいた父には、私の心の中の葛藤などわかるはずもないのに、うしろ姿のまま、ますます私の涙腺を緩めてしまうような言葉をくれる。
「うちはこんな山の中だし、テレビもなくて、都会から来た和奏には退屈だろうけど……来てくれたことは嬉しく思ってるんだ……でもそれは、和奏に家のことをしてほしいからじゃない」
「え……?」
小皿を置いて戻ってきた父は、手に大きなスケッチブックを持っていた。
「十年近くも一人で暮らしてきたんだから、俺もたいていのことは自分で出来る。と言ってもハナさんに頼ってる部分は大きいが……とにかく、掃除でも洗濯でも料理でも、時間が空いたら俺もやるんだから、和奏はもっと自分のことに時間を使っていいんだ」
思いがけないことを言いながら、父はスケッチブックを私に渡した。
「なんてかっこいいこと言いながらも、これは親の欲目なんだが……描いて見せてくれよ、小さな頃みたいに……この町のいろんな景色、和奏だったらどんなふうに描くんだろうって思いながら、いつも写真を撮ってた……」
「あ……」
父から送られてきたこの町の写真の数々が、脳裏にぱあっと蘇った。
気がついたら私はスケッチブックを強く握りしめて、叫んでいた。
「私も見てみたいと思ったの! お父さんが送ってくれた写真の町をこの目で……それがここへ来た一番の目的だったの!」
父はにやりと笑いながら、近くのテーブルの上に置いてあった煙草を一本取り出し、先に火を点ける。
「作戦成功」
唇に挟んで大きな壺の一つに向きあったので、私はスケッチブックを脇に抱え、お盆を持って、その部屋から帰ることにした。
「お仕事邪魔してごめんね」
父は煙草をくわえたまま、目尻を下げて笑ってみせる。
「和奏を邪魔だと思ったことなんて、お前が生まれてからこれまでに一度もないよ」
その言葉が、私にどれほどの自信とやる気をくれるか、父にはわからないだろう。
「これ片づけたら、ちょっと絵を描きに行ってくるね!」
駆け出ていく私をふり返らず、父は言葉だけで見送った。
「気をつけろよー」
「はーい」
来る時とは別人のように軽くなった足取りで、私はハナちゃんが待つ母屋へ駆け戻った。